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2007年10月29日 (月)

ぺチコート作戦

   オーストリアのハプスブルク家は、カール6世の死によって男子の相続者が絶え、皇女マリア・テレジア(在位1740-1780)が領土を継承した。これにフランスやプロイセンが異議を唱えてオーストリア継承戦争が起こった。この戦争でマリア・テレジアの王位継承は認められたが、シュレジェン(シレジア)の領有は認められなかった。

   このためマリア・テレジアは外交官カウニッツを登用して、宿敵フランスと同盟を結ぶという思い切った政策をとった。これを外交革命という。これによってマリア・テレジア(オーストリア)、ポンパドゥール夫人(フランス)、エリザヴェータ(ロシア)という3人の女性がブロシアのフリードリッヒ2世を包囲した。いわゆる「3枚のペチコート作戦」によって、七年戦争(1756-1763)は、当初マリア・テレジア側に優勢であったが、エリザヴェータ女帝の死(1762年)によるロシアの離反のため、プロシアの有利に帰着した。パリ条約、フベルトゥスブルク条約により、プロシアのシュレジェン領有が認められた。

2007年10月28日 (日)

パンティーの力

     女性の下着の歴史は、シュメールに始まる。ルーブル博物館に所蔵するシュメールのテラコッタ像に描かれた二人の婦人のうち一方がはいているパンティが世界最古のものという(紀元前3000年)。

   中世ヨーロッパ、男性下着ロインクロスが発達して、16世紀イタリアで女性用ズロースが生まれた。

    日本では近代になっても女性は和服のままで、下着は長襦袢、腰巻。ショーツ(当時はズロースといった)の使用は昭和初期になってもほとんどなかった。

   ところが昭和7年12月16日、新装なったばかりの東京・日本橋の白木屋デパートの4階玩具売り場のクリスマス・ツリーの電飾から出火。14人が死亡した。「当時の女性はズロースをはいていなかったため、裾の乱れを気にして犠牲者を増やした」という俗説がまことしやかに語られたが、白木屋火災の後に急速にズロースの着用が増えたという事実はない。一般に日本女性がズロースを着けるようになるのは戦後からである。戦後日本女性の意識や行動様式が大きく変化したのはズロースを着用するようになったことが一つの要因であろうが、残念ながら「パンティーの力」を学問的に解明された研究は少ない。

   パンティーという語は昭和31年に発売されたウィークリー・パンティが起源である。しかしパンティーという語には恥じらいがあるためか、ショーツという語を使うこともある。衣食住という言葉があるが、衣服は人類にとって必要不可欠なものであり、羞恥心を超越して下着の歴史についても研究すべきと考えている。

    ところが今日の新聞でこんな記事を読んだ。ミャンマー軍事政権による民主化デモ弾圧に抗議して、世界各地の女性が最寄の大使館にパンティーを送りつける行動が起こっているという。なんでも軍事政権の指導者は男性ばかりで残忍なだけでなく、迷信深く、女性の下着に触れると男性の力を奪われると信じているからだそうだ。女性の下着には世界を変えるパワーがあるようだ。

パーマネントと戦争

   パーマの歴史は古く、古代エジプトで髪に泥を塗り、棒に巻きつけ、太陽で乾わかしていたのが始まり。あの美女クレオパトラ女王もパーマをしていたらしい。近代パーマ(電髪パーマ)は1905年、カール・ネスラーというユダヤ系ドイツ人の調髪師が考案。1906年にロンドンのオックスフォード街に「ネスレ・パーマネント・ウェーブ」というサロンをオープンした。そこで初めて「パーマネント・ウェーブ」という言葉が使われた。

   しかし、第一次世界大戦が始まると、敵国人であるネスラーはイギリスから追放される。1914年にアメリカに渡ったネスラーは、当時人気のあったダンサーであるアイリーン・キャッスル(1893-1969)に出会う。アイリーンは18歳とき、イギリスのオペラ役者のバーノン・キャッスルと結婚し、二人は社交ダンスで一世を風靡し、パリを始め欧州、アメリカ各地でダンスを広めた。のち映画「カッスル夫妻」(1939年)でフレッド・アステア、ジンジャー・ロジャースが演じているほどの有名人だった。そのころ、アイリーンは夫が英国飛行隊の大尉として出征し、墜落死する不幸があった。ネスラーはアイリーンにパーマを使った新しいヘア・スタイルをすすめ、「アイリーン・カッスル・ボブ」が誕生した。

