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2008年1月31日 (木)

姦通罪是非論

    戦前の刑法第183条には「姦通罪」があり、その第1項に「有夫ノ婦姦通シタルトキハ二年以下ノ懲役ニ処ス其相姦シタル者亦同シ」と定めている。つまり姦通罪というのは、おもに夫のある女性に適用されるもので、男性が姦通罪の適用を受けるのは北原白秋の桐の花事件のように、相手が夫のある女性の場合だけに限られていた。

    ところが、昭和2年5月17日、大審院長・横田秀雄(1862-1938)は、夫は妻に対して貞操義務を負う、として妻に対して慰謝料・損害賠償を請求する権利を持てるという画期的な判決を下した。

    この裁判が戦われた大正末期から昭和初期にかけて、司法の場だけでなく国民の間でも、女性のみに科する姦通罪の是非を問う議論が盛んになっていた。

    昭和2年7月20日、全関西婦人連合会では、京都帝国大学法学部の滝川幸辰(1891-1962)教授を講師に招聘し、「男女貞操に関する刑法改正法案」講演会を開催した。主催者であった婦人団体は、夫の姦通をも罰することになれば性道徳が向上するという理由から、男女両罰を唱えたが、滝川教授は、現行の刑法は女性に対して著しく不利であるとしながら、罰をもって個人の自由を規制することに異議を唱え、男女ともに姦通罪を廃止すべきだと主張した。滝川はその後「刑法読本」の刊行によって文部大臣の鳩山一郎(1883-1959)の攻撃を受け、「赤化教授」として京大を追われたのは昭和8年のことである。

2008年1月30日 (水)

広辞苑の人名採録基準

    このブログ記事では多数の人名が登場する。人名事典に採録されている著名人もあれば、歴史的記録に記述はあるものの事典に採録されることがまずない無名の人を取り上げることもある。三省堂の「コンサイス日本人名事典」は収録数は約14.000でかなり記事を書くときに重宝している。「広辞苑」第6版の人名の収録数はいくらであるか不明であるが、少なくともコンサイスの10分の1はあるのではないだろうか。コンサイスに比べかなり広辞苑に収録されることは狭き門となるわけだが、いかなる基準があるのか定かではない。凡例の編集方針にただ「わが国の人名は物故者に限った」とあるのみである。とりあえずどの程度までの人名が採録されているのか、近代日本の文学者で調査してみた。手はじめに文学としたのは、この分野は比較的収録されやすいと考えたからである。

    高校国語程度ということを標準に、「国語便覧」(数研出版)、「新総合図説国語」(東京書籍)、学燈社の「現代詩」「現代俳句」「現代短歌」で収録している人名を参考に調査する。

   「広辞苑」に採録されない文学者

富安風生(1885-1979) 俳人

原石鼎(1886-1951) 俳人

福士幸次郎(1889-1946) 詩人

杉田久女(1890-1946) 俳人

白鳥省吾(1890-1973) 詩人

富田砕花(1890-1984) 詩人、歌人

平戸廉吉(1893-1922) 詩人

百田宗治(1893-1955) 詩人

阿波野青畝(1899-1992) 俳人

橋本多佳子(1899-1963) 俳人

秋元不死男(1901-1977) 俳人

高木彬光(1920-1995) 小説家

山川方夫(1930-1965) 小説家

阿部昭(1934-1989) 小説家

      *    *    *    *    *

落選した人たちの傾向を分析する。

①白鳥省吾、富田砕花、百田宗治など民衆詩派は全滅。つまり地方で活動しても、岩波は中央文壇で活躍しないと認められないのだろうか。

②山川方夫も阿部昭も評価は高い。山川は「クリスマスの贈物」で直木賞候補、「愛のごとく」で芥川賞候補、阿部は芥川賞候補に6回のぼっている。つまり芥川賞を受賞しないと認められないのだろうか。

③松本清張、横溝正史と収録されているので、高木彬光は期待したが落選だった。やはり推理小説作家にとって岩波書店は狭き門なのだろうか。

④富安風生、原石鼎の落選の理由も謎である。「広辞苑」はホトトギス系が嫌いなのだろうか。富安は94歳まで長命で著書も多数あり、古きになじまず、新しきに走らず、伝統をふまえて清新を求める「中道俳句」なのだが。

青年ヒトラーとウィーン

    アドルフ・ヒトラー(1889-1945)は1889年4月20日、ドイツ国境にあるオーストリアのブラウナウで生まれた。父アロイスが税関を退職してからは、ドナウ河畔のリンツ付近に移った。小学校卒業後、この地の実業学校に入ったが、4年を修了しないで、1905年、退学した。ヒトラーはウィーンで画家を志し、1907年秋にウィーン造形美術大学絵画科を受験するが失敗、翌年も不合格になっている。ヒトラーはウィーンで1913年5月24日まで、定職ももたず貧しい青春時代を過ごした。酒もタバコも飲まず、女性にも近づかなかった。1908年から約10年間に2000枚の絵を描いたといわれる。思想的には反ユダヤ主義で知られたウィーン市長カール・ルエーガー(1849-1910)から多大な感化を受けたといわれる。1914年、ヒトラーは第一次世界大戦が始まると志願兵としてドイツ帝国軍隊に入隊した。24年後の1938年3月13日、ヒトラーはかつて画家志望を拒んだウィーンの街に無血進駐した。ウィーン時代を振り返ってこう言った。「ウィーンはもっとも基礎的な学校だった」と。

戦艦ドレッドノート

    アメリカの海軍理論家アルフレッド・セイヤ・マハン(1840-1914)は、1890年「歴史に及ぼした海上権力の影響」を著わした。そこで「海を制するものは世界を制する」の立場から、敵海軍を撃滅できる大鑑巨砲の海軍をもつことこそ、一国の興廃のもとであると説いた。この思想は植民地獲得をめざす列強に大きな影響を与えた。

    ドイツとの建艦競走に突入したイギリスは、1906年、単一口径主砲を搭載した当時世界最大の戦艦ドレッドノートを建造した。主要兵装は30cm砲10門で、5基の連装砲塔に収められ、うち3基は艦首に2基、艦尾に1基、中心線上に配置された。残り2基は中央部の上部構造部の両側に対照的に配置されている。本艦は、イギリス戦艦で最初にタービン推進機械を採用し、スクリュー4軸を用いていた。

    このイギリス海軍自慢の戦艦ドレッドノートにイタズラをした変わり者の大学生たちがいた。1910年、イギリス海軍に「エチオピア皇帝一行が戦艦を見学するので歓迎せよ」という偽電報が届く。海軍は突然の訪問に大慌てで用意し、軍楽隊に儀杖兵を準備して、ウェイマス港で迎えた。かくしてエチオピア皇帝と皇女ら4名は特別待遇で戦艦ドレッドノートに乗船し艦内を見学してまわった。後日、新聞社に投書があった。先日のエチオピア一行はケンブリッジ大学生によるイタズラである旨が書かれていた。仮装したブルームズ・ベリーのグループ、ウイリアム・ホーレス・ヴェア・コール(1879-1938)、皇帝に扮したのは友人のバクストン、皇女はバージニア・ウルフらであった。

太陽の子・福士加代子

    大阪国際女子マラソンは1月27日、イギリスのマーラ・ヤマウチが2時間25分10秒で初優勝した。5000メートル、ハーフマラソンなどの日本記録保持者で初マラソンに臨んだ福士加代子は序盤から飛び出したが、30キロ過ぎから失速し、19位に終わった。福士はゴール長居競技場前で1度、トラックに入ってからも3度転倒した。準備期間はわずか1ヵ月、マラソン練習の40キロ走は1回もなし、という無謀ともおもえる挑戦だった。トラックのエースといえども「マラソンは甘くない」。日本陸連専務理事の沢木啓祐もかってトラックでは大活躍した選手だが、マラソンでは十分な結果を残せなかった。テレビでフラフラの福士選手をみて、同姓の福士幸次郎の詩「太陽の子」を思いうかべるのはケペルだけだろうか。そういえば福士幸次郎(1889-1946)の出身地は青森県弘前市だが、福士加代子も青森県北津軽郡板柳町出身である。青森には福士姓は多いのだろうか。

   自分は太陽の子である

自分は太陽の子である

未だ燃えるだけ燃えたことのない太陽の子である

今口火をつけられてゐる

そろそろ燻りかけてゐる

ああこの燻りが焔になる

自分はまっぴるまのあかるい幻想にせめられて止まないのだ

明るい白光の原っぱである

ひかり充ちた都会のまんなかである

嶺にはづかしさうに純白な雪が輝く山脈である

自分はこの幻想にせめられて

今燻りつつあるのだ

黒いむせぼったい重い烟りを吐きつつあるのだ

ああひかりある世界よ

ひかりある空中よ

ああひかりある人間よ

総身眼のごとき人よ

総身象牙彫のごとき人よ

怜悧で健康で力あふれる人よ

自分は暗い水ぼったいじめじめした所から産声をあげたけれども

自分は太陽の子である

燃えることを憧れてやまない太陽の子である

   福士幸次郎「太陽の子」(大正3年)

