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2007年11月30日 (金)

木簡の長さ

    奈良時代から平安時代、紙はまだ貴重だったので通常は木簡が書写の材料として用いられた。長さは20センチから30センチ程度のものが多い。ところが先日、新聞で歌会専用の推定74センチもある長い木簡が存在したことが報道されていた。(朝日新聞2007.11.29)「儀式で長い木簡に和歌を書き、出席者全員で唱和したのではないか」と栄原永遠男教授(大阪市立大大学院)は話している。

    ところで古代中国では、木簡の長さに一定の規準があったようである。その長さは、文書の用途や重要度によって異なっていた。六経(易・書・詩・礼・楽・春秋)はすべて2尺4寸、「孝経」は1尺2寸、「論語」は8寸の簡だった。というのは、「孝経」と「論語」は、9世紀に至るまでは、儒教における経典とは見なされていなかったからである。

    漢代に用いられた木簡の標準的な長さは、約23センチである。23センチというのは、漢尺の1尺に当たる。木簡の長さが意味をもっている。漢には「尺一詔」(しゃくいつのしょう)という言葉がある。普通の文書が1尺であるのに対して、皇帝の詔は1尺1寸の木簡を使ったことからできた言葉である。「塩鉄論」貴聖篇には「二尺四寸の律」とあり、「史記」酷吏伝には「三尺の法」という言葉もある。律令は長い簡に書かれていたらしい。後漢の劉熙の書いた「釈名」には「槧」(ざん)という文字に「版の長さ三尺のもの」という説明がある。漢代の3尺というと約70センチの長さである。ただし三尺もの長い木札をどのように使われたのかは知らない。

2007年11月29日 (木)

ドミニク・サンダと仁科亜季子

    1970年代に青春を過ごした男子にとって、スイス西独映画「初恋」(1970年)のドミニク・サンダの高貴でミステリアスな美貌は永遠に忘れられない。ところでイワン・セルゲエヴィッチ・ツルゲーネフ原作の「はつ恋」は翻案物として仁科明子主演で昭和50年に東宝で映画化されている。ドミニク・サンダの近況は知らないが、仁科は平成10年12月に松方弘樹との離婚後、仁科亜季子と改名し、ドラマや映画「精霊流し」「いつか読書する日」など芸能活動を再開している。先日もテレビ「いつみても波瀾万丈」を見た。職場の同世代の女性たちの仁科の評判はよろしく、駆け落ち結婚、子育て、難病、離婚、再起など彼女の生き様に現代女性にとって多くの共感するものがあるという。つまり仁科亜季子のファン層は昭和47年から昭和53年までの清純派女優時代「お嫁にしたい女優№1」の男性中心から、2000年代中年女性に移行したように見える。しかし、やはり彼女の支持層の基幹は男性だと確信している。その人気の謎を解くカギはやはり「はつ恋」にある。

   ドミニク・サンダの「初恋」は名優マクシミリアン・シェルの監督デビュー作で、少年のジョン・モルダー・ブラウンも一時人気があった。なんといってもスヴェン・ニクヴィストの映像が美しい。おそらくこの映画に刺激されたと思われるが、小谷承靖監督の「はつ恋」仁科明子も魅力的でスイグル・シンガーズの音楽も新鮮だった。

   1833年、ヴラジミールはモスクワの両親のもとに住んで大学の入試勉強をしていた。父はまだ若く美男子で、母は父よりも10歳も年上だった。その年の夏、一家は避暑地の別荘を借りた。三週間たったある日、隣に没落貴族の夫人とその娘ジナイーダが引っ越してきた。夕方、ヴラジミールは垣根越しに隣をのぞいた。すらりと背の高い少女が、4人の青年たちのおでこを花束で叩いているのだ。その身ぶりには、なんともいえず魅惑的な、高飛車な、愛撫するような、あざ笑うような、しかもかわいらしい様子であった。翌日、あの娘が現れた。「いいこと?あなたは16だそうですけれど、私は21なんですもの。私のほうが年上でしょ。だから、あなたは私の言うことをきかなくてはね」

    ある日彼女は「あなた、私がとても好き?」と聞いた。「いっそ世界の果てへ行ってしまいたい」と弄んでいた。またある日、ジナイーダは「私のこと、悪く思わないでね」と言った。「いいえ、ぼくを信じてください。あなたがたとえどんなことをなさろうとも、僕は一生涯あなたを愛します、崇拝します」

   やがて4年が過ぎた。ヴラジミールは今ではドーリスカ夫人となったジナイーダを訪ねた。彼女は4日前に亡くなっていた。お産のための、ほとんどあっというまもない死に方だったという。

    ドミニク・サンダや仁科亜季子のファンの男性も多いだろうが、原作どおり、彼女たちの行き方にどんなに振り回されようと、結論はやはり「あなたがたとえ、どんなことをなさろうと、僕は一生涯あなたを愛します、崇拝します」ということであろうか。

2007年11月28日 (水)

詩人シェリーとフランケンシュタイン

   パーシー・ビッシュ・シェリー(1792-1822)は1702年8月4日、サセックスのホーシャム近郊フィールド・プレース邸に、富裕な地主の長男として生れた。名門イートン校からオックスフォード大学ユニヴァーシティ・カレッジに入学。1811年春、友人トマス・ジェファーソン・ホッグと共に、「無神論の必要性」と題するパンフレットを配布したため、大学から追放される。

  父ティモシーから勘当されたシェリーはロンドンに出て、妹の学友のハリエット・ウェストブルックと駆け落ちし、1811年8月に結婚した。しかし1814年、メアリー・ゴドウィン(1797-1851)を知り、シェリーは新たな理想像をそこに見出した。そして同年7月28日、彼女とその義妹クレア・クレアモントを連れて、ヨーロッパ旅行をする。1816年5月、シェリー、メアリー、バイロン、ジョン・ポリドリらは、スイスのジュネーブ近郊のレマン湖畔のディオダティ荘に滞在していた。天候不順で長く降り続く雨のため屋内にとじ込められいた際、それぞれが作品を仕上げた。シェリーの「モン・ブラン」「理想美の顔」、バイロンの「チャイルド・ハロルドの巡礼」第3幕などの作品は、そうした日々と情景から出来たが、皮肉にもアマチュア作家であるメアリー・シェリーが書いた小説「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」が今日でも最も読まれているであろう。生命の創造の夢にとり憑かれた科学者フランケンシュタインがつくりあげたモンスター(人造人間)が、20世紀にはボリス・カーロフが演じる面長で無表情なフランケンシュタインとして知られるようになる。

   シェリーは1822年7月8日、小さなヨット「ドン・ジュアン号」に乗ってトスカナ沖で嵐にあい溺死した。

2007年11月27日 (火)

桃子と五・一五事件

   犬養毅(1855-1932)は膨大な漢籍の蔵書の整理に困っていた。「だれかよい人はおらんかのう」と息子の犬養健に話した。「菊池にでも聞いてみます。きっと見つかりますよ」菊池とは文芸春秋の菊池寛である。そしてある日、「お父さん、いい人が見つかりました」「おおそうか」と犬養も喜んだ。「その人はいつ来るね」「お父さんのいいときに、いつでも」「おお、そうか。それは有難い」

    当日、犬養家に現れた人は意外に若い人だった。もっと意外だったのは海老茶の袴をはいていた女性だったことだ。桃子という名の若い女性は、笑みをたたえて自己紹介をした。77歳の背中をまるめた老人と24歳の桃子との取り合わせも漢籍を仲立ちにしたものであったが、異様なものであった。それは桜の花びらの舞う季節だった。

    5月15日はよく晴れた日曜日だった。犬養毅は総理官邸でくつろいだ休日を過ごした。夕方5時半ごろ、三上卓海軍中尉と黒岩予備少尉ほか陸軍士官候補生ら5名が首相への面会を申し入れた。同時に裏門にも陸海軍の将校が現れ、やはり首相に面会を申し出た。受付係や巡査が、対応に手間取っていると、正門組は警備の巡査一人を射殺し、一人に重傷を負わせて官邸内に乱入した。犬養は健やその夫人、孫の道子たちとくつろいで夕食をとろうとしていたときであった。犬養は「話せばわかる、あっちへ行って話を聞こう」と将校たちを日本間のほうへ案内した。「何しに来たか、わかるだろう。何か、いうことがあればいえ」三上がそう言って、犬養が身を乗り出すようにして話し出そうとしたとき、正面にいた海軍中尉山岸宏が叫んだ。「問答無用!撃て!」すかさず三上や黒岩が犬養めがけて引き金を引いた。そうして首相が倒れるのを見て、一行は引き揚げた。犬養は、翌朝早く息をひきとった。事件を聞いた桃子は直ちに官邸に駆けつけた。桃子とは、戦後、英米児童文学の紹介や「ノンちゃん雲にのる」などの創作でも知られる石井桃子である。

2007年11月26日 (月)