    日本でパーマが導入されたのは大正12年5月。神戸三宮で外国人相手に美容院を経営していた紺谷寿美子がアメリカから機械を輸入したのが始まり。実際に普及しだしたのは、昭和5、6年ごろからで、昭和10年代には大流行。しかし昭和14年6月16日、生活刷新法が制定された。この法律には、遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の贈答廃止、学生長髪禁止、パーマネントの廃止などが盛り込まれていた。「堅忍持久」「贅沢は敵だ」などのポスターには「パーマネントはやめましょう」と書かれていた。この法律施行より1年前の昭和13年2月から、宝塚少女歌劇団では、娘役、女生徒のパーマ禁止、男役のシングル・カットが禁止された。しかし娘役のスターである草笛美子、久美京子ら、男役のスターである小夜福子、葦原邦子、奈良美也子らは除外されていた。

2007年10月27日 (土)

日米開戦とジーン・アーサー

    昭和15年8月、東京の8人の若き小説家たちが「青年芸術派」を結成した。野口冨士男、井上立士、牧屋善三、南川潤、十返肇、田宮虎彦、青山光二、船山馨である。青年芸術派が昭和文学史に残した足跡は小さなものであるかも知れないが、時局の国策文学的雰囲気に抵抗しようとしていたことがうかがわれる。まさに日米開戦の直前のことである。野口冨士男(1911-1993)が毎日新聞に寄せたエッセイにその当時の思い出を書いていたことを記憶する。

    昭和16年の晩秋、野口冨士男は映画「スミス都へ行く」を見に行った。すでに政府は前年にアメリカ映画の輸入禁止を発表していた。もうこれでアメリカ映画は観れなくなる。野口は、最後の思い出にジーン・アーサー(1908-1991)を一目みておきたかった。当時、ジーン・アーサーは巨匠フランク・キャプラー監督作品「オペラハット」「我が家の楽園」に主演し、まさにアメリカを象徴するトップ女優だった。この「スミス都へ行く」を見てまもなく、12月8日、太平洋戦争が起こった。

2007年10月26日 (金)

夢去りぬ

   小熊秀雄(1901-1940)は、昭和15年11月20日、東京の豊島区千早町のアパートの一室で39歳の若さで死んだ。「泥酔歌」という詩はおそらく死ぬ前年ごろに作られたものであろうか。

暗い隅から

レコードが歌ひだした

不安なキシリ声から始まった

哀愁たっぷりのジャズだ

女に歌の題をたずねると

「夢去りぬ」といふ、

俺はそれを聞くと

酔ひが静かに醒めてきた

ほんとうだ 夢は去ったのだ、

とつぜん俺は機嫌がよくなった。

よろよろと扉をひらいて戸外にでた、

古ぼけた痲痺を追っている

多数の人々の姿を

俺はぼんやりと瞳孔の中に映しだした

夢去りぬ、俺は蚊の鳴くやうな

小さな声で人々にむかって呟やいた

   小熊が聞いたレコード「夢去りぬ」とは、どんな曲であろうか。「夢去りぬ」は昭和14年に発売されたときは、「Love‘s Gone」という題で、ラベルにもハッター作曲、ヴィック・マックスウェル楽団演奏と刷られていた、と資料にある。当時ジャズ音楽は敵性音楽とみなされ、服部良一(1907-1993)が盟邦ドイツのタンゴと偽装して出したレコードだった。戦後の昭和23年に霧島昇が日本語歌詞のレコードを出した。

   ところが、当時を知る老人(高柳重信)の思い出を語るブログ記事では、確かに日本語歌詞で題も英語ではなく、日本語の「夢去りぬ」であったといっている。これを老人の記憶違いと記事者(須永朝彦)は書いているが、この小熊秀雄の「泥酔歌」を読むかぎり、「夢去りぬ」は「レコードが歌ひだした」とあることから、歌詞があったようで、女(カフェーの女給)が咄嗟に英語の題を訳して「夢去りぬ」といったとは考えにくく、おそらくレコードのレーベルに日本語で「夢去りぬ」と書かれていたのであろう。つまり「夢去りぬ」は二種のレコードが昭和14年に存在していたのである。

   抵抗の詩をうたいつづけた詩人・小熊秀雄と音楽家・服部良一という二人のモダニスト・芸術家が日中戦時下、お互い名前も知らぬまま間接的に遭遇していたのである。「夢いまだ さめやらぬ 春のひと夜 君呼びて ほほえめば 血汐おどる ああ 若き日の夢 今君にぞ通う この青春のゆめ さめて散る花びら」

2007年10月25日 (木)