   福士選手はまだまだ若い。十分に休養し、基礎的なトレーニングをきっちりとして、リベンジしてほしい。燃えることのなかった太陽の子・福士加代子の輝く笑顔がみたい。

2008年1月28日 (月)

龐統、落鳳坡に死す

    龐統(178-213)。字は士元。襄陽郡襄陽の人。劉備は司馬徽から「伏龍、鳳雛のどちらかひとりでも得られれば、天下を平定できるだろう」と聞いていた。まもなく「鳳雛」とは龐統のことだと徐庶に聞いて知る。龐統を迎えてその才能を知って、劉備は諸葛亮に次ぐ親愛ぶりを見せた。涪(ふ)の勝ち戦後の宴席で楽しそうに酔った劉備に龐統は「以前は同姓の親戚の国を取るなどとんでもないと言っていたのに、戦が楽しいとは、仁義の君主の言葉とも思えませんな」と言ってたしなめた。怒った劉備に命じられて龐統は退席した。が、劉備は後悔してすぐ呼びもどした。劉備は「先ほどはどちらが間違っていたのかな」と問うと、龐統が「君臣双方が」と答える。ふたりは大いに笑いあった。まもなく龐統は軍勢を率いて落鳳坡と言われるところで、矢に当たって落命した。劉備は悲しみ、龐統の話をするたびに涙を流した。

青鞜五人の女たちのその後

    明治44年、婦人文芸誌「青鞜」が刊行された。このとき発起人の五人の女性が、平塚らいてう(1886-1971)、保持研子(1885-1947)、中野初子(1886-1983)、木内錠子(1887-1919)、物量和子(1888-1979)である。平塚、保持、中野、木内の4人は日本女子大学校国文科の同級生。姉の物集芳子(お茶の水女学校)は結婚のためぬけて、代わって妹の和子(跡見高等女学校)が参加した。

    木内錠子はフランス語を学び、大正6年、文部省の検定試験に合格し、劇作家を志したが、大正8年9月11日、33歳の若さで病没。

    保持研子は明治生命の小野東と結婚、昭和22年5月23日、63歳で死没。

     平塚らいてうは戦後、平和憲法擁護を訴え、世界平和と原水爆禁止の運動をする。昭和45年にはベトナム反戦運動を展開。昭和46年5月24日、東京代々木病院で死去。

     物集和子は藤岡一枝の筆名で「おきみ」などの小説を発表。昭和54年7月27日、特別養護老人ホームさつき荘で90歳で死没。

    中野初子は遠藤亀之助と結婚。俳人となる。昭和58年11月18日、97歳で死没。

2008年1月27日 (日)

新しい女・尾竹紅吉

     尾竹紅吉(おたけこうきち、1893-1966)。本来はべによしと読む。本名は尾竹一枝。女流画家。婦人運動家。明治26年、富山市越前町で生まれる。日本画家・尾竹越堂(1868-1931)の長女。本郷菊坂の女子美術学校中退。明治45年1月、青鞜社に入社。「五色の酒事件」「吉原登楼事件」などの騒動を引き起すも、平塚らいてうの寵愛を受け、「青鞜」の表紙を担当する。やがて、平塚に奥村博史という恋人ができると、尾竹と平塚の仲は破綻する。失意の中、青鞜社を退社し、大正3年3月、神近市子、小林哥津らと雑誌「番紅花」(さふらん)を発行する。その雑誌の装丁を富本憲吉(1886-1963)に依頼するうちに、ふたりは恋仲となり、大正3年10月、結婚する。昭和2年、奈良から千歳村(現・世田谷区上祖師谷)に移り、新居と窯を築く。富本一枝という筆名で「解放」「婦人公論」「婦人文芸」「女人芸術」などに評論、随筆を発表。戦後、一枝は憲吉と別れ、大谷藤子の協力で山の木書房を創立し、壺井栄の「柿の木のある家」などを出版する。由起しげ子の執筆を後押しするなど多彩な活動をみせた。のち「暮らしの手帖」に童話を連載した。

ウィンドボナ

    ヨーロッパの古都ウィーンという言葉は、心を明るくする響きをもつ。なごやかな気持ちになり、何となくはしゃぎたくなるのだ。モーツアルト、ベートーベン、ヨハン・シュトラウスなどの音楽家が活躍した音楽の都だからだろうか。あるいは多くの人々の想念のなかにある御伽の国を思い浮かべるだろうか。

    紀元前4世紀頃、ケルト人たちによってドナウ川上流右岸に集落がつくられ、前50年にローマ軍はここに侵入し、前15年から14年にティベリウスとドルススが征服し、レディア・ノリクム・バンノニアの3州がつくられた。バンノニアの中心地はケルト語をそのまま引き継いで、ウィンドボナ(白い岩)またはウィンドミナ(白い河)と呼ばれ、ローマ帝国の北辺を守る要衝の一つとして軍隊が駐屯する要塞都市となった。「ボナ」は「集落・町」、「ウィンド」は「白い」という意味。別の説ではウィンドの語源はケルト語のベズニア(木、森)の意味とある。この付近が「ウィーンの森」といわれるように、アルプス山系の森林地帯であったからである。いずれが正しいか明らかではない。

   177年ドナウ戦争のために出征していたローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121-180)は180年3月17日、この地で陣没したといわれる。民族移動の口火をきったフン族はアッチラに率いられて5世紀ころには一時このあたりにとどまり、またイタリアにはいる前の東ゴートもここに国をつくった時代がある。城砦と町は5世紀の民族移動による混乱で消滅したが、その構造が一部残って中世都市の基礎となり、それが今日でも市の中心部の地取りを決めている。

    古名ウィンドボナは、881年にはヴェニア(Wenia)と記録され、これが転化してウィーンとなった。1156年にはバーベンベルク家の下で首都となり、急速に重要性を増した。都市キビタスとしての特許状は1137年にすでに与えられていたが、1221年には商業独占権が認められて商業の中心地となり、その関係で十字軍の聖地への発進地にもなれば、ドイツ騎士団の後援者にもなった。

チャーチル会と戦後文化人たち

    昭和24年頃、銀座泰明小学校の向かいにあった映画世界社(「映画の友」を発行)の画室を借りて、アマチュアの絵描き愛好会ができた。「あなたも私も絵を描こう」と著名文化人たちが集まった。会名はイギリス首相チャーチルが「絵を描くことは他人に迷惑をかけず、全てを忘れることができる、最も良いホビーだ」という言葉に由来。チャーチル会は現在も全国に53支部、2000名以上の会員がいる。

    毎週土曜の午後に集まり、当初、先生は石川滋彦(1909-1994)であった。やがて久保守、宮田重雄、益田義信、伊原宇三郎、猪熊弦一郎、佐藤敬、脇田和、硲伊之助、高野三三男などの画家仲間も顔を見せるようになった。生徒たちは、藤浦洸、藤山愛一郎、田村泰次郎、石川達三、伊志井寛、森雅之、宇野重吉、長門美保、佐藤美子、柴田早苗、高峰秀子、杉浦幸雄、横山隆一など多彩な顔ぶれであった。

   藤浦洸、宮田重雄、柴田早苗といえばNHKのラジオクイズ番組「二十の扉」のレギュラー解答者たちだ。あと作家や映画俳優、新劇俳優、オペラ歌手、漫画家などなど。さぞかしサロンは楽しいものだっただろう。高峰秀子はこのサロンを通じて、梅原龍三郎と40年以上も親交を結ぶこととなる。(参考:高峰秀子「私の梅原龍三郎」)

2008年1月26日 (土)

みだれ髪

    与謝野寛(鉄幹、1873-1935)と鳳しょう(晶子、1878-1942)がはじめて会ったのは、大阪北浜の平井旅館、明治33年8月4日のことであった。晶子は鉄幹をひと目みたとき、好きだ、と思った。鉄幹28歳、晶子23歳。そのとき鉄幹には林滝野という内縁の妻がおり、一児・萃(あつむ)をもうけていた。また山川登美子(1879-1909)とも恋愛関係にあった。そんな中で山川登美子は山川駐七郎と結婚し、滝野は実家の山口へ帰り鉄幹と離別した。やがて晶子は鉄幹と結婚。与謝野晶子の誕生である。明治34年8月、歌集「みだれ髪」を刊行するや、その浪漫的な歌風によって一世を風靡し、与謝野晶子はたちまち歌壇にゆるぎない地位を築くものとなった。「みだれ髪」は明治33年より刊行時までの「明星」掲載歌を中心に399首を収録。「臙脂紫」「蓮の花船」「白百合」「はたち妻」「舞姫」「春思」の6章よりなる。

夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ

髪五尺ときはなたば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな

乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き

カフカの恋人

    フランツ・カフカは生涯一度も結婚しなかった。しかし何人かの恋人がいたことはよく知られている。2度婚約し2度とも解消したフェリーツェ・バウアー、人妻のミレナ・イェセンスカ・ポラク、ユーリエ・ヴォフリゼク、ドーラ・デューマントなどである。とりわけミレナに送られた膨大な手紙は20世紀最高の書簡文学ともいわれている。1920年にカフカの作品をチェコ訳したミレナは、感受性の鋭い、知性的な女性であった。ミレナとカフカの関係は、ほとんど手紙の上の恋愛だったが、ミレナは神経症で悩むカフカを励ましつづけながら、文学の良き理解者でもあり恋人でもあった。しかしミレナは結婚にふみきれなかった。禁欲的なカフカにたいし、自分はあまりに大地に根ざしていたとミレナは告白している。ミレナはのちナチスの強制収容所で死んだ。

三浦の殿様・勘解由小路資承

    武者小路実篤は10歳の明治29年夏、三浦半島金田に住む母の弟・勘解由小路資承(かでのこうじすけこと、1860-1925)のもとに初めて一家で行った。叔父はセメント事業に失敗して、ここ金田湾に面した丘の上に家を建てて半農半漁の暮らしを送っていた。叔父の家には膨大な洋書があった。そして農民や漁師たちと親しくつきあい、「三浦の殿様」と呼ばれていた変わり者であった。

    実篤はそれから毎年夏は叔父のもとに避暑にいった。この叔父は、実篤の一生で最も強く影響を与えた人物である。資承はそのころロシア貴族出身の作家トルストイを愛読していた。自らの生活もその影響によるものであろう。明治36年、18歳の実篤は叔父から聖書やトルストイをすすめられて読む。最初に読んだのが、加藤直士訳「我が宗教」「我が懺悔」であった。明治37年、ドイツのレクラム文庫で「ルチェルン」を読み、それからはレクラムにあるトルストイの独訳はほとんど読んだ。実篤はますますトルストイに傾倒した。

   この叔父については大正14年6月に死去したことや、貴族院議員であったことぐらいで詳しい事績は分からない。ただ資承の長女・康子(さだこ)は大正3年1月に志賀直哉と結婚している。康子は直哉よりも6歳年下で鳥毛立女屏風の美人に似た小柄な美人であると「暗夜行路」の中で表現されている。

    いずれにしても、三浦半島金田で実篤が体験した畑仕事は、のちのトルストイズムにもとづく「新しき村」(大正7年)の建設につながっていることは間違いない。

暗窖の裡

    夏目漱石の「それから」に「つい、うとうとする間に、すべての外の意識は、まったく暗窖の裡に降下した」とある。「窖」(こう)とは、深いという意味。「裡」(うち)は「裏」の異体字。「暗窖(あんこう)の裡」とは、暗く深い穴の中、深い穴のような暗部、という意味である。

    「暗窖」を買ったばかりの「広辞苑」で探す。出ていない。明治の新聞小説では使われた言葉である。少し教養ある読者であればみんな読めたであろう。だがケペルも「暗窖」を「あんこう」と読めずに「あんこく」と読んでいた。「あんこく」は誤読である。日常生活にはほとんどみかけない熟語だが、漢字検定には出題されるかもしれない。なぜ「広辞苑」に収録されないのは理由は判然としない。ためしに手元にある外の辞書を引いてみた。簡単に見つかった。「国語大辞典」(小学館)に「暗窖(あんこう)暗い穴ぐら」とある。金田一春彦はエライ!。否、載っているのが当たり前であろう。思えば、ケペルが小学生時代に使ったのは、金田一京助の「学習国語辞典」だった。赤い本であった。「百字帳」を書くためボロボロになるまで使った。

   念のためもう一度、「広辞苑」を調べたが無かった。別冊付録の「漢字・難読語一覧」を見たがやはりなかった。大枚7千875円を使ったが、ケペルは「暗窖の裡」に落ちた。新村出は悪くない。ただディアドコイ(後継者)に恵まれなかっただけだ。(ちなみにディアドコイも広辞苑にのっていない。ギリシア語はのせないのだろうか)ケペルの広辞苑神話はガラガラとくずれた。むかし志賀直哉が広辞苑の宣伝文を書いていた。あまり宣伝などしない誠実な人なので効果は絶大だった。志賀は戦前は改造だったが、戦後は岩波書店に乗り換えた。ただそれだけなのだ。三省堂でも小学館でもいい国語辞典を出している。植木等やハナ肇を国語辞典で引けるのはお遊びにはよいが基本語がないのは困る。いかりや長介は収録されていない。これは「シャボン玉ホリデー」で育った世代が編集に携わったためであり、もう数年して「8時だョ!全員集合」で育った世代が編集委員になれば、いかりや長介の広辞苑殿堂入りもあるかもしれない。ほんとうに日本の国語辞典はこれでいいのだろうか。「広辞苑」は固有名詞やカタカナ語を増やしてこれからもますます変な辞典になっていくであろうが、国語辞典としての基本的な部分を検証していくことが必要であろう。

帝銀事件と平沢貞通

    昭和23年の今日、1月26日、帝国銀行椎名町支店に午後3時過ぎ、東京都防疫消毒班の腕章をつけた色白いやせ型の初老の男が現れた。男は進駐軍の命令で赤痢の予防薬を飲んでもらうことになったという。まず自分で飲んでみせたあと、行員全員に飲ませた。まもなく、12人が死亡、4人が重体となり、現金16万円と小切手が奪われた。毒物は青酸化合物と判明した。

    当初、警察は毒物の専門知識を持つ者の犯行として、犯人像を旧関東軍の細菌兵器研究部隊(731部隊)関係者に絞り込んでいた。ところが、事件から7ヵ月後、突如捜査方針が転換した。8月22日、テンペラ画家平沢貞通が逮捕された。一旦は犯行を自白したが、公判では否認。物的証拠がなく、毒物の入手経路も判明しないまま、昭和30年に平沢の死刑が確定した。しかし、死刑は執行されず、平沢貞通は昭和62年に95歳で獄死した。遺体は東京大学に献体として運ばれ、脳は薬品処理され、保存された。その後、池田研二(元・東京都精神医学総合研究所精神疾患研究系長)が脳を解析した結果、狂犬病ワクチンによる脳脊髄炎の後遺症と推定される病変を発見した。病変の状態から、認知症にはいたらなかったが、虚言など性格変化を起こすという。

    帝銀事件の死刑囚・平沢貞通の無実はもはや確実なことであるが、事件の真相は依然として謎のままである。占領下の昭和24年、下山事件、三鷹事件、松川事件と三大謀略事件が立て続けに発生している。平沢貞通の冤罪事件もこれらと関連づけて考えることができる。当初、警察は731部隊の犯行と見ていた。もし石井部隊の研究員が逮捕されると、731石井部隊の研究データをアメリカに提供していることや、細菌研究の全容が明るみにでるため、隠蔽工作の指示がGHQから出されたとケペルは推理する。石井部隊の細菌研究者たちが医学界の中心的存在として君臨し、その後、石井部隊出身者が薬害問題をひきおこしていく。帝銀事件の真相の究明は松本清張のミステリー小説からやがて、歴史学の研究対象としても重要になっていく。「戦後はまだ終わっていない」のだ。

2008年1月25日 (金)

岩波「広辞苑」と三省堂「広辞林」

   何度か迷いながらもやっぱり『広辞苑 第6版』を買ってしまった。ブログを書くのに必要性を感じたからだ。家で早速、「植木等」を引く。やっぱり載っていた。

植木等。歌手・俳優。三重県出身。コミック・バンド「クレージー・キャッツ」で活躍。映画「無責任シリーズ」で主演。

   でもこれだけの記述では何かものたらない。「およびでない、およびでない、こらまた失礼いたしました」ぐらいはほしい。ちなみに、ハナ肇もあった。結構、芸能人も収録している。

    国語辞典と百科事典を兼ね備えた辞書として「広辞苑」の初版がでたのは昭和30年。そして昭和44年に第2版、昭和58年に第3版、平成3年に第4版、平成10年に第5版、平成20年に第6版が刊行された。総収録項目数は新収項目1万語を加えて、約24万語。ライバルの『大辞林』(三省堂)を抜く。

    新収録した主な日本人名は、朝比奈隆、網野善彦、安藤百福、井深大、今村昌平、植木等、小倉遊亀、如月小春、城山三郎、都留重人、中村元、藤村富美男、松田道雄、宮沢喜一、山田風太郎、吉村昭など。外国人はアルマーニ、(ビル)ゲイツ、(アルマティア)セン、ダイアナ、ハルバースタム、プーチン、ブルデュー、リンドグレーン、ローリング・ストーンズなど。人名の場合、日本人は故人が原則、外国人にその原則は適用していない。