月の精・嫦娥

    中国初の月探査衛星「嫦娥(じょうが)1号」が撮影した月面写真が公開された。嫦娥は中国の神話で月にすむ美女の名である。もともと姮娥(こうが)、恒娥といったが漢の文帝の恒を避けて、嫦娥、常娥と書く。「淮南子」覧冥訓には次のような嫦娥の話が伝えられている。

    昔、あるところに羿(げい)という男がいた。彼は死ぬということを思うと、いつも身ぶるいするように嫌な気がした。羿は西王母さまのところへ行って、不死の薬を貰い受けることにした。不死の薬を手に入れて大喜びで家に帰ってきた。ところが妻の嫦娥がそれを知って、ひそかに不死の薬を盗んだ。しかし夫に悟られては、どんな酷い目にあうかも知れないと思ったので、薬を飲んで仙人となり、とうとう大空に逃げ昇って、月にすむようになった。かの女は不死の薬でいつまでも生きつづけている。月面に蝦蟇のような斑点が見えるのは、即ち嫦娥の姿である。

2007年11月25日 (日)

戦艦金剛、ガダルカナル島集中砲火

    戦艦金剛は太平洋戦争開戦以来、マレー攻略作戦、空母機動部隊の印度洋作戦、ミッドウェー作戦などに参加したが華々しい戦運に恵まれなかった。

   昭和17年10月12日、第1次挺身隊は米艦隊と交戦し、重巡古鷹が沈没した。司令官栗田健男中将率いる第3戦隊「金剛」「榛名」は第2水雷戦隊とともに第2次挺身隊を結成し、古鷹の弔合戦に出撃した。金剛、榛名は13日予定通りにガダルカナル島に接近した。13日20時30分、総員戦闘配置につき、23時37分、砲撃開始。金剛は対空用三式弾を104発、榛名は対空用零式弾を189発撃った。ヘンダーソン基地はたちまち火の海となった。96機の航空機のうち54機がやられ、ガソリンタンクは炎上した。金剛からガダルカナル島全体が燃えているように見えた、といわれる。

アイルランド文学

    「庭の千草も虫の音も 枯れて淋しくなりにけり。ああ白菊、ああ白菊 ひとりおくれて咲きにけり」日本人にはおなじみの小学校唱歌「庭の千草」。この美しいアイルランド民謡の原詩は、トマス・ムーア(1779-1852)の「夏の名残りのバラ」である。日本では「白菊」だが元歌は「バラの花」なのだ。トマス・ムーアは「アイルランド歌謡」(1808-1834)において、アイルランドの情緒に合った英詩を作ろうと試みた。これがイギリスで歌われるようになり、究極的にアイルランド文芸復興を促進することとなった。

    アイルランド人の祖先、古代ケルト人は文字を持たない民族だった。そのかわり、英雄伝や部族の系譜などを口承によって子々孫々へと伝えてきた。これらのことから、アイルランド人はかえって言葉に魂をこめ、より豊かな表現力を身につけたのではないだろうか。

   「ガリヴァー旅行記」で知られるジョナサン・スウィフト(1667-1745)はアイルランドに生れ、この国の司祭であった。アイルランドがイギリスの文学に最も貢献したのは18世紀の喜劇においてであろう。

    アイルランド出身の文学者を18世紀からざっとその名をあげてみても、ジョージ・ファーカー(1678-1707)、ウィリアム・コングリーブ(1670-1729)、トマス・バーネル(1679-1718)、ローレン・スターン(1713-1768)、オリヴァー・ゴールドスミス(1728-1774)、リチャード・ブリンズリー・シュリダン(1751-1816)、シェリダン・レ・ファニュ(1814-1873)、ブラム・ストーカー(1847-1912)、オスカー・ワイルド(1854-1900)、ジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)、サー・コナン・ドイル(1859-1930)、ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)、ジョン・ミリントン・シング(1871-1909)、ダンセイ卿(1878-1957)、ショーン・オケーシ(1880-1964)、ジェームズ・ジョイス(1882-1941)、ショーン・オフェイロン(1900-1991)、サミュエル・ベケット(1906-1989)、フラン・オブライエン(1911-1966)、アイリス・マードック(1919-1999)、ブレンダン・ビーアン(1923-1964)、ウィリアム・トレヴァー(1928-   )、エドナ・オブライエン(1932-  )、ジョン・マクガハン(1934-2006)、トマス・マーフィ(1935-  )、シェイマス・ヒーニー(1939-  )、ロディ・ドイル(1958-  )など多数いる。

「ダブリン市民」を書いたジェイムズ・ジョイスは故郷ダブリンを捨て、国外を放浪しつづけて一生を終えたが、その作品はアイルランド人、ダブリン市民を対象にしたものが多かった。

サボ島沖海戦

    昭和17年10月11日、第6戦隊・第11駆逐隊(青葉・衣笠・古鷹・吹雪・初雪)は、ガダルカナル島への輸送部隊の支援とヘンダーソン飛行場への艦砲射撃の任務を与えられて出動した。旗艦青葉の見張り員が米艦隊を発見したものの、艦長・五藤存知少将は味方艦隊と誤認し、発光信号で「ワレアオバ」を連発した。米軍は新兵器であるレーダーにより、先制攻撃を行い、青葉は集中砲火を浴びる。古鷹の艦長荒木伝大佐は青葉を守るため、敵艦と青葉の間に割り込んだ。このため古鷹が被弾することになり、10月12日、大破炎上し沈没する。青葉は古鷹の捨て身の奮戦でなんとか助かった。サボ島沖海戦は、日本海軍が得意としていた夜戦が、アメリカのレーダー技術に敗れた戦闘であった。

落葉のうた

   イェイツ  「落葉のうた」

 ふたりを愛でけむ

 鬱茂たる木の葉の上に

 大麦の梱にひそむ

 二十日鼠の上だにも

 秋更けてけり

 ななかまどの葉

 頭上に黄ばみ

 阿蘭陀苺の濡れそぼつ

 葉も黄ばみつる

 わが恋のつひの日の

 いとせちに迫り来て

 いまし 悲しき心ごころも

 萎え果てつ

 いでや項垂れし

 なが額に接脣て

 はた泪を泫れ

 別れなむ

 恋慕のときの逝かぬまに

        (日夏耿之助訳)

    ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)は、日本で最も愛読された詩人の一人である。彼自身また日本の能や詩歌に興味を抱き、日本人の知人も多い。野口米次郎、伊藤道郎、山宮允、尾島庄太郎等の人々はイェイツとの交流をそれぞれに書いている。その詩、とくに初期の甘美で優雅な抒情詩は、ウィリアム・ブレークの系統を引いた神秘主義の傾向を持っているが、同時に、フランスの象徴派、とくにヴェルレーヌの影響を受けて成立したものである。その場面、詩材の多くは、ケルト民族として特異な文化伝統を持つ彼の故郷アイルランドの民話や伝説に依拠している。

    アイルランド、とくにカトリックの多いその南部諸州は、長い間イングランドの支配下にあって、幾度となく、独立運動を起こし、流血の戦があった。イェイツは革命運動には参加しなかったが、芸術の分野において、祖国の精神と伝統を詩や劇の芸術運動の中に盛りあげ、アイルランド文芸復興運動と言われるものの中心人物となった。彼のまわりには、劇作家としてのイザべラ・オーガスタ・グレゴリー(1852-1932)、ジョン・ミリントン・シング(1871-1909)、エドワード・マーティンらがおり、また詩人エー・イーがおり、政治家にもなった学者のダグラス・ハイド等の著名な人物がいた。ダブリンには、その文芸復興運動の劇場としてのアベイ・シアターが設けられた。

    イェイツは1865年6月13日、アイルランドのダブリンの南東サンディマウントに生れた。父ジョン・バトラー・イェイツはラファエル前派の肖像画家であった。幼年時代をアイルランド西北部の田舎のスライゴーで過ごした。その土地の風光や民謡、超自然的な伝説は、彼の作品に多彩で複雑な情緒と象徴を与えることになった。15歳の時、ダブリンに戻り公立学校エラスムス・スクールに入り、画家になる目的で美術学校に入った。その当時はスペンサー、ブレーク、シェリー等を愛読した。ロンドンとダブリンにアイルランド文芸協会を設立し、自ら劇「カスリーン伯爵夫人」を書いて上演した。ダブリンのアベイ・シアターが設けられたのは、1903年のことである。1917年、イェイツは、アイルランド独立運動の闘士で女優であったモード・ゴン(1865-1953)にプロポーズをして断わられた後、30歳年下のジョージー・ハイド・リースと結婚している。1923年ノーベル文学賞を受賞。1939年1月28日、南フランスにて心臓麻痺で死去。作品には「アシーンの放浪」「ジョン・シャーマンとドーヤ」「イニスフリーの湖島」「薔薇の巻」「やちまた」「葦間の風」「塔」「クール湖上の白鳥」「ケルトの薄明」等がある。(「世界近代詩十人集」伊藤整編)

