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2007年12月31日 (月)

佐伯祐三とブラマンク

   ブラマンクは「ヴァーミリオン(朱色)で官立美術学校を焼き尽くしたい」といったほど激しい改革者であった。パリに着いた佐伯祐三(1898-1928)がなぜブラマンクに会いたがったのか、その理由は明らかではない。ともかく、友人の里見勝蔵(1895-1981)に連れられて佐伯がブラマンクを訪ねたのは大正13年のことであった。そのときの様子を里見は次のように記している。

   「佐伯夫婦達が巴里へ来たのは私の巴里滞在三年目の冬だった。佐伯は最初の頃からブラマンクに会いたいと云っていたが、例え佐伯には有益であっても、ブラマンクをわずらわせるのを恐れて、少し我慢してもらった。やがて佐伯は非常に巧みに、野蛮な、美しい表現をした時、その最も優秀だと私達が思った勇敢な五十号の裸女を持ってオーエルのブラマンクの家を訪れた。実に驚くではないか。この強烈な佐伯の画に対しブラマンクは「アカデミック」と云って、アカデミックの抗撃を私達が彼の家を去るまで、一時間半もつづけた」

   このブラマンクとの会見後、佐伯は一時フォーブ風になったが、その後、自己の資質に目覚め、ユトリロの影響を受けてパリの街景を好んで描き、東洋的な感情のこもった独自の画風を確立した。昭和3年、31歳の若さでパリに客死した。(参考:「週刊朝日百科・世界の美術61・フォーヴィスム」1979)

2007年12月30日 (日)

とんぼのめがね

    額賀誠志(ぬかがたかし、1900-1964)。本名・額賀誠(ぬかがまこと)。明治33年、福島県いわき市で生れる。日本医学専門学校卒業後、児童文芸誌「赤い鳥」の同人として活躍。昭和12年、無医村であった福島県双葉郡広野町に内科医院を開業。童謡詩人としても知られた。「とんぼのめがね」「子馬の鈴」「田螺(たにし)」「山のお医者さま」「どんと波こい」「閑古鳥」「ねんねんころり」「浜防風」「入道雲」「筆の花」「たけうまごっこ」「シグナルさん」「秋の声」「お月さんの歌」など。

    「とんぼのめがね」は昭和26年NHK東京放送「ラジオこどもの歌」の中で歌われ全国に広まった。文化庁の「親子で歌いつごう日本の歌百選」にも選ばれ、幼稚園、保育園などでいまでも歌われている。

  とんぼのめがねは

  みずいろめがね

  あおいおそらを

  とんだから とんだから

心の窓にともし火を

    作詞家・横井弘は昭和21年に復員した。当時18歳だった。疎開先の下諏訪霧ヶ峰八島高原でアザミの花に自分の理想の女性像をだぶらせて「あざみの歌」という詩を作った。昭和25年からNHKのラジオ歌謡に流れ、伊藤久男の「あざみの歌」は知られるようになった。

   その後、横井弘は作詞家として、三橋美智也「哀愁列車」「達者でな」、仲宗根美樹「川は流れる」、倍賞千恵子「下町の太陽」「さよならはダンスの後に」、中村晃子「虹色の湖」、千昌夫「夕焼け雲」など数多くの歌謡曲を作詞した。

   横井弘の作詞で中田喜直作曲の「心の窓にともし火を」(昭和35年)は、歌ごえ喫茶で広まり、のちにザ・ピーナッツもリリースして、音楽の教科書にものるようになった。

  いじわる木枯らし吹きつける

  古いセーター ぼろシューズ

  泣けてくるよな 夜だけど

  ほっぺをよせて ともしましょう

  心の窓にともしびを ホラ

  えくぼが浮んでくるでしょう

大奥ブームと「篤姫」

    吉屋信子の「徳川の夫人たち」が昭和41年から43年まで朝日新聞に連載され大奥ブームを作るきっかけとなった。映画では東映が昭和42年「大奥秘物語」(佐久間良子、山田五十鈴、藤純子主演)、「続・大奥秘物語」(小川知子・緑魔子主演)、昭和43年「大奥絵巻」(佐久間良子、淡島千景、大原麗子主演)で興行的成功を収めた。フジテレビでも昭和43年、昭和58年と「大奥」を放送した。平成15年の「大奥」では菅野美穂が天璋院篤姫を演じ、池脇千鶴、浅野ゆう子らが主演して、平成の大奥ブームが再燃した。平成16年に「大奥第一章」(松下由樹主演)、平成17年に「大奥華の乱」(内山理名、藤原紀香、小池栄子主演)で女の嫉妬、憎悪、陰湿なイジメ、ドロドロの陰謀が人気を呼んだ。NHK大河ドラマもこの「大奥ブーム」に便乗したかたちで「篤姫」がいよいよ登場する。幕末の動乱期、島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定の正室として大奥を統率した天璋院篤姫(1836-1883)。ピュアなイメージのある宮崎あおいがいかに幕末の尼将軍といわれた篤姫を演じるかに注目が集まる。

   大奥とは、江戸城中で将軍の御台所と側室の住居。江戸城総面積1万1千余坪の半分以上を、大奥が占める。政務の表と大奥の境の廊下は御錠口(御鈴口)と呼ばれ、銅板張りの大戸が立てられ「此より内男入る可からず」という紙札が掲げられていた。大奥に入れる男は将軍ただ一人だった。大奥には下働きまで含めれば約1千人の女性がいた。7、8人の側室がいるのがふつうで、最多の11代将軍家斉には21人の側室がいた。将軍の正室は公家や親王家から選ばれ、お付きの女中も多かったから、大奥での生活は京都風で、落語の「たらちね」さながらの状況だったという。

