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2007年11月28日 (水)

詩人シェリーとフランケンシュタイン

   パーシー・ビッシュ・シェリー(1792-1822)は1702年8月4日、サセックスのホーシャム近郊フィールド・プレース邸に、富裕な地主の長男として生れた。名門イートン校からオックスフォード大学ユニヴァーシティ・カレッジに入学。1811年春、友人トマス・ジェファーソン・ホッグと共に、「無神論の必要性」と題するパンフレットを配布したため、大学から追放される。

  父ティモシーから勘当されたシェリーはロンドンに出て、妹の学友のハリエット・ウェストブルックと駆け落ちし、1811年8月に結婚した。しかし1814年、メアリー・ゴドウィン(1797-1851)を知り、シェリーは新たな理想像をそこに見出した。そして同年7月28日、彼女とその義妹クレア・クレアモントを連れて、ヨーロッパ旅行をする。1816年5月、シェリー、メアリー、バイロン、ジョン・ポリドリらは、スイスのジュネーブ近郊のレマン湖畔のディオダティ荘に滞在していた。天候不順で長く降り続く雨のため屋内にとじ込められいた際、それぞれが作品を仕上げた。シェリーの「モン・ブラン」「理想美の顔」、バイロンの「チャイルド・ハロルドの巡礼」第3幕などの作品は、そうした日々と情景から出来たが、皮肉にもアマチュア作家であるメアリー・シェリーが書いた小説「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」が今日でも最も読まれているであろう。生命の創造の夢にとり憑かれた科学者フランケンシュタインがつくりあげたモンスター(人造人間)が、20世紀にはボリス・カーロフが演じる面長で無表情なフランケンシュタインとして知られるようになる。

   シェリーは1822年7月8日、小さなヨット「ドン・ジュアン号」に乗ってトスカナ沖で嵐にあい溺死した。

2007年11月26日 (月)

月の精・嫦娥

    中国初の月探査衛星「嫦娥(じょうが)1号」が撮影した月面写真が公開された。嫦娥は中国の神話で月にすむ美女の名である。もともと姮娥(こうが)、恒娥といったが漢の文帝の恒を避けて、嫦娥、常娥と書く。「淮南子」覧冥訓には次のような嫦娥の話が伝えられている。

 

    昔、あるところに羿(げい)という男がいた。彼は死ぬということを思うと、いつも身ぶるいするように嫌な気がした。羿は西王母さまのところへ行って、不死の薬を貰い受けることにした。不死の薬を手に入れて大喜びで家に帰ってきた。ところが妻の嫦娥がそれを知って、ひそかに不死の薬を盗んだ。しかし夫に悟られては、どんな酷い目にあうかも知れないと思ったので、薬を飲んで仙人となり、とうとう大空に逃げ昇って、月にすむようになった。かの女は不死の薬でいつまでも生きつづけている。月面に蝦蟇のような斑点が見えるのは、即ち嫦娥の姿である。

2007年11月25日 (日)

戦艦金剛、ガダルカナル島集中砲火

    戦艦金剛は太平洋戦争開戦以来、マレー攻略作戦、空母機動部隊の印度洋作戦、ミッドウェー作戦などに参加したが華々しい戦運に恵まれなかった。

   昭和17年10月12日、第1次挺身隊は米艦隊と交戦し、重巡古鷹が沈没した。司令官栗田健男中将率いる第3戦隊「金剛」「榛名」は第2水雷戦隊とともに第2次挺身隊を結成し、古鷹の弔合戦に出撃した。金剛、榛名は13日予定通りにガダルカナル島に接近した。13日20時30分、総員戦闘配置につき、23時37分、砲撃開始。金剛は対空用三式弾を104発、榛名は対空用零式弾を189発撃った。ヘンダーソン基地はたちまち火の海となった。96機の航空機のうち54機がやられ、ガソリンタンクは炎上した。金剛からガダルカナル島全体が燃えているように見えた、といわれる。

2007年11月24日 (土)

永山一夫と「ゼロ戦黒雲隊」

    ブーゲンビル島の南側にバラレ、ファウロ、ピエズなどのショートランド諸島がある。昭和18年4月18日午前7時30分過ぎ、連合艦隊司令長官・山本五十六は、ラバウル基地からバラレ島に赴く途中、米軍戦闘機の襲撃を受けた。午前7時50分頃、山本長官搭乗の一番機は、モイラ岬のジャングルに墜落、山本五十六以下11名は全員死亡。

