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2008年1月30日 (水)

戦艦ドレッドノート

    アメリカの海軍理論家アルフレッド・セイヤ・マハン(1840-1914)は、1890年「歴史に及ぼした海上権力の影響」を著わした。そこで「海を制するものは世界を制する」の立場から、敵海軍を撃滅できる大鑑巨砲の海軍をもつことこそ、一国の興廃のもとであると説いた。この思想は植民地獲得をめざす列強に大きな影響を与えた。

    ドイツとの建艦競走に突入したイギリスは、1906年、単一口径主砲を搭載した当時世界最大の戦艦ドレッドノートを建造した。主要兵装は30cm砲10門で、5基の連装砲塔に収められ、うち3基は艦首に2基、艦尾に1基、中心線上に配置された。残り2基は中央部の上部構造部の両側に対照的に配置されている。本艦は、イギリス戦艦で最初にタービン推進機械を採用し、スクリュー4軸を用いていた。

    このイギリス海軍自慢の戦艦ドレッドノートにイタズラをした変わり者の大学生たちがいた。1910年、イギリス海軍に「エチオピア皇帝一行が戦艦を見学するので歓迎せよ」という偽電報が届く。海軍は突然の訪問に大慌てで用意し、軍楽隊に儀杖兵を準備して、ウェイマス港で迎えた。かくしてエチオピア皇帝と皇女ら4名は特別待遇で戦艦ドレッドノートに乗船し艦内を見学してまわった。後日、新聞社に投書があった。先日のエチオピア一行はケンブリッジ大学生によるイタズラである旨が書かれていた。仮装したブルームズ・ベリーのグループ、ウイリアム・ホーレス・ヴェア・コール(1879-1938)、皇帝に扮したのは友人のバクストン、皇女はバージニア・ウルフらであった。

太陽の子・福士加代子

    大阪国際女子マラソンは1月27日、イギリスのマーラ・ヤマウチが2時間25分10秒で初優勝した。5000メートル、ハーフマラソンなどの日本記録保持者で初マラソンに臨んだ福士加代子は序盤から飛び出したが、30キロ過ぎから失速し、19位に終わった。福士はゴール長居競技場前で1度、トラックに入ってからも3度転倒した。準備期間はわずか1ヵ月、マラソン練習の40キロ走は1回もなし、という無謀ともおもえる挑戦だった。トラックのエースといえども「マラソンは甘くない」。日本陸連専務理事の沢木啓祐もかってトラックでは大活躍した選手だが、マラソンでは十分な結果を残せなかった。テレビでフラフラの福士選手をみて、同姓の福士幸次郎の詩「太陽の子」を思いうかべるのはケペルだけだろうか。そういえば福士幸次郎(1889-1946)の出身地は青森県弘前市だが、福士加代子も青森県北津軽郡板柳町出身である。青森には福士姓は多いのだろうか。

   自分は太陽の子である

自分は太陽の子である

未だ燃えるだけ燃えたことのない太陽の子である

今口火をつけられてゐる

そろそろ燻りかけてゐる

ああこの燻りが焔になる

自分はまっぴるまのあかるい幻想にせめられて止まないのだ

明るい白光の原っぱである

ひかり充ちた都会のまんなかである

嶺にはづかしさうに純白な雪が輝く山脈である

自分はこの幻想にせめられて

今燻りつつあるのだ

黒いむせぼったい重い烟りを吐きつつあるのだ

ああひかりある世界よ

ひかりある空中よ

ああひかりある人間よ

総身眼のごとき人よ

総身象牙彫のごとき人よ

怜悧で健康で力あふれる人よ

自分は暗い水ぼったいじめじめした所から産声をあげたけれども

自分は太陽の子である

燃えることを憧れてやまない太陽の子である

   福士幸次郎「太陽の子」(大正3年)

   福士選手はまだまだ若い。十分に休養し、基礎的なトレーニングをきっちりとして、リベンジしてほしい。燃えることのなかった太陽の子・福士加代子の輝く笑顔がみたい。

2008年1月28日 (月)

龐統、落鳳坡に死す

    龐統(178-213)。字は士元。襄陽郡襄陽の人。劉備は司馬徽から「伏龍、鳳雛のどちらかひとりでも得られれば、天下を平定できるだろう」と聞いていた。まもなく「鳳雛」とは龐統のことだと徐庶に聞いて知る。龐統を迎えてその才能を知って、劉備は諸葛亮に次ぐ親愛ぶりを見せた。涪(ふ)の勝ち戦後の宴席で楽しそうに酔った劉備に龐統は「以前は同姓の親戚の国を取るなどとんでもないと言っていたのに、戦が楽しいとは、仁義の君主の言葉とも思えませんな」と言ってたしなめた。怒った劉備に命じられて龐統は退席した。が、劉備は後悔してすぐ呼びもどした。劉備は「先ほどはどちらが間違っていたのかな」と問うと、龐統が「君臣双方が」と答える。ふたりは大いに笑いあった。まもなく龐統は軍勢を率いて落鳳坡と言われるところで、矢に当たって落命した。劉備は悲しみ、龐統の話をするたびに涙を流した。

青鞜五人の女たちのその後

    明治44年、婦人文芸誌「青鞜」が刊行された。このとき発起人の五人の女性が、平塚らいてう(1886-1971)、保持研子(1885-1947)、中野初子(1886-1983)、木内錠子(1887-1919)、物量和子(1888-1979)である。平塚、保持、中野、木内の4人は日本女子大学校国文科の同級生。姉の物集芳子(お茶の水女学校)は結婚のためぬけて、代わって妹の和子(跡見高等女学校)が参加した。

    木内錠子はフランス語を学び、大正6年、文部省の検定試験に合格し、劇作家を志したが、大正8年9月11日、33歳の若さで病没。

    保持研子は明治生命の小野東と結婚、昭和22年5月23日、63歳で死没。

     平塚らいてうは戦後、平和憲法擁護を訴え、世界平和と原水爆禁止の運動をする。昭和45年にはベトナム反戦運動を展開。昭和46年5月24日、東京代々木病院で死去。

     物集和子は藤岡一枝の筆名で「おきみ」などの小説を発表。昭和54年7月27日、特別養護老人ホームさつき荘で90歳で死没。

    中野初子は遠藤亀之助と結婚。俳人となる。昭和58年11月18日、97歳で死没。

2008年1月27日 (日)

チャーチル会と戦後文化人たち

    昭和24年頃、銀座泰明小学校の向かいにあった映画世界社(「映画の友」を発行)の画室を借りて、アマチュアの絵描き愛好会ができた。「あなたも私も絵を描こう」と著名文化人たちが集まった。会名はイギリス首相チャーチルが「絵を描くことは他人に迷惑をかけず、全てを忘れることができる、最も良いホビーだ」という言葉に由来。チャーチル会は現在も全国に53支部、2000名以上の会員がいる。

