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2007年12月31日 (月)

大江戸の春

鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春  (其角)

    江戸では元旦からが春である。春とともに新年を迎えて、江戸では七日までが松の内。この間は家の掃除を行わないが、それは箒で幸福をはき出したりしないため。七日まで手足の爪を切らないのも理由は同じ。

    「一年の計は元旦にあり」というように、元旦は心身ともに改まって屠蘇を飲み、雑煮を食べる。新年の行事としては、元旦の恵方(えほう)参り。初日の出。若水汲み。年賀の回礼。二日は初夢。初商い。三日は芸事初め。

    「恵方参り」とは、その年に歳徳神(としとくじん)が来る方角が恵方で、その方角にある神社仏閣に元旦未明に参詣する。今の初詣の原型がみられる。初日の出は江戸の東端、洲崎が有名であった。

門松の由来

   正月に玄関に松の葉を飾ったり、門松をたて祝うのは何故か?

   現代でも多くの家庭が飾る門松は、「正月に吉方から来臨して年中の安全と豊年とを約束する神」、穀霊でもあり祖霊でもある年神が降りてくる依代(よりしろ)として本来は立てられたものである。榊、竹、杉、楢などいろいろな樹木が用いられたが、次第に松に統一された。門松は平安時代から正月の民家に飾られるようになっている。歌道家六条家の始祖、藤原顕季(ふじわらのあきすえ)の「門松を営み立つるその程に春明がたに夜や成ぬらん」(「堀河院百首」)や藤原信実(ふじわらののぶざね)の「今朝はみなしづが門松たてなべていはふことぐさいやめづらなる」(「新撰六帖」)という歌にも見える。『年中行事絵巻』にも家の入口に、門松の立った光景が描かれている。

    しかし門松の風習が全国的に広まったのは近代になってからである。文部省唱歌に「松竹立てて門ごとに祝う今日こそ楽しけれ」と全国の児童に歌わせたからであろう。家の入口に松を立てる、それも左右そろえて二本立てるというのは、大昔からの風習ではない。宮中には今でも門松はないし、富山や大阪でも立てない。家風として自分のところは立てない、という家もある。

(参考:「本郷№5」19996.1、吉川弘文館)

「なまはげ」の由来

   秋田県男鹿半島の村々では「なまはげ」という奇習が古くから伝わる。かつては陰暦1月15日の行事だったが、戦時中に一時中止され、現在は大晦日または新暦1月15日に行われるようになった。

   この日は、恐ろしい鬼の面をかぶり、ケラ蓑、わらぐつ、腰みのをつけ、大きな木製の刃物を持ち、箱の中に小さな物を入れてからから鳴らして、二三人一組となった若者が、「ウォーウォー」と奇声をあげながら「くなもみコ剥げたかよ」「包丁コとげたかよ」「小豆コ煮えたか煮えたかよ」などと唱えながら家々を訪れ、「泣く子はいねが」と小児を戒筋し、神棚に礼拝し、祝言をのべる。それを正装した主人が酒肴や餅などで迎える。鬼は酒だけ飲んで餅は従者に持たせ、次の家へ行く。仕事もせずに、火にあたってばかりいる怠け者には、ナモミ(火斑)がつくといわれ、これを引きはぐ「ナモミハギ」が「なまはげ」に転化したものといわれる。そのほか、「生身剥」の転化説もある。

   以上が「なまはげ」の語源であるが、習俗の由来については諸説あり、①漢の武帝が五匹の鬼をしたがえて男鹿に上陸し、年中鬼を酷使したので、その報酬として、正月15日、一日だけ村里に出て、自分のほしいものを勝手に探し求めてよいとの許しを与えたという説、②天狗伝説などにも見られる異邦人説、③男鹿の真山本山で修業する修験者がモデルになっているという説、④蓑笠をつけ、顔をかくして旅をするものを存在したことは「日本書紀」の神武紀のシイネツヒコとオトウカシの伝承とする説、などがある。

 ナマハゲの同様の類型はナゴミタクリ、ナモミハギ,ヒガタタクリ、シカタハギ、スネカ、アマミハギ、オドシなどの名でよばれ、東北に広く、また北陸地方へかけて分布している。九州では「かせどり」という。

除夜の鐘の由来

大晦日定めなき世の定めかな(西鶴)

ともかくもあなたまかせの年の暮れ(一茶)

高窓に星吹き寄せぬ除夜の鐘(花野女)

 大晦日を「除日(じょじつ)」ともいう。旧年を除く日ということである。除日の夜が除夜だ。除夜の鐘を108つくのは、中国の仏教儀式で、宋時代から始まったという。ただつけばよいというわけではなく、交互に、強く54点、弱く54点、そして107点までは旧年に、最後の一点を新年につく。

   108の数は、1年12ヵ月と、立春などの24節気、それを三分した72候、の合計だというが、後に108の煩悩を一つずつ消すためといわれるようになった。108の煩悩とは、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と六塵(色、声、香、味、触、法)におのおの好、悪、平があるので、計36程の煩悩が生じ、それが過去、現在、未来あるので108となる。

    古くは1日が夜からはじまって朝につづくと考えられていたので、祭は多く前夜から行われた。年越しの祭も前夜からはじまるとし、大晦日の夜を「おおとし」「としのよ」といい、年神(歳神)を迎るために厳重な物忌をし、夜通し起き明かすのが古風な作法であった。今でも除夜の鐘を聞くまで床に入らなかったり、早く寝ると白髪になるとか、しわがよるとかいい、また寝るというのを忌んで、「寝る」ことを「稲を積む」という地方もある。また年ごもりといって、この夜は神社に参籠(さんろう)して夜を明かすところがあったが、現代では一般にそれを簡略して夜中に参るか元旦未明に参るようになった。また「歳籠り」といって氏神の社にこもって夜を明かす風習もあり、京都祇園社の「おけら祭」などのように、古い社では除夜に、新しく火を鑽り出し、氏子に配る行事がある。農家などでは、大歳の晩から元旦にかけて、いろりの火を絶やさぬようにするところも多い。この際、火種にする薪を「ようぎほだ」「せちほだ」などと呼び重要視した。そのほかいろりや氏神の境内で大火をたくところもあり、兵庫県では「年越しとんど」といって、古い注連縄などの神飾りの不用なものを焼くところもあった。

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代のわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

佐伯祐三とブラマンク

   ブラマンクは「ヴァーミリオン(朱色)で官立美術学校を焼き尽くしたい」といったほど激しい改革者であった。パリに着いた佐伯祐三(1898-1928)がなぜブラマンクに会いたがったのか、その理由は明らかではない。ともかく、友人の里見勝蔵(1895-1981)に連れられて佐伯がブラマンクを訪ねたのは大正13年のことであった。そのときの様子を里見は次のように記している。

   「佐伯夫婦達が巴里へ来たのは私の巴里滞在三年目の冬だった。佐伯は最初の頃からブラマンクに会いたいと云っていたが、例え佐伯には有益であっても、ブラマンクをわずらわせるのを恐れて、少し我慢してもらった。やがて佐伯は非常に巧みに、野蛮な、美しい表現をした時、その最も優秀だと私達が思った勇敢な五十号の裸女を持ってオーエルのブラマンクの家を訪れた。実に驚くではないか。この強烈な佐伯の画に対しブラマンクは「アカデミック」と云って、アカデミックの抗撃を私達が彼の家を去るまで、一時間半もつづけた」

   このブラマンクとの会見後、佐伯は一時フォーブ風になったが、その後、自己の資質に目覚め、ユトリロの影響を受けてパリの街景を好んで描き、東洋的な感情のこもった独自の画風を確立した。昭和3年、31歳の若さでパリに客死した。(参考:「週刊朝日百科・世界の美術61・フォーヴィスム」1979)

2007年12月30日 (日)

競輪選手ブラマンク

  フォーブの画家たちの中でモーリス・ド・ブラマンク(1876-1958)は、「野獣」というニックネームが最もふさわしい激しい性格の画家であった。そして「実の父よりもヴァン・ゴッホを愛する」と語ったほど強い表現性を信条とし、あらゆる束縛や規律をきらい、絶対自由主義者を標榜していた。

   1876年4月4日、パリに生れた。1892年ころからパリ近郊のセーヌ河に面した小さな町シャトゥーに住む。1900年画家アンドレ・ドラン(1880-1954)と逢い、同居しながら制作した。初め競輪選手、バンドマン、俳優などをしながら絵を独学で勉強した。18歳で結婚。それでもブラマンクは30歳くらいまでは自転車競技に出場していた。「ブラマンク、1907年、パリ・ルーベ間を36位で走る」と古い記録にある。