    「広辞苑」は旧版の項目を削除しないことを原則としている。「広辞苑」はもともと「辞苑」(博文館、昭和10年)の版権を譲りうけたものであるから、「辞苑」の語釈を引き継いでいる。「広辞苑」は当初「新辞苑」という書名で出る予定だったが、直前に「広辞苑」という書名になった。「広辞林」(三省堂)とあまりに似ているというので三省堂が岩波書店を訴えた。しかし裁判所からは和解が勧告された。事実上、三省堂の敗北だった。

    岩波書店の「広辞苑」の原型である「辞苑」(博文館)には、「広辞林」によく似た記述が多い。たとえば「米なしデー」などという語は「広辞苑」には無いが、「辞苑」には次のようにある。

米食を廃して他の食料を代へ用ひ、米殻の消費節約をする一定の日。

「広辞林」の「米食を廃して他の食料を代へ用ひ、米殻の消費を節約せんとする一定の日」とあるのとほとんど同じ。つまり日本の国語辞典の原型は明治40年に刊行された「辞林」なのである。

2008年1月24日 (木)

青い目の人形

    今から80年ほど前に、日本とアメリカの友好親善のために人形を贈ろうと考えた一人のアメリカ人がいた。その人の名前は、シドニー・L・ギューリック(1860-1945)。

    シドニーは1860年4月10日、父ルーサーが宣教師として働いていたマーシャル諸島のエイボン島で生まれた。1887年9月、シドニーはキャラ・メイ・フィッシャーと結婚。アメリカの伝道組織・アメリカンボードに東洋で働くことを希望し、受け入れられ、結婚式の翌日から世界一周して、明治21年1月1日初来日した。熊本でシドニーはキリスト教の伝道と英語を教えた。大阪、松山、京都などでキリスト教を教えて大正2年帰国した。シドニーが帰国したころのアメリカでは排日の動きが強くなってきた。シドニーはウイルソン大統領に会見して日米の友好に努めるように説いた。大正12年に世界の平和を作っていくためには、子どものころより国際親善の心を育てなくてはいけないと痛感し、世界児童親善会を設立した。アメリカ各地に人形委員会を設置し協力を呼びかけた。各地から贈られた人形は12,739体と言われ、出発のパーティーのあと箱に入れられ、ニューヨークとサンフランシスコに集められて日本に出発した。これらの人形はよく「青い目の人形」といわれる。野口雨情作詞の童謡「♪青い目をしたお人形はアメリカ生れのセルロイド」がすでによく知られていたからであろう。けれども全部が青い目でもなかったし、金髪でもなく、中には男の子の人形もあった。着せられた服も赤十字の看護婦、ガールスカウトの制服、キャンプ・ファイヤー・ガールズの制服、クェーカー教徒の制服とさまざまだった。そして、その返礼として、渋沢栄一を中心に「大和日出子」という答礼人形58体が日本からアメリカへ贈られた。

    しかし昭和16年からの太平洋戦争によって、あれほど歓迎された人形たちも「敵国のスパイ」「仮面の親善使」などと言われて、壊されたり、焼かれた。もし、隠していることが見つかると「アメリカのスパイ」だとか、「非国民」と言われた。シドニーは昭和20年、アイダホ州ボイシーで生涯を終えた。遺骨はボイシーと父の眠るマサチューセッツ州スプリング・フィールド、それから神戸に、3つに分けられて埋葬されている。

2008年1月23日 (水)

エジソンは電球の発明者ではなかった!?  

    19世紀はイギリス、フランス、ドイツが科学技術の分野では世界の最先端にあった。だが、アメリカは学問では遅れをとっていたものの、応用科学や実用化、事業化には秀でていた。たとえば蒸気船のロバート・フルトン、電信のサミュエル・モールス、綿繰り機のイーライ・ホイットニー、自動刈り取り機のサイラス・マコーミックそして発明王トーマス・エジソン(1847-1931)である。

    エジソンといえば炭素のフィラメントを使った白熱電球を1879年に発明したことはよく知られている。だが、世界中で電球の発明をエジソンと認識しているのは、アメリカと日本だけだといわれる。なぜなら、エジソンがフィラメントの原料として使ったのは、たまたま部屋にあった日本製の扇の竹であったというエピソードが日本でよく広まっているためである。

   実際には、ジェームス・ボウマン・リンゼイが1835年に電灯の実験を実施したといわれており、1878年にジョセフ・ウィルソン・スワン(1828-1914)が炭化させたセルロースを使い、寿命が40時間程度の白熱電球を開発した。1882年、スワンは「エジソンは発明を侵害している」として訴訟を起こした。エジソンはスワンの主張を認め、示談を成立させる。そして、エジソンはスワン電灯会社を買収し、1883年「エジソン・スワン電灯会社」を設立した。以降、白熱電球の特許権を得た同社は電灯事業を独占し、約300万個の電球を全米に設置し、莫大な収益を上げることに成功した。エジソンは電球の発明者ではなく、電灯の事業化に成功した人というべきであろう。

2008年1月21日 (月)

源宗于朝臣

  山里は冬ぞさびしさまさりける 

  人目も草もかれぬと思へば

[通釈]山里では、都とはちがって、冬はいちだんと寂しさがまさって感じられることである。観るものもないので、訪ねる人の姿も少なくなり、目をなぐさめた草も枯れてしまうと思うので。

    源宗于(みなもとのむねゆき、生年未詳-939)は光孝天皇の皇子是忠親王の子。右京太夫正四位下、兵部大輔となり、天慶2年没。和歌にすぐれ、寛平御時后宮歌合の作者であり、三十六歌仙の一人で古今・後撰を始め勅撰集には多くの作がある。「大和物語」には、監命婦・南院の君達と歌をよみあい、官位の進まないのを嘆いた歌などが見える。

   この歌の「人目」がかれるとはあたりに人の姿を見かけなくなったという本来の意味だけでなく、待ち人もまた来ない、と解釈すれば、どこか艶なる余情もあるということになる。

ウラジーミル・レーニンの死

    ロシアの革命家、ソビエト連邦の建国者ウラジーミル・イリイッチ・レーニン(1870-1924)は、1924年の今日、1月21日に53歳で他界した。

    死因は、その精力的な仕事からくる過労といわれているが、1918年8月30日、モスクワの工場労働者に演説中、左翼エスエルの35歳女性党員ファーニャ・カプランから2発の銃弾を受けた際の後遺症も死を早めたともいわれる。1922年5月26日、レーニンは第1回目の発作に見舞われた。10月2日、彼は再びオフィスの仕事に向かいはじめたが、断続的に、しかも短時間しか続けられなかった。12月16日、第2回目の発作が起こり、右の腕と脚が麻痺状態に陥った。1924年1月21日午後6時50分、モスクワ近郊のゴルキで亡くなくなった。遺体はモスクワのレーニン廟に現在も保存されている。

    ところで、レーニンという名はペンネーム(偽名)である。本名はウラジーミル・イリイッチ・ウリヤノフ。1901年末、「N・レーニン」という変名を初めて使ったがその由来には諸説がある。①シベリアの大河レナ川に因んで、「レナ川の人」という意味②レナという級友の名前③N・レーニンという変名のNはニコライの略。

金人三緘

    孔子が、あるとき、周の国に見物に行きました。方々を見てまわって、最後に、周の太祖、后稷の廟に入りました。すると、階段の前に、金属でつくつた人の像が立っていました。そして、その像は、口を三重に封じられて、背には、つぎのような銘がありました。

   これは古の言葉をつつしんだ人の像である。

   これを見ていましめよ  いましめよ

  言葉かずが多くないようにせよ

 言葉かずが多いと事を取ることも多い

  事が多くないようにせよ

  事が多いと心配も多い

これを見た孔子は、弟子たちをかえりみて、いいました。

「お前たち、この言葉を忘れてはいけないよ。この言葉は卑俗な言葉ではあるが、よく実際にあたっているぞ」(孔子家語)

嵩山房

    書籍商の小林新兵衛が、荻生徂徠にたのんで言うことには、「わたしどもの店には屋号がございません。どうか先生に私の店に名をつけていただきたく存じます」と。すると、徂徠は笑いながら言った。「本屋でわたしのところに出入りするものは五人いる。そして、おまえの売る書物が値段は一番高い。たとえていえば、あたかも嵩山が五岳の中に最高の山としてあるのにそっくりだ。それで嵩山房と名づけるのがちょうどよい」と言った。(先哲叢談)

チャールズ1世の処刑

    王権神授説を信じたイギリス王チャールズ1世(1600-1649)は、議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治をおこなった。1639年、カルヴァン派(長老派)の強いスコットランドに国教を強制したことから反乱が起こった。1642年国王は北部のヨークに逃れ、ノッティグガムで兵を挙げた。1642年10月、エッジ・ヒルの戦いは勝敗なく終わったが、議会派にオリヴァー・クロムウェルが現れると、鉄騎兵を編成し、1644年7月2日、マーストン・ムーアの戦い、1645年6月、ネーズビーの戦いで国王派は敗れ、第1次内戦は終結した。