    毎週土曜の午後に集まり、当初、先生は石川滋彦(1909-1994)であった。やがて久保守、宮田重雄、益田義信、伊原宇三郎、猪熊弦一郎、佐藤敬、脇田和、硲伊之助、高野三三男などの画家仲間も顔を見せるようになった。生徒たちは、藤浦洸、藤山愛一郎、田村泰次郎、石川達三、伊志井寛、森雅之、宇野重吉、長門美保、佐藤美子、柴田早苗、高峰秀子、杉浦幸雄、横山隆一など多彩な顔ぶれであった。

   藤浦洸、宮田重雄、柴田早苗といえばNHKのラジオクイズ番組「二十の扉」のレギュラー解答者たちだ。あと作家や映画俳優、新劇俳優、オペラ歌手、漫画家などなど。さぞかしサロンは楽しいものだっただろう。高峰秀子はこのサロンを通じて、梅原龍三郎と40年以上も親交を結ぶこととなる。(参考:高峰秀子「私の梅原龍三郎」)

2008年1月26日 (土)

カフカの恋人

    フランツ・カフカは生涯一度も結婚しなかった。しかし何人かの恋人がいたことはよく知られている。2度婚約し2度とも解消したフェリーツェ・バウアー、人妻のミレナ・イェセンスカ・ポラク、ユーリエ・ヴォフリゼク、ドーラ・デューマントなどである。とりわけミレナに送られた膨大な手紙は20世紀最高の書簡文学ともいわれている。1920年にカフカの作品をチェコ訳したミレナは、感受性の鋭い、知性的な女性であった。ミレナとカフカの関係は、ほとんど手紙の上の恋愛だったが、ミレナは神経症で悩むカフカを励ましつづけながら、文学の良き理解者でもあり恋人でもあった。しかしミレナは結婚にふみきれなかった。禁欲的なカフカにたいし、自分はあまりに大地に根ざしていたとミレナは告白している。ミレナはのちナチスの強制収容所で死んだ。

暗窖の裡

    夏目漱石の「それから」に「つい、うとうとする間に、すべての外の意識は、まったく暗窖の裡に降下した」とある。「窖」(こう)とは、深いという意味。「裡」(うち)は「裏」の異体字。「暗窖(あんこう)の裡」とは、暗く深い穴の中、深い穴のような暗部、という意味である。

    「暗窖」を買ったばかりの「広辞苑」で探す。出ていない。明治の新聞小説では使われた言葉である。少し教養ある読者であればみんな読めたであろう。だがケペルも「暗窖」を「あんこう」と読めずに「あんこく」と読んでいた。「あんこく」は誤読である。日常生活にはほとんどみかけない熟語だが、漢字検定には出題されるかもしれない。なぜ「広辞苑」に収録されないのは理由は判然としない。ためしに手元にある外の辞書を引いてみた。簡単に見つかった。「国語大辞典」(小学館)に「暗窖(あんこう)暗い穴ぐら」とある。金田一春彦はエライ!。否、載っているのが当たり前であろう。思えば、ケペルが小学生時代に使ったのは、金田一京助の「学習国語辞典」だった。赤い本であった。「百字帳」を書くためボロボロになるまで使った。

   念のためもう一度、「広辞苑」を調べたが無かった。別冊付録の「漢字・難読語一覧」を見たがやはりなかった。大枚7千875円を使ったが、ケペルは「暗窖の裡」に落ちた。新村出は悪くない。ただディアドコイ(後継者)に恵まれなかっただけだ。(ちなみにディアドコイも広辞苑にのっていない。ギリシア語はのせないのだろうか)ケペルの広辞苑神話はガラガラとくずれた。むかし志賀直哉が広辞苑の宣伝文を書いていた。あまり宣伝などしない誠実な人なので効果は絶大だった。志賀は戦前は改造だったが、戦後は岩波書店に乗り換えた。ただそれだけなのだ。三省堂でも小学館でもいい国語辞典を出している。植木等やハナ肇を国語辞典で引けるのはお遊びにはよいが基本語がないのは困る。いかりや長介は収録されていない。これは「シャボン玉ホリデー」で育った世代が編集に携わったためであり、もう数年して「8時だョ!全員集合」で育った世代が編集委員になれば、いかりや長介の広辞苑殿堂入りもあるかもしれない。ほんとうに日本の国語辞典はこれでいいのだろうか。「広辞苑」は固有名詞やカタカナ語を増やしてこれからもますます変な辞典になっていくであろうが、国語辞典としての基本的な部分を検証していくことが必要であろう。

2008年1月21日 (月)

源宗于朝臣

  山里は冬ぞさびしさまさりける 

  人目も草もかれぬと思へば

[通釈]山里では、都とはちがって、冬はいちだんと寂しさがまさって感じられることである。観るものもないので、訪ねる人の姿も少なくなり、目をなぐさめた草も枯れてしまうと思うので。

    源宗于(みなもとのむねゆき、生年未詳-939)は光孝天皇の皇子是忠親王の子。右京太夫正四位下、兵部大輔となり、天慶2年没。和歌にすぐれ、寛平御時后宮歌合の作者であり、三十六歌仙の一人で古今・後撰を始め勅撰集には多くの作がある。「大和物語」には、監命婦・南院の君達と歌をよみあい、官位の進まないのを嘆いた歌などが見える。

   この歌の「人目」がかれるとはあたりに人の姿を見かけなくなったという本来の意味だけでなく、待ち人もまた来ない、と解釈すれば、どこか艶なる余情もあるということになる。

金人三緘

    孔子が、あるとき、周の国に見物に行きました。方々を見てまわって、最後に、周の太祖、后稷の廟に入りました。すると、階段の前に、金属でつくつた人の像が立っていました。そして、その像は、口を三重に封じられて、背には、つぎのような銘がありました。

   これは古の言葉をつつしんだ人の像である。

   これを見ていましめよ  いましめよ

  言葉かずが多くないようにせよ

 言葉かずが多いと事を取ることも多い

  事が多くないようにせよ

  事が多いと心配も多い

これを見た孔子は、弟子たちをかえりみて、いいました。

「お前たち、この言葉を忘れてはいけないよ。この言葉は卑俗な言葉ではあるが、よく実際にあたっているぞ」(孔子家語)

嵩山房

    書籍商の小林新兵衛が、荻生徂徠にたのんで言うことには、「わたしどもの店には屋号がございません。どうか先生に私の店に名をつけていただきたく存じます」と。すると、徂徠は笑いながら言った。「本屋でわたしのところに出入りするものは五人いる。そして、おまえの売る書物が値段は一番高い。たとえていえば、あたかも嵩山が五岳の中に最高の山としてあるのにそっくりだ。それで嵩山房と名づけるのがちょうどよい」と言った。(先哲叢談)