とんぼのめがね

    額賀誠志(ぬかがたかし、1900-1964)。本名・額賀誠(ぬかがまこと)。明治33年、福島県いわき市で生れる。日本医学専門学校卒業後、児童文芸誌「赤い鳥」の同人として活躍。昭和12年、無医村であった福島県双葉郡広野町に内科医院を開業。童謡詩人としても知られた。「とんぼのめがね」「子馬の鈴」「田螺(たにし)」「山のお医者さま」「どんと波こい」「閑古鳥」「ねんねんころり」「浜防風」「入道雲」「筆の花」「たけうまごっこ」「シグナルさん」「秋の声」「お月さんの歌」など。

    「とんぼのめがね」は昭和26年NHK東京放送「ラジオこどもの歌」の中で歌われ全国に広まった。文化庁の「親子で歌いつごう日本の歌百選」にも選ばれ、幼稚園、保育園などでいまでも歌われている。

  とんぼのめがねは

  みずいろめがね

  あおいおそらを

  とんだから とんだから

心の窓にともし火を

    作詞家・横井弘は昭和21年に復員した。当時18歳だった。疎開先の下諏訪霧ヶ峰八島高原でアザミの花に自分の理想の女性像をだぶらせて「あざみの歌」という詩を作った。昭和25年からNHKのラジオ歌謡に流れ、伊藤久男の「あざみの歌」は知られるようになった。

   その後、横井弘は作詞家として、三橋美智也「哀愁列車」「達者でな」、仲宗根美樹「川は流れる」、倍賞千恵子「下町の太陽」「さよならはダンスの後に」、中村晃子「虹色の湖」、千昌夫「夕焼け雲」など数多くの歌謡曲を作詞した。

   横井弘の作詞で中田喜直作曲の「心の窓にともし火を」(昭和35年)は、歌ごえ喫茶で広まり、のちにザ・ピーナッツもリリースして、音楽の教科書にものるようになった。

  いじわる木枯らし吹きつける

  古いセーター ぼろシューズ

  泣けてくるよな 夜だけど

  ほっぺをよせて ともしましょう

  心の窓にともしびを ホラ

  えくぼが浮んでくるでしょう

大奥ブームと「篤姫」

    吉屋信子の「徳川の夫人たち」が昭和41年から43年まで朝日新聞に連載され大奥ブームを作るきっかけとなった。映画では東映が昭和42年「大奥秘物語」(佐久間良子、山田五十鈴、藤純子主演)、「続・大奥秘物語」(小川知子・緑魔子主演)、昭和43年「大奥絵巻」(佐久間良子、淡島千景、大原麗子主演)で興行的成功を収めた。フジテレビでも昭和43年、昭和58年と「大奥」を放送した。平成15年の「大奥」では菅野美穂が天璋院篤姫を演じ、池脇千鶴、浅野ゆう子らが主演して、平成の大奥ブームが再燃した。平成16年に「大奥第一章」(松下由樹主演)、平成17年に「大奥華の乱」(内山理名、藤原紀香、小池栄子主演)で女の嫉妬、憎悪、陰湿なイジメ、ドロドロの陰謀が人気を呼んだ。NHK大河ドラマもこの「大奥ブーム」に便乗したかたちで「篤姫」がいよいよ登場する。幕末の動乱期、島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定の正室として大奥を統率した天璋院篤姫(1836-1883)。ピュアなイメージのある宮崎あおいがいかに幕末の尼将軍といわれた篤姫を演じるかに注目が集まる。

   大奥とは、江戸城中で将軍の御台所と側室の住居。江戸城総面積1万1千余坪の半分以上を、大奥が占める。政務の表と大奥の境の廊下は御錠口(御鈴口)と呼ばれ、銅板張りの大戸が立てられ「此より内男入る可からず」という紙札が掲げられていた。大奥に入れる男は将軍ただ一人だった。大奥には下働きまで含めれば約1千人の女性がいた。7、8人の側室がいるのがふつうで、最多の11代将軍家斉には21人の側室がいた。将軍の正室は公家や親王家から選ばれ、お付きの女中も多かったから、大奥での生活は京都風で、落語の「たらちね」さながらの状況だったという。

聖フランチェスコ

   フランチェスコ修道会の創設者、アッシジのフランチェスコ(1181-1226)は、本名をジョヴァンニ・ベルナルドーネという。父ピエトロはアッシジの裕福な織物商人で、旅をしながら少しばかりのフランス語を習いおぼえていた。息子のほうは人前でひけらかすほどにフランス語を学び「フランチェスコ」(フランス人)と渾名された。

   若いころのフランチェスコは素直で如才なく、のちに修道院の年代記作者が好んで語ったような自堕落さはおそらくなかったものの、快楽を愛したようである。近くのペルージアがアッシジを攻撃したとき、フランチェスコは志願して市民軍に加わり、つづく戦争に従軍した。彼は捕らえられて、しばらくペルージアの捕虜として暮らした。1204年に重い病気にかかり、しだいに宗教を真剣に考えるようになった。スポレトで幻視を得て帰郷し、世俗的財と家族の絆を捨て清貧の生活に入った。サン・ダミアノ聖堂を再建し、キリストの言葉を聞いて説教を開始した。弟子が集まると単純な生活戒律を作り、1209年、教皇インノケンティウス3世(1160-1216)から認可を得た。1212年、アッシジのクララを中心とする女弟子を定住させて戒律を与え、クララ会を創始、1221年フランシスコ会第三会を始めた。1224年、アラベルナ山において聖痕を受け、盲いて生涯を終えた。

   聖フランチェスコの生涯は「ブラザー・サン・シスター・ムーン」(1972年)フランコ・ゼフィレッリ監督で映画化された。フランチェスコにはグレアム・フォークナー、クララにジュディ・バウカーという新人が選ばれた。当時16歳のジュディ・バウカーの清らかな美しさが印象に残る。NHKテレビ「黒馬物語」(1974)、「タイタンの戦い」(1981)以後の活躍はあまり知らない。尼僧の美しさでは、イングリッド・バーグマン「聖メリーの鐘」(1945)、デボラ・カー「黒水仙」(1946)、オードリー・ヘプバーン「尼僧物語」(1959)に匹敵する清らかな聖女であった。

   タイトルの「ブラザー・サン、シスター・ムーン」はフランチェスコの言葉からきている。

  慰められるよりも、慰めることを

  理解されるよりも、理解することを

  愛されるよりも、愛することを

  太陽を兄と慕い、月を姉と慈しむ

  それ以外は何も持たない

   主題歌は現代の吟遊詩人といわれたイギリスのドノヴァンが歌っていた。日本語訳詩で桑原一郎の「ブラザー・サン シスター・ムーン」も発売された。桑原は兵庫県西宮市出身のフォーク歌手。バーモント州フォーク・フェスティバルで「明日に架ける橋」を歌い金賞受賞。

  ブラザー・サン シスター・ムーン

  かぎりない愛の力

  ひそかに受けとめたい

  けがれた世の中には

  はてしなく悩むけれど

  夜明けはたずねてくる

  愛されるより愛したい

  空を飛ぶ鳥のように

  ブラザー・サン シスター・ムーン

  かえらぬ今日の日を

  確かに生きていたい

  愛されるより愛したい

  空を飛ぶ鳥のように

  ブラザー・サン シスター・ムーン

  かえらない今日の日を

  確かに生きていたい

美しい人生

    ケペルは今年の健康診断で便に潜血がみられるので精密検査をするように言われた。しばらく何もしないでいたが、心配なので病院に行くと、大腸にポリプがあるとのこと。来年1月7日から入院するので、しばらくはこのブログも休筆します。夜、就寝中に内心得たいの知れない不安が襲う。ふと思いうかべるのは、黒澤明監督の「生きる」(昭和27年)。渡辺勘次(志村喬)は、市役所の市民課長。30年間無欠勤の彼が、その日初めて休んだ。医師から癌で余命いくばくもないと告げられる。彼は残り少ない命を立派に生きる。雪の朝、静かに横たわっている彼の死に顔には、満ち足りた色が明るく澄んでいた。

   そういえば今年は「千の風になって」が流行し、死ということについて考えさせられる一年であった。古代ローマの英雄ジュリアス・シーザー(前100-前44)は暗殺される前日に友人たちを招いて晩餐をした。席上、「どんな死に方が最良か」と話がはずんだ。シーザーはそれに「突然の死」と答えたという。

   「理想の死に方」でネットを検索すると多くの意見を見ることができる。西行は「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」と風雅に歌っている。花とはもちろん桜である。「桜のようにぱっと散る」とは太平洋戦争末期、若者たちが「特攻」として死んでいったことを思い出してしまう。

    今日の朝刊を読むと「西成の宿泊所で3人練炭自殺か」という小さな記事がある。死亡したのは、吹田市のフリーターの男性(40歳)、徳島市のフリーターの男性(35)、川崎市の無職女性(41)。警察では3人はインターネットで知り合ったとみている。こうした若者の集団自殺が近年多くなっている。この日本は昭和20年も平成20年もかわりなく、戦争、格差社会で若者を犠牲にする国なのだろうか。