聖フランチェスコ

   フランチェスコ修道会の創設者、アッシジのフランチェスコ(1181-1226)は、本名をジョヴァンニ・ベルナルドーネという。父ピエトロはアッシジの裕福な織物商人で、旅をしながら少しばかりのフランス語を習いおぼえていた。息子のほうは人前でひけらかすほどにフランス語を学び「フランチェスコ」(フランス人)と渾名された。

   若いころのフランチェスコは素直で如才なく、のちに修道院の年代記作者が好んで語ったような自堕落さはおそらくなかったものの、快楽を愛したようである。近くのペルージアがアッシジを攻撃したとき、フランチェスコは志願して市民軍に加わり、つづく戦争に従軍した。彼は捕らえられて、しばらくペルージアの捕虜として暮らした。1204年に重い病気にかかり、しだいに宗教を真剣に考えるようになった。スポレトで幻視を得て帰郷し、世俗的財と家族の絆を捨て清貧の生活に入った。サン・ダミアノ聖堂を再建し、キリストの言葉を聞いて説教を開始した。弟子が集まると単純な生活戒律を作り、1209年、教皇インノケンティウス3世(1160-1216)から認可を得た。1212年、アッシジのクララを中心とする女弟子を定住させて戒律を与え、クララ会を創始、1221年フランシスコ会第三会を始めた。1224年、アラベルナ山において聖痕を受け、盲いて生涯を終えた。

   聖フランチェスコの生涯は「ブラザー・サン・シスター・ムーン」(1972年)フランコ・ゼフィレッリ監督で映画化された。フランチェスコにはグレアム・フォークナー、クララにジュディ・バウカーという新人が選ばれた。当時16歳のジュディ・バウカーの清らかな美しさが印象に残る。NHKテレビ「黒馬物語」(1974)、「タイタンの戦い」(1981)以後の活躍はあまり知らない。尼僧の美しさでは、イングリッド・バーグマン「聖メリーの鐘」(1945)、デボラ・カー「黒水仙」(1946)、オードリー・ヘプバーン「尼僧物語」(1959)に匹敵する清らかな聖女であった。

   タイトルの「ブラザー・サン、シスター・ムーン」はフランチェスコの言葉からきている。

  慰められるよりも、慰めることを

  理解されるよりも、理解することを

  愛されるよりも、愛することを

  太陽を兄と慕い、月を姉と慈しむ

  それ以外は何も持たない

   主題歌は現代の吟遊詩人といわれたイギリスのドノヴァンが歌っていた。日本語訳詩で桑原一郎の「ブラザー・サン シスター・ムーン」も発売された。桑原は兵庫県西宮市出身のフォーク歌手。バーモント州フォーク・フェスティバルで「明日に架ける橋」を歌い金賞受賞。

  ブラザー・サン シスター・ムーン

  かぎりない愛の力

  ひそかに受けとめたい

  けがれた世の中には

  はてしなく悩むけれど

  夜明けはたずねてくる

  愛されるより愛したい

  空を飛ぶ鳥のように

  ブラザー・サン シスター・ムーン

  かえらぬ今日の日を

  確かに生きていたい

  愛されるより愛したい

  空を飛ぶ鳥のように

  ブラザー・サン シスター・ムーン

  かえらない今日の日を

  確かに生きていたい

美しい人生

    ケペルは今年の健康診断で便に潜血がみられるので精密検査をするように言われた。しばらく何もしないでいたが、心配なので病院に行くと、大腸にポリプがあるとのこと。来年1月7日から入院するので、しばらくはこのブログも休筆します。夜、就寝中に内心得たいの知れない不安が襲う。ふと思いうかべるのは、黒澤明監督の「生きる」(昭和27年)。渡辺勘次(志村喬)は、市役所の市民課長。30年間無欠勤の彼が、その日初めて休んだ。医師から癌で余命いくばくもないと告げられる。彼は残り少ない命を立派に生きる。雪の朝、静かに横たわっている彼の死に顔には、満ち足りた色が明るく澄んでいた。

   そういえば今年は「千の風になって」が流行し、死ということについて考えさせられる一年であった。古代ローマの英雄ジュリアス・シーザー(前100-前44)は暗殺される前日に友人たちを招いて晩餐をした。席上、「どんな死に方が最良か」と話がはずんだ。シーザーはそれに「突然の死」と答えたという。

   「理想の死に方」でネットを検索すると多くの意見を見ることができる。西行は「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」と風雅に歌っている。花とはもちろん桜である。「桜のようにぱっと散る」とは太平洋戦争末期、若者たちが「特攻」として死んでいったことを思い出してしまう。

    今日の朝刊を読むと「西成の宿泊所で3人練炭自殺か」という小さな記事がある。死亡したのは、吹田市のフリーターの男性(40歳)、徳島市のフリーターの男性(35)、川崎市の無職女性(41)。警察では3人はインターネットで知り合ったとみている。こうした若者の集団自殺が近年多くなっている。この日本は昭和20年も平成20年もかわりなく、戦争、格差社会で若者を犠牲にする国なのだろうか。

    100歳まで生きて、孫、ひ孫に囲まれて老衰で死ぬという大往生だけが「理想の死に方」とは思わないが、この世で与えられた尊い命を大切にして、精一杯に生きることこそが美しい人生だと考える。

2007年12月29日 (土)

大きな栗の木の下で

  大きな栗の木の下で

  あなたとわたし

  なかよくあそびましょ

  大きな栗の木の下で

   だれもが知っているこの童謡の作詞者・作曲者はともに不明である。イギリス民謡であるという。1937年、ヤロミール・ヴァイベルゲンの編曲。アメリカでボーイスカウトの間で広まった。日本には戦後、おそらく幼稚園の舞踏会などで歌われだした。ケペルが幼稚園児だったとき、昭和30年代前半にはかなり有名な曲であった。日本語の作詞者は平多正於説、阪田寛夫説がある。2007年、日本の歌百選(文化庁、日本PTA全国協議会)にも選出された名曲である。