安珍清姫

   安珍清姫の伝説は「本朝法華験記」や「今昔物語集」に見られるが、熊野詣での若僧と牟婁郡の宿の女主とあるだけで、安珍の名は「元亨釈書」、清姫は根津美術館蔵「賢学草紙」に出てくるのが最も古い。和歌山県日高郡の道成寺に「道成寺縁起絵巻」が伝来するが、名は見えない。

   物語は、熊野詣での奥州白河の安珍という若僧が紀州牟婁郡の真砂の里で庄司清重の家に泊まった。庄司の娘はみめうるわしく清姫といった。安珍は行く末はわが妻にせんとひそかに清姫に語った。ところが、ある夜、安珍は障子に映った蛇身の清姫を見て、その物凄い形相に恐れをなした。それとは知らず姫は安珍を慕いつづけた。安珍は熊野詣での帰りにきっと立ち寄って添い遂げましょうと約束して旅立った。けれども、熊野詣でをすませた頃になっても、安珍は戻って来なかった。裏切られた清姫は、真砂の里から、田辺、印南と、安珍を追って走る。清姫の姿は今は鬼女のような姿に変身していた。やがて安珍に追いついたものの、人違いと言われて清姫は激怒する。蛇身となって、日高川を渡る。安珍は女人禁制の道成寺の釣鐘の中に隠れるが、蛇となった清姫は鐘に巻きつくと炎となって燃えあがった。蛇が去ったあと、炭と化した安珍の亡骸があった。寺の老僧の夢に二匹の蛇が現われ、法華経の書写と回向をたのむので、そのとおりにすると、再び夢で、天人となったことを告げたという。この安珍清姫の伝説に基づいて、謡曲「道成寺」、浄瑠璃「日高川入相桜」、歌舞伎「京鹿子娘道成寺」などが成った。

三宅島と生島新五郎

    三宅島は東京から南南西175km伊豆諸島のほぼ中央で、大島、八丈島についで三番目に大きい島である。事代主命が渡島し、付近の島々を治めたという伝説があり、12の延喜式内社があることから宮家島といったのが島名の起源という。また8世紀に多治比直人三宅麿が流されたことによるとの説もある。源為朝の居住跡、竹内式部の墓などもある。江戸時代は流刑地で「絵島事件」の生島新五郎は正徳4年(1714)から寛保2年(1742)まで28年間、この島に流された。

    生島新五郎(1671-1743)は、寛文11年、大坂に生まれ、貞亨元年に野田蔵之丞の名で木挽町の芝居小屋・山村座の舞台に立つ。元禄4年、生島新五郎と改名。徳川家継の時、正徳4年1月12日、大奥御年寄の絵島(1681-1741)が寛永寺、増上寺へ参詣した帰途、当時人気絶頂の歌舞伎役者・生島新五郎の山村座に立ち寄ったことが露見し、大奥の門限に遅れ、いわゆる「絵島事件」にまで発展した。かくて絵島は信濃高遠(現・長野県伊那市)へ、生島は三宅島へ流され、そのほか処罰者は大奥・御用商人・歌舞伎界に及んで1500人にものぼった。28年間、囲屋敷幽閉の末、病に倒れた絵島は生島の名を呼びつづけて、その生涯を終わった。寛保2年2月、生島は徳川吉宗により赦免され、江戸に戻ったが翌年、小網町で没した。

   舟橋聖一の新聞小説「絵島生島」(東京新聞昭和28年9月~29年11月)を原作に淡島千景、市川海老蔵主演で「絵島生島」(大庭秀雄監督、昭和30年)が映画化されている。

2007年10月23日 (火)

お夏清十郎悲話

   姫路本町の目抜き通りに店を構える但馬屋九左衛門。その娘にお夏という美少女がいた。次々と持ち込まれる縁談にもうひとつ気乗りしないまま16歳の春を迎えたある日、米問屋但馬屋に新しい手代が雇われた。それが清十郎である。男前で物腰もやさしく、帯の中に昔の恋文を無造作に縫い込んであるのが憎らしい。

   お夏はいつしか恋に落ちる。春の花も闇、雪の曙も白くは見えず、夕暮れに鳴く鳥の声も耳に入らなかった。純真で一途な思いが清十郎にも通じ、二人は手に手を取り合って駆け落ちするが、追手に捕らえられ座敷牢に入れられた。やがて、清十郎が窃盗の濡れ衣を着せられ、船場川下流の一枚橋の東の河原で打ち首になったことを知ったお夏は発狂する。そして、3ヵ月後、ようやく正気に返ったお夏は、頭を丸めて出家し、清十郎の菩提を弔うのであった。(一説によると、お夏は小豆島に縁づいたといわれる。)お夏清十郎の悲話は井原西鶴(1642-1693)の『好色五人女』巻1「姿姫路清十郎物語』、近松門左衛門(1653-1724)「おなつ清十郎五十年忌歌念仏」などで全国に広まった。映画では昭和11年の田中絹代、林長二郎の「お夏清十郎」(犬塚稔監督)、昭和21年の高峰三枝子、市川右太衛門の「お夏清十郎」(木村恵吾監督)が有名。