    100歳まで生きて、孫、ひ孫に囲まれて老衰で死ぬという大往生だけが「理想の死に方」とは思わないが、この世で与えられた尊い命を大切にして、精一杯に生きることこそが美しい人生だと考える。

2007年12月29日 (土)

賢者の贈り物

    クリスマス・イブの夜。貧しい若夫婦のジムとデラはプレゼントを交換する。ジムは金時計を売って櫛を買う。デラは髪を切って夫の金時計につける鎖を買う。お互いに贈り物は無駄になったが、お互いの深い愛情をたしかめあうという、心温まるストーリー。オー・ヘンリーの小説「賢者の贈り物」(1905年)のデラは妻のアソル・エステス(1868-1897)がモデルという。ヘンリーは実際に見聞したことを題材にして小説にするタイプだ。若い頃、二人があるセレモニーに参加し、アソルが記念に自分で髪を切って入れるのを、ヘンリーが見てこころひかれた。デラが自分の髪を切り、プレゼントをするという話は、若くして亡くなった愛妻アソルへの想い出が込められていたのだった。

大きな栗の木の下で

  大きな栗の木の下で

  あなたとわたし

  なかよくあそびましょ

  大きな栗の木の下で

   だれもが知っているこの童謡の作詞者・作曲者はともに不明である。イギリス民謡であるという。1937年、ヤロミール・ヴァイベルゲンの編曲。アメリカでボーイスカウトの間で広まった。日本には戦後、おそらく幼稚園の舞踏会などで歌われだした。ケペルが幼稚園児だったとき、昭和30年代前半にはかなり有名な曲であった。日本語の作詞者は平多正於説、阪田寛夫説がある。2007年、日本の歌百選(文化庁、日本PTA全国協議会)にも選出された名曲である。

   ちなみにこの曲もだれでも知っているであろう。

  この木なんの木 気になる木

  名前も知らない 木ですから

  名前も知らない 木になるでしょう

 「日立の樹」というコマーシャル・ソング。「日立世界ふしぎ発見」などでお馴染みの曲だが、作曲は小林亜星、作詞は伊藤アキラ。伊藤アキラはCMソング、歌謡曲、テレビ主題歌まで1000曲以上の作品がある。「青雲のうた」、丸善石油「オー・モーレツ」(はつみかんな)、「かもめが翔んだ日」(渡辺真知子)、「東京チカチカ」(加苗千恵、日吉ミミ)、「南の島のカメハメハ」(水森亜土とトップギャラン)など。

樋口一葉の縁談相手の謎

    樋口一葉(1872-1896)は明治5年5月2日(旧暦3月25日)、東京府第二区一小区内幸町一丁目一番屋敷、東京府構内長屋の官舎で生れた。戸籍はなつ、本名・樋口夏子といった。父は樋口為之助は天保5年生まれで、南町奉行同心であったが、維新後は東京府庁に勤めていた。明治になって名前を樋口則義と改めた。明治9年12月に東京府を退職した。明治14年3月、則義は警視庁警視属になった。

    明治19年頃、15歳の夏子に縁談話があった。相手は名主をつとめる夏目家の長男・大助(1856-1887)である。夏目小兵衛直克(1817-1897)は警視庁につとめ、樋口則義の上司でもあった。つまり夏目漱石の兄・大助の嫁に樋口一葉をどうかという、縁談があったのは事実であろう。しかし、翌年、大助は他界し、破談となった。一説によると、夏目漱石(1867-1916)と樋口一葉との間に縁談があったのではないか、という新説もあるが、証拠や資料はない。同年、則義は警視庁を退職している。

    明治22年には樋口則義の事業が失敗し破産しているので、縁談はすすまなかったであろう。3月、死期が迫った則義は、一葉の将来を心配して、渋谷三郎に婚約をたのんでいた。しかし、7月に則義が死去し、樋口家が破産したことを知ると、渋谷は婚約を一方的に破棄した。同年、夏目金之助は英文学を志し、漱石の号を初めて用いた。翌年、樋口なつも小説家になることを決意し、一葉の号を用いた。

嘆きの天使

     ラート(エミール・ヤニングス)は、中年をすぎた堅物の独身教師。学校と下宿を往復する以外の世界を知らなかった。ある日、学生が落としたエロ写真から、補導上、キャバレーへ自ら乗り込む。

   灯に身を焦がす  蛾のように

   私は男を狂わす  根無し草

    そこには学生たちの人気者の歌姫ローラ・ローラ(マルレーネ・デートリッヒ)がいた。そして、妖艶なローラの部屋へ案内されたラートは、すっかり彼女の魅力に心を奪われてしまった。翌日の夜も、ラートはキャバレーへ行き、その夜は下宿へも戻らなかった。翌日、学生たちはラートをひやかした。彼は学生たちをどなりつけたが、学生たちは騒ぎたて、授業をボイコットした。これがもとで学校を退学したラートはローラと結婚し、一座と旅回りに出た。だが、一座の経営は思わしくなく、たくわえを使い果たしたラートは、妻のヌード写真を酒場で売り歩くまでに落ちぶれた。座長キーぺルト(クルト・ゲロン)はラートを道化役にしたてることにした。商売に抜け目のない座長は、落ちぶれたラートが教鞭をとっていた高校のある町へ乗り込んだ。道化姿のラートの前には、自分が手塩にかけた学生たちが見物していた。しかも、舞台裏ではローラが若い男と接吻していた。これを知ったラートはローラにつかみかかったが、一座の者にたたきのめされた。絶望したラートは雪の降る町に逃げた。翌朝、高校の教室で道化姿のラートが死んでいた。

    原作はハインリッヒ・マンの小説「ウンラート教授」。「ウンラート」とはダメ教授という意味があるらしい。世紀末ドイツでは、デカダンスとファム・ファタール(宿命の女)が流行し、蟲惑的な魔性の美女が中年男を惑わす話が好まれた。

    「嘆きの天使」は、1930年、ジョゼフ・フォン・スタンバーグで映画化されるや、デートリッヒの脚線美によって全世界に衝撃の嵐を呼んだ。しかし、この映画をナチスは退廃芸術という理由で上映禁止処分にした。キーぺルトを演じたユダヤ人俳優クルト・ゲロンもアウシュビッツの収容所で殺された。

ファム・ファタール

   「ファム・ファタール」とは、運命の女、宿命の女という意味。かかわった男を破滅させる、抗しがたく美しい女。

    女性美を崇拝した19世紀のラファエル前派の青年画家たちにとって、そのファム・ファタールの女性美の虜となって破滅することは、まさに宿命ともいうべきことであった。エリザベス・シッダルやジェーン・バーデンは背が高く、息をのむように魅力的で、理知的で神秘的な女性であったといわれる。

   ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-1882)がジェーン・バーデンに初めて出会ったのはロンドンの劇場であった。当時、ロセッティはエリザベス・シッダルと婚約していたが、ロセッティとジェーンは互いに惹かれるものがあった。だが、ジェーンはロセッティの弟子のウィリアム・モリス(1834-1896)と結婚し、ロセッティはエリザベスと結婚する。ロセッティの人妻ジェーンに対する思慕は止むことはなかった。結婚2年後には、美しきリジー(エリザベス)は、アヘンチキンの飲み過ぎで死んだ。

   モリスも妻ジェーンとは不仲であった。ロセッティとジェーンとの仲も続いた。モリスは友人のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-1893)の妻ジョージアナを愛するようになった。