   1647年12月、チャールズ1世はスコットランドへ逃亡し、これと軍事同盟を締結して革命軍に対抗し、第2次内乱が始まった。革命軍は国王軍ならびにスコットランド軍を破り、1648年3月再び国王は囚われた。一旦は脱出したものの、1648年11月、国王はワイド島のカリスブルック城に難を避けた。しかるに議会の多数派なる長老派は王との妥協を決議した。ここにおいて、クロムウェルはプライド大佐(?-1658)に命じて長老派議員140名を議会から締め出して、わずか60名の独立議員(ランプ議会という)で1649年1月1日、国王チャールズ1世の特別裁判所設置法案が可決された。反逆罪で裁かれたチャールズ1世は、1月27日に死刑の判決が下され、1月30日ロンドンのセント・ジェームズ宮殿からホワイトホールの門を出て、ホール前につくられた処刑台に登った。最後まで身につけていた宝石と勲章をカンタベリー大司教に渡し、首切り台に身をかがめると、群衆のうめき声のうちに、チャールズ1世の首がころげ落ちた。

アル・ディ・ラ「恋愛専科」

    朝刊で女優スザンヌ・プレシェット死去のニュースを知る。昭和37年8月公開のトロイ・ドナヒュー共演の「恋愛専科」はイタリアの観光地をふんだんに取り入れた青春映画の愛すべき作品だった。ことにプレシェットの美しさが印象にあり、その後も「鳥」「遠い喇叭」「黒ひげ大旋風」「火曜日ならベルギーよ」と彼女が出ていれば何でも見た。デビッド・ジャンセンの「逃亡者」にも「絶望の時」(39話)「臆病の兎たち」(68話)にゲスト出演している。

   ところで「恋愛専科」の主題曲「アル・ディ・ラ」とはどういう意味であろうか。イタリア語「al di la」は「~の向こうに」という意味で、「アル・ディ・ラ(~の向こうに)…チ・セ・トゥ(君がいる)」ということらしい。映画ではエミリオ・ペリコーリが歌ったが、もともとサンレモ音楽祭の優勝曲でルチアノ・タヨーリとベティ・クルティスが歌った。そのほかにもトニー・ダララ、コニー・フランシス、ペギー葉山、岸洋子など多数の歌手がレコーディングしている。

とんなに貴重なものにもまして

君が 

どんなに大それた夢にもまして

君が

この世で一番美しいものにもまして

星のかなたに 

君が

あのかなたに君が僕のために

僕一人のためだけに

深い深い海のかなたに

君が 

この世の果てへのかなたに

君が 

果てしない大空のかなたに

生命にもまして

君が 

あのかなたに君が僕のために

炎の光、恋の夢

あのかなたに

   映画「恋愛専科」が近所の映画館で上映していた頃をはっきり記憶している。映画館の真向かいはレコード屋だった。市場の横でいつも大勢の人で賑わっていた。だが昭和40年代になると映画は斜陽となり、そこも間もなくスーパーという新形式の店が出現した。ハリウッドのスザンヌ・プレシェットにお会いしたことは一度もないが、海をへだてた日本にもファンは多く、「アル・ディ・ラ」の甘いメロディーとともに皆それぞれの思い出があるだろう。

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2008年1月20日 (日)

ワンサカ娘とワンサガール

  「♪ドライブウェイに春が来りゃ イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ」と「レナウン・ワンサカ娘」(小林亜星作詞・作曲)のCMが日曜洋画劇場で毎週流れた。昭和36年、かまやつひろし、昭和37年、デューク・エイセス、昭和38年、ジェリー藤尾&渡辺友子、昭和39年、弘田三枝子、昭和40、41年、シルヴィ・バルタン、その後もヒデとロザンナ、久美かおり、セルスターズと一流ミュージシャンが歌い継いでいる。ところで「ワンサカ ワンサ ワンサカ ワンサ」という「ワンサ」という意味がよく分からなかった。広辞苑によると①「がやがやと大勢が押しかけるさま」とある。③わんさガールの略、とある。「わんさガール」とは「下っ端の映画女優や踊り子。大部屋女優」とある。

    当時まだ若かった小林亜星が③の意味で使ったとは考えられない。おそらく「ワンサカ ワンサ」とは①の沢山という一般的な意味で使用したのであろうが、当時のご年輩方には同時に「ワンサガール」という古い流行語を懐かしく思い出した方も定めしおられたにちがいない。現代感覚と昭和初期モダンとが「ワンサ」という一語に込められたとても優れたCMソングだ。

   ワンサガールの語源は「映画撮影所の大部屋女優や無名女優のことである。これは大正9年に松竹の蒲田撮影所が創立されてまもなくできたことばであるが、大部屋のあたりにわんさとむらがっている女優たちをみて、こんなのをワンサガールというんだわ、とある人がいったのが、すっかり流行したものであって、もちろん英語ではない。現今では少女歌劇のライン・ダンスにでる女優のこともワンサガールという。またワンサと略することもある。」(日置昌一著「ことばの事典)

 

国際スターになる!?忠犬ハチ公

    東京帝国大学教授・上野英三郎81872-1925)が念願の秋田犬を手に入れたのは大正13年のことであった。農業土木が専門の上野は関東大震災の復興事業で忙しい日々が続いた。ハチ公と一緒にいる時がやすらぎの時であった。だが過労がたたったのか、上野は大正14年5月、大学の講演中に脳溢血で急逝した。ハチ公は帰らぬ主人を渋谷駅で待ち続けた。この話が朝日新聞に記事として掲載され、「忠犬ハチ公」として全国にその名を知られるようになった。昭和9年4月21日には渋谷駅前に忠犬ハチ公の銅像が完成し、ハチ公本人も参加して盛大な除幕式が挙行された。日本ではあまりにも有名な話であるが、戦後になって映画化はなかった。その理由はおそらく爆弾三勇士と同様に、忠君愛国の思想普及に利用されたからだろう。しかしハチ公の話そのものは事実であるし、国境を越えて感動する美しい話であろう。昭和62年、仲代達矢主演で「ハチ公物語」が漸く映画化され、大ヒットとなった。やはりハチ公のストーリーはいつの時代でも感動することが証明された、と思っていたら、なんとハリウッドがリメイク映画をつくるというニュースを知り、ビックリ仰天。あの「八月の狂詩曲」のリチャード・ギアが犬の主人らしい。タイトルもそのまま「ハチコー・ドッグズ・ストーリー」。映画が世界中で公開されヒツトすれば、あの忠犬ハチ公は国際スターとなり、渋谷駅前の銅像は観光スポットとして外人観光客で賑わうかも。リチャード・ギアさん、頑張ってください、応援しています!監督は「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」「サウダー・ハウス・ルール」のラーセ・ハルストレムなので結構、期待がもてる作品だろう。

2008年1月19日 (土)

ナヒモフ号の金塊を探せ

    昭和8年、「対馬沖に沈むロシア軍艦ナヒモフ号の金塊を引き揚げる」と称して投資を勧誘する会社が乱立、新聞広告が載せられ大きな話題となった。だが「一口5円10円の投資が千円の配当に」という甘言にだまされた被害者も続出した。

    アドミラル・ナヒモフ号はバルチック艦隊の装甲巡洋艦で、大量の金塊を積んだまま明治38年5月28日の日本海海戦で沈没し、現在も対馬沖琴崎沖南南東9.6キロのところに沈んでいるという話であった。この引き上げ作業には片岡弓八があたるとあって信用もあり、興味をよんだ。片岡は潜水器を改良して大正13年に海底に沈んでいた八坂丸の時価数十億円の金塊の引き揚げに成功した実績があった。ナヒモフ号金塊引揚げ話はもちろん本気で当てにした者は少なく騒動だけに終わった。ところが、昭和55年9月、日本船舶振興会の笹川良一会長は資金提供を申し出た。日本海洋開発は対馬沖水深93メートルの回収作業を行った。ジノビエフ駐日ソ連大使は外務省にナヒモフ号はソ連の所有であると申し入れをしたが、笹川会長は北方領土と引き換えならナヒモフ号の財宝をソ連に渡してもいいと声明をだした。10月20日、外務省はソ連の所有権を認めないと通知。しかし、ナヒモフ号からはプラチナのインゴッド(長さ29cm、幅8cm、高さ4cm、重さ10キロ)しか発見できなかった。

川上俊彦と三人の男の死

    川上俊彦(1861-1935)は明治・大正期の外交官であるが、その名を知らない方も多いのではないだろうか。ここでは彼と関わりのあった三人の男とその死について述べる。一人目は伊藤博文(1841-1909)明治42年10月26日、暗殺される。二人目は乃木希典(1849-1912)大正元年9月13日、自殺。三人目はアドリフ・ヨッフェ(1883-1927)昭和2年11月16日、自殺。

    明治42年10月26日午前9時、伊藤博文はハルビン駅に到着し、待ち受けていたロシアの大蔵大臣ココフツェフと車中で会談した。列車を降りて各国外交団の前を進もうとした時、安重根(1848-1915)の拳銃から発射した6発のうち3発は伊藤に命中し、随行の川上、森、田中、室田、中村らも流れ弾があたった。伊藤博文は午前10時に絶命し、川上俊彦は重傷であった。