2007年10月21日 (日)

白昼の死角

    映画「白昼の死角」(村川透監督、昭和54年)は高木彬光(1920-1995)の同名の小説を映画化したピカレスク・ロマン。戦後の混乱が続く昭和23年。東大生の隅田光一(岸田森)は鶴岡七郎(夏八木勲)、木島良助(竜崎勝)、九鬼善司(中尾彬)らと金融会社「太陽クラブ」を設立する。しかし闇金融疑惑で隅田は検挙され焼身自殺を遂げる。同志の非業の死を見た鶴岡は復讐を誓う。現行の法律の死角を突く完全なる経済犯罪者として鶴岡は蘇る。

    高木は昭和34年「黄金の死角」として「週刊スリラー」に連載したが、翌年カッパブックスに「白昼の死角」として改題し刊行した。小説の序盤に登場する隅田光一のモデルは光クラブ事件の山崎晃嗣(1923-1949)であることはよく知られている。ほかにも山崎をモデルにした小説としては、三島由紀夫「青の時代」、清水一行「産業集団」、北原武夫「悪の華」、田村泰次郎「大学の門」など多数あるが、高木作品が成功例といえるだろう。

    山崎晃嗣は大正12年、木更津に生まれた。父は市長を勤める医者の長男。木更津中学、一高、東大と進み、大学時代には17科目に優、3科目だけが良という秀才だった。この抜群の頭脳を生かして日医大3年生の三木仙也らと闇金融「光クラブ」を設立して、インフレに苦しむ中小企業に金貸しをはじめた。しかし昭和24年11月、資金繰りに困り、「貸借法、全て清算カリ自殺」と遺書を残して服毒自殺した。

    山崎は、翌日の行動プランを分刻みに記録していたというほど几帳面な性格であった。自分の合理主義をもって時代に挑戦することにあった。「人生は劇場だ。僕はそこで脚本を書き、演出し、主役を演じる」いわば劇場型人間。もっとも高木彬光「白昼の死角」では主役ではなく脇役である。山崎晃嗣は戦後社会が生んだアプレ・ゲールの典型であるが、山崎のエピゴーネンともいえる村上世彰、堀江貴文など現在においてもしばしば登場する。これまでも山崎の日記は出版されているが、大学ノート3冊に書かれた昭和21年ごろの日記が神田の古書店で出品され、いま話題になっている。

セーラー服と機関銃

   映画「セーラー服と機関銃」の撮影は昭和56年夏、薬師丸ひろ子の夏期休暇に合わせて、東京・新宿周辺でのロケが行なわれた。当時、薬師丸ひろ子は、東京都立八潮高等学校2年生で「野性の証明」「翔んだカップル」「ねらわれた学園」に続く4本目の主演作品だった。6月8日、ひろ子と相米慎二(1948-2001)監督との打ち合わせが青山のレストランであった。6月29日には、相米監督とともに脚本家の田中陽三との打ち合わせ。田中のひろ子の印象は「キ真面目な女の子に会ったという感じ。普通、あまり役者さんはいろんなこと言わないもんだけど、しっかり喋ってくれて、なんだか怒られてしまった気分です。マルッ!」と語る。6月30日、学校のテストを受けたあと、調布の日活撮影所で機関銃の試射、弾着テストを行なう。初めて機関銃をぶっとばしたひろ子は大きな目をさらに大きくして、「凄い!」とビックリ。7月6日、期末試験。この頃映画の準備は着々と進んでいた。7月17日、衣裳合わせ、本読みと撮影開始に向かって盛り上がってきた。7月22日、五反田の喫茶店リットーでクランク・イン。7月31日、ひろ子はこの日、機関銃発射の感じをつかむためクレー射撃場へ体験取材に行ったが、高倉健とバッタリ会う。8月11日、九段の暁星学園でロケ。高校生を中心にエキストラ300人を集めて、星泉を目高組組員が校門で待ち受けているシーン。8月18日、映画最大のヤマ場、浜口物産機関銃殴り込みシーン撮影。ひろ子の撃った火薬が弾けて砕け散ったビンの破片がひろ子の頬を襲った。すぐに救急病院に飛び込んだが、左頬に1センチ弱の傷になってしまった。翌日、撮影中止。8月20日、絆創膏をとり、撮影再開。8月27日、伊豆ロケ。ひろ子は夏休みの宿題の追い込み。「80%くらいしかできなかった」と情けない顔をする。9月6日、クレーンに吊るされてコンクリート漬けにされるシーン。9月7日、これもハイライトであるキスシーンを撮る。何度かためらった末の撮影。9月13日、暴走族シーンを撮り終えて、後はラストシーンを残すだけ。ひろ子の体調は最悪。9月15日、伊勢丹新宿店の前で、地下鉄通風口からの風でスカートをひらめかせるシーン。ついにクランク・アップ。ロケ・バスに戻りひとりで大声で泣く。10月には、主題歌「セーラー服と機関銃」(詩・来生えつこ、曲・来生たかお)、EP盤B面「あたりまえの虹」をレコーディング(KRS)。11月30日、フジTV「夜のヒットスタジオ」に生出演。当日の出演者は松田聖子、沢田研二だった。12月17日、TBS「ザ・ベストテン」出演。12月19日、映画は全国東映系で公開。丸の内、渋谷、新宿の舞台挨拶。映画は大ヒツトとなり、機関銃を撃った後に吐く台詞「カ・イ・カ・ン」は流行語となる。主題歌も爆発的ヒット。ひろ子の歌い方は何か学校の音楽の時間を思い出す。アイドル歌手としては天地真理以来のファルセット唱法で新鮮であり、清潔感、透明感があった。(参考:「薬師丸ひろ子フォトメモワールPart3」富士見書房)

