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2007年11月18日 (日)

三淵忠彦と萱野権兵衛

   初代最高裁判所長官(在任、昭和22年ー25年)である三淵忠彦(1880-1950)の父は、三淵隆衡といい、会津藩家老・萱野権兵衛(萱野長修、1830-1869)の実弟である。

    幕末の動乱期、京都守護職に任ぜられた会津藩主・松平容保は、公武合体を推進し、佐幕派列藩同盟の中心となっていったが、思わぬ形勢の変転から会津は朝敵の汚名を被ることとなる。会津戦争で鶴ヶ城開城降伏のとき、主君に代わって藩の全責任を一身に負い、切腹したのが萱野権兵衛である。明治2年5月18日、飯野藩保科正益の広尾別邸において自刃、享年40歳であった。介錯に当たったのは、後にキリスト教牧師・教育者として知られた井深梶之助(1854-1940)の父・井深宅右衛門である。萱野家の家名は断絶されたため、三淵を名乗ることとなった。三淵忠彦は司法の新制度の確立に尽力した。幕末維新の敗者の側に立った史書に山川浩著『京都守護職始末』がある。山川浩(1845-1898)は草稿の段階で没し(明治31年)、実際の執筆は弟である山川健次郎(1854-1931)の手によってなり明治44年に完成された。

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