2007年11月24日 (土)

「窓」デ・ラ・メアの詩

   白い猿の兄弟ヤンボー(里見京子)、ニンボー(横山道代)、トンボー(黒柳徹子)が親と死に別れて力を合わせながら旅をする「ヤンボーニンボートンボー」というNHKラジオドラマがあった。この話は飯沢匡(1909-1994)が、ウォルター・デ・ラ・メア(1873-1956)の「サル王子の冒険」をヒントにして作ったといわれる。デ・ラ・メアには童謡や子供向けの詩も多いが、その内容には死や人生への深い思索を含んでいる。

    デ・ラ・メアはイギリスのケント州チャールストンで1873年4月23日、ユグノーの子孫として生れた。母は詩人ロバート・ブラウニングの遠縁にあたる。4歳のとき父が亡くなったため、母から聞いたおとぎ話、伝説などによって大きな影響を受けた。ロンドンのセント・ポール校を卒業後、18年間石油会社の会計士をしていたが、1902年にウォルター・ラマルという筆名で詩集「幼時の歌」を出し文名を確立。続いて小説「ヘンリー・ブロックン」を出した。1908年、会社をやめ作家生活に専心するようになり、詩集「耳をすます人ら」(1912)「雑色その他」、小説「小人の思い出」(1921)、童話「三匹の猿王子」(1919)などを発表。「三匹の猿王子」はサム、シンプル、ノッドの三匹の猿が、父の国ティシュナーの谷まで苦難にみちた旅をする話で日本でも飯沢匡「サル王子の冒険」、脇明子「三匹の高貴な猿」など翻訳が出ている。他に「無常その他」「ヴェールその他」「旅人」(1946)「内なる仲間」「翼にのった馬車」(1951)「子どものための物語集」(1949年カーネギー賞)「くじゃくのパイ」(1913)などがある。1956年6月22日、逝去。

      窓

ブラインドのかげにすわり

ぼくは見つめている

外を行きかう人びとを

通りすぎる人たちを

だれひとりとして気づかない

じっと見ているぼくの小さな目には

だれにも見えない

ぼくの小さな部屋は

ブラインド越しの太陽で

みんな黄色く見えるこの部屋は

だれも知らない

ぼくがここにいることさえも

だれも気づかない

ぼくがいなくなっても

        *

     かくれんぼ

かくれんぼしよう、と風がいう

森のこかげで

かくれんぼしよう、と月がいう

ハシバミの木の実に

かくれんぼしよう、と雲がいう

星から星へ

かくれんぼしよう、と彼がいう

港の砂州で

かくれんぼしよう、とぼくもいう

自分で自分にいってみて

目ざめの夢をあとにして

眠りの夢にすべりこむ

永山一夫と「ゼロ戦黒雲隊」

    ブーゲンビル島の南側にバラレ、ファウロ、ピエズなどのショートランド諸島がある。昭和18年4月18日午前7時30分過ぎ、連合艦隊司令長官・山本五十六は、ラバウル基地からバラレ島に赴く途中、米軍戦闘機の襲撃を受けた。午前7時50分頃、山本長官搭乗の一番機は、モイラ岬のジャングルに墜落、山本五十六以下11名は全員死亡。

   バラレ島は小さな島であったが昭和18年頃は、ここを根拠地として零戦の航空隊が活躍していた。そのような航空隊の活躍を描いたドラマ・映画・漫画は昭和30年代数多くつくられた。漫画では、ちばてつや「紫電改のタカ」、貝塚ひろし「零戦レッド」、九里一平「大空のちかい」、辻なおき「0戦はやと」「0戦太郎」。映画では、石原裕次郎の「零戦黒雲一家」、加山雄三の「ゼロファイター」「太平洋の翼」など。

   テレビドラマでは「ゼロ戦黒雲隊」(昭和39年)があった。加茂正人(亀石征一郎)隊長が南方最後の基地バラレ島に指揮官として赴任したのは、米軍の攻撃は日増しに激しくなる昭和18年のことであった。バラレを死守する40数名の部下たちはならず者の集団だった。隊員のなかでも中村甲太(永山一夫)はとくに乱暴者であった。加茂は中村と対立しながらも、やがて強い絆で結ばれ、「ゼロ戦黒雲隊」と敵に恐れられた強力な部隊を統率していった。

   永山一夫の俳優としての活躍はこの「ゼロ戦黒雲隊」をはじめとして「空手三四郎」、映画「日本暗黒史」「昭和残侠伝」など迫力のある演技が光った。永山はNHK番組「おかあさんといっしょ」の人形劇コーナー「ブーフーウー」の狼の声としても知られていた。

   永山一夫はテレビ初期に日本人に強烈な印象を残した俳優である。本名コン・ヒョンスン。永山は二人の子どもを連れて昭和46年10月24日、万景峰号で北朝鮮に帰国した。当時36歳で売れっ子の俳優の突然の帰国は週刊誌などでも大きく取り上げられた。「社会主義の祖国」「地上の楽園」と謳われ夢を抱いて北朝鮮に帰国したが、その多くは悲惨な現実に直面したという。しかし約9万人といわれる北朝鮮帰国者たちのその後の人生がどうであったかという詳しい情報はいまではわからないという。北朝鮮帰還事業を思うと、いまでも永山一夫のドスの聞いた声が耳に残る。フランク赤木が歌う「ゼロ戦黒雲隊」の主題歌。

  空が赤いぜ赤いぜ血潮の色だ

  雲が走るぜ走るぜ果て無く遠く

  行くぞ大空風切って

  翼ひとふりにっこり笑う

  ゼロ戦ゼロ戦黒雲隊

2007年11月22日 (木)

キーツとファニー・ブローン

   映画「ローマの休日」の舞台で知られるローマのスペイン広場。イギリスの抒情詩人ジョン・キーツ(1795-1821)はこのスペイン広場近くの家で1821年2月23日に25歳の生涯を閉じた。現在はキーツ・シェリー記念館となって、キーツの髪の毛やシェリーの骨壷があるという。そういえば映画の中でアン王女(オードリー・ヘプバーン)がうわ言で詩の一節を言うのだが、新聞記者ジョー・ブラッドレー(グレゴリー・ペック)と作者がキーツかシェリーかで言い争うシーンがあ.る。「アスレーザはアクロセラニアンの山の雪のしとねから身を起こし」この詩の作者はジョーが言うとおりシェリーだそうだ。そして、映画「ローマの休日」の二人か結ばれなかったように、キーツとファニーの恋も実らなかった。

   キーツは、ロンドンのムア・ゲイト(モーゲート)85番の貸馬屋の長男として生れた。1814年からロンドンの医学校でまなび、その後、医者をこころざして、免許をとったが、開業せず、詩人になろうと決意した。1818年夏にキーツはハムステッド・ウェントワース・プレースの下宿の近くに住んでいた美しい少女ファニー・ブローンを見初め恋におちる。キーツ22歳、ブローン18歳。しかしキーツは結核を発病した。医者の勧めもあり、ファニーとの結婚を諦め、ハムステッドの下宿を大きな未練を残しながら去り、ローマを療養の地とした。しかし友人ジョーゼフ・セーバンの看病も空しく、かの地で亡くなった。

   ファニーに寄せるうた

          1  

自然という医師よ。わたしの魂から血を抜いておくれ。ああ、わたしの心から詩を取り出し安らかにしておくれ。息づまるほど切ない詩情をわたしのこの満ち溢れる胸から退いてゆくまで、おまえの祭壇にわたしを投げ出しておくれ。主題。主題。大いなる自然よ。主題をおくれ。わたしに夢を見させておくれ。わたしはここに来ておまえがそこに立っているのがわかる。冷たい冬の空のしたに私を連れ出さないでおくれ。

          2

ああ、愛する女よ。わたしの怖れと希望と悦びと息切れのするような耐え難さをすべて宿すひとよ。思えば今夜のあなたの美しさはまるで楽しい微笑を浮かべていることでしょう。うっとりと、胸のいたくなるような、奴隷的な目なざしで、あまい驚きに我を忘れて、見つめれば見つめるほど素晴らしく明るい微笑を浮かべて。

          3

どん欲な目つきで、いま、わたしの目のごちそうを食い荒らすのは誰か。わたしの銀いろの月をいま曇らせるほどしつこく見つめているのは誰か。ああ、せめてその手だけは汚さないでおくれ。どうかどうかその恋の焔を燃やしておくれ。けれどどうかおまえの心のながれを私からそんなに早くそらさないでおくれ。ああ、わたしのために哀れと思ってあなたの高鳴る胸の動悸をとっておいておくれ。

          4

そいつをとっておいておくれ。愛する女よ。わたしのためにたとい音楽がみだらな思いを暖かい空気に混ぜるようとも。踊りの危険な誘惑の環のなかを飛びまわる時にも、あたかも四月の日のように。微笑み冷静でたのしくあっておくれ、美しくしかもつつましい百合の花であっておくれ。そうすればきっと暖かな六月がわたしにもやって来るだろう。