    大正元年9月13日、乃木希典は明治天皇が没すると、妻静子とともに殉死した。川上俊彦は日露戦争の旅順陥落で乃木とステッセルとの水師営での会見のとき、ロシア語通訳をしていた。

    第一次大戦後のシベリア出兵でソ連との基本条約締結に向けた予備交渉を川上は後藤新平から命ぜられた。大正12年2月1日、ソ連のヨッフェが来日した。6月29日から始まった予備交渉はなかなか進まなかった。夏になり、ヨッフェの病状が思わしくなく8月10日に彼は帰国した。川上とヨッフェはその後、二度と会うことはなかった。ヨッフェはその後スターリンの大粛清によって追い込まれて、1927年11月16日、自殺した。

    川上俊彦は水師営の会見、伊藤博文暗殺、ヨッフェ会談など重要事件に遭遇している外交官である。

小泉信三「スポーツはかなり私の時を取る」

    「練習は不可能を可能にす」で知られるように小泉信三(1888-1966)はテニス、野球に限らずスポーツ、運動全般を基本にした教育家という印象がある。だが青年時代スポーツマンであった小泉信三も晩年には自分で球を打ったり、走ったりすることはできなくなり、人のするのを見るだけとなった。

    晩年のある一日。昭和36年9月24日。日曜日。「この日、私は午後、例により双眼鏡を携えて神宮球場に行き、法政-立教、慶応-東大の二試合を見た。2-0、5-1でそれぞれ法政、慶応の勝つのを見終わって広尾町の家に帰ると、ちょうどその時間なので、更にテレビの前に座り込んだ。そうして大相撲秋場所千秋楽、大鵬、柏戸、明武谷の優勝決定勝負に大鵬が柏戸をうっちゃり、明武谷を寄り倒すのを見た。考えて見ると、私は野球と相撲を見ることすでに60年である。私は明治36年秋(11月21日)、慶応と早稲田が初めて三田綱町グラウンドに戦った第1回の試合から見ている。相撲は更にその数年前、本所回向院境内の小屋掛け時代、時の横綱、紅顔の小錦八十吉が、逆鉾の露払、源氏山の太刀持ちで土俵入りをするのを見て以来、今日の大鵬・柏戸時代に及んでいる。まことにスポーツはかなり私の時を取る」。

   かって戦死した長男を悼む小泉信三の著書「海軍主計大尉小泉信吉」を杉浦直樹主演のドラマで、ナレーターの西田敏行が言っていたが、武者小路実篤(1885-1976)の「友情」の大宮のモデルは小泉信三だという説があるそうだ。小泉は大正元年に欧州へ留学し、大正5年に帰国し、阿部とみ(1895-1991)と結婚している。スポーツが苦手な実篤にはコンプレックスがあって、大宮という人物には男前でスポーツマンの志賀直哉(1883-1971)と小泉信三を混ぜ合わせたような人物をイメージしたのかもしれない。慶応ボーイと学習院生とのサロンが明治末年にあったのだろう。しかしスポーツをほとんどやらず絵画が趣味だった実篤が三人で一番長命だったのは、青年時代におけるスポーツの蓄積はかならずしも寿命に比例しないということであろうか。

わたしはカモメ

    女性初の宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワを乗せたボストーク6号は1963年6月16日、打ち上げられた。「わたしはカモメ」彼女が宇宙から発したこの言葉は、その女性らしい感性と表現で世界中の人々が感動した。

    ところが、実は「かもめ」というのは、そのミッションで与えられた彼女のコードネームだった。打ち上げ直後、機器の故障で地上との交信が途切れた。テレシコワはパニック状態となり、やたらめたら通信機で「こちらはカモメ、応答願います!」と連呼して叫んだ。この通信を世界中のアマチュア無線家たちが傍受して、「こちらはカモメ(ヤー・チャイカ)」を優雅な通信と取り違えた。ときには勘違いから感動がうまれることがある。

2008年1月18日 (金)

浦辺粂子と「稲妻」

   浦辺粂子(1902-1989)は明治35年10月5日、静岡県下田で生まれた。沼津高女卒業後、浅草の金竜館の踊り子としてデビューするが、芽がでず、芸名も遠山ちどり、静浦ちどり、と変えたが売れなかった。ある時、思いあぐねて易者に見てもらうと「このまま東京にいると死ぬか大怪我をする」と言われ、大阪へ向かった。この年の9月に関東大震災が起きた。一座の娘役が急病で倒れたため、芸名を浦辺粂子に変えて舞台に立ったところ、好演が認められた。大正13年日活の「清作の妻」で映画に出演し、20代で老け役女優として活躍した。

    戦後は昭和24年「異国の丘」、昭和25年「細雪」、昭和27年「稲妻」、昭和28年「雁」「煙突の見える場所」と脇役ながら日本映画の全盛期の名作に出演し好演した。とくに「稲妻」の高峰秀子の母親おせい役は印象に残る。東京の観光バスガールをする清子(高峰秀子)は勝気な美しい娘。母おせいは結婚、離婚を繰り返し、四人の兄妹の父は皆違うという複雑な家庭。長姉縫子(村田知英子)、次姉光子(三浦光子)、兄嘉助(丸山修)。次姉光子の夫が急死したことから保険金をめぐって兄弟間でトラブルが起きる。嫌気がさした末っ子の清子は家出をする。いやな男(小沢栄)や好男子(根上淳)なども登場するが、あくまで娘と母親との和解で物語りは終わる。戦後、適齢期の男はほとんど戦争で死んで、男1人に女28人の時代。女が一人で生きていくことが難しい時代だった。林芙美子の原作だったらしく、公開当時の映画ポスターには「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」とある。女性映画の第一人者の成瀬巳喜男はこの映画で1952年度ブルーリボン作品賞をとっている。助演女優賞は中北千栄子だったが、浦辺粂子こそ受賞にふさわしかったと思う。

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北海道の野球のルーツ

    日本ハムファイターズは2004年に本拠地を札幌ドームに移転し、「北海道日本ハムファイターズ」と改称して球団初のリーグ2連覇を達成した。観客動員は増加し北の大地にプロ野球が育ちつつある。だがベースボール伝来の歴史を調べると、北海道こそは野球の発祥地といってもいい。

    これまでの通説では、日本における野球は明治6年開成学校の生徒がアメリカ人のホーレス・ウィルソン(843-1927)、同校予備門のイギリス人のストレンジ、マジェットらの外人教師らに教えられてはじめたのが最初とされてきた。また明治15年アメリカから帰国した平岡熙(1856-1934)によって日本初の野球チーム「新橋アスレチック・クラブ」が結成された。この功績によって平岡熙は1959年、正岡子規は野球用語を邦訳したとして2002年、ホーレス・ウィルソンは日本に野球を伝えた功績により2003年、それぞれ野球殿堂入りをはたしている。

    ところがスポーツライターの大和球士(1910-1992)は一冊の本を読んでもうひとつの日本野球のルーツがあることに気づいた。その本は言語学者の大島正健(1859-1938)の回想記で『クラーク先生とその弟子たち』という。クラーク博士を敬愛するキリスト者にとってはたいへんに有名な名著であり、古い県立図書館には所蔵している本である。ただしそれに野球の関係する重要な記述が含まれているとは誰しも思わなかった。その本は病床にあった大島正健の口述を長男の大島正満がまとめたもので、初版は帝国書院(1937)、第2版(1948)、補訂第3版宝文館(1958)、国書刊行会(1973)、補訂増補版(1990)と版を重ねて出版され関係者のその本に対する情熱が察せられるであろう。

    さて、開拓使仮学校(札幌農学校の前身)は明治5年5月に東京・芝の増上寺境内に開校、当時、アメリカ人アルバート・G・ベーツが英語教師として明治6年2月に来日した。彼は無類のベースボール好きで、持参した1本のバットと3個のボールで生徒たちにベースボールを教えた。当時は道具などもなく、ボールは手縫いで素手で捕球していた。対外試合はなく、仲間内でプレーしていた草野球程度のものであったであろう。開拓使仮学校は明治8年7月に札幌農学校となり、札幌へ移転した。もちろん北海道でもベースボールは続けられていた。明治13年に入学した第4期生の河村九淵によると「寄宿生は一般に身体の摂生に注意し、殊に運動と体育とに務めた。春から秋の間はベースボールにいそしみ、積雪期には毎夕三々五々相携えて散歩した」とある。この文章から、ベースボールが特別なスポーツというよりも健康的なレクリェーションとして楽しんでいたことがうかがわれるであろう。新渡戸稲造も「私も日本の野球史以前には、自分で球を縫ったり、打棒を作ったりして野球をやったこともあった」(東京朝日新聞明治44年8月29日)と語っている。