2008年1月20日 (日)

忠犬ハチ公が死ぬ

  昭和10年のこの日、忠犬ハチ公が死ぬ。享年11歳。東京帝国大学教授・上野英三郎81872-1925)が念願の秋田犬を手に入れたのは大正13年のことであった。農業土木が専門の上野は関東大震災の復興事業で忙しい日々が続いた。ハチ公と一緒にいる時がやすらぎの時であった。だが過労がたたったのか、上野は大正14年5月、大学の講演中に脳溢血で急逝した。ハチ公は帰らぬ主人を渋谷駅で待ち続けた。この話が朝日新聞に記事として掲載され、「忠犬ハチ公」として全国にその名を知られるようになった。昭和9年4月21日には渋谷駅前に忠犬ハチ公の銅像が完成し、ハチ公本人も参加して盛大な除幕式が挙行された。日本ではあまりにも有名な話であるが、戦後になって映画化はなかった。その理由はおそらく爆弾三勇士と同様に、忠君愛国の思想普及に利用されたからだろう。しかしハチ公の話そのものは事実であるし、国境を越えて感動する美しい話であろう。昭和62年、仲代達矢主演で「ハチ公物語」が漸く映画化され、大ヒットとなった。やはりハチ公のストーリーはいつの時代でも感動することが証明された。その後、ハリウッドがリメイク映画「ハチコー・ドッグズ・ストーリー」を制作。監督はラーセ・ハルストレム、リチャード・ギア主演。(3月9日)

 

 

 

2008年1月19日 (土)

ナヒモフ号の金塊を探せ

    昭和8年、「対馬沖に沈むロシア軍艦ナヒモフ号の金塊を引き揚げる」と称して投資を勧誘する会社が乱立、新聞広告が載せられ大きな話題となった。だが「一口5円10円の投資が千円の配当に」という甘言にだまされた被害者も続出した。

    アドミラル・ナヒモフ号はバルチック艦隊の装甲巡洋艦で、大量の金塊を積んだまま明治38年5月28日の日本海海戦で沈没し、現在も対馬沖琴崎沖南南東9.6キロのところに沈んでいるという話であった。この引き上げ作業には片岡弓八があたるとあって信用もあり、興味をよんだ。片岡は潜水器を改良して大正13年に海底に沈んでいた八坂丸の時価数十億円の金塊の引き揚げに成功した実績があった。ナヒモフ号金塊引揚げ話はもちろん本気で当てにした者は少なく騒動だけに終わった。ところが、昭和55年9月、日本船舶振興会の笹川良一会長は資金提供を申し出た。日本海洋開発は対馬沖水深93メートルの回収作業を行った。ジノビエフ駐日ソ連大使は外務省にナヒモフ号はソ連の所有であると申し入れをしたが、笹川会長は北方領土と引き換えならナヒモフ号の財宝をソ連に渡してもいいと声明をだした。10月20日、外務省はソ連の所有権を認めないと通知。しかし、ナヒモフ号からはプラチナのインゴッド(長さ29cm、幅8cm、高さ4cm、重さ10キロ)しか発見できなかった。

2008年1月18日 (金)

ブレイク「赤ちゃんの喜び」

    赤ちゃんの喜び 

        ウィリアム・ブレイク

  生まれてから 二日目

  まだ 名のない赤ちゃん

  それでは なんと呼びましょうか

  あたしの名前は「よろこび」よ、

  と言っているみたいに、

  いつもにこにこ笑っている赤ちゃん

  「よろこび」さん、いつまでも

  あかちゃんを お守りください

  けだかい よろこび

  生まれて二日目の かわいい喜び

  けだかい喜びと 呼びましょうね。

  赤ちゃんは笑い、

  わたしは歌う。

  かわいい「よろこび」さん!

  赤ちゃんを お守りください

                        蔵原伸二郎訳

         *    *   *   *   *   *   *

   ウィリアム・ブレーク(1757-1827)は、1757年11月28日、靴下商ジェームズ・ブレークとその妻キャサリンの6人兄弟の第3子として、ロンドンのソーホー地区のゴールデン・スクエア・ブロード・ストリート(現ブロード・ウィック・ストリート)28番地で生まれた。正規の教育は受けず、母から読み書きを教わり、14歳のとき彫刻師ジェームズ・バザイアの弟子となり、7年後には銅版画家として独立し、本や雑誌の挿絵を彫板して生計を立てた。1782年には植木屋の娘キャサリン・バウチャーと結婚する。1780年代には、進歩的な文学サークルや政治団体の間を転々としたのち、ブレークはトマス・ペイン、メアリー・ウルストンクラフト、ジョサイア・ウェッジウッドらのグループの一員となった。父の影響もあり、神秘思想家スウェーデンボルグの影響を大きく受けた。1783年には最初の詩集「W・Bによる小品詩集」を印刷したが出版には至らなかった。次作「無垢の歌」(1789)になるとロマン主義の夜明けをしめす新鮮な抒情と純粋な情熱を得意の版画を挿絵にして歌いあげている。散文集「天国と地獄の結婚」(1790-1793)に至って、社会批判の精神を強く表現し、やがてこの傾向は「予言書」と総称される神秘性をもった作品群にまで高まっていく。晩年はダンテの「神曲」の挿絵を描いた。貧窮のうちに1827年8月12日、ファウンテン・コートで69歳で亡くなったが、彼の詩と絵画とが合体された総合芸術は、後世に大きな影響を与えた。

2008年1月15日 (火)

いま韓国に日流の風

    いま韓国の大型書店では日本作家のコーナーが別途に用意されているほど人気があるという。村上春樹、村上龍、江國香織、奥田英朗、金城一紀、片山恭一。この現象は、何年か前から少しずつ勢いを強めていたが、今年もさらに「日流」の風は吹くだろう。

    韓流と日流の最大の違いは、世代の差である。日本における韓流が中高年層を対象に広まったが、日流は韓国の若い世代に広まっていることだ。この日流を韓国映画界が見逃すはずがない。日本の小説や漫画を続々と映画・ドラマ化されている。

    昨年人気を呼んだ新人キム・アジュンの映画「美女はつらいの」(2006)は、鈴木由美子の漫画「カンナさん大成功です」をモチーフにしている。中韓合作で大ヒットしたアンディ・ラウ主演「墨攻」(2006)も森秀樹の漫画を基礎としたものだ。