    ロセッティはやがて麻薬とアルコールによって体が蝕まれていった。晩年は、病身で、気力も衰え、外出することもなくなった。1882年4月10日、53歳で亡くなった。

「夢千代日記」に見る女性美

   ドラマの舞台となった山陰・湯村温泉荒湯の近くには吉永小百合がモデルとなった「夢千代像」がある。NHKドラマ「夢千代日記」(早坂暁脚本、深町幸男演出)によって、吉永小百合=夢千代=芸者というイメージが一般には広まったような感がする。しかし5話連続の最初の作品を見たかぎり、夢千代(吉永小百合)ほど芸者らしくない芸者はないないという印象を持った。民謡「貝殻節」を踊るシーンは何度もあるが、客と親しく話すとか、酌をするというシーンはほとんど無かった。インテリ芸者で笑顔もなく、はかなげで寂しそうである。清純派・吉永小百合ほど芸者が似合わない女優もめずらしい。思えば日本映画の大女優はほとんど芸妓が似合う。酒井米子、柳さく子、八雲恵美子、梅村蓉子、田中絹代、飯塚敏子、山田五十鈴、花柳小菊、淡島千景、山本富士子。日本情緒をかもし出す芸者役ができて看板女優であった。吉永が「伊豆の踊子」を演じたときも、利発そうな吉永が、字がよめないカオル役で学生に文字を聞くシーンなど不自然だという声をきいたことがある。現代的、健康的、聡明という優等生イメージの強い吉永が、古風な女、病弱、暗い、という孤独で哀しい女をいかに演じるかに興味の大半がそそがれる作品なのである。聖女としての夢千代を鮮明にするためには、対照的な女優を配する必要がある。小悪魔的な緑魔子、秋吉久美子であり、若い大衆演劇の男と駆け落ちをするプレイガールの大信田礼子を配し、聖の対比である俗を印象づける。注目すべきは、芸者置屋の下働きを演じた夏川静江の存在であろう。古風な女優の多い戦前の日本映画界にあって、理知的で近代的な印象のある女優であった。また、さびれたストリップ小屋に流れる暗い70年代のアングラソングも効果的である。「私の名は朝子です。歳は18、身長は163センチです。自分では綺麗な方だと思っています。今、髪は短いですが、じき長くなると思います。お酒はまだあまりのめませんが、ブルースとタンゴくらいは踊れます」というナレーションで緑魔子のストリップショーが始まる。場末のさびしさや惨めさがよく表現されている演出であろう。

   日本では明治以来、男性が描く理想的な女性像として、近代的でバタくさくハイカラな女性美に憧れることと、竹久夢二の描く大正美人に憧れることが、絶えず繰り返えしている。女性崇拝で知られる谷崎潤一郎が「痴人の愛」でナオミを描き、古典回帰後に「蘆刈」「春琴抄」「細雪」で日本的女性美を讃美したことなど典型例であろう。ドラマ「夢千代日記」は近代的女性・永井左千子が運命ゆえに芸者となり、たえず死の影につきまとわれながら生きていくという、孤独な女の人生を場末の猥雑な人間模様の中で描いている。吉永小百合の美しさを際だつことに成功した数少ない作品であろう。

2007年12月28日 (金)

徳川家の正室

    来年のNHK大河ドラマ「篤姫」がいよいよ始まる。ところで徳川十五代将軍の正室の名前をすべていえる人は相当な歴史マニアだろう。ケペルは、まず徳川家康の正室でつまずく。築山殿(1542?-1570)と朝日姫(1543-1590)である。秀忠は崇源院お江与(1573-1626)、家光は本理院鷹司孝子(1602-1674)、家綱は高厳院浅宮顕子(1651-1676)、綱吉は浄光院鷹司信子(1651-1709)、家宣は天英院近衛熙子(1660-1741)、家継は7歳で夭折、吉宗は寛徳院真宮理子(1891-1710)、家重は証明院比宮増子(1771-1733)、家治は心観音院五十宮倫子(1738-1771)、家斎は広大院近衛寔子(1773-1844)、家慶は楽宮喬子(1795-1840)、家定は天親院鷹司任子(1823-1843)、澄心院一条秀子、天璋院篤姫(1836-1883)、家茂は静寛院和宮(1846-1877)、慶喜は貞粛院一条美賀子(1835-1894)である。

    今回の宮崎あおい演じる「篤姫」は、NHK大河ドラマ史上、徳川家将軍の正室を主人公にするのは初めてということになる。民放では佐久間良子が「天璋院篤姫」(ANB、1985)を演じている。大河では、過去に富司純子(「翔ぶが如く」90)、深津絵里(「徳川慶喜」98)が篤姫を演じている。堀北真希が演じる「和宮」は大河ドラマでは、小橋めぐみ(「徳川慶喜」98)に次いで二度目となる。ちなみに徳川慶喜の正室・美賀は石田ひかり(「徳川慶喜」98)が演じた。「篤姫」で誰が演じるかは不明。

2007年12月27日 (木)

夢千代日記

   いまBS放送で5夜連続「夢千代日記」(1981年)を放送している。山陰の陰鬱なムードの中で、とらえどころのないストーリーの展開である。吉永小百合主演、そして名作という予備知識がないと見ていないかもしれない。本日、第4話が終わった。「ドラマ人間模様」と題するだけあって、次々と多彩な人物が登場する。主人公、置屋「はる屋」の女将・夢千代(吉永小百合)の被爆も第4話の暴力団の沼田(草薙幸二郎)の話しでようやくわかった。山根刑事(林隆三)が張り込んでいた殺人犯・市駒(片桐夕子)も自首したことによって、ストリーの大筋がほぼ見えてきた。金魚(秋吉久美子)、千代春(楠トシエ)、菊奴(樹木希林)、小夢(中村久美)、ストリッパーのアサ子(緑魔子)、ほかに大信田礼子、田島令子、夏川静江、加藤治子などなど絢爛たる女優陣と、中条静雄、長門勇、ケーシー高峰というベテラン個性派男優陣を配している。吉永小百合という日本を代表する美人女優を共演させるにあたって相当な異色で大胆なキャスティングであったと思えるが、それが大成功している。吉永小百合は国民から優等生を求められる女優であるだけに、役柄には限界が生じる。その分を個性的な共演者を散りばめることによって、一見喜劇と思えるようだが、いっそう美しいヒロインの悲しみ、孤独感が強められ、深まっている。まるでモーパッサンの悲観とバルザックの人間喜劇を合わせたような作品構成であり、脚本家の早坂暁の独創性には脱帽する。しかしこの「夢千代日記」は、いわゆるグランドホテル形式といわれるもので、あまり新しい手法ではない。もともとグレタ・ガルボがあまりに美しすぎて映画が通俗的なメロドラマになるので、一流ホテルを舞台にさまざまな客の人間模様を描いたところ大成功した。グランドホテル形式には、「大空港」「ポセイドン・アドベンチャー」「タワーリング・インフェルノ」「タイタニック」など事故ものが多いが、日本海にある淋しい温泉場を舞台にした良質のグランドホテル形式は高く評価してよい。(この作品はすでに高く評価されてますね)

   今年「女性の品格」が流行語にもなったが、吉永小百合はまさにこの「夢千代日記」によってアイドル女優から、一女性の哀しみ、孤独感を表現できる女優となったように思う。昭和20年生まれという吉永は、沖縄戦、原爆などの社会の問題にも積極的に関わり、自らの生と人に対する優しさを持ち続けて、まさに女性の品格の体現者となりつつある。山田洋次監督の新作にも期待したい。

モーパッサンと印象派

    ギ・ド・モーパッサン(1850-1893)は1850年8月5日、ノルマンディのディエップに近いミロメニルに生れた。幼少時代から断崖で有名なエトルタに滞在し、後年にギェット館という別荘を建てた。印象派の画家クロード・モネ(1840-1926)は、秋になって静かになった避暑地のエトルタで風景画を描いていたが、「エトルタは猫一匹いない。ただし、モーパッサンを除いては。昨日彼を見かけた」と手紙に書いている。後期印象派画家ゴッホ(1853-1890)もモーパッサンを愛読していたらしいが、モーパッサン文学と印象派との間には、何かしらの共通するところがあるのかもしれない。

    モーパッサンはフローベルの教えをうけた明晰な文体と客観描写によって近代短編小説を完成させたといわれている。彼のいわゆる客観小説論とは「作家たる者は人物や事件をわれわれの眼前に彷彿たらしめることと、人物の心理状態を一つの行動ないし身ぶりによって啓示することとに止まるべきだ」(『ピエールとジャン』の序)ということにある。モーパッサンはこの理論をみごとに実践して、日常生活における悲劇的なものに対するそのセンスによって、人間生活のささやかな真実を力強く描き出した。彼の小説はあくまで客観的でありながらも、いうにいわれぬ哀感を読者の心に残すものがある。彼の代表作の一つに『女の一生』(ユンヌ・ヴィー)で、妻としての愛にも、母たる愛にもことごとく欺かれたジャンヌが「人生というものは、世間の人たちが想っているほど良いものでも、悪いものでもありませんね」という述懐は、モーパッサンの孤独感、悲観主義という特色がよく現れている。

海軍兵学校

    海軍兵学校は、明治から太平洋戦争終戦まで存続した海軍将校の養成を目的とした教育機関である。海軍は、本質的に、技術の上に成立している集団であり、軍艦の行動、大砲の発射、どれを取っても技術無くしては無し得ない。ここが最後は白兵突撃のある陸軍との本質的な違いである。このために海軍は士官ばかりでなく、水兵にも高度の教育を要求し、その教育には大きく力を入れた。