   ちなみにこの曲もだれでも知っているであろう。

  この木なんの木 気になる木

  名前も知らない 木ですから

  名前も知らない 木になるでしょう

 「日立の樹」というコマーシャル・ソング。「日立世界ふしぎ発見」などでお馴染みの曲だが、作曲は小林亜星、作詞は伊藤アキラ。伊藤アキラはCMソング、歌謡曲、テレビ主題歌まで1000曲以上の作品がある。「青雲のうた」、丸善石油「オー・モーレツ」(はつみかんな)、「かもめが翔んだ日」(渡辺真知子)、「東京チカチカ」(加苗千恵、日吉ミミ)、「南の島のカメハメハ」(水森亜土とトップギャラン)など。

2007年12月27日 (木)

美しい庵主さん

    有吉佐和子(1931-1984)には、「紀ノ川」「香華」「助左衛門四代記」「華岡清洲の妻」のような年代記もの、人権問題を扱った「非色」、老人問題を扱った「恍惚の人」、公害問題を扱った「複合汚染」など、歴史物から社会派まで、幅広いストーリー性に富む作品が多い。小説のほかにも演劇やテレビドラマの脚本にも手がけたことからもわかるように、読者の興味や関心をひく、時代にあったテーマを見つける天才であった。また「恍惚の人」「複合汚染」が流行語になったように、小説のタイトルのつけかたの上手な作家であったといえる。これは有吉が若い頃から、古典芸能に関心を持ち、演劇評論家を志していたことと関連する。彼女の作品のほとんどがドラマ、映画化されていることがそれを証明している。

    昭和31年「地唄」が芥川賞候補にもあげられたが、受賞を逸した。翌年、NHK大阪のドラマの脚本「石の庭」で第12回芸術祭奨励賞を受けた。その年、まだアクション路線の確立していない日活は26歳の新進女流作家の小説「美っつい庵主さん」を映画化した。「美しい庵主さん」(西河克巳監督)は、ある尼寺に東京から女子大生(浅丘ルリコ)がボーイフレンド昭夫(小林旭)を連れてやって来た。尼僧たちは若い男性の来訪に驚く。昭夫も美しい尼僧(芦川いづみ)に一目ぼれする。たわいもない話だが、映画も文学もみんな若くてういういしい時代であった。

2007年12月20日 (木)

三波春夫と美空ひばり

   大晦日のNHK紅白歌合戦の曲順が発表され、大トリを五木ひろし、トリを石川さゆりが勤めるという。ところで「トリを取る(最後に高座にあがる)」というのは、もともと落語、講談、義太夫、浪花節などの寄席でつかわれた言葉である。落語家には、前座・二ッ目・真打という三段階のランクがある。技量のすぐれた出演者が一日の最後の演目をしめくくる責任を持つことから、最後の出番を勤めることを「トリを取る」といい、その実力のある噺家を「真打ち」というようになった。しかし今日、ニュースなどでよく耳にするのは、紅白歌合戦の最後の出演者、つまり歌手の誰がその年の「トリを取る」かに関心が集まるようだ。

   紅白歌合戦でのトリといえば美空ひばり(1937-1987)と三波春夫(1923-2001)の対戦が思い出される。まさに歌謡曲黄金時代の年の締めくくりに相応しい豪華なショーであった。

昭和38年「哀愁出船」「佐渡の恋歌」

昭和39年「柔」「俵星玄蕃」

昭和41年「悲しい酒」「紀伊国屋文左ェ門」

昭和42年「芸道一代」「赤垣源蔵」

   過去4度の対戦があったが、昭和38年は81.4パーセントで最高視聴率を記録した。昭和41年の対戦は三波春夫が大トリを取り「豪商一代紀伊国屋文左衛門」(作詞・北村桃児、作曲・長津義司)を熱唱した。この歌は三波の持ち歌のなかでもとくに所要時間が長い歌謡浪曲である。

  沖の暗いのに白帆がサー見ゆる

  あれは紀の国ヤレコノコレワイノサ

  みかん船じゃ エー

  八重の汐路に 広がる歌が

  海の男の 夢を呼ぶ

  花のお江戸は もうすぐ近い

  豪商一代 紀の国屋

  百万両の 船が行く

2007年12月17日 (月)

日韓少女漫画とヒロインたち

    低迷する連続ドラマの中にあって、比較的安定した視聴率が見込めるのが少女漫画を原作とした作品である。庄司陽子「生徒諸君!」(内山理名主演)、神尾葉子「花より男子」(井上真央主演)、森永あい「山田太郎ものがたり」(多部未華子)、桃森ミヨシ「ハツカレ」(黒川智花)、一条ゆかり「有閑倶楽部」(香椎由宇、鈴木えみ、美波)、韓国では、パク・スヨン原作「宮(クン)」(ホ・イジェ、パク・シネ)、ウォン・スヨン原作「フルハウス」(ソン・ヘギョ)。