    チェ・ミンシク主演の「オールドボーイ」(2003)が峰岸信明の漫画を原作にしているということは広く知られていたが、いまではもはや日本原作の作品を数えあげるときりがないほどだ。龍居由佳里「愛なんかいらない」(ムン・グニョン主演)、「世界の中心で愛をさけぶ」(片山恭一原作、長澤まさみ主演)→「波浪注意報」(ソン・ヘギョ主演)、野沢尚「恋愛時代」(ソン・イェジン主演)、渡辺淳一「雲の階段」(ハン・ジへ主演)、唯川恵「肩ごしの恋人」(イ・ミヨン、イ・テラン主演)などなど。「私の頭の中の消しゴム」(チョン・ウソン、ソン・イェジン主演)の場合、日本のドラマ「Pure Soul 君が僕を忘れても」(永作博美主演)をリメイクして、日本に逆輸入してヒットしたケースである。狙われるのは新作ばかりではない。山崎豊子の「白い巨塔」というかつての名作まで韓国でリメイクされた。そのほか、鎌田敏夫「29歳のクリスマス」→映画「シングルス」(チャン・ジニョン主演)、「フライ、ダデイ、フライ」(金城一紀原作、岡田准一主演)」→映画「フライ・ダデイ」(イ・ジュンギ主演)、末次由紀・漫画「エデンの花」→ドラマ「ある素敵な日」(コン・ユ主演)、斉藤ひろし「シャ乱Q演歌の花道」→映画「覆面ダルホ」(チャ・テヒョン主演)などなど。

2008年1月14日 (月)

有馬新七と寺田屋事件

    NHK大河ドラマ「篤姫」第2回「桜島の誓い」で薩摩を舞台とした主要な人物がほぼ登場した。薩摩の若い下級藩士たち、西郷吉之助(小澤征悦)、大久保正助(原田泰造)、有馬新七(的場浩司)。幕末における討幕運動で薩摩藩の彼らが今後どのような活躍をしていくのか注目していきたい。だが、薩摩が挙藩一致して討幕に向かうのは慶応2年正月の薩長盟約成ってのことで、それまでの薩摩は島津久光(山口祐一郎)が介在していため、有馬のような急進の尊王攘夷派は行動を制約されて苦労した。有馬新七(1825-1862)は、このような藩内事情の最大の犠牲者であった。

 

    文久2年4月23日、有馬は真木保臣、田中河内介ら藩内急進派を率いて京都所司代の襲撃を策して京都伏見の寺田屋に集結したが、久光派遣の鎮撫使奈良原喜八郎と衝突して乱戦。新七は討手の道島五郎兵衛と戦ううち刀折れ、素手で道島を壁に押さえつけ「オイこど刺せ」と絶叫、同志橋口吉之丞の突き刺す太刀で新七、道島ともにクシ刺しとなる。他に同志8人闘死または後日自害。享年37歳。

 

 

ぶどう酒の革袋

    イエスの譬えを正しく理解し、使用することは、日本人にはとくに注意すべきことのように思える。たとえば「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」という聖句であるが、これを選挙で勝利した新しい首長が旧派のボスをすべて左遷、降格するという、いわゆる報復人事に使うことがしばしばある。もちろんイエスがそのような意味で使ったのではないだろうが、日本では「勝てば官軍、負ければ賊軍」とあまり変わらない常套句として使われているような気がしていると思うのは私だけだろうか。

 

    だれでも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てるたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。(マルコによる福音書2.21)

 

    イエスが「つぎ」と「ぶどう酒の革袋」の一対の譬えによって言おうとしたことは、神の国の到来である。新しい時代には、未知の未来をおそれて、新しいものを古いものに順応させようと願う人々が、つねに現れる。こういった人々に対して与えられた譬えであったに違いない。

運命の赤い糸

   将来結ばれる男と女は、互いの小指と小指が赤い糸で結ばれているというのは、何時頃から言われたのだろう。流行歌で確認できるところでは、1987年の南野陽子の「秋のIndication」のB面「ひとつ前の赤い糸」の歌詞に「彼ならひとつ前の赤い糸よ」「ときどきもつれてもね ふたりの糸 ひきちぎらないで」(小倉めぐみ作詞)というのがある。もちろんもっと古くさかのぼれるだろう。起源は、なんと中国の唐の時代に「赤縄」(せきじょう)という語があったという。

   韋固(いこ)という青年が結婚の相手を捜していると、月の光で読書をしている老人に出会った。この老人は赤い縄の入った袋を持っている。韋固は何のために持っているのかと聞いた。すると老人は「この赤い縄は夫婦となる人の足をつなぐもので、結び合わせれば契りは不変となる」と答えた。韋固は老人に連れられて市場にきた。一人の片目の老婆が三歳ほどの女の子を抱いている。見るからに汚くて醜い子である。老人はその子を指して言った。「あれがお前さんの女房だ」韋固は思わず怒りが込み上げてきた。「殺してもいいですか」「あの娘には富貴の運がある。一緒になれば幸せになれる」言い終わると老人はいなくなった。韋固は召使に女の子を殺すように命じた。だが召使は「心臓をめがけて突き刺したが、外れて、眉間に刺さり、逃げてきました」と答えた。

   その後、韋固はなかなか縁談がまとまらなかった。しかし14年後、とても美しい17歳の娘との縁談がまとまった。だがその娘の額には傷がある。娘は、貧しくて伯母さんに育てられたという。韋固は「伯母さんは片方の目が見えないのではないでか」とたずねた。娘は驚いて「どうして御存知ですの」韋固は「お前を刺した者はわしがよこしたものだ。なんと不思議なことだ」韋固はそう言うと、妻にことのすべてを話した。このときより、夫婦はますます互いを敬い愛するようになった。

   (この話は「定婚店」という唐代の伝奇小説で「太平広記」「続幽怪録」に見える。)

不正牛乳事件

    子どもの頃、隣が牛乳屋だった。ガチャガチャガチャ、牛乳びんがぶっかる音で目がさめた。昭和30年代までは映画「ダニー・ケイの牛乳屋」「牛乳屋フランキー」のように、町の牛乳屋さんは人気者だった。

    日本で牛鍋や牛乳の飲食をする習慣は明治の文明開化によってであることは、知られている。それまで牛乳の飲食の習慣がなかったのは、仏教の教えに起因するものであろう。そして牛乳屋は文明開化の新商売となり、禄を失った士族の転換事業となった。前田留吉は明治3年に東京で牧場を開設して牛乳の販売を開始した。(吉幾三の歌「おらぁ東京でベコ飼うだ♪」は本当の話だった)前田留吉以外に、この時期、中川嘉兵衛(1817-1897)、下岡蓮杖(1823-1914)なども牛乳製造を試みている。

    明治初期の牛乳は殺菌をしていないので衛生状態は悪い。森鴎外は「東京市中ニ販売セル牛乳中ノ牛糞ニ就イテ」という論文を明治25年に発表している。牛乳から牛糞の大腸菌が検出されたのだ。明治33年には愛光舎(角倉賀造)がアメリカで殺菌法を学び牛乳の蒸留殺菌を行い「減菌牛乳」を販売した。このころはあたたかいままの生乳で配達していた。大正の終わりから、低温殺菌が導入された。昭和2年5月、東京で腐敗した牛乳販売事件が起こり、社会問題となった。炭疽病にかかった牛からの乳が原因であった。この騒動で東京の牛乳の消費量は半分に減り、3分の1の業者が転廃業した。不正牛乳事件は、公衆衛生関係者の汚職にまで発展して、乳牛界は大資本への統合を促すことになった。