    経済学者の小泉信三(1888-1966)は、海軍主計中尉として築地の海軍経理学校に入った息子の信吉と雑談をした。制服の海軍士官は、雨の日でも傘をさすことを許されていない。信三は「もし外出中に俄雨にあったらどうするのか」と訊ねた。信吉中尉が海軍で教えられたのは、「ゆっくり濡れて来い」。信三も「うんそうか。そいつはいい」と感心した。海軍は英国流のダンディズムの作法がなかなかいきとどいていて立派だった。海軍で出世するには、成績優秀で海軍兵学校を卒業しなければならなかった。戦前、成績優秀な若者の憧れが海軍であり、その中の少数のエリートが指揮官となった。ではその優秀な日本海軍がなぜ負けたのか。

   一般にはよく日本海軍は最善を尽くして戦ったが、大規模な工業力に基づくアメリカの物量作戦の前に敗れた、といわれている。しかし、敗因は工業力だけでなく、作戦にも大きな欠陥があった。とくに日露戦争における日本海海戦の完勝が、敵味方の艦隊同士が砲火を交え勝敗を決定するという艦隊決戦思想に固執しすぎた。明治末期に秋山真之が作った「海軍要務令」が太平洋戦争中まで幹部将校のバイブルであった。戦艦中心の大艦巨砲主義は一貫して変わらなかった。

    飛行機技術者がこんなことを言っている。「翼がもがれた零戦に、エンジンのこわれた零戦の翼をつぎ足して補修しようとしたら、ボルトの穴が合わない。結局、二機とも壊れたままほったらかしていた。ところが、墜落したB29の翼で実験すると、別々の飛行機の部品が、寸分の狂いもなく合った」ボルト・ナットの精密度は機械製作組立ての基本である。その種の総合した技術力の日米間での差は歴然としていたのである。(参考:阿川弘之「海軍こぼれ話」)

美しい庵主さん

    有吉佐和子(1931-1984)には、「紀ノ川」「香華」「助左衛門四代記」「華岡清洲の妻」のような年代記もの、人権問題を扱った「非色」、老人問題を扱った「恍惚の人」、公害問題を扱った「複合汚染」など、歴史物から社会派まで、幅広いストーリー性に富む作品が多い。小説のほかにも演劇やテレビドラマの脚本にも手がけたことからもわかるように、読者の興味や関心をひく、時代にあったテーマを見つける天才であった。また「恍惚の人」「複合汚染」が流行語になったように、小説のタイトルのつけかたの上手な作家であったといえる。これは有吉が若い頃から、古典芸能に関心を持ち、演劇評論家を志していたことと関連する。彼女の作品のほとんどがドラマ、映画化されていることがそれを証明している。

    昭和31年「地唄」が芥川賞候補にもあげられたが、受賞を逸した。翌年、NHK大阪のドラマの脚本「石の庭」で第12回芸術祭奨励賞を受けた。その年、まだアクション路線の確立していない日活は26歳の新進女流作家の小説「美っつい庵主さん」を映画化した。「美しい庵主さん」(西河克巳監督)は、ある尼寺に東京から女子大生(浅丘ルリコ)がボーイフレンド昭夫(小林旭)を連れてやって来た。尼僧たちは若い男性の来訪に驚く。昭夫も美しい尼僧(芦川いづみ)に一目ぼれする。たわいもない話だが、映画も文学もみんな若くてういういしい時代であった。

2007年12月25日 (火)

細見綾子の俳句

    通勤帰りに大掃除をしている事業所を見かけた。今年も残すところあと6日だ。忘年会や年賀状印刷も終わってほっと一息したところ、ふと、この句がうかぶ。

  年の瀬のうららかなればなにもせず

    細見綾子(1907-1997)。本名・沢木綾子。明治40年3月31日、兵庫県氷上郡芦田村(現・丹波市青垣町)に、父・細見喜市、母・とり、の長女として生れた。昭和4年に肋膜炎の闘病生活で、佐治町の医師・田村菁斎の勧めで俳句をはじめた。繊細典雅な作風で、日常生活で見たもの感じたものを率直によんだ句が多い。句集「桃は八重」「技芸天」「曼陀羅」等がある。

  鶏頭を三尺離れもの思ふ

  菜の花がしあはせそうに黄色して

  ふだん着でふだんの心桃の花

  チューリップ喜びだけをもってゐる

  来てみればほほけちらして猫柳

  そら豆はまことに青き味したり

2007年12月24日 (月)

美女と老婆

    女性のなりたい顔ベストランキングというのがある。すこし古いデータだが(2003年10月)韓国でのベストテンは以下のとおり。

    第1位はキム・ハヌル(「彼女を信じないでください」)4206票、第2位はソン・イエジン(「私の頭の中の消しゴム」)3210票、第3位はチェ・ジウ(「エアポート」)1580票、第4位はキム・ナムジュ(キム・スンウと結婚)、第5位はイ・ヨンエ(「親切なクムジャさん」)、第6位はソン・ヘギョ(「ファン・ジニ」)、第7位はキム・ヒソン(「悲しき恋歌」)、第8位はパク・ソルミ(「黄金のリンゴ」)、第9位はキム・ソヨン(「イブのすべて」)

    4年前の統計なので、現在ならキム・テヒ、ハ・ジウォン、ハン・ジヘ、ハン・ジミン、ナム・サンミや若手のハン・ヒョズ(「春のワルツ」)、ソン・ジヒョ(「朱蒙』)、パク・シネ(「「天国の樹』)、ユン・ウネ(「宮」)、キム・オクビン(「こんにちは神様」)などが台頭しているかもしれない。

   ところで、男性から見て意外に思えるのは、韓国を代表する美人といえば、キム・ヒソンかイ・ヨンエであろうが、なんとこれら正統派美人女優を抑えて、なごみ系、いやし系のキム・ハヌルがダントツの1位だったことである。おそらく、韓国女性は、あまりキレイキレイでなく、ほどほどを選択したのであろう。この結果には、当然との声もあり、「やっぱりハヌルでしょう」「同じ女でも、かわいいと感じる」と同性から好かれる人柄に人気が集中したようだ。

    これに比べると、日本女性は、なんとストレートにズバリ顔で選んでいる。「月刊デ・ビュ10月号」(オリコン・エンタメント)では1000人の女性を対象として「なりたい顔の女性芸能人」アンケートを実施した。

    第1位は沢尻エリカと新垣結衣、第3位は宮崎あおい、第4位は長澤まさみ、第5位は香里奈、第6位は浜崎あゆみ、第7位はリア・ディソン、第8位は蛯原友里、第9位は綾瀬はるか、第10位は松嶋菜々子と柴咲コウ。

    沢尻エリカが第1位の理由としては、「肌がきれいで顔型もきれい」「目鼻立ちがハッキリしている」「エキゾチックな風貌」「美人であり可愛い」「清純さと小悪魔的セクシーさを併せ持つ」という点に人気が集中した。やはり今年一番話題をふりまいた女優はエリカ様だった。

    エリカの魅力のポイントである「小悪魔」というキーワードで思い出すことがある。ケペルが学生の頃、銭湯の脱衣場に封切り映画のポスターがズラリと貼ってあった。緑魔子という女優はまさに小悪魔的魅力の象徴で、主演映画のポスターを眺めていたが、残念なことに映画は一度も見ずにおわった。ところがなんとNHK大河ドラマ「風林火山」の終盤の回に彼女が登場していた。川中島の決戦をしらす貪欲な老婆の役である。もちろん彼女の目はありし日の美貌を伝えるものの、多くの視聴者はただの奇怪な老婆にしか見えないであろう。女優というのは、いろいろの役を演じることで結構楽しんでいるのかもしれない。

霧笛が俺を呼んでいる

    昭和30年代、日活はタフガイ石原裕次郎を筆頭に、マイトガイ小林旭、そして「第三の男」として赤木圭一郎(1939-1961)を売り出した。都会的な甘いマスクで憂いを感じさせた「トニー」はまたたくまに人気スターとなった。(愛称の由来は、西河克巳監督がトニー・カーティスに似ていると感じたことからきている)

   赤木圭一郎の代表作のひとつ「霧笛が俺を呼んでいる」(山崎徳次郎監督、昭和35年)。すずらん丸のエンジンが故障して港に着いた航海士・杉敬一(赤木圭一郎)は旧友の浜崎(葉山良二)を訪ねる。が、杉は浜崎が2週間前に突堤で溺死体で発見されたことを知る。杉は浜崎の恋人美也子(芦川いづみ)とバンドホテルで会う。杉は森本刑事(西村晃)から浜崎が麻薬の売人だったと知らされる。実は浜崎は生きていた。浜崎は麻薬を持ち出し逃亡しようとする。それを知った渡辺(二本柳寛)一味は浜崎を殺そうとする。赤木は浜崎に自首をすすめる。しかし浜崎はビルの非常階段から転落死する。

   ストーリーは、もちろんキャロル・リードの名作「第三の男」そのままであるのはご愛嬌。アメリカ人の作家ホリーが赤木で、ハリー・ライムが葉山で、アンナが芦川であろう。石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」がハンフリー・ボガートの「カサブランカ」の翻案であるのと同様、映画ファンのお楽しみでもあるのだ。