  さよなら別れの

  言葉じゃなくて

  再び逢うまでの

  遠い約束

  現在を嘆いても

  胸をいためても

  ほんの夢の途中

  このまま何時間でも

  抱いていたいけど

  ただこのまま 冷たい頬を

  あたためたいけど

  都会は秒刻みの

  あわただしさ

  恋もコンクリートの

  籠の中

  君がめぐり逢う

  愛に疲れたら

  きっともどっておいで

  愛した男たちを

  想い出にかえて

  いつの日にか

  僕のことを

  想い出すがいい

  ただ心の 片隅にでも

  小さくメモして

  スーツケース

  いっぱいに つめこんだ

  希望という名の

  重い荷物を 君は軽々と

  きっと持ち上げて

  笑顔見せるだろう

  愛した男たちを

  かがやきにかえて

  いつの日にか

  僕のことを

  想い出すがいい

  ただ心の 片隅にでも

  小さくメモして

川中島一騎打ち

   NHK大河ドラマ「風林火山」もいよいよクライマックスにさしかかる。詩吟「鞭声粛粛夜河を過る」で知られる川中島合戦。本当に上杉謙信と武田信玄の一騎打ちがあったかどうかは別にして、世にいう川中島の合戦は、5回にわたって戦われたが、謙信と信玄の一騎打ちはこのうち第4回、永禄4年(1561)9月10日のこととされる。

   妻女山に陣取った謙信に対して、武田勢は海津城に入った。信玄は一手をもって妻女山を攻め、上杉勢が退くところを残る一手と挟み撃ちにする作戦を立てた。ところが謙信はその裏をかいて、あらかじめ山を降りた。朝霧が晴れてみると、両軍は接近しており、乱戦となった。謙信が馬上から信玄に三太刀斬りつけ、床几に掛けた信玄が、軍配団扇には七つの傷跡が残ったと、「甲陽軍鑑」にはある。(三太刀七太刀之跡)(参考:「日本歴史伝説傑作選」学習研究社)

2007年10月20日 (土)

クリスティーナ・ロセッティ

         風

 誰が風を見たでしょう?

 ぼくもあなたも見やしない、

 けれど木の葉をふるわせて

 風はとおりぬけてゆく。

 誰が風を見たでしょう?

 あなたもぼくも見やしない、

 けれど樹立(こだち)が頭をさげて

 風は通りすぎてゆく。

        *

     希望と喜び

 希望が茂みに咲くならば

 木に喜びが咲くならば

 どんなに素敵な花束が

 摘んで編まれることでしょう

 けれども風が吹く秋に

 かよわい花が凋むとき

 褪せ行く希望と喜びを

 ああ どうしたらいいでしょう

   クリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)はロンドンに生まれる。ビクトリア朝の女流詩人。画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹。「風」は西条八十が訳し、大正10年に草川信が曲をつけ童謡「風」ができた。いまでも「風をみたひと」という題で合唱曲として歌われている。「希望と喜び」は羽矢謙一訳。