   これら一連の少女漫画原作ドラマの中で最も注目すべき作品は「フルハウス」である。原作は韓国はもとより中国、台湾、香港とアジアでベストセラーとなった。当初、香港のスター・レオン・ライが決まっていたが、韓国のキム・ジョンハクプロダクションが製作することとなり、イ・ジョンジェ役にはイ・ジョンジュがキャスティングされていたが、映画「タイフーン」の撮影のため降板し、歌手のピ(RAIN)に決まった。ハン・ジウン役のソン・ヘギョは御承知のとおり、「秋の童話」のウンソ役でアジアのトップスターの仲間入りをし、韓流ブームを起こした悲劇のヒロイン。あのソン・ヘギョがカラフルな服を着て、キュートな魅力をみせている。お話は映画スターRAINと売れない作家ソン・ヘギョとの偽装結婚が、恋の四角関係を巻き起こす。題名の「フルハウス」とは、「愛に溢れた家」という意味。海辺に佇むフルハウスは矢島(シド)という島にある。海の向こうには江華島が見える。明治8年、日本の軍艦雲揚号が砲撃され、李氏朝鮮の開国となった江華島事件が起きたところであるが、そんな日韓の歴史的事件の発生地などとはおそらく誰もこのドラマから思わないだろう。ほんとうに見ていて愉しくなるドラマである。

坂下門外の変と大橋訥庵

   2008年の大河ドラマ「篤姫」。宮崎あおい演ずる篤姫(1835-1883)は、第13代将軍家定(堺雅人)に嫁したが、家定は病弱のため約1年半後に亡くなる。篤姫はわずか23歳で落飾して「天璋院」と称した。ドラマの前半の山場はやはり孝明天皇の妹・和宮(堀北真希)の降嫁問題が中心となるだろう。和宮は有栖川宮熾仁親王との婚約が成立していたが、井伊直弼により関東降嫁が計画され、桜田門外の変でしばらく中断ののち、公武合体政策の犠牲となって江戸へ下向。文久2年2月、第14代将軍徳川家茂(松田翔太)と婚儀の式をあげた。老中安藤信正(1819-1871)は尊攘派に非難され、江戸城坂下門外で水戸藩を脱藩した浪士らに襲われ傷つき、同年4月老中を辞した。

    この坂下門外の変の首謀者として知られる攘夷派の儒学者が大橋訥庵(1816-1862)である。安藤を襲撃した者の懐には、次のような内容の斬奸状が入っていた。「安藤信正は、和宮を人質とし、通商条約の勅許を獲得しようとするだけにとどまらず、孝明天皇を退位に追い込もうと策謀を巡らしている」この斬奸状を起草したのが大橋朴庵である。だが、大橋自身は、事件の黒幕として吟味を受けたが、証拠不十分により釈放され、身柄を宇都宮藩に移されたのち、幽閉中に病没した。享年46歳。

    ちなみに大河ドラマの和宮は、「翔ぶが如く」(平成2年)では鈴木京香、「徳川慶喜」(平成10年)では小橋めぐみが演じている。つまり「篤姫」(平成20年)の堀北真希は第三の和宮となる。

2007年12月16日 (日)

山田吾一と「風来坊先生」

    NHKのデレビドラマ「事件記者」(昭和33年)でガンさんこと岩見記者役でお茶の間の人気者となった山田吾一は、その後も「サラリーマン出世作戦」「田舎教師」「堂々たる人生」などでテレビの主役級スターだった。とくに印象に残るのは昭和39年の「風来坊先生」である。一の木真弓、高梨木聖(たかなしこなみ)などの女生徒も可愛かった。主題歌はとくにケペルのお気に入りで、いまでもよく歌う。ただし歌詞はいつもの如くうろ覚えである。ネットで調べると、なんとレコードもでていたし、CD化されているという。「青春の夢のせて」作詞:秋元近史、作曲:広瀬健次郎、歌手:手塚しげお。あの「矢車剣之介」やスリー・ファンキーズの一員だった手塚しげお(1942-2004)だ。これまで知らないで歌っていた。「青春の夢のせて」が歌謡曲の名曲であることは、「将棋駒師江仙」の「私のベストテン」で第1位に選んでいることからもわかる。作詞は「シャボン玉ホリデー」のディレクターの秋元近史。彼の作詞にはザ・ピーナッツの「こっちを向いて」「二人だけの夜」もある。

    この「青春の夢のせて」は思いっきり大声を出して歌うとスカットするような、さわやな曲なのだ。ここに歌詞をのせるが、間違っているかもしれません。

     青春の夢のせて

 若い血潮 燃やせ命の限り

 男ごころは 一筋に

 ゆくぞ 男なら 胸張って

 白い雲の 溢れくる

 あの果てまで

漱石の母・高橋千枝

    夏目漱石は母・夏目千枝(1826-1881)の思い出を『硝子戸の中』で次のように書いている。

   私の知っている母は、常に大きな眼鏡を掛けて裁縫をしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、球の大きさが直径2寸以上もあったように思われる。母はそれを掛けたまま、すこし顎を襟元へ引き付けながら、私を凝と見る事が屡あったが、老眼の性質を知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。私はこの眼鏡と共に、何時でも母の背景になっていた一間の襖を想い出す。古びた張交の中に、生死事大常迅速云々と書いた石摺なども鮮やかに眼に浮んでくる。

   夏になると母は始終紺無地の絽の帷子を着て、幅の狭い黒繻子の帯を締めていた。不思議な事に、私の記憶に残っている母の姿は、何時でもこの真夏の服装で頭の中に現れるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るものはただ彼女の顔ばかりになる。

   漱石の実母・ちゑ。四ッ谷大番町(現・新宿区大京町)の福田庄兵衛(質商鍵屋)の三女(鶴、久、ちゑ、三人の娘がいた)。ちゑは長らく大名(明石または久松)の奥女中をつとめたが、下谷の質屋に嫁したが、不縁となり、長姉鶴の婿、芝金杉1丁目の高橋長左衛門(炭問屋)の養女として安政元年(1854年)に夏目小兵衛直克の後妻に来た。直克の先妻は、千駄谷の名主斉藤勘四郎の娘で嘉永6年(1853年)に死んで、あとに佐和、房の二女を残した。