   バラレ島は小さな島であったが昭和18年頃は、ここを根拠地として零戦の航空隊が活躍していた。そのような航空隊の活躍を描いたドラマ・映画・漫画は昭和30年代数多くつくられた。漫画では、ちばてつや「紫電改のタカ」、貝塚ひろし「零戦レッド」、九里一平「大空のちかい」、辻なおき「0戦はやと」「0戦太郎」。映画では、石原裕次郎の「零戦黒雲一家」、加山雄三の「ゼロファイター」「太平洋の翼」など。

   テレビドラマでは「ゼロ戦黒雲隊」(昭和39年)があった。加茂正人(亀石征一郎)隊長が南方最後の基地バラレ島に指揮官として赴任したのは、米軍の攻撃は日増しに激しくなる昭和18年のことであった。バラレを死守する40数名の部下たちはならず者の集団だった。隊員のなかでも中村甲太(永山一夫)はとくに乱暴者であった。加茂は中村と対立しながらも、やがて強い絆で結ばれ、「ゼロ戦黒雲隊」と敵に恐れられた強力な部隊を統率していった。

   永山一夫の俳優としての活躍はこの「ゼロ戦黒雲隊」をはじめとして「空手三四郎」、映画「日本暗黒史」「昭和残侠伝」など迫力のある演技が光った。永山はNHK番組「おかあさんといっしょ」の人形劇コーナー「ブーフーウー」の狼の声としても知られていた。

   永山一夫はテレビ初期に日本人に強烈な印象を残した俳優である。本名コン・ヒョンスン。永山は二人の子どもを連れて昭和46年10月24日、万景峰号で北朝鮮に帰国した。当時36歳で売れっ子の俳優の突然の帰国は週刊誌などでも大きく取り上げられた。「社会主義の祖国」「地上の楽園」と謳われ夢を抱いて北朝鮮に帰国したが、その多くは悲惨な現実に直面したという。しかし約9万人といわれる北朝鮮帰国者たちのその後の人生がどうであったかという詳しい情報はいまではわからないという。北朝鮮帰還事業を思うと、いまでも永山一夫のドスの聞いた声が耳に残る。フランク赤木が歌う「ゼロ戦黒雲隊」の主題歌。

  空が赤いぜ赤いぜ血潮の色だ

  雲が走るぜ走るぜ果て無く遠く

  行くぞ大空風切って

  翼ひとふりにっこり笑う

  ゼロ戦ゼロ戦黒雲隊

2007年11月19日 (月)

矢内原忠雄とキリスト教の出会い

   島地雷夢(1879-1914)は、西本願寺の執行をつとめた島地黙雷(1838-1911)の長男である。仏教界の大立者の子息がキリスト教に入信したという話は当時かなりの話題となった。その島地雷夢は神戸で中学校の倫理の教師をすることになった。

    神戸尋常中学校(のち神戸一中と改称)の初代校長の鶴崎久米一は内村鑑三、新渡戸稲造と同級で札幌農学校出身である。おそらく鶴崎が島地を神戸へ呼んだのであろう。

    鶴崎校長、島地教諭の時代に、若き日の矢内原忠雄(1893-1961)は神戸一中で学ぶ生徒であった。矢内原は一高時代に内村鑑三・新渡戸稲造に私淑し、信仰上・思想上大きな影響を受けたことはよく知られているが、一中時代の明治41年ころ、すでに島地からキリスト教の信仰に関する何らかの影響を受けていたと推測する。だが、島地は5年後の大正3年に、神戸の御影の寄宿先で36歳の若さで早世する。

2007年11月18日 (日)

三淵忠彦と萱野権兵衛

   初代最高裁判所長官(在任、昭和22年ー25年)である三淵忠彦(1880-1950)の父は、三淵隆衡といい、会津藩家老・萱野権兵衛(萱野長修、1830-1869)の実弟である。