          5

まあ、それは嘘よと、あなたは言うだろう。ファニーよ。あなたの柔らな子を心臓の高鳴る真白い胸において、告白しなさい。なんでもないことだけど。女は海に浮ぶ軽い羽根のように風にゆられ波にゆられて、ふらふらしてはいけないでしょうかと。牧場からとんでくるたんぽぽの頭のように気まぐれに飛んだりしては。

          6

私にもそれはわかる。でもそれは失望です。ファニーよ、わたしのようにあなたを愛しているものにとっては、わたしの心はどこへでもあなたを求めて飛びまわり、あなたが外にぶらりと出かけるとわたしの心はわびしくて落ちつかない。愛。愛だけが厳しい、多くの苦痛をもっている。だから恋しいひとよ、どうか、苦しい嫉妬から私を自由にしておくれ。

          7

ああ、もしあなたが哀れな色褪せた短かい一時間の誇りよりわたしの押さえた魂をほめてくれたら、誰にもわたしの恋の神聖な座を汚させはしない。また荒々しい手で秘跡のパンを裂かせることも許さない。誰にもまたその新しく芽を出したばかりの花に触れさせない。もし触れたら恋人よその失われた休息のうえに、わたしの目を閉じさせておくれ。(出口泰生訳)

2007年11月19日 (月)

矢内原忠雄とキリスト教の出会い

   島地雷夢(1879-1914)は、西本願寺の執行をつとめた島地黙雷(1838-1911)の長男である。仏教界の大立者の子息がキリスト教に入信したという話は当時かなりの話題となった。その島地雷夢は神戸で中学校の倫理の教師をすることになった。

    神戸尋常中学校(のち神戸一中と改称)の初代校長の鶴崎久米一は内村鑑三、新渡戸稲造と同級で札幌農学校出身である。おそらく鶴崎が島地を神戸へ呼んだのであろう。

    鶴崎校長、島地教諭の時代に、若き日の矢内原忠雄(1893-1961)は神戸一中で学ぶ生徒であった。矢内原は一高時代に内村鑑三・新渡戸稲造に私淑し、信仰上・思想上大きな影響を受けたことはよく知られているが、一中時代の明治41年ころ、すでに島地からキリスト教の信仰に関する何らかの影響を受けていたと推測する。だが、島地は5年後の大正3年に、神戸の御影の寄宿先で36歳の若さで早世する。

2007年11月18日 (日)

三淵忠彦と萱野権兵衛

   初代最高裁判所長官(在任、昭和22年ー25年)である三淵忠彦(1880-1950)の父は、三淵隆衡といい、会津藩家老・萱野権兵衛(萱野長修、1830-1869)の実弟である。

    幕末の動乱期、京都守護職に任ぜられた会津藩主・松平容保は、公武合体を推進し、佐幕派列藩同盟の中心となっていったが、思わぬ形勢の変転から会津は朝敵の汚名を被ることとなる。会津戦争で鶴ヶ城開城降伏のとき、主君に代わって藩の全責任を一身に負い、切腹したのが萱野権兵衛である。明治2年5月18日、飯野藩保科正益の広尾別邸において自刃、享年40歳であった。介錯に当たったのは、後にキリスト教牧師・教育者として知られた井深梶之助(1854-1940)の父・井深宅右衛門である。萱野家の家名は断絶されたため、三淵を名乗ることとなった。三淵忠彦は司法の新制度の確立に尽力した。幕末維新の敗者の側に立った史書に山川浩著『京都守護職始末』がある。山川浩(1845-1898)は草稿の段階で没し(明治31年)、実際の執筆は弟である山川健次郎(1854-1931)の手によってなり明治44年に完成された。

大正期の京都学派たち

    西田幾太郎(1870-1945)は、京都帝国大学を退官する際、自らの人生を顧みて「教室の黒板に向かって一回転したと言えば私の伝記は尽きるのだ」と言った。西田が「善の研究」を著わしたのが明治44年のことである。この時代の京大には錚々たる面々の教授陣であった。明治40年に新聞記者であった内藤湖南が狩野亨吉に招かれて講師、のち教授となり、狩野直喜とともに東洋史の京都学派を育てた。東洋史ではこのほか羽田亨、小島祐馬、中国文学の鈴木虎雄、中国天文学の新城新蔵、考古学の濱田耕作、地理学の小川琢治、日本史では経済史の内田銀蔵、西洋史では坂口昴、哲学では朝永三十郎、西田幾太郎がいた。美学美術史では深田康算、国語学では「広辞苑」で知られる新村出もいた。

    戦後、湯川秀樹が日本人として最初の、朝永振一郎が2番目となるノーベル賞を受賞している。湯川は小川琢治の三男であり、朝永振一郎も朝永三十郎の長男である。2人は戦前の京都での学問的雰囲気のなかで育ち、研究者としての気質を自然と身につけたものであろう。

円覚寺帰源院と漱石

    夏目漱石(1867-1916)は神経衰弱の病状が著しかったので、親友・菅寅雄に相談して、明治27年12月22日あるいは23日に鎌倉円覚寺に参禅している。搭頭、帰源院に釈宗活をたづね、その手引きで管長の釈宗演(1959-1919)のもとで座禅をした。翌年の1月8日には帰京しているので、わずか半月の修業だった。しかしこの体験は小説『門』などいつくかの作品に出てくる。『門』の一窓庵は帰源院のことで、老師は釈宗演、宣道は釈宗活がモデルであろう。後年、漱石は「私は円覚寺で座禅をしたように言うが、私には何も出来ていません。全くの唯の凡夫です」と語った。

    ところで、釈宗演老師は明治26年9月にシカゴで開かれた世界宗教会議で「仏教の要旨並びに因果法」と題する講演をした。禅が世界の「ZEN」となる海外普及の端緒を開いた人物である。

2007年11月17日 (土)

地の塩

  勇気こそ 地の塩なれや 梅真白

   中村草田男(1901-1983)のこの有名な句は、昭和19年の学徒出陣の教え子への餞に作られたという。「地の塩」とはマタイの福音書にある山上の垂訓に見られる言葉。イエスが群衆に向かって、人間のあるべき姿を説いた教えの一つである。

あなたがたは、地の塩です。もし、塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょうか。もう、何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

    冬の寒さを耐えて早春に梅が花開くように、真の勇気とは、自ら死を望むようなことをせずに、生きて帰ってくることを願う気持ちが込められている。句集「来し方行方」(昭和22年)に収められているこの句を読むと、この頃からすでにキリスト教への関心はかなり深かったように見受けられる。草田男は昭和58年8月に亡くなる前日、洗礼を受けてクリスチャンになった。

大正デモクラシーとキリスト教

    宮城県における大正デモクラシーの三羽烏といえば、吉野作造(1878-1933)、内ヶ崎作之助(1877-1947)、小山東助(1879-1919)である。三人は同じ仙台第二高等学校の卒業である。明治20年に第二高等学校が創設されたが、明治中期ころ、仙台では英語の学習のためキリスト教も学生たちの間で関心が高かった。

    明治30年、栗原基(1876-1967)は尚絅女学校の校長をしていたアンネ・サイレーナ・ブゼル(1866-1936)が土曜日の夜間に開いていた聖書研究会に同級の内ヶ崎を誘った。その後、吉野作造、小山東助、島地雷夢(1879-1914)、小西重直(1875-1948)、深田康算(1878-1928)、斉藤信策らもこれに参加した。鳥地は明治31年6月25日、広瀬川で徹夜の祈りを捧げ、神の御手に触れた体験を与えられた。翌日曜日、吉野、内ヶ崎らと共に特別祈祷会を持ち受洗を誓い、7月3日に中島力三郎から浸礼を領した。

    アンネ・S・ブゼルはアメリカのネブラスカ州ジュニアタに生まれ、父も熱心な開拓伝道牧師だった。少女時代から日本への伝道の志をもっていたという。明治25年11月25日、26歳で宣教師として来日、仙台に赴任した。キリスト教の伝道と女子教育に生涯をかけた。大正4年、校長を辞してからも盛岡、八戸、遠野、塩釜、利府および登米などに宣教し、教会・幼稚園などを設立した。

   後年、栗原基は「ブゼル先生伝」を著わしている。(昭和15年)参考までに栗原基の他の訳書も記しておく。「バーバンクと植物品種の創造」(昭和17年)、「近代基督教思想史」マッギファート著(昭和5年)、「イエスの人格」フォスヂック著(昭和28年)、「ナザレ人イエス」H.E.フォスヂック著(昭和29年)、「宝瓶宮福音書」リバイ・ドーリング著(昭和45年)「信仰の意義」などキリスト教関係が多い。しかしながら栗原基の専門は英語学である。とくに明治43年の「英語発達史」(博文館)は英語史のまとまったものとして日本では最初のものであろう。明治40年に藤沢周次と共編で「英国文学史」を出版している。92歳の生涯をかけて栗原基はブゼル女史から学んだ信仰と英語を日本に伝えたのである。

