ブレイク「赤ちゃんの喜び」
赤ちゃんの喜び
ウィリアム・ブレイク
生まれてから 二日目
まだ 名のない赤ちゃん
それでは なんと呼びましょうか
あたしの名前は「よろこび」よ、
と言っているみたいに、
いつもにこにこ笑っている赤ちゃん
「よろこび」さん、いつまでも
あかちゃんを お守りください
けだかい よろこび
生まれて二日目の かわいい喜び
けだかい喜びと 呼びましょうね。
赤ちゃんは笑い、
わたしは歌う。
かわいい「よろこび」さん!
赤ちゃんを お守りください
蔵原伸二郎訳
* * * * * * *
ウィリアム・ブレーク(1757-1827)は、1757年11月28日、靴下商ジェームズ・ブレークとその妻キャサリンの6人兄弟の第3子として、ロンドンのソーホー地区のゴールデン・スクエア・ブロード・ストリート(現ブロード・ウィック・ストリート)28番地で生まれた。正規の教育は受けず、母から読み書きを教わり、14歳のとき彫刻師ジェームズ・バザイアの弟子となり、7年後には銅版画家として独立し、本や雑誌の挿絵を彫板して生計を立てた。1782年には植木屋の娘キャサリン・バウチャーと結婚する。1780年代には、進歩的な文学サークルや政治団体の間を転々としたのち、ブレークはトマス・ペイン、メアリー・ウルストンクラフト、ジョサイア・ウェッジウッドらのグループの一員となった。父の影響もあり、神秘思想家スウェーデンボルグの影響を大きく受けた。1783年には最初の詩集「W・Bによる小品詩集」を印刷したが出版には至らなかった。次作「無垢の歌」(1789)になるとロマン主義の夜明けをしめす新鮮な抒情と純粋な情熱を得意の版画を挿絵にして歌いあげている。散文集「天国と地獄の結婚」(1790-1793)に至って、社会批判の精神を強く表現し、やがてこの傾向は「予言書」と総称される神秘性をもった作品群にまで高まっていく。晩年はダンテの「神曲」の挿絵を描いた。貧窮のうちに1827年8月12日、ファウンテン・コートで69歳で亡くなったが、彼の詩と絵画とが合体された総合芸術は、後世に大きな影響を与えた。
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