    さて、本題の日本における野球のはじまりであるが、何事につけもののはじまりは諸説あることをご理解たまわりたい。ホーレス・ウィルソンが殿堂入りしていることから開成学校が野球博物館公認ではあるが、野球事始が明治6年ということであるならば、ある調査によると、開成学校は10月9日に開校したのに対し、開拓使仮学校の開校は4月15日である。この半年間でアルバート・ベーツが生徒たちにベースボールを教えていたことは十分に考えられることではないだろうか。

    ただし、ベースボールの伝来がイコール日本野球のはじまりではない、とする意見もある。野球は2チームあって対戦して成り立つスポーツで、キャッチボールや仲間内でプレーしたり、練習試合をしていても、野球のはじまりとは認められない。残念ながら開拓使仮学校ではリクレーションとしてベースボールをしていたものの、チームを組織して公式試合をした記録が確認できないので、正式なベースボールとして現在の段階では認定されていないのであろう。

ブレイク「赤ちゃんの喜び」

    赤ちゃんの喜び 

        ウィリアム・ブレイク

  生まれてから 二日目

  まだ 名のない赤ちゃん

  それでは なんと呼びましょうか

  あたしの名前は「よろこび」よ、

  と言っているみたいに、

  いつもにこにこ笑っている赤ちゃん

  「よろこび」さん、いつまでも

  あかちゃんを お守りください

  けだかい よろこび

  生まれて二日目の かわいい喜び

  けだかい喜びと 呼びましょうね。

  赤ちゃんは笑い、

  わたしは歌う。

  かわいい「よろこび」さん!

  赤ちゃんを お守りください

                        蔵原伸二郎訳

         *    *   *   *   *   *   *

   ウィリアム・ブレーク(1757-1827)は、1757年11月28日、靴下商ジェームズ・ブレークとその妻キャサリンの6人兄弟の第3子として、ロンドンのソーホー地区のゴールデン・スクエア・ブロード・ストリート(現ブロード・ウィック・ストリート)28番地で生まれた。正規の教育は受けず、母から読み書きを教わり、14歳のとき彫刻師ジェームズ・バザイアの弟子となり、7年後には銅版画家として独立し、本や雑誌の挿絵を彫板して生計を立てた。1782年には植木屋の娘キャサリン・バウチャーと結婚する。1780年代には、進歩的な文学サークルや政治団体の間を転々としたのち、ブレークはトマス・ペイン、メアリー・ウルストンクラフト、ジョサイア・ウェッジウッドらのグループの一員となった。父の影響もあり、神秘思想家スウェーデンボルグの影響を大きく受けた。1783年には最初の詩集「W・Bによる小品詩集」を印刷したが出版には至らなかった。次作「無垢の歌」(1789)になるとロマン主義の夜明けをしめす新鮮な抒情と純粋な情熱を得意の版画を挿絵にして歌いあげている。散文集「天国と地獄の結婚」(1790-1793)に至って、社会批判の精神を強く表現し、やがてこの傾向は「予言書」と総称される神秘性をもった作品群にまで高まっていく。晩年はダンテの「神曲」の挿絵を描いた。貧窮のうちに1827年8月12日、ファウンテン・コートで69歳で亡くなったが、彼の詩と絵画とが合体された総合芸術は、後世に大きな影響を与えた。

2008年1月17日 (木)

天災は忘れたころにやってくる

    大正14年、東京帝国大学付属地震研究所が設立された。初代所長は末広恭二(1877-1932)、2代目所長は石本巳四雄(1893-1940)。地震研究所の設立には寺田寅彦(1878-1935)も大きく協力していたようだ。正面玄関の壁には寺田による碑文が今も掲げられている。

明治24年濃尾地震の災害に鑑みて震災予防調査会が設立され、我邦における地震学の研究が漸く其緒に就いた。大正12年帝都並びに関東地方を脅かした大地震の災禍は更に痛切に日本に於ける地震学の基礎的研究の必要を啓示するものであった。この天啓に促されて設置されたのが当東京帝国大学付属地震研究所である。(中略)本所永遠の使命とする所は地震に関する諸現象の科学的研究と直接又は間接に地震に起因する災害の予防並びに軽減方策の探求である。この使命こそは本所の門に出入りする者の日夜心肝に銘じて忘るべからざるものである。

   有名な警句「天災は忘れたころにやってくる」は寺田寅彦全集をはじめ彼の著作物からその出所を明らかにすることはできない。だがこの言葉が寺田が地震研究所にいたころ生まれたのではないだろうか。だれかれということなく、寺田の考えを要約した警句として流布していった。

    寺田寅彦は明治11年11月28日、寺田利正・亀の長男として東京で生まれた。明治14年、郷里の高知に転居。明治30年、熊本第五高等学校の学生だった寅彦は両親のすすめで、阪井重季の娘・阪井夏子(1883-1902)と結婚する。夏子は少女時代から目立つ美人で、松山に住んでいた頃、松山の中学生だった安倍能成(1883-1966)が憧れていたといわれる。目が大きく、「お夏さんの目が光るからランプはいらぬ」と親族の子どもから言われた。だが寅彦と夏子の幼い夫婦は熊本と高知と離れ離れの新婚であった。

    明治31年1月17日の寅彦の日記には次のようにある。「夏子より手紙きたる。先日、送りやりし泰西婦女亀鑑の礼や、夏の休暇の待たるる事やしたためたる末に、近来川田兄のしきりに伉儷を詮索される旨も書き添えたり」とある。伉儷(こうれい)とは夫婦の意。つまり寺田寅彦夫婦は両家公認ながら内密なものであった。その理由は、父親同士が陸軍仲間で夏子は不倫の子であり、祖母に育てられた夏子を幸せにしてあげたいという周囲のおもいやりからでたものという。寅彦の欠落した日記は結婚の経緯を秘密にしておくためだったと朝日新聞は推測している。明治32年東京帝国大学に入学した寅彦は夏子と東京での同居が始まり暮らし、明治34年に長女貞子も生まれるが、翌年の秋、僅か19歳で夏子は肺結核で亡くなる。(参考:牧村健一郎「愛の旅人・ハンカチ振る浜辺の妻」朝日新聞2008.1.12)

小野小町「花の色」

    古今集巻2の春下(113)に「題知らず 小野小町」とある歌。「小町集」にも「花をながめて」として入っている。

花のいろはうつりにけりないたづらに 

我身よにふるながめせしまに

[現代語訳]美しい桜の色は、すっかりあせ衰えてしまったなあ。降り続く春の長雨をぼんやりながめながら、恋の悩みなどの物思いをしていた間に。

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この歌は単に花のことを歌ったと見る説と、「花の色」を「容色」とする説と二説ある。古来多くの説が言っているのは「思う男のことにかかわって、物思いをして、空しく世を過ごすうちに、私の容色も衰えてしまったことだ」の意があるとしている。松田成穂は古今集春歌下には、うつろう花、散る花を15首まとめて撰入していることから、単に花のことを歌ったのだとしている。(「花の色は試論」金城学院大学論集31)小野小町は美人であったが、晩年はおちぶれて諸国を流浪したという伝説のため、この歌から容色の衰えを歌ったとする解釈が定着していったのであろう。

王安石「梅花」「石榴詩」

    寒さの中で、どの花よりも先に春を伝えてくれる梅の花。明治19年に開園した熱海梅園は、日本一の早咲きの梅で知られる。今年も既に梅まつりが開かれているという。

          梅花           王安石

牆(かきね)の角(すみ)なる数枝の梅

寒を凌ぎて独り自ずから開く

遥かに知る 是れ雪ならざるを

暗香の有りて来るが為なり

    土塀の隅にある四、五本の梅が寒さにもめげず咲いている。遠くからみてもそれが雪が降ったのでないことがわかる。どこからともなくよい香りが漂ってくるからだ。

   王安石(1021-1086)は神宗の時、宰相に任ぜられ、改革を断行したが、あまりに急激すぎて反対にあい、ついに失敗してしまった。梅花を見て「凌寒」「独自」の二字に、王安石は心境を託したとみられる。

    王安石は色彩感覚に富んだ詩を残した人のようで、冬が白梅なら春は紅の石榴を歌っている。「万緑叢中一点紅。動人春色不須多」(「万緑叢中に紅一点あり。人を動かす春色は須らく多かるべからず)この句は王安石の詩「咏石榴詩」として人口に膾炙されたが、今日までに全編が残っていない。「事後文集」には「王直方詩話にいう。荊公(王安石)が内相となり、庭園内を散歩していたところ、ざくろが一叢あった。枝はよく茂り、わずかに紅の花がついていた。興を起した荊公はそこで、濃緑万枝に紅一点あり 人を動かす春色は須らく多かるべからず といったそうだが、自分は残念ながらまだその全文を読んでいない」とあり、かなり前から逸文となっていたようだ。