    幕末の動乱期、京都守護職に任ぜられた会津藩主・松平容保は、公武合体を推進し、佐幕派列藩同盟の中心となっていったが、思わぬ形勢の変転から会津は朝敵の汚名を被ることとなる。会津戦争で鶴ヶ城開城降伏のとき、主君に代わって藩の全責任を一身に負い、切腹したのが萱野権兵衛である。明治2年5月18日、飯野藩保科正益の広尾別邸において自刃、享年40歳であった。介錯に当たったのは、後にキリスト教牧師・教育者として知られた井深梶之助(1854-1940)の父・井深宅右衛門である。萱野家の家名は断絶されたため、三淵を名乗ることとなった。三淵忠彦は司法の新制度の確立に尽力した。幕末維新の敗者の側に立った史書に山川浩著『京都守護職始末』がある。山川浩(1845-1898)は草稿の段階で没し(明治31年)、実際の執筆は弟である山川健次郎(1854-1931)の手によってなり明治44年に完成された。

2007年11月17日 (土)

地の塩

  勇気こそ 地の塩なれや 梅真白

   中村草田男(1901-1983)のこの有名な句は、昭和19年の学徒出陣の教え子への餞に作られたという。「地の塩」とはマタイの福音書にある山上の垂訓に見られる言葉。イエスが群衆に向かって、人間のあるべき姿を説いた教えの一つである。

あなたがたは、地の塩です。もし、塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょうか。もう、何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

    冬の寒さを耐えて早春に梅が花開くように、真の勇気とは、自ら死を望むようなことをせずに、生きて帰ってくることを願う気持ちが込められている。句集「来し方行方」(昭和22年)に収められているこの句を読むと、この頃からすでにキリスト教への関心はかなり深かったように見受けられる。草田男は昭和58年8月に亡くなる前日、洗礼を受けてクリスチャンになった。

吉野作造、夏の日の恋

    大正デモクラシーの旗手・吉野作造(1878-1933)といえば、「民本主義」で知られるが、実はこの民本主義という概念を初めて提唱したのはジャーナリスト・茅原崋山(1870-1952)である。吉野作造の師である小野塚喜平次(1871-1944)はデモクラシーを「衆圧主義」と訳していた。吉野のねらいはデモクラシーの定着にあったが、大日本帝国憲法下においては天皇主権が法理学上の建前であったため民主主義(主権在民)という言葉を避けて、茅原の「民本主義」を踏襲したのである。(「民本主義鼓吹時代の回顧」)吉野の民本主義は大正5年「憲政の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途を論ず」(中央公論)という論文によって、一躍、新時代をリードする主張となった。

    吉野作造は明治11年1月29日、宮城県志田郡古川町字大柿村96番地(現在・古川市十日町)で生まれる。明治30年9月に仙台第二高等学校に入学し、翌年7月、仙台浸礼教会牧師より洗礼を受ける。夏休みの旅行先で同じクリスチャンで18歳の仙台女子師範学校の女学生・阿部たまの(1880-1959)に出会う。夏の恋はそのまま結婚へ発展した。明治33年9月に東京帝国大学に入学したときは、吉野作造はすでに妻帯者だった。

その名はヨハネ

   ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの祭司組の者でザカリアという名の祭司がいた。彼にはアロンの娘であるエリザベツという妻がいた。ふたりは老年に達していたが子がなかった。

    ある日、ザカリアが祭司の務を行いエルサレム神殿で香を焚いていると、天使ガブリエルが来て、ヨハネの誕生と将来を予言した。しかしザカリアはこれを信じなかったため、口がきけなくなった。

   やがて不妊だったエリザベツに男の子が生まれた。いまだ口のきけないザカリアは、子の名と聞かれ「その名はヨハネ」と書いた。するとザカリアはたちまち口がきけるようになった。

   祭司ザカリアとエリザベツは年老いて授かったヨハネを可愛がり育てた。ヨハネは成長し、駱駝の毛皮をまとい皮の帯をしめ、人々に「悔い改めよ、神の国が近い」とヨルダン川付近において伝道を行うようになった。ある日、イエスは「わたしにバプテスマを施してもらいたい」とヨハネに言った。ヨハネはすぐにイエスを制し、「私こそあなたからバプテスマを受ける必要のある者ですのに、あなたが私のもとにおいでになるのですか」と言って、謙遜な態度を示したが、イエスはヨハネから洗礼を受けた。(紀元28年)