吉野作造、夏の日の恋

    大正デモクラシーの旗手・吉野作造(1878-1933)といえば、「民本主義」で知られるが、実はこの民本主義という概念を初めて提唱したのはジャーナリスト・茅原崋山(1870-1952)である。吉野作造の師である小野塚喜平次(1871-1944)はデモクラシーを「衆圧主義」と訳していた。吉野のねらいはデモクラシーの定着にあったが、大日本帝国憲法下においては天皇主権が法理学上の建前であったため民主主義(主権在民)という言葉を避けて、茅原の「民本主義」を踏襲したのである。(「民本主義鼓吹時代の回顧」)吉野の民本主義は大正5年「憲政の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途を論ず」(中央公論)という論文によって、一躍、新時代をリードする主張となった。

    吉野作造は明治11年1月29日、宮城県志田郡古川町字大柿村96番地(現在・古川市十日町)で生まれる。明治30年9月に仙台第二高等学校に入学し、翌年7月、仙台浸礼教会牧師より洗礼を受ける。夏休みの旅行先で同じクリスチャンで18歳の仙台女子師範学校の女学生・阿部たまの(1880-1959)に出会う。夏の恋はそのまま結婚へ発展した。明治33年9月に東京帝国大学に入学したときは、吉野作造はすでに妻帯者だった。

その名はヨハネ

   ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの祭司組の者でザカリアという名の祭司がいた。彼にはアロンの娘であるエリザベツという妻がいた。ふたりは老年に達していたが子がなかった。

    ある日、ザカリアが祭司の務を行いエルサレム神殿で香を焚いていると、天使ガブリエルが来て、ヨハネの誕生と将来を予言した。しかしザカリアはこれを信じなかったため、口がきけなくなった。

   やがて不妊だったエリザベツに男の子が生まれた。いまだ口のきけないザカリアは、子の名と聞かれ「その名はヨハネ」と書いた。するとザカリアはたちまち口がきけるようになった。

   祭司ザカリアとエリザベツは年老いて授かったヨハネを可愛がり育てた。ヨハネは成長し、駱駝の毛皮をまとい皮の帯をしめ、人々に「悔い改めよ、神の国が近い」とヨルダン川付近において伝道を行うようになった。ある日、イエスは「わたしにバプテスマを施してもらいたい」とヨハネに言った。ヨハネはすぐにイエスを制し、「私こそあなたからバプテスマを受ける必要のある者ですのに、あなたが私のもとにおいでになるのですか」と言って、謙遜な態度を示したが、イエスはヨハネから洗礼を受けた。(紀元28年)

   その後、ヨハネはヘロデ王家の不倫を批判したために捕らえられ処刑された。洗礼者ヨハネはイエスを「世の罪を除く神の小羊」として人々に紹介した「イエスの証人」であった。なお、ルカによるとヨハネの母エリザベツとイエスの母マリアとは親戚で、マリアはエリザベツのところに3ヵ月滞在したという間柄であった。

この方はナザレ人と呼ばれる

    現在のナザレの町がイエスの時代のナザレと同じ場所であるのかは定かではないが、イエスが育ったナザレの村はガリラヤ湖の西岸にある首都ティべリアからかなり離れた一寒村であった。また現在のナザレは都市となり多くのアラブ人(67%がイスラム教徒、33%がキリスト教徒)が住んでいるが、紀元前後の古代ナザレの村はユダヤ人のみが住んでいた。

   新約聖書では、キリストを「ナザレ人(びと)イエス」と呼んでいる。(マタイ2:23)福音書の記事によると、「この方はナザレ人と呼ばれるであろう」という預言の成就とされている。当時マタイが牧会していたと思われるシリア地域では、キリスト者が「ナザレ人」と呼ばれており、そう呼ばれることは、ユダヤにおいては蔑みの響きがあった。おそらく、ナザレのような地方の一寒村から、救い主が出るものであろうか、という気持ちも含まれていたかも知れない。しかし、「ナザレ」という発音は、「枝」(イザヤ11:1)がへブル語で「ネシェル」と発音されることから、古くから次のような聖句を引用して解釈されることがある。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若芽が出て実を結ぶ」つまり、ダビデの父エッサイの名で呼ばれる根株から新芽が生え、そこから若芽が出て実を結ぶ。イスラエルはその若芽をメシヤと理解し、その到来を待望していた。若芽であるイエスが美しい自然のあるナザレ村で育ったことはイザヤの預言に合致するのである。

2007年11月16日 (金)

イエス・キリストの生い立ち

    「イエス」とは、ヨシュアというへブル語名のギリシヤ語の形で、「主は救い」を意味している。これは、マリヤから生まれてくる男の子の名を「イエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ)という主の使いによって与えられた解釈と合致している。

    「キリスト」とは、へブル語の「メシヤ」のギリシヤ語訳で、「油注がれた者」という意味である。旧約時代においては、神は人を特定の聖職に召された時、その任務を遂行するために必要な御霊と力を授けられたことの象徴として、油を注いで任職した。一方、イスラエルの民は、その歴史を通じて王、祭司、預言者の職を一身に兼ね備えた救い主を待望してきた。こうしたことを背景にして、「メシヤ」は神によって立てられた救い主に対する術語として用いられるようになった。復活後の使徒教会において、メシヤのギリシヤ語訳である「キリスト」はイエスに対する呼び名として広く用いられるようになった。

    イエスの生い立ちについて、特にマタイとルカの福音書が伝えている。マタイはどちらかというとヨセフの立場から描いており、ルカはマリアの立場から描いている。しかし、二つの福音書の記述には一致点も多く見られる。イエスがベツレヘムで生まれたこと、ヨセフの許婚者であったマリアより生まれたこと、ダビデの家系であること。そして特に注目すべきことは、マリアがまだ処女であった時に、イエスは聖霊によって宿り、神の御子として生まれたという事実を一致して伝えていることである。

2007年11月15日 (木)

ベツレヘムの星

    イエス・キリスト生誕の地はエルサレムの南方約8キロにあるベツレヘムとされている。一般にイエスの生年はヘロデ大王(在位前67年ー前4年)の死んだ紀元前4年の少し前とされる。誕生から間もなく(1月6日「主御公現の祝日」)救世主の誕生を祝う星が東方からやって来た3人の博士(マギ)たちを導いて、幼児イエスのいるベツレヘムまでゆき、その上でとどまった。ベツレヘムの星である。まさしくイエスはメシア・キリストという証明なのだ。東方三博士の名はガスパール、バルタザール、メルチョールの三人。ガスパールは金髪で白人の若い博士。イエスに乳香を贈った。バルタザールはひげの褐色の肌の壮年博士。イエスに没薬という高価な薬を贈った。メルチョールは白いひげの白人の老博士。イエスに黄金を贈った。黄金はイエスの生まれながらにもつ王権をあらわす。

    イエスが誕生したことを知ったヘロデはベツレヘムの2歳以下の男子を皆殺しにしようとした。ヨセフ、マリア、イエスたちは、危うくエジプトへ逃れた。

2007年11月14日 (水)

ラグビーと青春

    「空に燃えてるでっかい太陽 腕にかかえた 貴様と俺だ」と布施明が歌う「貴様と俺」は夏木陽介主演の「青春とは何だ」の挿入歌だ。ドラマの山場に流れるので主題歌よりも有名になった。むかしの学園ドラマはラグビー、サッカーなどの球技クラブを主体に熱血教師の奮闘ぶりを描くので、試合のシーンが多い。「貴様と俺」は永遠の青春の応援歌となった。そして青春ドラマの花形スポーツといえばサッカーよりもラクビーがまさるように思う。「青春とは何だ」「でっかい青春」(竜雷太)「われら!青春」(中村雅俊)「スクール・ウォーズ」(山下真司)はラグヒーを通じて友情、団結、純愛を描く青春ドラマだった。

  「紳士が行なう獣のスポーツ」と形容されるラグビー。正式名称は「ラグビー・フットボール」という。イギリスのパブリック・スクールで各校独特のルールで盛んにおこなわれていたが、1823年ラグビー校におけるゲーム中興奮のあまりウィリアム・ウェブ・エリスが規則と慣習に反して相手のキックを受けてそのまま走ったことが契機となってラグビー・ゲームの特徴が創始されたと言われている。また一説にはエリスは興奮のあまりボールを受けて走ったのではなく、彼が故郷のアイルランドでやっていたゲーリック・フットボールのプレーをそのままやったにすぎないともいわれている。ラグビーとサッカーがさまざまな点で類似するのはその起源を同じくするためである。