    今日の日本でも「紅一点」という漢語よく使われる。多くの男の中に混じってただ一人の女性を花にたとえて紅一点というようになった。紅一点の出所については「万緑叢中」「万緑枝頭」「濃緑万枝」などあり、王安石より以前の唐代の詩句の可能性もある。中村草田男の俳句「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」の「萬緑」を王安石の詩句に由来するとしたのは山本健吉だそうだが、いささか無理なこじつけのように思える。麻雀の役満に「紅一点」があるそうだが、それは王安石の漢詩に由来するものであろう。(ケペルは麻雀は知らない)

2008年1月16日 (水)

ヒッチコック「汚名」のキス・シーン

    戦後初めてアメリカ映画が公開されたのは、昭和21年2月封切りの「春の序曲」(ディアナ・ダービン)と「キュリー夫人」(グリア・ガースン)であった。(ともに1943年製作)

    占領軍は毎週2本の作品を公開し、1本は娯楽作品、もう1本は民主主義の啓蒙に役立つ作品とする基本方針を立てた。つまり「春の序曲」は娯楽作品、「キュリー夫人」は啓蒙的な内容をもった作品というわけだ。

    「カサブランカ」(1942年製作)「ガス燈」(1944年製作)も昭和21年に公開され、イングリッド・バーグマンの人気は沸騰した。さらに5年間の空白を一気に埋めるかのようにバーグマンの主演作が続々と上映された。

昭和23年「聖メリイの鐘」(1945年製作)

昭和24年「汚名」(1946年製作)

昭和25年「サラトガ本線」(1945年製作)

昭和26年「白い恐怖」(1945年製作)

昭和27年「凱旋門」(1948年製作)

昭和27年「誰がために鐘は鳴る」(1943年製作)

    6年の間にバーグマンのこれまでの代表作が観ることができたのであるから、この時代、日本での最高の人気女優が彼女であったことは間違いない。とくにヒッチコック監督の「汚名」は、戦後に製作された映画であり、イングリッド・バーグマン&ケーリー・グラントという美男美女カップルのため、スリラーよりもラブシーンが話題となった。当時「キス・シーンは3秒まで」という規定があったが、ヒッチコックはこの規定を逆手に取り、二人が愛し合うシーンでは、3秒以内の短いキスを何回も続けさせた。その結果、二人のキス・シーンは2分半にも及び官能描写が話題となり興行的に大ヒツトを記録した。

「あらすじ」

    第二次世界大戦も終わりに近い頃、アメリカの法廷で、ひとりの男がナチスのスパイとして懲役20年の刑を宣告された。そのため、娘のアリシア・フーバーマン(イングリッド・バーグマン)世間から冷たい目で見られていた。

    ある夜のパーティーで友達からデブリン(ケーリー・グラント)という男を紹介される。悲しみを紛らすためにひどく酔ったアリシアは、デブリンと夜のドライブに行き途中でスピード違反のために警察につかまるが、その時デブリンが示した手帳から彼が何やら警察と関係ある男だと知って狂気のように怒った。

    デブリンは彼女の気を静めるために殴って家へ連れ帰り、その夜ひと晩中アリシアを看護した。翌朝、デブリンは自分がFBI情報部の一員であり、南米におけるナチのスパイ組織を調査するために、一緒にリオへ行ってくれるようにと頼みこむ。

    南米へ飛ぶ飛行機上で、アリシアは父が毒薬自殺したことを知る。アリシアとデブリンは仕事の束の間に本当の恋におちいった。やがて命令が与えられる。それはリオに亡命している金持の団体が何か陰謀を企んでいるので、その実態を調査することだった。

    アリシアはその一団の一員であるアレックス・セバスチャン(クロード・レーンズ)がかつての父の友人であり、以前彼女を恋していたこともあって、セバスチャンの身辺を探るよう命令される。偶然のような再会。アレックスは母親(ミルドレッド・ナトウィック)や来合わせていた客達を紹介した。そしてセバスチャンは熱心にアリシアとの結婚を望んだ。それに対して何の反応も示さないデブリンにつらあてするかのように、アリシアは求婚わ受け入れた。

    新婚旅行から帰った日、アリシアは地下の酒倉の鍵をいつもセバスチャンが持っているのを知り、その中に秘密があることを感じとった。そしてデブリンと秘かに公園で連絡した時その話を告げる。

    結婚披露のパーティーでデブリンは招待客として招かれる。そしてアリシアが夫の鍵束から外しておいた酒倉の鍵を受け取り地下室に降りていった。ふたりは暗い酒倉で逢引きをする。そしてワインの瓶の中に黒い粉を発見する。その時、足音がしてセバスチャンが現れた。ふたりは密会中を見られたようにとりつくろう。その後、再び鍵束に地下室の鍵がついているのを見てセバスチャンは妻の行動に疑問を持つようになる。セバスチャンが最も恐れたのは、自分がアメリカのスパイを妻にしてしまった大きなミスを仲間に知られることだ。母親は、毒薬を少しずつアリシアに飲ませて病気で死んだように見せかける方法を提案する。

    デブリンの上官プレスコット(ルイス・カルハーン)は瓶の中の黒粉が原子爆弾に使われるウラニウム鉱であることを知って驚く。ドイツもまた原子爆弾の開発に力を入れていることが分かる。

    その間にもアリシアは毒薬入りのコーヒーを飲まされ、次第に衰弱していった。一方、デブリンも連絡のないアリシアの身を案じて単身セバスチャンの邸へと乗り込み、彼女を連れ出そうとした。それを制止しようとあせるセバスチャンの態度に、居合わせたナチス党員たちの疑惑の目が集中する。スパイとしての彼の失策は明らかとなった。アリシアとデブリンにようやく平和な恋が訪れた。

   原子爆弾の話は、撮影直前(1945年10月)になった、ヒッチコックによって書き加えられたためである。

こんな女に誰がした

    終戦後、上野を「ノガミ」、池袋を「ブクロ」、有楽町を「ラクチョウ」といった。とくに有楽町のガード下は闇の女たち、いわゆるパンパンと呼ばれる売春婦がいた。昭和22年4月、NHKラジオアナウンサーの藤倉修一(当時33歳、1914-2008)は小型マイクをコートの内側にしのばせて、潜入取材をしている。

女の子①「たばこもってない?」

藤倉 「こんなのでいいかな?よっぱらってるね」

女の子①「カストリ(粕取り焼酎)だよ。ピーナッツおごってよ」

藤倉 「はい10円」

女の子②「おじさん、いい男だね。あたしたちと親類だよ。有楽町で顔あわせればみんな親類」

女の子③「おじさん新聞社だろ。おれたち新聞社きらいなんだ。おとしまえとっちゃうぞ」

おねえさん(あねご) 「あたしは戦災でやかれて両親も兄弟もないけど中流以上の子が多いわよ」

    NHK街頭録音「青少年の不良化をどう防ぐか、カード下の娘たち」は、全国に大反響を巻き起こした。手紙やカンパがNHKに寄せられた。しかし「ラクチョウのお時」は放送の翌日姿を消した。

  戦後、戦争未亡人は187万人。中には生活に困り、街頭に立つ道を選んだ戦争未亡人もいた。闇の女は男子大量戦死の結果、将来に希望を見出すことが出来ない社会への無言の抗議でもあった。菊地章子が歌う「星の流れに」の「荒む心でいるのじゃないが、なけて涙も涸れ果てた、こんな女に誰がした」に切実さがよく表現されている。

  パンパンのスタイルはアメリカ軍から放出された布地によるタイトスカートをはき、ネッカチーフを身につけ、オキシフルで髪を茶色に染め、爪を赤く塗り、「ラッキーストライク」「キャラメル」を吸う。「パンパン」の語源については定説はない。現代用語の基礎知識の創刊号(昭和23年版)に次のようにある。

「終戦後の流行語だが、海軍復員者はみんな戦争中から使っていた。

語源1.軍港に碇泊し上陸許可が出て早速慰安街に駆けつけるが、もうあたりは寝しずまっている。こら起きろ、と表戸をパンパンと叩いて女を起こした。その戸を叩く音から出たという。

語源2.仏印のある街で、食料不足から物乞いが氾濫していた。上陸した日本兵を見ると、若い女たちが手をさしのべて「パン、パン」と哀願した。パンは彼女等にとっては麺麭であった。ちょうど終戦後の日本娘も、パンのためにこれと全く同じような哀願を米兵に示したのと同様である。転じて米人や中国人にゴマをすってボロ儲けする男をパンパンボーイなどという」

   いずれにしても、戦争中からの軍隊用語で海軍の兵隊が使っていた卑語らしい。マレー沖海戦で撃沈したイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズには40mm8連装のポムポム砲を搭載していた。このポムポム砲はピストン運動をすることから、ポムポムが売春婦を意味する卑語となり、パンパンに転化したという新説もある。

   「広辞苑 第3版」では「(原語不詳)第二次大戦後の日本で、街娼・売春婦のことを指した」とあるが、新しくでた第6版では「第二次大戦後の日本で、主に進駐軍を相手とした街娼・売春婦のことを指した」と修正している。(修正はすでに第4版か第5版でな