    慶応3年2月9日(旧暦1月5日)、千枝(ちゑ)は、四男一女のあとに金之助を産む。乳が出ないためもあって、生後すぐに四ッ谷の古道具屋(一説によれば源兵衛村の八百屋)に里子に出すが、すぐに連れ戻された。しかし明治元年11月、塩原昌之助(29歳)の養子となり、内藤新宿北町にあった同家へ引き取られた。養母は、やす(29歳)。明治9年、養父母の離縁で、金之助は塩原家在籍のまま実家に帰る。

    明治12年3月、金之助は東京府第一中学校正則科第七級乙に入学する。(校長・村上珍休)明治14年1月21日、千枝の死にあって、金之助は大助の官舎に行っており、死に目に逢っていない。中学校では勉強をおろそかにして、退学した金之助であるが、母の死後、三島中洲の二松学舎に転じて漢学を学び、文学に関心を持つようになる。

2007年12月15日 (土)

志賀直哉「青年よ、大志を抱け」

   青年時代に志賀直哉は内村鑑三から大きな影響を受けた文学者の一人である。明治10年、札幌農学校の初代教頭だったクラーク博士が北海道を去る時に残した言葉「青年よ、大志を抱け」は、すぐに弟子たちに広まったわけではなく、かなりの歳月を経て知られるようになったといわれている。しかしながら明治16年生まれの志賀にとっては、内村などを通じて青年時代から親しんだ言葉であろう。「志賀直哉全集第9巻」には「卒業する諸君へ」という短文が収録されている。昭和27年の『中学国語3年(下)』(学校図書)に書き下ろされたものである。

   人間の一生は一日々々の積み重なったものであるから、日々をたいせつに暮らすのもいいことではあるが、そう考えて、毎日をあまり緊張しすぎると、一生は長いから疲れてしまう。ゆったりした気持で、なるべく視野を広く、考え方にも柔軟性を失わぬようにすることが肝要だ。しかし、一生が一日々々の積み重なったものであることも事実だから、ときに、それを思うことも無意味ではない。

   札幌の北海道大学の校庭にクラークという明治初年に日本にきて、当時の若い人々にいい影響を与えた人の胸像があるが、その台石に、「ボーイズビーアンビシャス」ということばが彫ってある。「ビーアンビシャス」を「野心的であれ」と訳すと、いろいろ危険な結果が考えられてよくないが、「大志をいだけ」と訳せば、いいことばで、青年にはこの気持はぜひなくてはならぬものとわたしは考える。

   自分が一生をささげて悔ゆることのない仕事を選ぶことがたいせつだ。急ぐ必要はない。よく見きわめて、それと決めたら、今度は迷わず、その道に精進すべきだ。人間は一つ事を倦まず続けていけば、いつかは必ずある地点に達することができるものだ。

   天分ということも多少はあるだろう。しかし、わたくとはそれよりも、よりよき仕事をしようという不断の意志をもつことが、もっとたいせつなことだと思っている。天分ある人というのは、むしろその意志をもち続けることのできる人といってもいいかもしれぬ。そういう意味では天分というものは、だれでももとうと思えばもてるものなのだともいえるわけである。

    志賀直哉に限らず、「青年よ、大志を抱け」という名言に、後に続く言葉を考えた人がいる。例えば、次のような稲富栄次郎の訳文がある。

「青年よ、大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることをなしとげるために大志をもて。」

    朝日新聞「天声人語」(昭和39年3月16日)にも次のような一文がある。

「少年よ、大志を抱け。しかし金を求める大志であってはならない。利己心を求める大志であってはならない。名声という、つかの間のものを求める大志であってはならない。人間としてあるべきすべてのものを求める大志を抱きたまえ。」

2007年12月12日 (水)

大江卓の政府転覆計画

    大江卓(1847-1921)は、慶応3年末、土佐藩の陸援隊に加盟し、高野山挙兵に参加する。維新後は、明治政府に出仕し、神奈川県令在任中に、中国人を奴隷として売買していたペルー国汽船マリア・ルーズ号が横浜に寄港したおり、その不法を摘発し、その名を高めた。明治7年大蔵省に出仕したが、翌年退官したのち、西南戦争に際し反政府蜂起を図った。

    明治10年3月24日、大阪で土佐派の会合が行われた席上、林有造らは、兵器を購入したうえで決起すべきだと主張した。だが、大江卓は「のんべんだらりと鉄砲がそろうのを待っているべきではない」と反論する。そして、「まずは兵器は揃う。そのうえで決起して大阪城を奪い取るべきだ。現在、数百名の兵士が大阪城を警備しているだけにすぎず、攻略することは簡単なこと」と、早期決起を訴えた。「いよいよの場合、我が敵は本能寺に在り、敵は備中にあり、汝よく之に備えよの秘略を学んで、一挙して大阪城を奪はなければならぬ」(「大江天也伝」)

   だが、大江による早期決起の主張は通らず、兵器の手配が遅れ、しかも土佐派の重鎮である板垣退助や後藤象二郎らが決起をためらっているうちに、西郷隆盛の敗色が濃厚となりつつあった。そのため、大江卓の政府転覆計画は未遂に終わった。大江は禁固10年の刑に処せられた。出獄後は、衆議院議員として活躍するとともに、実業家としても成功した。

2007年12月 8日 (土)

志賀直哉の批評家無用論

    志賀直哉(1883-1971)は昭和12年、54歳の時に長篇小説『暗夜行路』の後篇を発表し、完成させた。これまでに、「網走まで」(明治43年)「和解」「城ノ崎にて」(大正6年)「小僧の神様」(大正9年)などの多くの短編小説を書いて、当時の文学青年から崇拝され「小説の神様」と擬せられていたことは周知のとおりである。