   その後、ヨハネはヘロデ王家の不倫を批判したために捕らえられ処刑された。洗礼者ヨハネはイエスを「世の罪を除く神の小羊」として人々に紹介した「イエスの証人」であった。なお、ルカによるとヨハネの母エリザベツとイエスの母マリアとは親戚で、マリアはエリザベツのところに3ヵ月滞在したという間柄であった。

この方はナザレ人と呼ばれる

    現在のナザレの町がイエスの時代のナザレと同じ場所であるのかは定かではないが、イエスが育ったナザレの村はガリラヤ湖の西岸にある首都ティべリアからかなり離れた一寒村であった。また現在のナザレは都市となり多くのアラブ人(67%がイスラム教徒、33%がキリスト教徒)が住んでいるが、紀元前後の古代ナザレの村はユダヤ人のみが住んでいた。

   新約聖書では、キリストを「ナザレ人(びと)イエス」と呼んでいる。(マタイ2:23)福音書の記事によると、「この方はナザレ人と呼ばれるであろう」という預言の成就とされている。当時マタイが牧会していたと思われるシリア地域では、キリスト者が「ナザレ人」と呼ばれており、そう呼ばれることは、ユダヤにおいては蔑みの響きがあった。おそらく、ナザレのような地方の一寒村から、救い主が出るものであろうか、という気持ちも含まれていたかも知れない。しかし、「ナザレ」という発音は、「枝」(イザヤ11:1)がへブル語で「ネシェル」と発音されることから、古くから次のような聖句を引用して解釈されることがある。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若芽が出て実を結ぶ」つまり、ダビデの父エッサイの名で呼ばれる根株から新芽が生え、そこから若芽が出て実を結ぶ。イスラエルはその若芽をメシヤと理解し、その到来を待望していた。若芽であるイエスが美しい自然のあるナザレ村で育ったことはイザヤの預言に合致するのである。

2007年11月13日 (火)

田園詩人ジョン・クレア

    イングリッシュ・ローズの中でも多産なバラで人気の「ジョンクレア」は、ある詩人に因んで命名された。しかし今日、華やかなバラの名として知られる「ノーサンプトンシャーの貧農詩人」ジョン・クレアのことは日本ではほとんど知られていないだろう。

    ジョン・クレア(1793-1864)はイギリス・ノーサンプトンシャーの貧しい家庭の生まれで、正式の教育をほとんど受けなかったが、幼少の頃から旺盛な読書欲を示した。1808年、ジェイムズ・トムソンの「四季」を読んで詩を志した。1820年最初の詩集を出版。貧困のため憂鬱病に患かり、1837年に精神病院に入ってその悲しき人生を終えた。初恋の人メアリー・ジョイスへの恋歌など生涯に数冊の詩集を出したが、全然売れなかった。「田園生活の描写」(1820)「村の吟遊詩人」(1821)「牧人の暦」(1827)「田舎の詩神」(1835)など。その詩はワーズワース風で、イギリスの四季の田舎風景を歌い、独自の叙情性がある。

      初恋

あの時まで あれほど急に

甘い恋に おちいったことはなかった

彼女の顔は甘い花のように輝き

僕の心はすっかり奪われた

僕の顔は死人のように青ざめ

立ちすくんでしまって歩けない

彼女が僕を見たなら

どれほど悩んだだろう

僕のいのちすべてが

泥に変わってしまったようだ

2007年11月11日 (日)

マックス・ベックマン

   マックス・ベックマン(1884-1950)は、ドイツ表現主義を代表する画家。1903年、19歳のときにパリへ出て、マネの印象主義の影響を受けた。第一次大戦に衛生兵として参加したが、そこで目のあたりにした戦争による悲惨な体験が彼の芸術に大きな影響を与えた。とくに1918年の「夜」はその典型的な作品である。ドイツの敗戦による荒廃と戦後の混乱した世相は、オットー・ディックス(1891-1969)、ゲオルグ・グロッス(1893-1959)らのいわゆる新即物主義、あるいはルートヴィヒ・マイトナー(1884-1966)らの芸術に反映しており、ベックマンも新即物主義に通じるものをもっている。しかしその後「夢」「仮面舞踏会の前」「出発」に代表される作品は力強くモニュメンタルな様式へと変化していく。ナチスが政権をとると、「退廃的な芸術」としてレッテルを貼られたベックマンは、パリ、アムステルダムを経て、1947年にはアメリカへ渡った。初めセントルイスの大学で教鞭をとったが、1949年ニューヨークに行き、翌年ここで死去した。