   昭和2年10月「牛乳業取締規則施行細則」(翌年施行)により牛乳の殺菌処理が法律で義務づけられ、牛乳は冷やして配達されるようになった。

2008年1月13日 (日)

キンカンとムヒ

    子どもの頃、冬になると、しもやけで身体全体がかゆくなった。そこで「キンカン」という薬にはたいへんお世話になった。人に話すと、かゆいときには「ムヒ」でしょう、といわれた。キンカンの効能には「虫さされ肩こり」とある。子どもの頃「キンカン素人民謡名人戦」(司会・三輪完児)というテレビ番組があって「♪キンカン塗ってまた塗って、元気に陽気にキンカンコン」とCMが流れていた。「ムヒS」はもう少し後になってでた気がした。

   そこで「キンカン」と「ムヒ」の歴史を調べた。金冠堂の創業者・山崎栄二は経営していた製紙会社が倒産して、朝鮮の京城(現・ソウル)へ渡った。甘酒を売っていたが、製薬をどうしてもやりたくて自宅に研究所をつくった。当時、慶州で新羅の金製王冠が発見されたので、会社名を金冠堂として虫さされ「キンカン」を発売した。キンカンは昭和の幕開けと期を同じくして、一般家庭の常備薬としてロングセラー商品となった。

   かゆみ止め「ムヒ」も戦前からあったようで、池田模範堂(創業者・池田嘉市郎)の創業はなんと明治42年のことである。「ムヒ」とは、「無比」つまり比べるものがないほどすぐれて効き目のある商品という意味。

2008年1月11日 (金)

天国に結ぶ恋

    調所五郎、24歳、慶応義塾大学理財科3年生。湯山八重子、21歳、頌栄高女卒業生。二人が運命の出会いをしたのは、芝白金の三光キリスト教会だった。高女最上級生の八重子と、慶大にはいったばかりの五郎。八重子は五郎の眼差に、また五郎は八重子の楚々とした姿に、たちまち惹かれあった。

   「ぼくは継母が嫌いなんだ」と五郎。八重子も、「卒業しても東京にいたいわ」と胸の悩みをうちあける。語り合い、いたわりあいしているうちに、愛情をおぼえ、恋を意識するようになった。が、逢瀬はつづかない。八重子が卒業と同時に、郷里静岡へ呼び戻されてしまったのである。「また今日も父からの結婚話。もう耐えられそうもありません。」八重子の苦しい心情は、そのまま手紙で五郎に伝えられたが、東京と静岡に離れていては、どうしようもない。

   この間、八重子は思いきって五郎との結婚を父庄作に願い出たことがある。だが、当時は自由に恋愛が認められる時代ではない。一蹴されたばかりか、激しく罵倒される。しかも、それからというもの、五郎の手紙がプツリと途絶えてしまったのである。いまでは考えられないが、家人が手紙の抜き取りをやったのだ。そういったことを知ってから、八重子の五郎に対する思慕の情は急激に危険性を帯びていったのである。

   「五郎さん、死にましょう。天国へ行ってあなたの妻にしてください」昭和7年5月、八重子は思いつめた表情で上京した。五郎との再会は、想い出の三光キリスト教会。「天国に結ぶ恋」と歌われ、映画にもなったこの二人の心中事件が、坂田山心中である。坂田山は神奈川県中郡大磯町にある。この年、坂田山では6月から12月までの間に20組の心中事件が発生した。(参考:「歌謡の百年 3」実業之友社)

大西瀧治郎と城英一郎

  大西瀧治郎(1891-1945)は海軍の航空力強化の推進力として活躍した海軍軍人。源田実らと協力して真珠湾攻撃計画を作成したことでも知られる。またコンサイス日本人名事典にも「レイテ海戦にさいし、特別攻撃を発案、指揮した」と明記され、「特攻の生みの親」「特攻の父」としても知られている。しかし近年の情報によると、大西は「搭乗員が100%死亡する攻撃方法は未だ採用する時期ではない」としりぞけたとも言われ、積極的な推進者であったかどうか疑問がもたれている。大西イコール「特攻の父」というイメージはどうしてできあがったのか、あるいはフィクションの映画による影響が多少はあるのかも知れない。

   東宝や東映ではオールスターキャストで戦争映画が多数作られている。実録物で実名の軍人が多数登場する。映画は未見であるが2本の映画は、大西瀧治郎の描き方が対照的だそうだ。東宝の「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督)と東映の「ああ決戦航空隊」(山下耕作監督)である。原作はそれぞれ大宅壮一と草柳大蔵。「日本のいちばん長い日」は8月15日を前後を克明に描いた名作として知られるが、大西瀧治郎(ニ本柳寛)、小園安名(田崎潤)ら悪役俳優を起用している。他方の「ああ決戦航空隊」は、大西瀧治郎(鶴田浩二)、小園安名(菅原文太)という大スターを当てているので、その人物の描きかたは東宝作品とは大きく異なる。近年、実質的、特攻の立案者として城英一郎(1899-1944)の名前が挙げられている。城は航空母艦千代田の艦長として、昭和19年10月にレイテ沖海戦で戦死している。東映の「ああ決戦航空隊」では城英一郎は松方弘樹が演じている。どのような描き方なのか未見なのでなんともいえないが、その他のキャスティングをみるだけで驚かされる。児玉誉士夫(小林旭)、関行男(北大路欣也)、玉井浅一(梅宮辰夫)などなど。ロッキード事件発覚は昭和51年なのでこの映画が公開された2年後であった。とにかく、児玉機関と大西瀧治郎の関係も当然のこと描いてあるわけでとても気になる映画である。「日本のいちばん長い日」が歴史の真実に近くて、「ああ決戦航空隊」が戦争を美化している、という通り型どおりの見方では歴史的事実を見誤ることになりかねない。

義を重んじる関羽雲長

   関羽は河東・解(山西省運城県の人)。後漢末に、劉備に従い、張飛とともに劉備を常に守り、もりたてた。200年、劉備が徐州で反曹操の兵を挙げ、関羽は下邳の守りをまかされた。しかし、曹操の攻撃にあって劉備は袁紹のもとに逃れ、関羽は生け捕りにされてしまった。曹操は関羽をすっかり気に入ってしまって自分の部下にしようとしたが、関羽は劉備との義を重んじて、これを断わった。そして、同年、曹操と袁紹が白馬で戦いを交えると、関羽は袁紹の将軍顔良と文醜を斬り、曹操への義をはたしたうえで、五つの関を破り、袁紹陣営の劉備のもとに帰った。