なお岩波文庫「クリスチナ・ロセッティ詩抄」入江直祐訳では文語調の「風」が収録されている。

 誰が一体 風を見た。

 私もあなたも見たことがないが

 枝の垂葉(たれは)がゆれるとき

 風が通ってゐるのです。

 誰が一体 風を見た。

 あなたも私も見たことがないが

 梢がお辞儀をするときは

 風が渡ってゐるのです。

福田内閣と韓信の故事

  「背水の陣」内閣の福田康夫は10月19日、国立公文書館で開催中の秋の特別展「漢籍」を見学した。そこで展示されていた漢籍を見て「私の心境はまさに韓信の股くぐりだ」と言ったという。その真意は現在、政府が国会に提出しているテロ対策特措法案成立への決意ともみえる。

  ところで福田首相は何かと韓信の故事をひくが、ほんとうに韓信の最期を知っているのだろうか。「国士無双」といわれた韓信も漢帝国成立後は「狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓しまわれ、敵国破れて謀臣滅ぶ」といって准陰候に下げられた。そして5年後、斬殺されその三族まで族滅された。

   はたして福田首相は何という漢籍を見たのであろうか。「股くぐり」の故事が載っている漢籍といえば、やはり司馬遷の「史記 准陰候列伝」が考えられる。しかしその論賛で司馬遷は次のように語っている。

   「もしも韓信が道を学んで謙虚に、自分の功を誇ることなく、才能に慢心することがなかったら、漢朝に対する勲功は、周における周公、召公、太公望らにも比べられ、後世、子々孫々の祭祀を享けられただろう。こうした道をつとめず、天下が平定された時に叛逆をはかったとあれば、宗族を滅ぼしたのも、また当然ではなかろうか。」

    「韓信の股くぐり」は江戸時代以来、日本でも人気のある故事成語ではあるが、「背水の陣」「狡兎死して走狗煮らる」などあまり一国を担うリーダーの使用する故事ではない。おそらく側近の浅知恵であろうが、歴史認識の甘さが気がかりである。

デスペレートな女流作家

    平林たい子(1905-1972)。明治38年10月3日、長野県諏訪郡中洲村福島(現・諏訪市)で生まれる。祖父・平林増右衛門は製糸業を営む自由党員であったが、事業に失敗。父・平林三郎は弟・督男とともに朝鮮に行き、母・勝美が農業のかたわら日用雑貨をひらいた。大正11年、諏訪高等女学校を卒業後、上京し、東京中央電報局の交換手監督見習になるが勤務中に堺利彦に通話して解雇。ドイツ書籍店の店員になり山本虎三と出会う。高津正道の売文社に出入りし、アナーキストグループに接近する。大正13年1月、山本と大連に渡る。大正13年10月、単身帰国。田河水泡(1899-1989)、岡田龍夫(1904-没年不詳)と同棲。大正14年、飯田徳太郎と同棲。昭和2年1月、山田清三郎の媒酌により小堀甚ニ(1901-1959)と結婚。昭和2年5月、「喪章を売る」(のち「嘲る」と改題)が大阪朝日新聞懸賞に入選。昭和2年9月「施療室にて」を「文芸戦線」に発表し、プロレタリア作家としての地位を確立した。代表作に「殴る」「こういう女」「盲中国兵」「鬼子母神」「私は生きる」「人生実験」「人の命」「秘密」「地底の歌」「一人行く」「耕地」「春のめざめ」「栄誉夫人」「桃色の娘」「愛情旅行」「女二人」「うつむく女」「妻は歌う」「愛あらば」「砂漠の花」等ある。

ヴェルレーヌとランボー

    ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896)は、フランスのメッツに生まれ、パリ市役所の下級吏員となり、早くも22歳にして「サテュルニャン詩集」(1866年)、25歳にして「艶なるうたげ」(1869年)、「よき歌」(1870年)を出し、逸楽的な夢想と憂愁とを、自由・大胆なリズムのある形式に託して、音楽的に暗示するという、その独自の詩風を示した。しかしやがて飲酒の習慣に陥る。1871年秋、美少年アルチュール・ランボー(1854-1891)を知るや、奇怪な情熱にとらわれて、妻マチルド・モーテ・ド・フルールビルを棄ててランボーとイギリスに出奔。1873年7月、ついにブリュッセルの街上で、ランボーを拳銃で撃ち、2年間、モンスの刑務所に捕われた。妻との離婚確定の知らせに深刻な打撃を受け、悔い改めてカトリック教に帰依し、獄中で、宗教詩の傑作「叡智」(1880年)を書いた。1875年出獄後は中学校教師をして生活の建て直しに努めたが、また、1885年には、ヴゥジー刑務所に、1ヵ月間投獄されたり、その一生は放蕩と、飲酒の悪癖と、神秘主義との間を絶えず行ったり来たりしていた。1896年1月8日、肉親友人もいないウジェニー・クランツの部屋で、一人淋しく死んだ。

