漱石の母・高橋千枝
夏目漱石は母・夏目千枝(1826-1881)の思い出を『硝子戸の中』で次のように書いている。
私の知っている母は、常に大きな眼鏡を掛けて裁縫をしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、球の大きさが直径2寸以上もあったように思われる。母はそれを掛けたまま、すこし顎を襟元へ引き付けながら、私を凝と見る事が屡あったが、老眼の性質を知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。私はこの眼鏡と共に、何時でも母の背景になっていた一間の襖を想い出す。古びた張交の中に、生死事大常迅速云々と書いた石摺なども鮮やかに眼に浮んでくる。
夏になると母は始終紺無地の絽の帷子を着て、幅の狭い黒繻子の帯を締めていた。不思議な事に、私の記憶に残っている母の姿は、何時でもこの真夏の服装で頭の中に現れるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るものはただ彼女の顔ばかりになる。
漱石の実母・ちゑ。四ッ谷大番町(現・新宿区大京町)の福田庄兵衛(質商鍵屋)の三女(鶴、久、ちゑ、三人の娘がいた)。ちゑは長らく大名(明石または久松)の奥女中をつとめたが、下谷の質屋に嫁したが、不縁となり、長姉鶴の婿、芝金杉1丁目の高橋長左衛門(炭問屋)の養女として安政元年(1854年)に夏目小兵衛直克の後妻に来た。直克の先妻は、千駄谷の名主斉藤勘四郎の娘で嘉永6年(1853年)に死んで、あとに佐和、房の二女を残した。
慶応3年2月9日(旧暦1月5日)、千枝(ちゑ)は、四男一女のあとに金之助を産む。乳が出ないためもあって、生後すぐに四ッ谷の古道具屋(一説によれば源兵衛村の八百屋)に里子に出すが、すぐに連れ戻された。しかし明治元年11月、塩原昌之助(29歳)の養子となり、内藤新宿北町にあった同家へ引き取られた。養母は、やす(29歳)。明治9年、養父母の離縁で、金之助は塩原家在籍のまま実家に帰る。
明治12年3月、金之助は東京府第一中学校正則科第七級乙に入学する。(校長・村上珍休)明治14年1月21日、千枝の死にあって、金之助は大助の官舎に行っており、死に目に逢っていない。中学校では勉強をおろそかにして、退学した金之助であるが、母の死後、三島中洲の二松学舎に転じて漢学を学び、文学に関心を持つようになる。
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質問です。
「明治12年3月、金之助は東京府第一中学校正則科第七級乙に入学する(校長・村上珍休)。~」は、何の史料から言われているのでしょうか。村上珍休について調べています。よろしくお願い致します。
投稿: 石井啓文 | 2009年8月27日 (木) 15時52分
コメントありがとうございます。村上珍休については何も知らず、寓目した記事を転記したようです。それが何書なのか不明です。漱石夏目金之助は2歳のとき塩原昌之助・やすの養子となったが塩原夫婦の離縁とともに生家の夏目家に戻った。たが塩原昌之助は金之助の頭のよいのを好み、教育に力を注いだ。東京府立中学校・二松学舎・成立学舎および東京大学予備門において、漱石がどのような教育を受けたのかは興味のあるところである。東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)の初代校長は村上珍休。この名前は漱石の年譜にはあまりでてこない。ケペルが普段よく参考にする本は宮井一郎「評伝夏目漱石」であるが、記述はなかった。石川悌二「夏目漱石」も第一中学校時代の記述は詳しいが、村上珍休の名前は見当たらない。ウェブ上では井田好治「夏目漱石と英語修業」というPFDに「校長は村上珍休といった」とある。自分が所蔵している本ではなく、図書館から借りた本を参考にしたのかもしれない。村上珍休の著作としては「皇朝史略摘註」「東京府地理教授本」などが国立国会図書館に所蔵している。専門は漢文で昌平黌の出身者か?。
投稿: ケペル | 2009年8月27日 (木) 21時01分
追記:明治42年1月号の「中学世界」という雑誌にある漱石の談話「私の経過した学生時代」は面白い読物である。岩波版の全集が今手許にないが、この雑文の注釈には「村上珍休」の名前が記されているのではないか。また日比谷高校の沿革誌を調べれば、初代校長の記述があるのではないでしょう?
投稿: ケペル | 2009年8月28日 (金) 17時46分
(*^-^)
投稿: | 2010年10月27日 (水) 12時21分