    三島由紀夫の言葉を借りれば「日本における批評の文章を樹立した」人といわれる小林秀雄(1902-1983)は、志賀直哉に対する熱烈な讃辞であふれている。

    これに対して、私小説批判で知られる中村光夫(1911-1988)は、昭和29年、『志賀直哉論』(文芸春秋新社)において志賀直哉を徹底的に否定する内容の本を出版している。「作者自身の精神の状況が何か燃えきった灰のやうな印象を与える」とか「重要な仕事はほとんど30代に終わってしまい、ことに昭和4年以後は、作家としての活動はまったく休止状態」であるとか、さらには「もっと根本の小説を書く態度の上での、或る固定化」「精神の発育停止」とまで言い切っている。

    戦後の志賀直哉の作品には「淋しき生涯」「灰色の月」「蝕まれた友情」「白い線」「盲亀浮木」などで今日では、それほど読まれないものが多いのも事実である。太宰治が「老大家」と評し、中村光夫が「精神の発育停止」と言った批判は果たして正当性があるのであろうか。

    これに対して志賀自身は「白い線」で次のように言っている。

「批評家や出版屋に喜ばれるのは大概、若い頃に書いたもので、自分ではもう興味を失いつつあるようなものが多い。年寄って、自分でも幾らか潤いが出てきたように思うもの、即ち坂本(繁二郎)君のいう裏が多少書けて来たと思うようなものは却って私が作家として枯渇してしまったように云われ、それが定評になって、みんな平気で、そんな事を書いている。私はさういう連中にはさういう事が分からないのだと思う。そして、常に云っているように批評家というものは、友達である何人かを例外として除けば、全く無用の長物だと考えるのである。そういう批評家は作家の作品に寄生して生きている。それ故、作家が作家が批評家を無用の長物だと云ったからとて、その連中の方から作家を無用の長物とは云えない気の毒な存在なのだ。作家が他人の作品を批評する場合、何をいっても、云っただけの事は自身の作品で責任を負はねばならぬが、批評家は自身小説を書かず、その責任をとる事がない。批評家はそういう自分の立場を大変都合のいい事と考えて、勝手な事をいっているが、実はこの事がむしろ致命的な事だという事を知らないのだ。」

   「白い線」は昭和31年3月1日発行の『世界』第123号に発表されたものである。おそらく中村光夫の『志賀直哉論』に対しての反論として読み取ることができる。

2007年12月 7日 (金)

懐かしの「紅白歌合戦 昭和38年」

    NHKは第58回紅白歌合戦の出場歌手を発表した。初出場歌手の顔ぶれを見てもなじみがない。ちなみに最高視聴率81.1パーセントだった第14回(昭和38年)の50組の歌手は皆知っている。

 

紅組

 

司会・江利チエミ、弘田三枝子「悲しきハート」、仲宗根美樹「奄美恋しや」、松山恵子「別れの入場券」、雪村いづみ「思い出のサンフランシスコ」、こまどり姉妹「浮き草三味線」、坂本スミ子「テ・キエロ・ディヒステ」、高石かつ枝「りんごの花咲く町」、楠トシエ「銀座かっぽれ」、江利チエミ「踊り明かそう」、トリオこいさんず「いやーかなわんわ」、吉永小百合「伊豆の踊子」、朝丘雪路「永良部百合の花」、島倉千代子「武蔵野エレジー」、畠山みどり「出世街道」、西田佐知子「エリカの花散るとき」、越路吹雪「ラスト・ダンスは私に」、スリー・グレイセス「アイ・フィール・プリティ」、倍賞千恵子「下町の太陽」、三沢あけみ「島のブルース」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」、ペギー葉山「女に生れて幸せ」、ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」、五月みどり「一週間に十日来い」、中尾ミエ・伊東ゆかり・園まり「キューティパイ・メドレー」、美空ひばり「哀愁出船」

白組

司会・宮田輝、田辺靖雄「雲に聞いておくれ」、守屋浩「がまの油売り」、北島三郎「ギター仁義」、アイ・ジョージ「ダニー・ボーイ」、和田弘とマヒナスターズ「男ならやってみな」、ジェリー藤尾「誰かと誰かが」、三浦洸一「こころの灯」、森繁久彌「フラメンコかっぽれ」、立川澄人「運がよけりゃ」、ボニー・ジャックス「一週間」、北原謙二「若い明日」、田端義夫「島育ち」、三橋美智也「流れ星だよ」、村田英雄「柔道一代」、橋幸夫「お嬢吉三」、フランク永井「逢いたくて」、ダーク・ダックス「カリンカ」、芦野宏「パパと踊ろう」、舟木一夫「高校三年生」、坂本九「見上げてごらん夜の星を」、旗照夫「史上最大の作戦マーチ」、デューク・エイセス「ミスター・ベイスマン」、春日八郎「長崎の女」、植木等「どうしてこんなにもてるんだろう・ホンダラ行進曲」、三波春夫「佐渡の恋唄」

          *

   最多出場44回の北島三郎はこの年「ギター仁義」で紅白初出場する。昭和38年出場歌手で今年も選ばれたのは北島ただ一人である。多くの人気歌手の中で北島への拍手は少なかった。あの時、誰が今日を想像できただろうか。芸能界の浮き沈みは予測不可能なのだ。