▼関羽の像(原致遠筆)

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泉大助と「明るいナショナル」

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    わが家に初めて白黒テレビが来たのは昭和35年のことであった。その日のことを鮮明に覚えているのは、よほど子どもにとってテレビという存在が、革命的な出来事だからであろう。視覚に訴える映像の力の大きさを思い知らされる。電器屋が届けてくれた新しいテレビはシャープだった。ちょうど「ララミー牧場」がラストで淀川長治の「西部こぼれ話」が映されていた。ナショナルキッドが放送開始されたのはまもなくのことだった。(昭和35年8月):つまりケペルはウルトラマンはほとんど見ていない。かぶりものヒーローといえばナショナルキッドなのだ。原作は月刊漫画誌「ぼくら」に連載された一峰大二の漫画。ナショナルキッドは、当時、新東宝の宇津井健のスパージャイアンツが子どもたちに大人気だったので、そのテレビ版として東映が企画したものだそうで、タイトルは「スーパーキッド」とする予定であった。単独スポンサーの松下電器の要請により、「ナショナルキッド」と変更された。子ども向けヒーローの名前に会社名が露骨につくところが今思えばスゴイ時代である思うが、あの頃は何の抵抗感もなく主題歌「雲か嵐か雷光(いかづち)か」と歌っていた。「いかづち」とはナショナルのロゴマークであることも今になって気づいた。オープニング映像にはナショナルの電飾広告塔が聳え、バックに空を飛ぶナショナルキッドが見える。光線銃はナショナルの懐中電灯のように見える。このようにマーチャンダイジングが徹底して行われた。電気屋の店頭にはナショナル坊やの人形が置かれ、テレビでは「ナショナルプライスクイズ、ズバリ!当てましょう」が始まった。(昭和36年)泉大助というあまり個性のない背の高い平凡な感じのおじさんが司会で「内輪で一番近い方は」と毎度のように言うので流行語となった。解答者は一般人だったが、ゲストタレントの時もあり、ノーヒントでズバリ当てて100万円相当のナショナル電化製品を手にした有名人もいたと思うが、それが誰であったか思い出せない。子ども心にうらやましいと思い、消費欲をかきたたせる趣向であった。三木鶏郎の「明るいナショナル」というテーマソングもこの番組によって親しんだ。

    昨日、松下電器産業は会社名を「パナソニック」に統一する方針を発表した。さすがは大企業の話題だけにメディアはどことも大きく取り扱っている。社名変更の問題は、松下幸之助(1894-1989)の生前からあったという。朝日新聞によると、病院に入っていた松下幸之助に「もうナショナルは古い。ブランドをパナソニックに統一してはどうか」と打診したところ、幸之助は何も言わずに顔をぶるぶる震わせて憤り、この役員は青い顔をして病院を後にしたという。以後、20年間、松下電器では、ブランド名の統一の話はタブーであったという。このエピソードは、昭和産業史の一つのエピソードとして後世に残るものであろう。

2008年1月 6日 (日)

佐藤次郎・青春の蹉跌

   昭和8年、テニスの佐藤次郎(1908-1934)の活躍ぶりはめざしましいものがあった。世界の強豪、フレッド・ペリー(英)、オースティン(英)、ステファーニ(伊)を破って、世界ランキング3位に選ばれた。翌昭和9年、デビスカップ出場のため欧州遠征をする。だが途中、箱根丸船上で佐藤に異変が起こった。お抱え看護婦が、便器に血がついていることに気づいた。事情を聞きだすのに苦労したが、それでも単刀直入に「お前トリッペルをやっているのか?」とたずねた。フランス選手ジャン・ボロトラの招待を受け、その延長で、パリの夜、かりそめの一夜をマドモアゼルと過ごしたという。当時、岡田早苗と婚約していた佐藤は、ああ大変なことをしてしまったというショックと、病苦と主将としての責任感とが入り混じって、極度の精神衰弱に陥ってしまった。佐藤は4月5日、マラッカ海峡で投身自殺を遂げた。26歳の若さであった。

ネーデルラントの諺

   ブリューゲルの「ネーデルラントの諺」(1559年)には、当時の人々の生活を舞台に100種類以上(一説では120種とされる)とされる諺や格言の場面が描かれている。これらの諺は2種類に大別される。それは、人の愚かなる振る舞いを表わすものと、人間の罪深さ、七つの大罪(大食、強欲、怠惰、肉欲、高慢、嫉妬、憤怒)を表現するものとである。

壁に頭をぶつける。(むだ骨をおる)

ひよこがかえらぬうちにその数を数える。(捕らぬ狸の皮算用)

2つの口でしゃべる。(陰日なたがある)

光の籠を日なたに持ち出す。(よけいなことをする)

片の手に水、片方の手に火。(不誠実)

豚に薔薇の花。(豚に真珠)

一方が糸を紡いでいるのに、他方が糸巻棒を縛る。(相手がなければ噂話はできない)

尻でドアを開ける。(どうなっているやら、まるでわからない)

ひとつの骨に二匹の犬。(喧嘩になるにきまっている)

ひと叩きで2匹のハエを殺す。(一石二鳥)

自分が薪で温まれば、だれの家が燃えようと気にならない。(自分だけよければいい)

金を水に捨てる。(金を湯水のように使う)

車輪に棒を突っ込む。(人の邪魔をする)

粥をこぼすと、全部は拾えない。(覆水盆に返らず)

両方のパンには手が届かない。(やりくり算段ができない)

長いほうをちぎり取ろうと引っ張る。(くじを引く。幸運を引き当てる)

豚の毛を刈る。(無益な行い)

小魚を食らう大魚。(権力者の弱者への圧迫)

雌豚が栓を抜く。(大食らいをする)

円い平たい菓子が生えている。(怠惰)

立てた箒の下は安全。(亭主が不在中の目じるし)

夫に青いマントを着せる妻(不貞と金銭目的の結婚)

詳細については、グリュックの絵解き解説がある。

ブリューゲルとアントウェルペン

    画家ピーテル・ブリューゲルが生きた時代のアントウェルペン(英語名アントワープ)は「世界の環のなかのダイヤモンド」と呼ばれ、繁栄と発展の黄金期にあった。詩人ダンテがブリュージュを讃えた「太陽のごとく、その比を知らぬ、ブラバントのメトロポリス」(グイチャルディーニ)と書いた開港都市であったブリュージュの入江が泥で埋まってしまったため、代わってアントウェルペンが北海沿岸低地帯の主要港として、ヴェネチアとハンザ同盟の交易を引き継ぎ、また東方の香料を求めるポルトガル船団の重要な寄港地となった。16世紀の前半に人口は倍になり、美術品の輸出が盛んになったため、全国各地から芸術家たちが集まってきた。アントウェルペンはまた、印刷の中心地としての名声も急速に高めた。低地帯諸国で出される本の半分以上がここで印刷され、パリやリヨンの国際的地位を競い合うようになった。