2007年11月 9日 (金)

大正期新興美術運動

 詩人の萩原恭次郎を知っているか? 萩原朔太郎ではない。大正末期にダダイストとして活動、その後アナーキストとなる。詩集「死刑宣告」では資本という名の機械に埋もれた人間が、いかに脆弱な存在であるかを表現している。 

 東郷青児は大正8年、渡仏し、フランスやイタリアでダダや未来派の芸術運動にふれた。その後、東郷はむしろキュービズムの傾向に近づいた。未来派は明治末年から雑誌や画集を通じて紹介されていたが、神原泰や普門暁らによって作品として現れている。超現実主義の古賀春江も注目された画家であった。未来派やキュービズムの前衛傾向は大正11年の三科インデペンデント、あるいは同年のアクションやマヴォの集団に引き継がれていった。大正13年結成の三科会は未来派、表現派、ダダイズム、超現実主義などの急進的傾向の集団であった。このような近代日本における前衛的な一美術運動を近年「大正期新興美術運動」と称して、国内外で注目されている。アメリカでは有力な大学出版部から専門書が刊行されている。展覧会としては、デュッセルドルフ美術館における「日本のダダ」展(1983年)やパリのポンピドゥー・センターでの大規模な「前衛の日本」展(1986年)、また国内では東京都美術館における「一九二〇年代・日本の芸術」展(1988年)を筆頭に、神奈川県立近代美術館とシドニーのニュー・サウス・ウェールズ州立美術館で開催された国際展「モボ・モガ」展(1989年)など、この20年間において相当数の展覧会が開かれている。大正期新興美術運動を担った作家たちには、浅野孟府、阿部貞夫、荒木留吉、有泉譲、井上富峰、大浦周蔵、大場清泉、岡田龍夫、岡本唐貴、尾形亀之助、荻島安二、尾竹竹坡、加藤正雄、河辺昌久、神原泰、木下秀一郎、古賀春江、後藤忠光、佐藤日梵、佐藤八郎、沢青鳥、重松岩吉、渋谷修、城山吐峰、住谷磐根、高木長葉、高見沢路直、田中一良、玉村善之助、東郷青児、戸田龍雄、中川紀元、仲田定之助、中原実、永田脩、永野芳光、萩原恭次郎、浜田増治、原弘、普門暁、牧寿雄、村雲毅一、村山知義、柳川槐人、柳瀬正夢、矢橋公麿、矢部友衛、山本行雄、横井弘三、横山潤之助、吉田謙吉、吉邨二郎、和達知男らがいる。

2007年11月 5日 (月)

社会文芸研究会とマル芸

   佐々木孝丸(1898-1986)という名前を聞けば、映画の悪役俳優の印象があった。実は演劇人で、若い頃は「マルクス主義芸術研究会」(マル芸)の一員として昭和文学史にその名を残している。佐々木孝丸はフランスの革命歌「インターナショナル」を最初(大正11年)に訳詩したことでも知られる。現在知られている歌詞は、昭和4年、佐々木孝丸と佐野碩が改訳したものである。インターナショナルの歌といっても最近の若い人はあまり知らないらしい。ケペルの若い頃、労働組合の集会などでよく歌われていた。難かしい歌詞であるにもかかわらず、職場の先輩たちが高らかに合唱していたことを鮮やかに覚えている。名曲なのだ。この歌が集会から消えて久しいが理由はケペルにはよくわからない。

   大正14年10月、林房雄、久板栄二郎、鹿地亘、中野重治らは東京大学内に社会文芸研究会を作った。大宅壮一、浅野晃、菊川忠雄らもいた。大正15年春、林と中野はプロレタリア文学運動に新風を巻き起こすため、佐野碩、亀井勝一郎らをメンバーに加えた。さらに学外から、トランク劇場の佐々木孝丸、関鑑子、柳瀬正夢、千田是也、小野宮吉らも迎えて、社会文芸研究会はマルクス主義芸術研究会(マル芸)と改称した。