   今日10月20日は象徴派の詩人アルチュール・ランボーの誕生日。ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー(1854-1891)。シャルルビルに生まれる。早くから異常な知的能力を発揮し、8歳で文章の天分を示した。ランボーが残した著作は少なく、散文詩集「地獄の季節」(1873年)「イリュミナシオン」(1874年)がある。以後は文学と別れて、ヨーロッパを放浪したり、エジプトでコーヒー商をやったり、エチオピアで探検家兼武器売込人になったり、多彩な人生を送った。(参考:大塚幸男「写真・フランス文学史」)

秋の詩、三編

   秋の日

       ライナー・マリーア・リルケ詩

       藤原定訳

主よ、すでに秋です

夏はじつに偉大でした

日時計の上に

あなたのかげをおいてください

そして野に 風を放ってください

果樹にのこっている木の実が

よくみのるよう命じてください

その木の実らになお

あたたかい南風の二日を

おあたえください

その木の実らが十分に熟して

あまやかさがやがて

よいぶどう酒に醸されますよう

秋です。

いま家なき者はもはや

家を建てることができません

いま孤独なひとは

ずっと孤独のままで

夜もねむらず

本を読み

長い手紙を書き

並木道を 心おちつかず

あちこちとさまようでしょう

木の葉ちるなかで

                 *

     枯葉

        ジャック・プレヴェール作詞

        ジョセフ・コスマ作曲

        岩谷時子訳詩

あれは遠い思い出

やがて消えるほかげも

窓辺あかく輝き

光みちたあの頃

時はさりて静かに

降りつむ落ち葉よ

夢に夢をかさねて

ひとり生きる悲しさ

こがらし吹きすさび

時はかえらず

心に唄うは

ああシャンソン 恋の歌

暮れゆく秋の日よ

銀色の枯れ葉散る

つかのま燃えたつ

恋に似た落ち葉よ

いつの日か抱かれて

誓いし言葉よ

はかなくただ散りゆく

色あせし落ち葉

          *

  落葉(らくよう)

       ヴェルレーヌ詩

       上田敏訳

秋の日の

ビオロンの

ためいきの

身にしみて

ひたぶるに

うら悲し。

鐘のおとに

胸ふたぎ

色かえて

涙ぐむ

過ぎし日の

おもいでや。

げにわれは

うらぶれて

ここかしこ

さだめなく

とび散ろう

落葉かな。

2007年10月19日 (金)

セラ・ティズデール詩集

       私の初恋

どうかいとしいその目でふりかえって

ここにいる私を見つけてください

あなたの愛で私をふるい立たせてください

つばめを運ぶ そよ風のように

太陽のように 嵐のように

私たちをどうか遠くへ運んでください

それでも私の初恋がまた私を呼んだら

どうすればいい

          *

      眠っている時だけ

ただ眠っている時だけ

私にはあの人たちの顔が見える

私が子供の時に

いっしょに遊んでいた

あの人たちの顔が

ルイズはあんだ鳶色の髪をして

私のところへ戻ってくる

アニイはやわらかい乱れた

おさげでやってきた

ただ 夢の中だけ

歳月は忘れられる

あれから

あの人たちがどう変ったか

だれが知ろう

けれど 昨夜

私たちは遠い昔のように

いっしょに遊んだ

そして人形の家は幼い日のように

はしご段のはしに立っていた

歳月はあの人たちのまるい顔を

とげとげしくは変えていなかった

あの人たちの瞳は 昔どおり

おだやかで優しかった

私は思う

あの人たちもまた

私の夢を見るであろうか

そして あの人たちにとっても

私は永久に子供なのだろうか

        (みついふたばこ訳)

   セーラ・ティズデール(1884-1933)は20世紀初頭のアメリカの女流詩人。「冬のソナタ」のモチーフである詩「私の初恋」で日本でも知られるようになった。

2007年10月18日 (木)

織田作之助とライスカレー

    織田作之助(1913-1947)は三高(京都大学)在学中に酒場ハイデルベルクの女給・宮田一枝と駆け落ちする。一枝との同棲体験から名作「夫婦善哉」が誕生する。小説にも登場する自由軒の名物カレーとはどのようなものであろうか。

    作之助はカレーを食べながら執筆するので、その際に皿を見なくて口にカレーを運べるようにライスとルーをあらかじめかき混ぜて出すように頼んでいた。自由軒の名物カレーとは、白飯にカレールーを混ぜ込み、真ん中を窪ませて生卵をひとつおとしこんだものである。当時25銭。小説「夫婦善哉」には「自由軒のラ、ラ、ライスカレーは御飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」とある。

