佐伯祐三とブラマンク
ブラマンクは「ヴァーミリオン(朱色)で官立美術学校を焼き尽くしたい」といったほど激しい改革者であった。パリに着いた佐伯祐三(1898-1928)がなぜブラマンクに会いたがったのか、その理由は明らかではない。ともかく、友人の里見勝蔵(1895-1981)に連れられて佐伯がブラマンクを訪ねたのは大正13年のことであった。そのときの様子を里見は次のように記している。
「佐伯夫婦達が巴里へ来たのは私の巴里滞在三年目の冬だった。佐伯は最初の頃からブラマンクに会いたいと云っていたが、例え佐伯には有益であっても、ブラマンクをわずらわせるのを恐れて、少し我慢してもらった。やがて佐伯は非常に巧みに、野蛮な、美しい表現をした時、その最も優秀だと私達が思った勇敢な五十号の裸女を持ってオーエルのブラマンクの家を訪れた。実に驚くではないか。この強烈な佐伯の画に対しブラマンクは「アカデミック」と云って、アカデミックの抗撃を私達が彼の家を去るまで、一時間半もつづけた」
このブラマンクとの会見後、佐伯は一時フォーブ風になったが、その後、自己の資質に目覚め、ユトリロの影響を受けてパリの街景を好んで描き、東洋的な感情のこもった独自の画風を確立した。昭和3年、31歳の若さでパリに客死した。(参考:「週刊朝日百科・世界の美術61・フォーヴィスム」1979)
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