 この年の大ヒット曲はもちろん「こんにちは赤ちゃん」である。また低迷期を脱した美空みばりが「哀愁出船」(昭和38年)、「柔」(昭和39年)、「柔」(昭和40年)、「悲しい酒」(昭和41年)、「芸道一代」(昭和42年)、「熱禱(いのり)」(昭和43年)、「別れてもありがとう」(昭和44年)、「人生将棋」(昭和5年)、「この道を行く」(昭和46年)、「ある女の詩」(昭和47年)と10年連続をトリをつとめたスタートの年であった。そして美空ひばりがトリだった昭和47年の紅白の視聴率80.6パーセントを最後に、二度と80パーセントの大台に乗ることはなく、逓減傾向は顕著になっていった。

   ケペルはあの頃は子供だったが、市場で商売をしていたので、大晦日は稼ぎ時でいつもより遅くまで店をあけていた。9時5分に紅白が始まったが、まだ店のあとかたずけやら、天上から吊り下げられたモールの撤去やらで、なかなかテレビの紅白が見られないのでラジオから流れる紅白を聴いていた思い出がある。

 

 

児島喜久雄と長尾よね

    「日本古代史の井上光貞(1917-1983)が学生の頃、美術・美術史家の児島喜久雄(1887-1950)からドイツ語の原書を読むことをすすめられたことが、後年、哲学的、世界史的な視野をもって日本史研究をすることに役立った」ことを車太郎さんのコメントで知った。

    井上光貞の父は井上三郎(1887-1959)で、桂太郎の三男。井上勝之助の養子となり、井上馨の長女・千代子と結婚。井上三郎と児島喜久雄とは同じ年だが、陸軍軍人と美術家との間に接点は見られない。児島の父・児島益謙は、和歌山出身の陸軍軍人である。むしろ児島益謙が桂太郎の部下としての関係から、幼少時から児島喜久雄と井上三郎の親交が生れたのかも知れない。

    学習院出身の児島は、白樺の同人であるから、当然志賀直哉、武者小路公共、細川護立らと親交があった。「生誕120年、児島喜久雄と白樺派の画家たち」展が清春白樺美術館で開催中という。

    ところで志賀直哉の「児島喜久雄の憶ひ出」にある「晩年の児島は近衛文麿につき、わかもとの長尾氏につき、何となく茶坊主的印象を他に与へ、非常に損をしたと私は思ふ」という箇所が気になる。

    長尾とは、栄養剤「わかもと」の創業者・長尾欽弥・よね夫妻のこと。長尾欽弥(ながおきんや)は明治25年7月3日、京都府下相楽郡湯船村射場に生まれる。戦後の「人事興信録第17版」(昭和28年)によると、ナガ製薬社長、長尾研究所、長尾美術館館長。妻の長尾米子(1890-1967)は明治22年8月26日、浅草馬道町で生れ、母志か、私生児であった。女傑で政財界に交友が広く、桜新町の長尾邸には多くの文化人が集まった。林房雄、久米正雄、小林勇、青山二郎、福田蘭童、梅原龍三郎、安井曽太郎、小林古径、安田靭彦、里見弴、志賀直哉、児島喜久雄など。近衛文麿が荻窪で自殺する前日まで、近衛は長尾邸に滞在し、よねから青酸カリをもらっている。鎌倉山にあった旧長尾欽弥旧別邸扇湖山荘には戦前国宝級、重文級の美術品があった。戦後、課税を免れるめ、財団法人「長尾美術館」を設立。児島喜久雄と長尾よねとの交友は蒐集した美術コレクションの鑑定で深い信頼関係ができたものであろう。よねの出生については謎が多く、人事興信録によれば、明治22年1月2日生れで、田中光顕(1843-1939)の長女とある。のちに認知したらしい。昭和42年2月8日死去。白洲正子は「女傑」(「小説新潮」昭和34年2月号)を書いている。

   志賀が言うように戦中戦後の混乱期で児島の仕事が正当に評価されない時代があったようだが、今ようやく彼の西洋美術移入の業績を見直してみたい。

2007年12月 4日 (火)

モーパッサンと未知との遭遇

   モーパッサン(1850-1893)は「脂肪の塊」「女の一生」「ベラミ」「ピエールとジャン」などの成功によって、金銭的にも恵まれ、社交界にも好んで出入りするようになった。しかし梅毒による進行麻痺で精神に異常をきたすようになった。1891年から発狂の兆候が見られ、1892年1月2日、ニースで自殺を図り、精神病院に入院する。翌年の7月6日、パリの病院で死亡。享年43歳。

   モーパッサンは日本でも一番よく読まれている作家の一人であるが、その作品群は35歳頃に書いた「ベラミ」までで、それ以後に書かれた「モントリオル」「ムッシュ・バラン」「ル・オルラ」「死の如く強し」「左手」「あだ花」「男ごころ」「異郷の塊」(未完)「鐘」「ペール・ミロン」「行商人」など読まれることはあまりない。それは晩年に社交界での体験をもとにした上流階級を描いた作品が多く、彼の本領が発揮できなかったからであろう。

    晩年のモーパッサンに関する奇妙な話がある。(「モーパッサンと空飛ぶ円盤」『西洋歴史奇譚』所収)モーパッサンがエトルタの自宅で仕事をしていた時のことである。召使いが書斎に入ってきて、来客があるという。男は痩せて眼鏡をかけていた。「すいません、先生、ご迷惑は重々承知しておりますが、先生以外に聞いていただける方はないと思って決心した次第です」「いや、お話を聞いてみなければわかりませんな」「先生は、地球以外の星にも生物が棲んでいるとお考えですか」モーパッサンは躊躇なく答えた。「もちろんですとも、棲んでいると思いますよ」「ああ、よかった。先生、ほっとしました。あれは流星ではありません。すきとおった光る球体で、まわりに蒸気のようなものが渦巻いていました。この眼ではっきり見たのです。あれは宇宙船にまちがいありません」男は興奮して、椅子から立ち上がった。「では、失礼します。先生、どうして黙っていらっしゃるのですか。いつかお気が向いたら、ぜひこの話をお書きになってください」と言って、男は帰っていった。

