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2007年12月 8日 (土)

志賀直哉の批評家無用論

    志賀直哉(1883-1971)は昭和12年、54歳の時に長篇小説『暗夜行路』の後篇を発表し、完成させた。これまでに、「網走まで」(明治43年)「和解」「城ノ崎にて」(大正6年)「小僧の神様」(大正9年)などの多くの短編小説を書いて、当時の文学青年から崇拝され「小説の神様」と擬せられていたことは周知のとおりである。

    三島由紀夫の言葉を借りれば「日本における批評の文章を樹立した」人といわれる小林秀雄(1902-1983)は、志賀直哉に対する熱烈な讃辞であふれている。

    これに対して、私小説批判で知られる中村光夫(1911-1988)は、昭和29年、『志賀直哉論』(文芸春秋新社)において志賀直哉を徹底的に否定する内容の本を出版している。「作者自身の精神の状況が何か燃えきった灰のやうな印象を与える」とか「重要な仕事はほとんど30代に終わってしまい、ことに昭和4年以後は、作家としての活動はまったく休止状態」であるとか、さらには「もっと根本の小説を書く態度の上での、或る固定化」「精神の発育停止」とまで言い切っている。

    戦後の志賀直哉の作品には「淋しき生涯」「灰色の月」「蝕まれた友情」「白い線」「盲亀浮木」などで今日では、それほど読まれないものが多いのも事実である。太宰治が「老大家」と評し、中村光夫が「精神の発育停止」と言った批判は果たして正当性があるのであろうか。

    これに対して志賀自身は「白い線」で次のように言っている。

「批評家や出版屋に喜ばれるのは大概、若い頃に書いたもので、自分ではもう興味を失いつつあるようなものが多い。年寄って、自分でも幾らか潤いが出てきたように思うもの、即ち坂本(繁二郎)君のいう裏が多少書けて来たと思うようなものは却って私が作家として枯渇してしまったように云われ、それが定評になって、みんな平気で、そんな事を書いている。私はさういう連中にはさういう事が分からないのだと思う。そして、常に云っているように批評家というものは、友達である何人かを例外として除けば、全く無用の長物だと考えるのである。そういう批評家は作家の作品に寄生して生きている。それ故、作家が作家が批評家を無用の長物だと云ったからとて、その連中の方から作家を無用の長物とは云えない気の毒な存在なのだ。作家が他人の作品を批評する場合、何をいっても、云っただけの事は自身の作品で責任を負はねばならぬが、批評家は自身小説を書かず、その責任をとる事がない。批評家はそういう自分の立場を大変都合のいい事と考えて、勝手な事をいっているが、実はこの事がむしろ致命的な事だという事を知らないのだ。」

   「白い線」は昭和31年3月1日発行の『世界』第123号に発表されたものである。おそらく中村光夫の『志賀直哉論』に対しての反論として読み取ることができる。

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