  日本で初めてラグビーを指導したのは明治32年の秋、イギリス人英語教師エドワード・ブラムエル・クラーク(1874-1934)が慶応義塾の学生たちに伝えたのが最初とされる。クラークはまだ日本語が上手でないため、ケンブリッジ大学で同級生だった実業家の田中銀之助(1873-1935)にコーチを依頼し、共に学生たちの指導を始めた。(因みに田中銀之助は「天下の糸平」といわれた田中平八の孫である)当初は、麻布の仙台ヶ原(現在の南麻布一丁目)の野原をグラウンドにして練習していた。その前からあった横浜の外人クラブと明治34年に最初の試合が行なわれた。明治43年には京都第三高等学校、明治44年には同志社大学、大正7年には早稲田大学ラグビー蹴球部が創部された。昭和4年に大阪に花園ラグビー場が、昭和22年に港区青山に東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)がラグビー専用競技場として誕生した。日本におけるラグビーは大学・社会人を中心に発展してきたといえる。

特攻隊長の恋

    島尾敏雄(1917-1986)は、大正6年4月18日、横浜市戸部町3丁目81で生まれる。父・島尾四郎、母・島尾トシ。昭和19年10月、海軍第18震洋隊(特攻隊)183名の指揮官として、奄美諸島加計呂麻島呑之浦に駐屯する。島尾はノロの家系の娘・ミホと恋に落ちる。昭和20年8月13日に発動命令が下されたが、そのままの状態で終戦を迎える。9月、特攻兵だけ佐世保で解員、神戸の父のもとへ帰る。妹・原美江が満州奉天で死亡。昭和21年、ミホと神戸で結婚。昭和22年、富士正晴編集「VIKING」の同人となり、「単独旅行者」、翌年「夢の中での日常」(「総合文化」)などによって戦後派作家として文壇に登場する。昭和35年7月に発表した「死の棘」(「群像」)で芸術選奨を受賞。「死の棘」は、トシオ、ミホという実名に近い主人公であるため実話のように捉えられがちだが、後年、妻の島尾ミホ(1919-2007)が「死の棘を含めてほとんどの作品を私が清書した」と語ったように、作品はあくまで虚構であろう。長男の島尾伸三(写真家)、長女・島尾マヤ(1950-2002)、孫は漫画家・しまおまほ。

テキサスの黄色いバラ

    アメリカ民謡「テキサスの黄色いバラ」の「黄色いバラ」とは、テキサスのメキシコからの独立を成功に導いた伝説の女性エミリー・モルガンを指す。

    1836年3月6日、サンタ・アンナ将軍の率いる3000人のメキシコ兵はサン・アントニオに進軍してきた。デビッド・クロケット、ウィリアム・バレット・トラビス、ジェームズ・ボウイら189人の市民と義勇兵はアラモ教会を砦として籠城した。アラモの砦は13日間の攻防のすえ、全滅する。しかしメキシコ軍も4月21日にはサン・ジャシントの戦いでサミュエル・ヒューストン将軍に敗北する。これによりテキサスはメキシコから独立し、テキサス共和国となる。1845年にアメリカ合衆国に加盟した。

2007年11月13日 (火)

田園詩人ジョン・クレア

    イングリッシュ・ローズの中でも多産なバラで人気の「ジョンクレア」は、ある詩人に因んで命名された。しかし今日、華やかなバラの名として知られる「ノーサンプトンシャーの貧農詩人」ジョン・クレアのことは日本ではほとんど知られていないだろう。

    ジョン・クレア(1793-1864)はイギリス・ノーサンプトンシャーの貧しい家庭の生まれで、正式の教育をほとんど受けなかったが、幼少の頃から旺盛な読書欲を示した。1808年、ジェイムズ・トムソンの「四季」を読んで詩を志した。1820年最初の詩集を出版。貧困のため憂鬱病に患かり、1837年に精神病院に入ってその悲しき人生を終えた。初恋の人メアリー・ジョイスへの恋歌など生涯に数冊の詩集を出したが、全然売れなかった。「田園生活の描写」(1820)「村の吟遊詩人」(1821)「牧人の暦」(1827)「田舎の詩神」(1835)など。その詩はワーズワース風で、イギリスの四季の田舎風景を歌い、独自の叙情性がある。

      初恋

あの時まで あれほど急に

甘い恋に おちいったことはなかった

彼女の顔は甘い花のように輝き

僕の心はすっかり奪われた

僕の顔は死人のように青ざめ

立ちすくんでしまって歩けない

彼女が僕を見たなら

どれほど悩んだだろう

僕のいのちすべてが

泥に変わってしまったようだ

2007年11月12日 (月)

天下の糸平

   田中平八(1834-1884)は、天保5年7月11日、信州赤穂(長野県駒ヶ根市)に藤島卯兵衛の第三子として生まれた。生家は資産家であったが、米と綿相場で失敗し、没落。飯田の田中安兵衛の娘・田中はると結婚し、田中姓となる。慶応元年、横浜南仲通三丁目で、糸屋平八商店を開業し、両替商と生糸・茶などの輸出をはじめる。一時藤田小四郎らの筑波山挙兵に参加し、獄に在ったが、再び生糸・為替・洋銀・米相場で巨利を得る。明治の花柳界で遊び上手として、「糸屋の平八」「天下の糸平」の名は知られた。

2007年11月11日 (日)

死に至る病

    セーレン・オービエ・キェルケゴール(1813年5月5日生。1855年11月11日没)は父ミカエル・ペーダーゼン・キルケゴールと母アンネ・セーレンスダッター・ルンとの間の7番目の末子としてコペンハーゲンに生まれた。父は実業家であったが、宗教的苦悩を内に秘めた人であり、キルケゴールは、この父の影響を受けて憂愁な性格と罪の意識が強かった。「私は生まれたときから老人であった」と自らの幼児期を追想している。

    キルケゴールは、コペンハーゲン大学を出て、ベルリン大学に学ぶ。生涯定職につかず、父の遺産によって生活し、著作生活を送った。

    1849年、アンティ・クリマックスという偽名を用い、「死に至る病」を著わす。第一編「死に至る病とは絶望である」第二編「絶望は罪である」。キルケゴールは、現代人は深刻な精神の病気にとりつかれていると洞察する。「絶望するものは、絶望して自己自身であろうと欲する。しかし、もし彼が絶望して自己自身であろうと欲するのなら、彼は自己自身から抜け出すことを欲していないのではないか。たしかに、一見そう思われる。しかし、もっとよく見てみると、結局この矛盾は同じものであることがわかるのである。絶望者は絶望してあろうと欲する自己は、彼がそれである自己ではない。すなわち、彼は彼の自己を、それを措定した力から引き離そうと欲しているものである。しかしそれは、どれほど絶望したところで、彼にはできないことである。絶望がどれほど全力をつくしても、あの力のほうが強いのであって、彼がそれであろうと欲しない自己であるように、彼に強いるのである。しかし、それにもかかわらず、彼はあくまでも自己自身から、彼がそれである自己から、脱け出して、彼が見つけ出した自己であろうとする。彼の欲するような自己であるということは、それがたとえ別の意味では同じように絶望していることであろうとも、彼の最大の喜びであろう」

    1837年、キルケゴールは、24歳のときレギーネ・オルセンという少女に出会い、3年後に婚約した。しかし、翌年8月、彼はこの婚約を理由も告げず一方的に破棄した。これは彼の生涯を決定した最大の出来事であった。他人の運命を支配することになる結婚へのおそれからである。5年後レギーネは他の人と結婚したが、キルケゴールは終生レギーネを愛し、独身で過ごした。レギーネは夫と西印度諸島へ赴任する直前、彼に通りすがりに会釈した。キルケゴールは話しもせずに行き過ぎてしまった。これが2人の最後の別れだった。彼はその年の10月2日、街路上で昏倒し、11月11日、42歳の若さで死亡した。

マックス・ベックマン

   マックス・ベックマン(1884-1950)は、ドイツ表現主義を代表する画家。1903年、19歳のときにパリへ出て、マネの印象主義の影響を受けた。第一次大戦に衛生兵として参加したが、そこで目のあたりにした戦争による悲惨な体験が彼の芸術に大きな影響を与えた。とくに1918年の「夜」はその典型的な作品である。ドイツの敗戦による荒廃と戦後の混乱した世相は、オットー・ディックス(1891-1969)、ゲオルグ・グロッス(1893-1959)らのいわゆる新即物主義、あるいはルートヴィヒ・マイトナー(1884-1966)らの芸術に反映しており、ベックマンも新即物主義に通じるものをもっている。しかしその後「夢」「仮面舞踏会の前」「出発」に代表される作品は力強くモニュメンタルな様式へと変化していく。ナチスが政権をとると、「退廃的な芸術」としてレッテルを貼られたベックマンは、パリ、アムステルダムを経て、1947年にはアメリカへ渡った。初めセントルイスの大学で教鞭をとったが、1949年ニューヨークに行き、翌年ここで死去した。

ウィリアム・コベット

何を書こうかと考えるために座るのではなく、貴方が考えたことを書くために座りなさい(ウィリアム・コベット)