    ブリューゲルがいつ、どこで生まれたか、確かなことはわからない。1525年から1530年の間と推定されている。マックス・J・フリードレンダーの推定によると1528年から1530年の間に生まれている、としている。これで算えると、ブリューゲルは39歳で死んでいることになる。生地については、フランドルの画家カレル・ファン・マンデルの著書「画家の書」(1604年)によると「プレダ市近くのブリューゲルという小さな村に生まれた」とある。ブリューゲルが地名であるか姓であるか明らかではないが、おそらく当時ブラバント公国にあったブレダに生まれ、アントウェルペンにやってきたのは1540年ころのことであろう。マンデルの記録によると、ブリューゲルはピーテル・クック・ファン・アールスト(1502-1550)の弟子として画家修業を始めた。クックはアントウェルペンの一流の画家だった。工房は非常に繁盛し、絵画制作は芸術であると同時に、一つの産業だった。クックは出版活動でもその名を知られた。クックが1545年に出版したセバスティリアーノ・セルリオの建築書の翻訳は、イタリア・ルネサンスの建築理念を北方ヨーロッパに広めるのに大きく貢献した。そしてブリューゲルは1540年から1545年の間、クックの工房で徒弟生活を送った。1551年、ブリューゲルはアントウェルペンの画家組合(サン・ルカ・ギルド)の親方として登録されている。

2008年1月 5日 (土)

俵万智と水原紫苑

「この味いいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

    昭和62年5月に発売された俵万智(昭和37年生)の歌集「サラダ記念日」は、このような口語体を交えた新鮮な言語感覚がブームとなり、年末までに250万部が売れた。飾り気のない日常感覚のなかで失恋や不倫をも明るくうたいあげる。

焼肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き

水密桃の汁吸うごとく愛されて前世も我は女と思う

眠りつつ髪をまさぐる指やさし夢の中でも私を抱くの

チューリップの花咲くような明るさであなた私を拉致せよ二月

    *   *   *   *   *   *   *

    現代女流歌人として注目されているのが水原紫苑(昭和34年生)。端正な文語文体によって、見えないものを鋭い感受性でとらえている。

菜の花の黄溢れたりゆふぐれの素焼きの壷に処女のからだに

まつぶさに眺めてかなし月こそは全き裸身と思ひいたりぬ

ふり向けば椿は未だ咲きてをり純潔といふ奇蹟を信ず

死のうすき舌を感ずるそびらさへ与へけしな椿のごとく

四S時代と四T時代

   水原秋桜子(1892-1981)と山口青邨(1892-1988)は年も同じで、共に東大卒で東大俳句会に参加している。昭和初期には、水原秋桜子、山口誓子(1901-1994)、高野素十(1893-1976)、阿波野青畝1899-1992 )、4人の頭文字をとってホトトギス四S時代を現出した。(命名者は山口青邨)やがて「ホトトギス」があまりにも瑣末な写生に傾いてゆくことに反発した秋桜子は、「馬酔木」10月号に「自然の真と文芸上の真」を発表して「ホトトギス」から離脱・独立し、昭和9年俳誌「馬酔木」を主宰者となった。同人には石田波郷(1913-1969)、加藤楸邨(1905-1993)、山口誓子なども加わり、やがてホトトギスと対立する勢力となった。

    昭和中期を代表する女流歌人4人、橋本多佳子(1899-1963)、中村汀女(1900-1988)、星野立子(1903ー1984)、三橋鷹女(1899-1972)の頭文字をとって四T時代といった。(命名者は山本健吉)

2008年1月 4日 (金)

ブリューゲルのイタリア旅行

    フランドルの画家ピーテル・ブリューゲル(1525-1569)のイタリア旅行(1552-1553)の影響は、「バベルの塔」(1563、ローマで実際に見たコロセウムがヒントになっている)や「雪中の狩人」(1565、アルプス風景)にはっきりと見ることができる。しかしイタリア絵画そのものの影響はあまりみられない。むしろ彼に一番大きな影響を与えたのは、行く途中のアルプスでの上から見下ろす視点であり、アルプスからの眺めであったであろう。(彼が育ったフランドル地方はほとんど平野であった)

    これは、これまでの絵画において自然景観は、宗教画や人物画の背景として脇役的にそえられていたものだったが、ブリューゲルは俯瞰的な見方で人物を描き、16世紀フランドル絵画に独自の風景画形式の確立に大きく貢献した。

    ロベール・ジュナイユは次のように言っている。「15世紀の美術では、人間が大きくとり扱われ、風景はわずかな添え物にすぎなかった。人間はつねに作品の中央、前景に浮かびあがり、風景はほんのつけたしであった。ところが、この関係を逆にしたのがブリューゲルなのである。彼は人間を、さながら群がるアリのようにみじめな存在としてとらえ、かわって風景を巨大なモニュマンにまで高めたのである。彼の風景は奥行きと広がりをもち、ディテールにいたるまで幻想を駆使し、有機体として構築されているのだ。おそらくブリューゲルはイタリア旅行の途中、アルプスを越える際に、自然のけだかさに強く打たれたのではなかったろうか」(ロベール・ジュナイユ「ヴァン・アイクからブリューゲルまで」)

2008年1月 3日 (木)

「にごりえ」お力

    樋口一葉が下谷区龍泉寺町から、本郷区丸山福山町へ引っ越してきたのは、明治27年5月1日のことであった。この界隈は新開地で、それにつきものの銘酒屋が立ち並んでいる。

   「おい木村さん信さん寄ってお出でよ、お寄りといったら寄ってもいいではないか。また素通りで二葉屋へ行く気だろう」という、客ひきの場面からはじまる一葉の名作「にごりえ」は、ここ丸山福山町を舞台として書かれ、明治28年9月「文芸倶楽部」に発表された。新開地の「菊の井」一番の売れっ子・お力。銘酒屋というのは名ばかりで、実は売春窟である。お力には、結城朝之助というお金持ちで男前の客ができた。仲間うちでは、ゆくすえは二人で所帯をもつのではと噂もあった。しかし、お力にはそれ以前に蒲団屋の源七という男がいた。お力に入れ込んだことで、没落し、いまでは妻のお初と太吉郎の三人が貧乏長屋で苦しい生活をおくっている。源七はいまでもお力への未練を断ち切れないでいた。ある日、お初は源七と諍いになり、子どもを連れて家を出た。源七は包丁をもってお力を追い回し、神社のそばで、無理心中をする。