    原作の「第三の男」に無い登場人物は難病の美少女。まだ少女の面影を残す吉永小百合が葉山良二の妹役で登場しているが、添え物的であり、ヒロインはやはり芦川いづみである。スカーフをした芦川の憂いに満ちた表情は美しい。霧の流れる波止場でのラストシーン。芦川が「これから私は北海道へ行きます。あなたはどこへいらっしゃるの」と聞くと、「そうさなぁ。なんだか霧笛が俺を呼んでいるような気がするぜ。霧笛にでも聞いてくれよ」という気障なセリフも、赤木圭一郎だからサマになる。赤木ほど「マドロス」が似合うスターはいない。実際に赤木は海への憧れやみがたく、当時の東京商船大学を受験している。失敗して成城大学に入学し、日活第4期ニューフェースとして入社。この映画が撮影された頃の東京は安保闘争で混乱していた。

    昭和35年6月15日、赤木(当時大学在学中だった)はスポーツカーを運転して日活撮影所に向かう途中、安保反対のデモ隊に遭遇した。赤木は撮影所のテレビでデモの様子を熱心に見つめていたと、共演者の西村晃は語る。そして赤木は西村に頼んで、9日後の樺美智子の追討デモに参加している。「こんな時に、ピストルごっこなんかやっていていいのかな?」と赤木は同じ大学生として感想を周囲にもらしたという。翌年、赤木圭一郎はゴーカートによる激突事故で21歳の短い生涯を閉じる。

   共演者の吉永小百合は後年、次のように語っている。「撮影所だけが私の世界だったのです。そこで好意を持ったり、初恋とも呼べる感情を抱かなかったと言えば、うそになります。でも、そこに踏み込んでいくほど積極的に恋愛を考えませんでしたし、忙しさの中で私はみたされていたのかも知れません」(「現代」1996.3)この15歳のスターレット吉永小百合の初恋の相手とは誰であろう。おそらくは、憧れのスター、赤木圭一郎ではないだろうか。

2007年12月23日 (日)

サムエル・ウルマン「青春」

青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方をいう。バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気、やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときはじめて老いる。歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。苦悩、恐怖、失望により気力は地にはい精神は芥(あくた)になる。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異にひかれる心、おさな児のような未知への探究心、人生への興味の歓喜がある。君にも我にも見えざる駅逓が心にある。人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷にとざされるとき、20歳だろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり、80歳であろうと人は青春の中にいる。

(サムエル・ウルマン 宇野収、作山宗久訳)

    いま作者不詳のアメリカの詩「千の風になって」(訳詩・作曲:新井満)が秋川雅史の歌によって多くの人に愛されていますが、このアメリカ人による詩「YOUTH」(青春)も、長く日本で愛されています。作者サムエル・ウルマン(1840-1924)はドイツにいましたが、ユダヤ系であったため迫害を避けて渡米しました。この詩は『80歳の歳月の高見にて』に収められていますが、マッカーサーが座右の銘としたので、日本でも知られるようになりました。

夢の紅白歌合戦

    NHK紅白歌合戦で一番輝いていたスターのひとりに江利チエミがあげられる。江利は昭和38年、39年と現役歌手ではじめて紅組キャプテンと司会を勤めた。そして昭和43年まで16回連続出場を果たしたが、翌年落選した。昭和45年は2年ぶりの復帰出場が決まっていたが、江利自ら「ヒット曲がないから」と辞退した。江利に代わって紅白初出場となったのが、その年に「男と女のお話」の日吉ミミだった。50万枚の大ヒットにもかかわらず選考されなかった理由は、おそらく頽廃的な内容によるものであろう。その後、数年間、日吉ミミはヒットを連発したが紅白の出場はなかった。

   大物歌手の紅白落選とかその年のヒット新人歌手が選考されなかったとか、紅白には歌手人生の悲喜こもごもがある。またファンにも鬱憤があるだろう。そこでケペル個人的好みによる紅白出場歌手を選考してみたい。(工事中)

    白組(キャプテン・司会、トニー谷)

アイ・ジョージ「硝子のジョニー」

井沢八郎「ああ上野駅」

石原裕次郎「夜霧よ今夜も有難う」

オックス「ガールフレンド」

春日八郎「新撰組の旗は行く」

克美しげる「さすらい」

叶修二「素敵なやつ」

加山雄三「別れたあの人」

北原謙二「北風」

西郷輝彦「恋人ならば」

西城秀樹「青春に賭けよう」

坂本九「一人ぼっちの二人」

佐川ミツオ「太陽に向かって」

三輪車「水色の街」

ザ・タイガース「僕のマリー」

島和彦「雨の夜あなたは帰る」

城卓矢「骨まで愛して」

笑福亭仁鶴「おばちゃんのブルース」

ずうとるび「みかん色の恋」

高田浩吉「風雲真田城」

田辺靖雄「名犬ロンドンの歌」

田原俊彦「ハッとして!Good」

チャー「気絶するほど悩ましい」

塚田三喜夫「五月のバラ」

手塚しげお「青春の夢のせて」

永田英二「あこがれ」

にしきのあきら「もう恋なのか」

野村真樹「一度だけなら」

橋幸夫「江梨子」

フランク永井「場末のペット吹き」

本郷直樹「燃える恋人」

望月浩「泣かないで」

矢吹健「あなたのブルース」

レイジー「赤頭巾ちゃん御用心」

    紅組(キャプテン・司会、江利チエミ)

朝倉理恵「あの場所から」

石川ひとみ「マリンブルーに溶けないで」

伊藤麻衣子「微熱かナ」

岩崎宏美「想い出の樹の下で」

梅木マリ「ファンキールックのお嬢さん」

江利チエミ「酒場にて」

岡田奈々「青春の坂道」

金井夕子「パステル・ラヴ」

河合その子「涙の茉莉花LOVE」

北野玲子「初恋景色」

久美かおり「くちづけが怖い」

倉田まり子「グラジュエイション」

九重佑三子「ウエディング・ドレス」

梢みわ「恋のバイカル」

小林美樹「人魚の夏」

小柳ルミ子「春のおとずれ」

桜田淳子「はじめての出来事」

ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」

シェリー「甘い経験」

島田奈美「パステル・ブルーのためいき」

朱里エイコ「北国行きで」

杉田愛子「島めぐり」

園まり「何も云わないで」

中尾ミエ「片想い」

高田みづえ「子守唄を聞かせて」

花村菊枝「琴姫七変化」

日野てる子「夏の日の思い出」

日吉ミミ「おじさまとデート」

弘田三枝子「子供ぢゃないの」

ペドロ&カプリシャス「ジョニイへの伝言」

堀ちえみ「リ・ボ・ン」

本田美奈子「殺意のバカンス」

槙みちる「若いってすばらしい」

松田聖子「ひまわりの丘」

三谷晃代「絶交」

ミッチー・サハラ「エーデルワイス」

森山加代子「五匹の仔ブタとチャールストン」

山口百恵「冬の色」

由美かおる「いたずらぽい目」

好本美代子「白いバスケットシューズ」

横光利一の日本回帰

   今日の朝日新聞の投稿に「伊賀の霧ほど美しいものはあまりなかった」という横光利一の絶筆「洋燈(ランプ)」の一節が紹介されていた。(伊賀市の高校生・松本咲希さん)。横光の故郷が伊賀であることに興味をおぼえた。

    横光利一(1898-1947)は明治31年3月17日、福島県会津郡東山温泉で、父・横光稲次郎、母・こぎく(小菊)の長男として生まれた。父は通称、利顕(としあき)と訓(よ)んだので、横光利一も「としかず」が正しい。

   しかし、横光の出身地は一般に宇佐市といわれる。父の出身地が大分県宇佐郡長峰村である。宇佐市では「横光利一俳句大会」がおこなわれている。父が土木工事の請負業者だった関係で住地を転々とした。利一が6歳のときに、伊賀の柘植に移住したのだ。

  横光の母の生家は松尾氏。三重県伊賀国東柘植の野村で、川ひとつへだてたところが松尾芭蕉が生まれた灰野である。横光利一が芭蕉の末裔という説もあったが、現在では否定されているそうだ。昭和11年の渡欧の際には高浜虚子(1874-1959)の船中句会に参加している。

   昭和5年に発表した「機械」は独白的な心理描写を中心とするものだが、谷崎潤一郎の「卍」の影響がみられるという。昭和初年、文壇を代表する作家は谷崎潤一郎と横光利一だったが、当時の日本文学の中心問題は、プルーストやジェームズ・ジョイスやラディゲなどの新しい文学をどのように取り入れるかということであった。