   ウィリアム・コベット(1763年3月9日生。1835年6月8日没)はイギリスの急進的政治家・文筆家・編集者。イギリス南東部サリー州の貧しい農家に生まれた。軍隊に入り、除隊後フランス、アメリカに渡り、帰国後急進的ジャーナリストに転向。農民、労働者の懐旧的感情に訴え、産業主義社会を批判した。議会改革を通じて社会改革を考え、議会議事録の発行を創始した。1823年議員に当選したが、政治的には成功しなかった。彼の文章は明快であり、農業問題についてはすぐれた識見を述べている。農村疲弊の実状見聞録「農村騎行」(1830年)は名著として高く評価されている。コベットの本はすべてよく売れたが、特にプロテスタント史に関する本は、世界中で聖書に次いでよく売れたと言われる。

  コベットは驚くほどの多作家で、そのいくつかをあげる。「アメリカ生活一年の記録」「英文典」「小住宅の経済」「アメリカの園芸」「イギリスの園芸」「コベット講演集」「移民ガイド」「スコットランドの旅」「アンドリュー・ジャクソンの生涯」「仏文典」「イギリスおよびウェールズの地理辞典」「プロテスタント改革史」「イギリス議会史」「議会討議録」「ビッグOとグローリー卿」「余剰人口」「若き人々への提言」(庄司淺水訳)。

    ロンドンでは1803年に週刊新聞「ポリティカル・レジスター」を発行し、書店を経営した。記者や編集者などを、10人以上雇い、週刊誌はじめ書籍の出版を続けた。コベットは西洋印刷史の発展にも寄与した人物である。

2007年11月10日 (土)

ハーンと横浜

    明治23年4月4日、ラフカディオ・ハーンは朝の6時に横浜港に着いた。それからすぐ人力車を雇って1日中、横浜の街を走る。一つ覚えの日本語「テラエユケ」を連発してお寺めぐりをする。ハーンが参詣した寺社はどこか、実はあまりわからないらしい。成田山不動尊、浅間社、厳島神社、本牧神社、白滝不動、青木明神、豊顕寺、慶運寺などが考えられる。何番目かに訪れた寺で、英語の堪能な青年・真鍋晃に出会う。その後、真鍋はハーンの通訳をしながら仏教文化の解説や民話・伝説の紹介をするなど有能な助手だった。昭和59年にNHKで放送された「日本の面影」では、ハーンをジョージ・チャキリス、真鍋晃を三ッ木清隆が演じていた。しかし真鍋晃という人物については、ほとんど詳しいことはわからない。その年の8月下旬にハーンは中学校英語教師の職を得て島根県松江に赴く。

2007年11月 9日 (金)

韓国芸能界おしどり夫婦

   いま韓国でイ・ドンゴンとハン・ジヘは最も噂の芸能人カップル。ふたりがゴール・インするかどうかは知らないが、韓国芸能界でもおしどり夫婦といわれるカップルが多数いる。その代表格は、ぺ・ヨンジュンの「初恋」のお兄さん役で日本でもお馴染みのチェ・スジョン。「野望の伝説」「太祖王健」「太陽人李済馬」「海神」「大祚栄」など史劇の大スターとなったが、青春スターのハ・ヒラ(「若者の日なた」「あなたのそばに」)と結婚している。チャ・インピョ(「香港エクスプレス」「愛はあなたの胸に」)とシン・エラ(「不良主夫」)も1995年に結婚し、その2年後には「子どもを作ることに専念するため休養する」と宣言して話題になった。イ・ジェリョン(「愛の群像」「酔画仙」)とユ・ホジョン(「青春の罠」「ローズマリー」)、ソン・ジチャン(「真実」)とオ・ヨンス(「二度目のプロポーズ」「朱蒙」)、歌手キム・テウクとチュ・シラ(「透明人間・チェ・ジュンス」「海神」)、ユ・ジュンサン(「土地」)とホン・ウニ(「風花」「マイラブ・パッチ」)なども夫婦俳優だ。

   キム・スンウ(「ホテリアー」「素敵な夜、ボクにください」)とキム・ナムジュ(「モデル」「私の心を奪って」)、ヨン・ジョンフン(「悲しき恋歌」)とハン・ガイン(「マルチュク青春通り」)も数年前にスター俳優夫婦の仲間入りを果たした。

大正期新興美術運動

    東郷青児は大正8年、渡仏し、フランスやイタリアでダダや未来派の芸術運動にふれた。その後、東郷はむしろキュービズムの傾向に近づいた。未来派は明治末年から雑誌や画集を通じて紹介されていたが、神原泰や普門暁らによって作品として現れている。超現実主義の古賀春江も注目された画家であった。未来派やキュービズムの前衛傾向は大正11年の三科インデペンデント、あるいは同年のアクションやマヴォの集団に引き継がれていった。大正13年結成の三科会は未来派、表現派、ダダイズム、超現実主義などの急進的傾向の集団であった。このような近代日本における前衛的な一美術運動を近年「大正期新興美術運動」と称して、国内外で注目されている。アメリカでは有力な大学出版部から専門書が刊行されている。展覧会としては、デュッセルドルフ美術館における「日本のダダ」展(1983年)やパリのポンピドゥー・センターでの大規模な「前衛の日本」展(1986年)、また国内では東京都美術館における「一九二〇年代・日本の芸術」展(1988年)を筆頭に、神奈川県立近代美術館とシドニーのニュー・サウス・ウェールズ州立美術館で開催された国際展「モボ・モガ」展(1989年)など、この20年間において相当数の展覧会が開かれている。大正期新興美術運動を担った作家たちには、浅野孟府、阿部貞夫、荒木留吉、有泉譲、井上富峰、大浦周蔵、大場清泉、岡田龍夫、岡本唐貴、尾形亀之助、荻島安二、尾竹竹坡、加藤正雄、河辺昌久、神原泰、木下秀一郎、古賀春江、後藤忠光、佐藤日梵、佐藤八郎、沢青鳥、重松岩吉、渋谷修、城山吐峰、住谷磐根、高木長葉、高見沢路直、田中一良、玉村善之助、東郷青児、戸田龍雄、中川紀元、仲田定之助、中原実、永田脩、永野芳光、萩原恭次郎、浜田増治、原弘、普門暁、牧寿雄、村雲毅一、村山知義、柳川槐人、柳瀬正夢、矢橋公麿、矢部友衛、山本行雄、横井弘三、横山潤之助、吉田謙吉、吉邨二郎、和達知男らがいる。

東川徳治と「典海」

   昭和5年に法政大学出版部から刊行された東川徳治(1870-1938)の「典海」は、中国の官制・官職を知る基本工具書として知られていた。「増訂支那法制大辞典」(昭和8年)「中国法制大辞典」(昭和54年)と書名が変更されているが、やはり東川・典海の印象がある。

   ところが東川の原著「典海」を復刻しようと、寺田隆信や山根幸夫らが遺族を調査しようとしたが、本籍地が名古屋であるということだけで、遺族の所在は不明であった。昭和54年の話なので、その後、判明したかも知れないが、東川徳治という高名な学者の遺族がわからないという一事に驚きを禁じ得なかった。

   日清戦争の結果、台湾は日本の植民地となった。第4代台湾総督・児玉源太郎、民生長官・後藤新平のとき、台湾統治の必要上、現地の旧法規を知る必要性に迫られ、京都大学法科の教授であった織田萬(1868-1945)、岡松参太郎(1871-1921)らを主任として台湾総督府臨時台湾旧慣調査会が明治38年に設置された。このとき東川徳治、浅川虎夫(1877-1928),加藤繁(1880-1946)らが清国行政に関する制度の調査に従事することになった。この経験が、東川を、わが国における中国法制史の研究の開拓者とならしめたのである。調査会は「清国行政法」全9冊(明治38年ー大正2年)、「台湾私法」全13冊、「台湾蕃族慣習研究」の3書を刊行した。東川徳治は、大正4年には「支那法制史論」、大正13年には「支那法制史の研究」、昭和5年には「典海」、昭和8年には「増訂支那法制大辞典」を刊行した。なお、東川は「清国行政法」編纂の完了した後、東北帝国大学において、法文学部、東北大学図書館に勤務した。昭和7年に東北大学講師に昇格、同年退職して、昭和13年に逝去した。

  東川徳治は、その学識、学問上の功績にもかかわらず、一介の図書館人としての人生をおくったようであり、教授になることはなかった。戦前学界の学歴偏重があったようである。

2007年11月 5日 (月)

流れる星は生きている

   「いま、日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、国家の品格を取り戻すことである」という数学者・藤原正彦の「国家の品格」は今でもよく読まれている。ところで藤原正彦の父・新田次郎(1912-1980)は、昭和18年満州国観象台(中央気象台)に高層気象課長しとて赴任した。その年、正彦は、次男として満州の新京で生まれた。昭和20年には、妹の咲子も生まれた。ところが、昭和20年敗戦により、新田次郎は抑留生活を送る。妻の藤原てい(当時26歳)は、長男正宏(6歳)、次男正彦(3歳)、長女咲子(1ヵ月)の3人の愛児を連れて想像を絶する苦難の末、満州から引き揚げた。この体験をもとにした小説「流れる星は生きている」は戦後の大ベストセラーとなった。昭和24年9月、大映作品で三益愛子(1910-1982)主演で映画化(小石栄一監督)され、劇中三條美紀が歌う主題歌「流れる星は生きている」(古関裕而・曲、藤原てい・詩)もヒットした。(ジャズ歌手池真理子の吹き替え)