    だがモーパッサンの著述のなかで、宇宙人や宇宙船、空飛ぶ円盤(正式には未確認飛行物体 UFO)に関する記事は発見されていない。モーパッサンはジュール・ヴェルヌ(1828-1905)より22歳も若く、同時代のフランスの作家である。彼の得意とするものは、貧しい小市民の生活を描くことにあり、SFには興味がなかったのであろうか。

2007年12月 2日 (日)

老優の活躍にも注目を

   ケペルはいまでも洋画雑誌を毎月購読している。ジョニー・デップ、ブラッド・ピット、ダニエル・ラドクリフ、オーランド・ブルーム、など旬の人気スターには正直ほとんど興味がない。昔はすみずみまで読んだのにここ何年かはパラパラめくるだけ。映画館にも行かない。遅れてテレビで見る。

   「るい」さんからのコメントでピーター・オトゥールの主演映画「ビィーナス」(2006)を初めて知る。75歳で現役。今年の主演映画は「スターダスト」「ザ・クリスマス・コテッジ」の2本。「アラビアのロレンス」で共演したオマー・シャリフ(75歳)も「オーシャン・オブ・ファイヤー」(2004)で復活した。70年代、セクシーなアクションスターで人気だったバート・レイノルズ(71歳)は難病、離婚、自己破産と低迷していたが「ブギーナイツ」(1997)で再起し、活躍している。

    こうして洋画界を見ると現役で活躍の大スターはまだまだいる。その筆頭格はクリストファー・リー(85歳)。ドラキュラ伯爵役のホラー映画で知られ、出演作は250本にも上る。クリント・イーストウッド(77歳)「ミリオンダラー・ベイビー」「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」などの活躍はご存知のとおり。マイケル・ケーン(74歳)も「サイダーハウス・ルール」(1999)以後も多数出演作がある。アメリカン・ニューシネマのスターたちも皆70歳近くなった。「明日に向かって撃て」のロバート・レッドフォード(71歳)、「卒業」のダスティン・ホフマン(70歳)、「真夜中のカーボーイ」のジョン・ボイド(69歳)、「イージー・ライダー」のピーター・フォンダ(67歳)、デニス・ホッパー(71歳)、「マッシュ」のドナルド・サザーランド(72歳)、「愛の狩人」のジャック・ニコルソン(70歳)などみなん現役スターである。

    個性派では、「コレクター」のテレンス・スタンプ(68歳)も渋い脇役で活躍している。二枚から喜劇に転じたレスリー・ニールセン(81歳)も息の長い俳優だ。美男スターのウォーレン・ビーティ(77歳)もアネット・ベニングと結婚して悠々自適。外国スターといえば日本ではアラン・ドロン(72歳)である。映画出演はないものの日本のテレビに出演したり、その存在感はいまだ健在である。

フランコ将軍とヘミングウェイ

   スペインは「ゲリラ」の本場という印象がある。それはアーネスト・ヘミングウェー(1899-1961)の長篇小説「誰がために鐘は鳴る」(1940)が広く読まれているからかも知れない。もともとゲリラとはナポレオンのスペイン征服当時、スペイン軍のしばしば用いた戦法で、「小さな戦争」を意味していた。その後、「ゲリラ」とは、遊撃戦を行う小部隊、不正規遊撃隊、あるいは人民戦線、パルチザンなどとほぼ同じ意味に用いられている。

   スペイン内乱(1936-1936)は、マヌエル・アサーニャ(1880-1940)が率いる人民戦線内閣に対して、フランシスコ・フランコ(1892-1975)が大地主・教会・軍隊を背景に起こした内乱である。結果は1939年3月、マドリードが陥落し、フランコ独裁政権樹立を招いた。フランコはヒトラー、ムッソリーニなどのファシズム政権が崩壊した後も実に30年間にわたり、その独裁体制を維持し続けた。ファシズムと民主主義の戦いで、ファシズムが勝利した理由は、人民政府のバラバラな組織と武器の不足、イギリス・フランスの不干渉政策が考えられる。

   ヘミングウェーとフランスの作家アンドレ・マルローはマドリードで会い、お互いにスペイン内戦を題材とした小説を書こうと約束した。マルローは1937年7月に「希望」を発表する。ヘミングウェイは、ようやく2年後の1939年3月に書きはじめ、18ヵ月かかって「誰がために鐘は鳴る」を完成させた。

   義勇兵として政府軍に参加したアメリカ青年ロバート・ジョーダンは、軍部上層部のゴルツから友軍の全面攻撃開始と同時に鉄橋を爆破するという任務をうける。セゴビア郊外の町ラ・グランハ近くのグァダラーマ山中の洞窟を根城にするゲリラ部隊に合流する。リーダーのパブロは橋の爆破に反対する。しかし妻のピラールが橋の爆破に賛同してくれた。ロバートは、そのピラールを手伝う目がさめるほど美しい鳶色の肌をしたマリアという娘に出会う。「キスすると鼻がぶつかりはしないかしら」そんな他愛ないことを言うマリアをロバートは愛した。ロバートは計画どおりに鉄橋爆破を敢行する。ゲリラ隊は間道ぞいに逃走するが、敵の集中砲火は激しい。傍らに寄ってきたマリアの手を握って「俺にかまわず行け!」と叫ぶ。泣いて去るマリア。ロバートは、ただ一人、機関銃を握りしめ、来襲する敵兵を待ち受けながら落命する。

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