    横光は昭和11年2月から8月までヨーロッパ旅行を経験し、西欧文化に対して日本の美的倫理を再認識し、昭和12年4月から8月まで「旅愁」を発表した。

土佐宿毛人脈

    吉田茂の実父・竹内綱(1841-1922)は、天保10年、土佐国宿毛に生まれる。竹内家は土佐藩主山内家に仕える伊賀家の家臣であった。大江卓の父・斎原弘も伊賀家の家臣であった。大江卓(1847-1921)は幼名を斎原治一郎といい、弘化4年、柏島で生まれたが、嘉永6年、父が宿毛に帰るに従い、宿毛で成人している。つまり竹内綱と大江卓とは自由民権の人脈でつながっている。明治の自由民権思想家・中江兆民(1847-1901)の娘・千美は竹内綱三男・虎治の妻である。

    高知県宿毛市は人口3万人ほどの小都市であるが、なぜか明治以来多数の逸材がでている。政治家でいえば、総理大臣と5人大臣がいる。吉田茂(1878-1967)は戦後外相を経て、吉田内閣を5度組織し、日本の復興に大きな役割を果たした。岩村通俊(農商務大臣、1840-1915)、林有造(通信大臣・農商大臣、1842-1921)、岩村通世(司法大臣、1883-1965)、林譲治(厚生大臣、1889-1960)である。

    このほか、岩村三兄弟の一人、岩村高俊(1845-1906)などの政治家、小野梓(1852-1886)などの法学者、竹内明太郎(1860-1928)などの実業家など多くの人物がでている。

2007年12月21日 (金)

日本人とファン・ゴッホ

   ケペルは幼い頃から絵を描くのが好きで、学校へあがっても図画が得意科目で、高校半ば頃までは美大志望だった。石膏デッサンもやった。高校生のある日、国道沿いにある古本屋で一冊の古い本を見つけた。アトリエ社の「原色版ヴァン・ゴッホ」(昭和17年)である。古い戦前のゴッホの画集であったが、作品に対応する小山敬三、硲伊之介、足立源一郎の解説があった。ゴッホ初期の見たこともなかった絵が気に入り高価だったが購入した。もちろんその後カラー印刷も進歩し、その本よりいいものが出版され手もとにもあるが、なぜかアトリエ社の画集に愛着がある。発行部数は5000部程度で古書店でみたことがなかったので、貴重な本だと人に自慢したこともあるが、ネットで調べたら1200円程度で販売されていた。がっかりもしたが、むかし画家になることを夢みた頃の証の書物であり、大切にしたい。その巻頭に式場隆三郎(1898-1965)の跋がある。

    ヴァン・ゴッホの生涯ほど感動的なものはない。それはただ波瀾曲折にとむからではない。溢れる情熱のためばかりでもない。道徳的な誠実な魂に貫かれているからである。ゴッホの短い生涯は、単なる一画家の興味深い物語ではない。真摯な魂が背負う人間の悲劇的運命の表象だからである。彼を病気に追いこんだのは伝道的宿命が素地とはなったが、不健康な社会との闘争が大きな誘因となった。彼の自殺は退廃的な文明との訣別でもあった。ゴッホほど愛に飢えた作家はない。彼ほど誠実でごまかしのない仕事に精進した作家はない。しかもその背後には、いつも敬虔な宗教的な精神が強く動いていた。哀れなものや貧しいものへの愛が、彼の作物を純粋にした。しかし、一方彼は勇敢であった。この世の不正なものや汚辱と戦った。彼の生涯ほど真面目で、ごまかしのない、熱情的なものはない。この誠実性が、異色ある彼の芸術とともに人を打つのである。ゴッホを奇矯な画家とみるのは、最も浅い理解者である。彼の手紙をよんで泣かないものがあろうか。彼の作物が理解されるに先んじて書簡集がみとめられたのもこのために他ならぬ。

    ゴッホが明治末年から大正時代にかけて、日本の新しい文化的発展に与えた力は大きい。絵の好きなもの、好かないものなど区別なしに、ゴッホの生涯から受けた影響を否定できる人は少ないであろう。芥川龍之介はある日、本屋の店頭でゴッホの複製の入った本を開き豁然として芸術の門の開かれたのを感じたとかいている。(中略)私は欧州で彼の遺跡をしらべ、作品をみ、文献をあつめ、長年こつこつその生涯と作品の研究に従っている。この仕事は私の生きる限りはつづくであろう。私はいつもゴッホの偉大さに打たれる。そして自分の仕事を小さく、まだまだ先のことを感じる。このたびアトリエ社がゴッホ画集を刊行さるるについて、私にも一文を求められた。短い枚数では意をつくせないが、日本で一冊でも彼に関する本の刊行されることを希っている私にとって、欣びに堪えない気持だけでも伝えたいと思って筆をとった。ゴッホの霊に栄光あれ。式場隆三郎」

   白樺派の影響を受けた式場隆三郎に限らず、日本人には熱狂的なゴッホ崇拝者は多い。版画家の棟方志功(1903-1975)の言葉「わだばゴッホになる」はよく知られているとおりである。「ゴッホ展」を開催すれば必ず記録的な入場者数になる。劇団民芸「炎の人」は満員盛況である。ゴッホの作品はもとより、彼の生涯そのものが劇的である。またゴッホが浮世絵を通じて日本美術を愛したことも日本にゴッホのファンが多い原因の一つであろう。ところがこの過度のゴッホ熱のためか企業が豊富な資金にまかせて高額絵画を買うことに対する批判もないわけではない。そして日本人がとくに好きな「ゴッホのひまわり」の真贋論争は今も続いている。

    これまで日本人はあまりにゴッホという人間を愛するあまり、造形作家のゴッホではなく、「炎の人」としての創作されたゴッホ像を勝手につくりあげてきたきらいはないであろうか。いま隣の韓国のソウル市立美術館でも「不滅の画家ゴッホ展」が開かれ、大盛況だそうだ。そういえば韓国ドラマの「初恋」のテーマの一つである兄弟愛はゴッホとテオに似ている。弟のチャヌ(ペ・ヨンジュン)は「兄貴はゴッホになれ。自分はゴッホの弟のテオになって兄貴を支える」という台詞があった。そしてビジネスマンとして成功して日本から帰国した土産にゴッホの画集を兄のチャニョク(チェ・スジョン)に渡す。「また絵を描いてほしい」というと兄は感激で胸を熱くするというシーンがあった。

   これらをみると韓国人もやはりモーレツにゴッホという人間に感動しているようだ。ゴッホの「馬車と汽車がある風景」という絵を相当な高額で韓国が買ったというニュースもある。

    これからは、ドラマチックなゴッホの生涯を忘れて、ゴッホが絵画でどのように表現しようとしたか、作品から受ける美の感動、という美術本来の視点でゴッホの作品を鑑賞していきたい。

2007年12月20日 (木)

三波春夫と美空ひばり

   大晦日のNHK紅白歌合戦の曲順が発表され、大トリを五木ひろし、トリを石川さゆりが勤めるという。ところで「トリを取る(最後に高座にあがる)」というのは、もともと落語、講談、義太夫、浪花節などの寄席でつかわれた言葉である。落語家には、前座・二ッ目・真打という三段階のランクがある。技量のすぐれた出演者が一日の最後の演目をしめくくる責任を持つことから、最後の出番を勤めることを「トリを取る」といい、その実力のある噺家を「真打ち」というようになった。しかし今日、ニュースなどでよく耳にするのは、紅白歌合戦の最後の出演者、つまり歌手の誰がその年の「トリを取る」かに関心が集まるようだ。

   紅白歌合戦でのトリといえば美空ひばり(1937-1987)と三波春夫(1923-2001)の対戦が思い出される。まさに歌謡曲黄金時代の年の締めくくりに相応しい豪華なショーであった。

昭和38年「哀愁出船」「佐渡の恋歌」

昭和39年「柔」「俵星玄蕃」

昭和41年「悲しい酒」「紀伊国屋文左ェ門」

昭和42年「芸道一代」「赤垣源蔵」

   過去4度の対戦があったが、昭和38年は81.4パーセントで最高視聴率を記録した。昭和41年の対戦は三波春夫が大トリを取り「豪商一代紀伊国屋文左衛門」(作詞・北村桃児、作曲・長津義司)を熱唱した。この歌は三波の持ち歌のなかでもとくに所要時間が長い歌謡浪曲である。

  沖の暗いのに白帆がサー見ゆる

  あれは紀の国ヤレコノコレワイノサ

  みかん船じゃ エー

  八重の汐路に 広がる歌が

  海の男の 夢を呼ぶ

  花のお江戸は もうすぐ近い

  豪商一代 紀の国屋

  百万両の 船が行く

2007年12月19日 (水)