   マル芸は東大の文学部の教室を借りて講演会を開催した。講師は葉山嘉樹、山田清三郎、里村欣二の3人。早稲田の高等学院を中退した葉山以外は小学校だけしか出ていない。講師はおどおどしながら講演したが、学生は意外にも熱心に聞いていた。その中の一人の武田麟太郎は、「非常に感激して聞きました。これで自分の文学上のコースがわかった気がします」と言っている。

  起て 飢えたる者よ 

  今ぞ日は近し

  さめよ わが同胞

  暁は来ぬ

  暴虐の鎖断つ日

  旗は血に燃えて

  海をへだてつ われら

  腕(かいな) むすびゆく

  いざ たたかわん いざ

  ふるいたて いざ

  インターナショナル

  われらがもの

 ちなみにこの訳詩者・佐々木孝丸の子が、「冬のソナタ」サンヒョク(パク・ヨンハ)の父親(チョン・ドンファン)の吹き替えを担当している佐々木勝彦である。

2007年11月 4日 (日)

汝を許す

   韓国ドラマ「秋の童話」でウンソ(ソン・へギョ)とジュンソ(ソン・スンホン)がよく言っていた「ノエ チェルル サハノラ」(汝を許す)は「春のワルツ」でも重要なセリフとして登場する。(第14話「涙の井戸」)ウニョン(ハン・ヒョジュ)とチェハ(ソ・ドヨン)は青山島(チョンサンド)で再会する。ウニョンがチェハを母の墓へと案内する。「涙で私の心の中に井戸ができたの。一生枯れることのない井戸が。でも今はチェハがいるから大丈夫。寂しくない」と、墓に眠る母へスンに話す。しかし、チェハは、あらためてウニョンの心に残してきた傷の深さを思いしらされ、罪悪感のため墓に目を向けられない。そんなチェハに対して、ウニョンは言う。

 

「今は全部わかったから

全部許せるから

もう私から逃げないで

ノエ チェルル サハノラ

あなたの罪は許されました」

 

「ノエ チェルル サハノラ」は古語的な表現で、韓国の時代劇にも使われる。「サハノラ」は「許したもう」という感じ。

2007年11月 3日 (土)

モディリアーニの恋人

   1916年12月、アメディオ・モディリアーニ(1884-1920)32歳は、モンパルナスにあるアカデミー・コラロッシで絵を学んでいた画学生、18歳のジャンヌ・エビュテルヌ(1898-1920)と知り合う。ジャンヌの両親の反対を押し切って、1917年7月にグラン・ショミエール街に身を落ち着け、同棲を始める。1918年3月、彼らはコートダジュール、ニース、リヴィエラ、カーニュに移り住む。南仏の光はモディリアーニのパレットを明るくし、マティエールを薄くする。11月29日、ニースで娘のジャンヌが生まれる。1919年、モディリアーニはパリに戻り、グランド・ショミエール街8番地に住む。数ヵ月後、再び妊娠したジャンヌもパリに戻る。しかし、モディリアーニは酒と麻薬に溺れ、パリ慈善病院で1920年1月24日、結核性脳膜炎で死去。妻のジャンヌもその2日後の早朝、2人目の子供を身ごもったままアパートの6階から投身自殺。近年「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」などで、ジャンヌは知的で強い意志を持った女流画家であったことが評価されている。

2007年11月 2日 (金)

南天堂と大正アナキストたち

   松岡虎王麿は大正6年、本郷白山上に喫茶兼レストランの南天堂を開業した。関東大震災前まで思想家・芸術家のたまり場として知られていた。大杉栄(1885-1923)、近藤憲二(1895-1969)、和田久太郎(1893-1928)、辻潤(1884-1944)、宮嶋資夫(1887-1951)、秋山清(1905-1988)、岡本潤(1901-1978)、萩原恭次郎(1899-1938)、壺井繁治(1898-1975)、岡田龍夫(1904-没年不詳)、矢橋公麿(1902-1964)、小野十三郎(1903-1996)などアナキストやダダイストが頻繁に出入りしていた。

   そのほか南天堂に出入りしていた人々に、中西梧堂(1895-1984)、今東光(1898-1977)、村山知義(1901-1977)、橋爪健、高見順(1907-1965)、きだみのる(1895-1975)、菊田一夫(1908-1973)、池山薫子、友谷静枝、林芙美子、平林たい子などもいた。

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