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2007年10月15日 (月)

北方教育の父、成田忠久

   成田忠久(1897-1960)は、大正10年から14年まで浜田尋常小学校の代用教員となり、綴り方を通して生活を見つめ、自分の生き方を考える教育を提唱した。大正14年に教員をやめ、秋田市で豆腐屋を始め、昭和4年、北方教育社を創立。児童文集「くさかご」を創刊。昭和5年、岩手、宮城の教師と交流、昭和10年東北6県を連ねる北日本国語教育連盟を結成、機関誌「教育・北日本」を創刊、北方性教育運動をおこし全国的反響を呼ぶ。昭和5年から8年のころに生活綴方教育の台頭によって、大正時代の「赤い鳥」を中心とする童心主義児童文学の思潮が、現実の生活に根ざして、その生活感動を端的に表現した「児童生活詩」教育がさけばれるようになっていった。

    戦前の「生活詩」の一つの結実は次の詩に代表されるであろう。

           きてき

  あのきてき

  たんぼにも  きこえるだろう。

  もう あばが帰るよ。

  八重蔵、

  泣くなよ。

        秋田尋常小学校4年 伊藤重次

        指導 鈴木三治郎(昭和6年)

    この詩には、昭和初期の不況と経済恐慌の時代、貧困にあえぐ秋田の農家の子がありのままの生活の中で、真実をつかもうとする態度が現れている。

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