    映画、小説とフィクションであるが、当時同じ体験をした日本人は多く、ほとんど事実であるかの如く、共感をもって迎えられた。

    藤村けい子(三益愛子)は三人の子を連れてようやく内地に引き揚げた。恋人と別れた堀井節子(三條美紀)も引揚者の一人だった。しかし内地の風は冷たく、肉親にも裏切られた。ようやく身を寄せた引き上げ寮には、かつての満州に宮原幸枝(羽鳥敏子)もいた。節子は幸枝の勧めで嫌々ながらキャバレーの歌手になる。けい子は製本屋で働く。長男の正一(大久保進)も靴みがきをして母を助ける。ところが次郎(佐藤勝彦)が養子に出されることを盗み聞きした正一と次郎は家出する。ようやく2人を探し出したときは、正一はジフテリアにかかっていた。けい子は診療費に窮して、身を売る決心をする。しかし、節子はこれを押しとめた。幸い善良な医師(徳川無声)のおかげで、次郎は一命をとりとめた。そして、けい子や節子が待ちに待った、良人や恋人の引き上げ船が入港するのはそれから間もなくのことであった。

    大映母もの映画といえば、三益愛子主演で計31作品が製作された。なかでも三條美紀との共演が思いで深い。「山猫令嬢」「母」「母紅梅」「流れる星は生きている」「母燈台」「母椿」「姉妹星」。三條美紀は時には「山猫令嬢」のようにセーラー服の女学生だったり、「流れる星は生きている」ではキャバレー歌手だったりで、三益愛子との関係は多彩である。いずれにせよ、昨今ブームの泣ける映画、韓国ドラマをはるかに超えたドラマチックな仕上がりである。宮原幸枝(羽鳥敏子)は満州で愛児を亡くし、帰国して身を売ってキャバレーで働く。三益愛子とは対照的な女の生き方として注目される。戦後スターの羽鳥敏子はこの頃池部良と結婚していた。かなり活躍した女優である。また「愛のスウィング」で戦後ジャズブームを築いた池真理子の歌声が聞けるのも楽しい。池真理子は世界的に知られる禅学者の鈴木大拙の長男・鈴木勝と結婚している。ジャズ歌手と禅、山岳小説と数学者、引き揚げ・靴磨きと品格、60年の歳月は日本人の戦後を物語っている。

社会文芸研究会とマル芸

   佐々木孝丸(1898-1986)という名前を聞けば、映画の悪役俳優の印象があった。実は演劇人で、若い頃は「マルクス主義芸術研究会」(マル芸)の一員として昭和文学史にその名を残している。佐々木孝丸はフランスの革命歌「インターナショナル」を最初(大正11年)に訳詩したことでも知られる。現在知られている歌詞は、昭和4年、佐々木孝丸と佐野碩が改訳したものである。インターナショナルの歌といっても最近の若い人はあまり知らないらしい。ケペルの若い頃、労働組合の集会などでよく歌われていた。難かしい歌詞であるにもかかわらず、職場の先輩たちが高らかに合唱していたことを鮮やかに覚えている。名曲なのだ。この歌が集会から消えて久しいが理由はケペルにはよくわからない。

   大正14年10月、林房雄、久板栄二郎、鹿地亘、中野重治らは東京大学内に社会文芸研究会を作った。大宅壮一、浅野晃、菊川忠雄らもいた。大正15年春、林と中野はプロレタリア文学運動に新風を巻き起こすため、佐野碩、亀井勝一郎らをメンバーに加えた。さらに学外から、トランク劇場の佐々木孝丸、関鑑子、柳瀬正夢、千田是也、小野宮吉らも迎えて、社会文芸研究会はマルクス主義芸術研究会(マル芸)と改称した。

   マル芸は東大の文学部の教室を借りて講演会を開催した。講師は葉山嘉樹、山田清三郎、里村欣二の3人。早稲田の高等学院を中退した葉山以外は小学校だけしか出ていない。講師はおどおどしながら講演したが、学生は意外にも熱心に聞いていた。その中の一人の武田麟太郎は、「非常に感激して聞きました。これで自分の文学上のコースがわかった気がします」と言っている。

  起て 飢えたる者よ 

  今ぞ日は近し

  さめよ わが同胞

  暁は来ぬ

  暴虐の鎖断つ日

  旗は血に燃えて

  海をへだてつ われら

  腕(かいな) むすびゆく

  いざ たたかわん いざ

  ふるいたて いざ

  インターナショナル

  われらがもの

 ちなみにこの訳詩者・佐々木孝丸の子が、「冬のソナタ」サンヒョク(パク・ヨンハ)の父親(チョン・ドンファン)の吹き替えを担当している佐々木勝彦である。

2007年11月 4日 (日)

汝を許す

   韓国ドラマ「秋の童話」でウンソ(ソン・へギョ)とジュンソ(ソン・スンホン)がよく言っていた「ノエ チェルル サハノラ」(汝を許す)は「春のワルツ」でも重要なセリフとして登場する。(第14話「涙の井戸」)ウニョン(ハン・ヒョジュ)とチェハ(ソ・ドヨン)は青山島(チョンサンド)で再会する。ウニョンがチェハを母の墓へと案内する。「涙で私の心の中に井戸ができたの。一生枯れることのない井戸が。でも今はチェハがいるから大丈夫。寂しくない」と、墓に眠る母へスンに話す。しかし、チェハは、あらためてウニョンの心に残してきた傷の深さを思いしらされ、罪悪感のため墓に目を向けられない。そんなチェハに対して、ウニョンは言う。

「今は全部わかったから

全部許せるから

もう私から逃げないで

ノエ チェルル サハノラ

あなたの罪は許されました」

「ノエ チェルル サハノラ」は古語的な表現で、韓国の時代劇にも使われる。「サハノラ」は「許したもう」という感じ。

ベアトリス・へイスティングス

    1914年、モディリアーニ(1884-1920)は、ザッキン(1890-1967)の紹介でイギリスの女流詩人でジャーナリストであるベアトリス・へイスティングス(1879-1943)を知る。彼女は北アフリカに生まれ、へイスティングスと結婚するも、間もなく別居。ロンドンへ行き週刊誌「ニューエイジ」のパリ特派員としてモンパルナスのノルヴァン街13番地に住んでいた。詩人エズラ・バウンドを発見し、小説家キャサリン・マンスフィールドと交友があった。モディリアーニは教養が高く、女権論者の5歳年上のベアトリスに惹かれた。やがて2人は恋仲となり同棲する。ベアトリスをめぐる詩人マックス・ジャコブ(1876-1944)との三角関係も1916年半ばには破局を迎えた。その後、ベアトリスはかつてモディリアーニから紹介されたレイモン・ラディゲ(1903-1923)と関係を持つようになる。ラディゲは年上女性との体験をもとに「肉体の悪魔」を1919年ころから書き始め、1923年に完成しベストセラーとなった。ラディゲは腸チフスにかかり、1923年12月12日、パリの病院で20歳の若い生涯を閉じた。ベアトリスはその後ファシズムのシンパとなったが、1943年に自殺している。翌年、ベアトリスの昔の恋人マックス・ジャコブもユダヤ人強制収容所で病死している。

2007年11月 3日 (土)

モディリアーニの恋人

   1916年12月、アメディオ・モディリアーニ(1884-1920)32歳は、モンパルナスにあるアカデミー・コラロッシで絵を学んでいた画学生、18歳のジャンヌ・エビュテルヌ(1898-1920)と知り合う。ジャンヌの両親の反対を押し切って、1917年7月にグラン・ショミエール街に身を落ち着け、同棲を始める。1918年3月、彼らはコートダジュール、ニース、リヴィエラ、カーニュに移り住む。南仏の光はモディリアーニのパレットを明るくし、マティエールを薄くする。11月29日、ニースで娘のジャンヌが生まれる。1919年、モディリアーニはパリに戻り、グランド・ショミエール街8番地に住む。数ヵ月後、再び妊娠したジャンヌもパリに戻る。しかし、モディリアーニは酒と麻薬に溺れ、パリ慈善病院で1920年1月24日、結核性脳膜炎で死去。妻のジャンヌもその2日後の早朝、2人目の子供を身ごもったままアパートの6階から投身自殺。近年「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」などで、ジャンヌは知的で強い意志を持った女流画家であったことが評価されている。

2007年11月 2日 (金)

南天堂と大正アナキストたち

   松岡虎王麿は大正6年、本郷白山上に喫茶兼レストランの