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2007年12月 7日 (金)

児島喜久雄と長尾よね

    「日本古代史の井上光貞(1917-1983)が学生の頃、美術・美術史家の児島喜久雄(1887-1950)からドイツ語の原書を読むことをすすめられたことが、後年、哲学的、世界史的な視野をもって日本史研究をすることに役立った」ことを車太郎さんのコメントで知った。

    井上光貞の父は井上三郎(1887-1959)で、桂太郎の三男。井上勝之助の養子となり、井上馨の長女・千代子と結婚。井上三郎と児島喜久雄とは同じ年だが、陸軍軍人と美術家との間に接点は見られない。児島の父・児島益謙は、和歌山出身の陸軍軍人である。むしろ児島益謙が桂太郎の部下としての関係から、幼少時から児島喜久雄と井上三郎の親交が生れたのかも知れない。

    学習院出身の児島は、白樺の同人であるから、当然志賀直哉、武者小路公共、細川護立らと親交があった。「生誕120年、児島喜久雄と白樺派の画家たち」展が清春白樺美術館で開催中という。

    ところで志賀直哉の「児島喜久雄の憶ひ出」にある「晩年の児島は近衛文麿につき、わかもとの長尾氏につき、何となく茶坊主的印象を他に与へ、非常に損をしたと私は思ふ」という箇所が気になる。

    長尾とは、栄養剤「わかもと」の創業者・長尾欽弥・よね夫妻のこと。長尾欽弥(ながおきんや)は明治25年7月3日、京都府下相楽郡湯船村射場に生まれる。戦後の「人事興信録第17版」(昭和28年)によると、ナガ製薬社長、長尾研究所、長尾美術館館長。妻の長尾米子(1890-1967)は明治22年8月26日、浅草馬道町で生れ、母志か、私生児であった。女傑で政財界に交友が広く、桜新町の長尾邸には多くの文化人が集まった。林房雄、久米正雄、小林勇、青山二郎、福田蘭童、梅原龍三郎、安井曽太郎、小林古径、安田靭彦、里見弴、志賀直哉、児島喜久雄など。近衛文麿が荻窪で自殺する前日まで、近衛は長尾邸に滞在し、よねから青酸カリをもらっている。鎌倉山にあった旧長尾欽弥旧別邸扇湖山荘には戦前国宝級、重文級の美術品があった。戦後、課税を免れるめ、財団法人「長尾美術館」を設立。児島喜久雄と長尾よねとの交友は蒐集した美術コレクションの鑑定で深い信頼関係ができたものであろう。よねの出生については謎が多く、人事興信録によれば、明治22年1月2日生れで、田中光顕(1843-1939)の長女とある。のちに認知したらしい。昭和42年2月8日死去。白洲正子は「女傑」(「小説新潮」昭和34年2月号)を書いている。

   志賀が言うように戦中戦後の混乱期で児島の仕事が正当に評価されない時代があったようだが、今ようやく彼の西洋美術移入の業績を見直してみたい。

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コメント

かつて、井上三郎を団長に、児島喜久雄が同行した日本代表団とともに国宝級の美術品がドイツへ。、ポスターは横山大観作成し、ヒトラー政権時のドイツベルリン・ペルガモン博物館で開催された「日本古美術展」。この今や歴史のかなたに埋もれた展覧会についての講演が、東京三鷹市の中近東文化センターで行われますのでお知らせします。おりしも同所ではペルガモン博物館の資料を展示した企画展を開催中。

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第35回三笠宮記念図書館主催『語る会』
吉田大輔が語るペルガモン博物館 ―ヒトラーと日本古美術展―

今回の三笠宮記念図書館主催『語る会』は、現在、中近東文化センター附属博物館で開催中の『ヘレニズムの華 ペルガモンとシルクロード』-発掘者カール・フーマンと平山郁夫のまなざし-展に関連して、かつて、ヒトラー政権時のドイツ・ペルガモン博物館で開催された「日本古美術展」について、中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所の吉田大輔さんが講演します。

日 時:2008年12月13日(土)14:30~15:30
語り手:吉田大輔(中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所)
場所:中近東文化センター小講堂
主催:(財)中近東文化センター附属三笠宮記念図書館

問い合わせ先
中近東文化センター
〒181-0015東京都三鷹市大沢3-10-31
ホームページ:http://www.meccj.or.jp/Pages/main_frame.html
電話: 0422-32-7665 (直通)/7111(代表)
Fax: 0422-31-9453
電子メール:tr-ex@pa2.so-net.ne.jp

年末から販売中の『週刊新潮』新年特大号に、「素顔の父」と題して、近衛の娘さんが初公開した近衛文麿元首相の写真が掲載されてますね。昭和18年ころの京都での会合時の写真には、記事には解説はありませんが、向かって一番左端に写っている男性は長尾欽弥ですね。近衛の右隣のセーラー服姿の娘さんの右の肩越しに顔を見せているのが、長尾よねでしょう。長尾欽弥の右隣に山本有三、里見とんがおり、その右隣には、やはり記事には解説されてませんが児島喜久雄の顔が見えますね。

Yousukeさん、興味ある情報をありがとうございます。早速、見てみます。今日、雪舟の「山水長巻」のことを調べていたら、井上馨が毛利家から「山水長巻」を借りて、麻布の私邸で展覧会をしたことを知りました。急進的な欧化主義者として知られる井上ですが、明治初期の美術品の海外流出に対する強い危機感から古美術の蒐集、保存に積極的だったそうです。明治から昭和戦前期までは政治家、軍人、学習院、財界人などの幅広い人脈で個人的レベルでの美術品収集の盛んな時代だったみたいですね。

大変遅ればせながら、児島喜久雄と井上光貞の関係についてコメントさせていただきます。
児島喜久雄は1918年(30歳の時)に木梨千代(木梨辰次郎の長女)と結婚しました。
千代の叔母(辰次郎の妹)都玖(とく)は、下関の森祐三郎(すけさぶろう)に嫁いでおりました。
森祐三郎は、井上光遠(桂太郎の三男井上三郎が養子縁組した井上勝之助の実父で井上馨の実兄)の三男で、三井銀行下関支店長を務めていました。(因みに井上勝之助は井上馨の息子として養子縁組しています。)
つまり、井上三郎(井上光貞の父)は、児島喜久雄にとって、義理の(配偶者の)叔母の甥という位置付けにあり、親戚付き合いがありました。
このような背景から、児島喜久雄は井上光貞を幼少期(喜久雄が千代と結婚した時、光貞は1歳)から知っていたということになります。軍人繋がりでの親交ではないと思われます。
井上家は親族内での養子縁組が矢鱈と多く、ややこしいことこの上ありません。

児島喜久雄と井上光貞とのご関係につきまして、正確な情報をお寄せいただき、ありがとうございます。篤くお礼申し上げます

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