秋元不死男

   秋元不死男(1901-1976)。昭和の俳人。擬声語、擬態語を用いた俳句が有名である。

  鳥わたるこきこきこきと罐切れば

  ライターの火がポポポポと滝涸るる

  へろへろとワンタンすするクリスマス

  こここここ羽抜鳥二羽こここここ

 「こきこきこき」というおどけたさびしい音に、渡り鳥の羽ばたきまで聞えてくる。「ポポポポ」はライターの火の燃える音。「へろへろ」はワンタンの感触であるとともに、すする音。

   息子は「シャボン玉ホリデー」のディレクターの秋元近史。親子の共通点はあるのだろうか。番組から生まれたギャグ「ガチョン」「びろーん」「ムヒョーツ」「ハラホロヒレ~」などの奇妙な擬声語・擬態語のルーツは、実は秋元近史の父・秋元不死男のオノマトペ俳句にあるような気がする。

私の心は虹を見るとおどる

    ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)はイギリスが生んだ偉大な自然詩人である。他のロマン派詩人キーツ、バイロン、シェリーとは違い長命であったが、詩人としての感性は、30代の半ば頃には枯渇してしまったようだ。サミュエル・コールリッジ(1772-1834)とともに1798年に出した詩集「リリカル・バラッズ」(「抒情歌謡集」)はイギリスの詩の発展に大きな影響を与えた。

       私の心は虹を見るとおどる

  私の心は、虹を見るとおどる、

  おさないころにそうだった、

  おとなになっている、いまもそうだ、

  やがて老いても、そのように、

  そうでなければ、死んでいたい、

  おさな子はおとなの父だ、

  それで、私は望ましい、

  わたしの日々が、

  自然をうたう心で、

  一日一日と

  むすばれていくように。

                     (安藤一郎訳)

2007年12月18日 (火)

羊頭狗肉

    2007年を表わす漢字1字が、「偽」に決まった。(日本漢字能力検定協会)産地や原材料偽装、賞味期限の改竄など食品偽装の事件が相次いだ世相を反映したものであるが、まことに嘆かわしいことである。

   よく知られた故事成語に「羊頭狗肉」がある。羊の頭を看板に出しながら実際には狗の肉を売ることから、よい品を見せて、悪い品を売る。立派そうに見せかけて卑劣なことをするたとえである。

   この言葉のもとの形は「羊頭を懸げて馬膊を売る」(『晏子春秋』)で、後漢の光武帝の詔書にも「羊頭を懸げて馬膊を売り、盗跖、孔子語を行なう」(『後漢書』光武紀)がみえる。清代の『恒言録』(銭大昕の撰)には「羊頭狗肉」(羊頭を懸げて狗肉を売る)が引用されている。大昔の時代から、人の世の悪行はなくならないものなのであろうか。

2007年12月17日 (月)

ゴッホの向日葵の謎

    フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の代表作といえば、南仏アルルで描いた「ひまわり」を、まず思い浮かべる人は多いだろう。よけいなものはすべて省略し、輝くような黄色を大胆に画面に広げて描いている。この独創的な「ひまわり」の連作は、彼がアルルで借りて通称「黄色い家」の部屋の装飾画として、一緒に暮らすことになったゴーガン(1848-1903)のために描きはじめたものだった。手紙のなかでゴッホは、ゴーガンを迎えるために「12枚のひまわりの絵で部屋を飾るつもり」であると、述べている。しかも「12本の花と蕾のあるもの」の予定であったらしい。おそらくこの「12」という数字は、キリストの12人の弟子たち、つまり十二使徒を表わしているのだ。しかし、連作を意図して実際に描かれた2枚目の「ひまわり」には、14本の花がえがかれている。新たに加わった2本のひまわりは、指導者として芸術共同体を導くべきゴーガンと画商テオと考えられている。12枚の「ひまわり」全作品リストは以下のとおり。

1.1886秋(F250)マンハイム市立美術館蔵

2.1887秋(F377)ゴッホ美術館蔵

3.1887秋(F376)ベルン美術館蔵

4.1887秋(F375)メトロポリタン美術館蔵

5.1887秋(F452)クレラー・ミュラー美術館蔵

6.1888年8月(F453)個人蔵

7.1888年8月(F459)芦屋、山本顧弥太氏旧蔵

Van_gogh_vase_with_five_sunflowers

←芦屋のひまわり  

8.1888年8月(F454)ナショナル・ギャラリー蔵

9.1888年8月(F456)ノイエ・ピナコーク蔵

10.1889年1月(F455)フィラデルフィア美術館蔵

11.1889年1月(F456)ゴッホ美術館蔵

12.1889年1月(F457)東郷青児美術館蔵

   今年10月に刊行された小林英樹著『ゴッホの復活』によると、7番と12番のひまわりは贋作であるという。つまり既に焼失した「芦屋のひまわり」と1987年に安田火災海上が約58億円で購入した「東京のひまわり」は贋作と断定している。その鑑定が正当であるかどうかは、本書を精読していただきたい。(とくに第8章、非ゴッホの造形的証明)

   12枚のひまわりの作品の中で最も有名なのは、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵(8番)のものであろう。この絵でゴッホは、最も好んだ黄色を強烈に背景に使っている。「芦屋のひまわり」は、「ロイヤル・ブルーの背景の向日葵」と手紙にあるものと推定されるが、サイズや花の数が一致しない点も謎である。小林英樹はレプリカタイプの贋作と指摘している。

   「東京のひまわり」で小林はテーブル面に注目している。当時のゴッホの念頭には、徹底した平面処理を行うことによって広がりを生み出せるという信念があった。たしかに「ナショナルギャラリーのひまわり」をはじめ他の「ひまわり」のテーブルは平らに塗っているが、「東京のひまわり」だけは乱暴な厚塗りの水平方向のタッチである。平らなテーブルと花瓶、フォルムを構成するうえで重要な意味をもつものであり、「東京のひまわり」はゴッホのイメージからは遠い、という小林の指摘には納得させられる点がある。このほか造形の専門に関わった者でなければ、見えない問題点を本書では多数指摘している。

    ファン・ゴッホの作品には昔から真贋論争は多い。ひろしま美術館が所蔵している「ドービニーの庭」も同じ構図の絵がバーゼル美術館にあり、むかしから真贋論争は続いている。

日韓少女漫画とヒロインたち

    低迷する連続ドラマの中にあって、比較的安定した視聴率が見込めるのが少女漫画を原作とした作品である。庄司陽子「生徒諸君!」(内山理名主演)、神尾葉子「花より男子」(井上真央主演)、森永あい「山田太郎ものがたり」(多部未華子)、桃森ミヨシ「ハツカレ」(黒川智花)、一条ゆかり「有閑倶楽部」(香椎由宇、鈴木えみ、美波)、韓国では、パク・スヨン原作「宮(クン)」(ホ・イジェ、パク・シネ)、ウォン・スヨン原作「フルハウス」(ソン・ヘギョ)。

   これら一連の少女漫画原作ドラマの中で最も注目すべき作品は「フルハウス」である。原作は韓国はもとより中国、台湾、香港とアジアでベストセラーとなった。当初、香港のスター・レオン・ライが決まっていたが、韓国のキム・ジョンハクプロダクションが製作することとなり、イ・ジョンジェ役にはイ・ジョンジュがキャスティングされていたが、映画「タイフーン」の撮影のため降板し、歌手のピ(RAIN)に決まった。ハン・ジウン役のソン・ヘギョは御承知のとおり、「秋の童話」のウンソ役でアジアのトップスターの仲間入りをし、韓流ブームを起こした悲劇のヒロイン。あのソン・ヘギョがカラフルな服を着て、キュートな魅力をみせている。お話は映画スターRAINと売れない作家ソン・ヘギョとの偽装結婚が、恋の四角関係を巻き起こす。題名の「フルハウス」とは、「愛に溢れた家」という意味。海辺に佇むフルハウスは矢島(シド)という島にある。海の向こうには江華島が見える。明治8年、日本の軍艦雲揚号が砲撃され、李氏朝鮮の開国となった江華島事件が起きたところであるが、そんな日韓の歴史的事件の発生地などとはおそらく誰もこのドラマから思わないだろう。ほんとうに見ていて愉しくなるドラマである。

今さら口にするまでもないあの頃

    ジョージ・ゴードン・ノエル・バイロン(1788-1824)は奇行の多い没落貴族に生まれ、父ジョン・バイロン大尉が1891年に死んだあと、6代目バイロン卿となった。美貌だが生来跛という肉体的欠陥を負っていたためか、バイロンの誇りと感受性は傷つきやすく、女性遍歴と放蕩にその充足を求めることになる。キャロライン夫人、オックスフォード夫人とのロマンス、異母姉オーガスタとの不倫の恋。ロンドン社交界での数々の艶聞のため、1816年4月25日、祖国イギリスを去り、再び戻ることはなかった。スイス、ヴェネツィアと転々とした。1823年、ギリシアの独