    西洋には「ファム・ファタール」という言葉が19世紀末からあり、男を破滅にする魔性の女のことをいう。映画・小説などでは主に男性の側からみている作品が多い。「にごりえ」は同じ19世紀末ではあるが、女性の側からみた、人生の悲哀と貧しさが描かれている。日本でも獏連、毒婦、白鬼などと昔から魔性の女をさす言葉は多いが、ヒロインのお力はどれにも当てはまらない哀れな女である。

2008年1月 2日 (水)

ドンケツ指揮官・木村昌福

   木村昌福(1891-1960)は大正2年12月、海軍兵学校を卒業。成績順位は118人中第107番という下位成績である。身長は180センチもあり、髯をはやし、柔道で鍛えた猛者であった。

    昭和18年にビスマルク海海戦で重傷を負い、復帰後は第一水雷戦隊司令官に着任した。昭和18年5月12日、アメリカ軍は大挙してアリューシャン列島のアッツ島に上陸し、山崎保代大佐以下2500名の同島守備隊は奮闘むなしく玉砕した。これにより、キスカ島にいる守備隊5200名は完全に孤立してしまった。幌筵に停泊する重巡「那智」の司令長官・河瀬四郎中将はキスカ撤退作戦を「ドンケツ」の木村昌福少将にその任務を与えた。

    霧発生の予報を得た旗艦「阿武隈」、「木曾」、「多摩」は、7月7日、幌筵を出港した。しかし、10日になると霧が消えてしまった。14日になっても霧が出ない。阿武隈に後続していた木曾や駆逐艦は、霧がなにくてもキスカに突入すべきだと訴えてきた。阿武隈艦橋では参謀たちが、木村司令官に突入を進言した。木村は決断した。引き返すのだ。「帰れば、また来ることができる」一水隊は幌筵に帰還した。司令部や大本営では、この決断に「木村は臆病者だ」と非難が集中した。しかし、幌筵に戻った木村は、霧が出るのを待つ、といって碁を打ったり、釣りをしたりの毎日だ。しかし22日、霧発生の気象予報が届いた。その日の夜、一水隊は出港した。そして7月29日、農霧につつまれたキスカ島に艦隊が入港した。5200名の将兵は、わずか1時間足らずで全員艦隊に収容された。彼らは万感の想いでキスカ島に別れを告げ、7月31日から8月1日にかけて無事に幌筵に帰投した。「キスカの奇跡」といわれる撤収作戦が成功した要因には連合艦隊司令部からの催促や非難にも動ぜず、平然とした態度で好機を待つという「ドンケツ」の指揮官・木村昌福の冷静な判断によるところが大きい。彼はこの作戦の成功により、昭和天皇に拝謁する栄誉を受けた。

昭和の精神史としての「父の鎮魂歌」

    小泉信三(1888-1966)の一人息子・信吉は、大正7年に生れ、慶応を卒業し、海軍士官になり、昭和17年10月22日、特設砲艦「八海山丸」に乗艦し南太平洋沖にて戦死した。享年25歳。山田太一脚本のドラマ「父の鎮魂歌」は小泉信三の著書「海軍主計大尉小泉信吉」を原作に東芝日曜劇場ドキュメンタリードラマとして平成4年に放送された。父親・信三のイメージを大切にしたいという小泉家の要望で、演ずる杉浦直樹は終始後ろ姿で登場する。

    昭和17年2月、重巡洋艦「那智」は南方攻略作戦支援任務のためスラバヤ沖海戦に参加した。小泉信吉(杉浦直樹)は初任務につく信吉(志村東吾)に次のような手紙を書く。

    「君の出征に臨んで言って置く。吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何より誇りとしている。僕は若し生れ替わって妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若しわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない」

   信吉の人柄は、自由闊達で、父・母(冨司純子)を尊敬し、二人の妹(有森也美、美栞了・旧芸名・小柴香織)を慈しみ、常に穏やかで寡黙の人だった。友人から武田信玄といわれていた。戦前期の昭和をドラマ化すると、当時の日本軍国主義を批判し、美化と誇張が目立つものが大半である。しかしこの「父の鎮魂歌」は、当時の限られた状況のなかで、ごく自然に父親の息子を偲ぶ心情がドキュメンタリードラマ風に仕上がっている。進行役に西田敏行、評論家・桶谷秀昭も解説者として登場。

2008年1月 1日 (火)

平清盛と市川雷蔵

    市川雷蔵(当時24歳)は、関西歌舞伎から映画界に入った翌年、溝口健二監督の「新・平家物語」(昭和30年)の主役に抜擢された。若武者雷蔵の迫力ある演技は新鮮で美しかった。ラストの名場面。雷蔵扮する平清盛が貴族の神輿に弓を放つ場面の撮影の時だった。衣裳係が手間取った。溝口はネチネチいじめることで有名だ。「早くしてください。夕陽が沈んだらこのシーンは撮れないんですよ」この時突然、これまで無言だった雷蔵がタンカを切った。「やかまし言うない。今日お日さんが沈んだら、明日は東から出てくるわい。明日撮ったらええやろ」溝口は「なにを言う」と小声で口ごもり、雷蔵の気迫に度肝を抜かれた。溝口はあとで「若いから元気よくて気持ちいいよ」とスタッフに言っていた。こうして雷蔵は天下の名監督との勝負に勝った。端役の歌舞伎役者にケリをつけて、映画界で青年平清盛を颯爽と演じ、スターの地位を確立したことは言うまでも無い。

   市川雷蔵、本名・亀崎章雄は昭和6年8月29日、京都市堀川丸太町で商社員の父・亀崎松太郎と商家出身の母・中尾富久との間に生れた。しかし生後6ヵ月で伯母夫婦である関西歌舞伎の市川九団次の養子となり、竹内嘉男と改名、15歳で市川筵蔵となり、さらに昭和26年市川壽海の養子となり、太田吉哉と改名、八代目市川雷蔵となる。もともと歌舞伎の血筋ではなく、養父が歌舞伎役者だあったため、亀崎章雄は竹内嘉男、太田吉哉と三度も改名することとなった。

   では、次の映画スターは誰だろう?

①中村鶴三

②大辺男

③門田潔人

④植木正義

⑤高橋照市

⑥加藤郁郎

⑦浅川善之助

⑧池端清亮

⑨有島行光

⑩小野榮一

⑪丹羽富成

⑫奥村利夫

⑬小田剛一

⑭小川錦一

⑮柴田吾郎

⑯佐野邦俊

      *

回答

①尾上松之助、②大河内伝次郎、③月形龍之介、④片岡千恵蔵、⑤嵐寛十郎、⑥古川緑波、⑦市川右太衛門、⑧上原謙、⑨森雅之、⑩鶴田浩二、⑪大川橋蔵、⑫勝新太郎、⑬高倉健、⑭中村錦之助、⑮田宮二郎、⑯里見浩太朗

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