    今年は織田作之助没後60年になる。小説「秋深き」「競馬」をもとにした映画「秋深き」(池田敏春監督)の撮影も快調に進んでいるそうだ。佐藤江梨子の宮田一枝を早く見たい。

2007年10月17日 (水)

急行列車「津軽」と出稼ぎ

   青森発上り急行「津軽」は別名「出稼ぎ列車」と呼ばれた。午前6時、冬の農閑期に働きに出た男たちを乗せ、午後8時に上野駅に着く。昭和29年10月から平成5年まで運行していた。出稼ぎは昭和39年の東京オリンピックを契機に急増し、ピーク時の昭和46年前後は、全国で34万人の出稼ぎがおり、東北の農民が18万人。全国の5割強を占めた。東北は季節労働力の大供給地として東京を中心に高度経済成長を支えた。しかし昭和45年頃から食生活の変化により、米が余るようになると、国は米の価格を維持するため減反政策を推進するようになった。そのため農家数の減少や農地の荒廃化など多くの問題が顕在化した。

美食家ではない実篤

    9月12日午後2時、安倍晋三首相の突然の辞任のニュースが流れた。医師の説明によれば「食欲不振などの症状があり、全身的に非常に衰弱している」という。安倍から交替した福田康夫はステーキを食する健啖家で大のワイン党という。どうやら最近は美食家、健啖家がもてはやされるらしい。テレビではギャル曽根が大食い番組で人気者になり、陶芸家の北大路魯山人(1883-1959)が美食家として注目されている(漫画「美味しんぼ」に登場する海原雄山が魯山人のモデルらしい)。いまテレビ・雑誌では著名人が美食を競っている。「作家の食卓」(平凡社)では、立原正秋、石川淳、永井荷風、壇一雄、色川武夫、内田百閒、谷崎潤一郎、吉田健一、池波正太郎、開高健などの美食が紹介されている。

   ところが、作家すべて美食家かというと、そうでもないらしい。嵐山光三郎によれば、武者小路実篤(1885-1976)は味音痴だそうだ。家族が、これならと思う美味しいものをすすめると、「くえる」というのがほめ言葉だった。食通の梅原龍三郎に中華料理をごちそうになり、味はどうだったか訊かれたとき、実篤は「やわらかかった」と言ったという。独特の画風で知られる実篤の野菜の絵も、生命力はあるが、そこに食欲はなく、ひたすら観察があるだけである。嵐山は「それは実篤が公家の出で、はかない味を好んだためだという」そして「明治の公家の食卓はつつましいものであった」という。そういえば実篤の小説には食べ物の描写はほとんどないと記憶する。楽天的で無頓着なところが実篤の魅力なのかも知れない。(参考:嵐山光三郎「文人暴食」)

長谷健と九州文学

    「今日は何の日」を調べると、芥川賞作家の長谷健の誕生日である。長谷は、明治37年、福岡県山門郡東宮永村下宮永北路(現・柳川市)で生まれる。筆名の由来は、長谷川如是閑(1875-1969)とも「長谷の大仏さん」ともいわれる。学生時代に肋膜を患い、健康を願って「長谷健」としたという。東京の小学校の先生(堤正俊といっていた)が芥川賞を受賞したのは昭和14年のことである。戦後、長谷は火野葦平の「鈍魚庵」に同居していた。同じ福岡出身の火野も「糞尿譚」(第6回芥川賞)で受賞している。

   芥川賞受賞者を府県別でみると、第1回から第134回平成17年下期まで139名のうち、東京は27名、大阪府14名、福岡県は11名である。福岡、長崎出身者の作家は多い。九州文学といえる土壌があるようだ。歴代の受賞者は鶴田知也(1902-1988)「コシャマイン記」、火野葦平(1907-1960)「糞尿譚」、中山義秀(1900-1969)「厚物咲」、長谷健(1904-1957)「あさくさの子供」、松本清張(1909-1992)「或る小倉日記伝」、岡松和夫(1931生)「志賀島」、森禮子(1928生)「モッキングバードのいる町」、村田喜代子(1945生)「鍋の中」、藤原智美(1955生)「運転士」、藤野千枝(1962生)「夏の約束」、大道珠貴(1966生)「しょっぱいドライブ」

   ところで長谷健の作品には、同じ柳川出身の北原白秋(1885-1942)を題材にした「からたちの花」(昭和30年)がある。昭和32年、白秋三部作の終章「帰去来」執筆半ばに交通事故で急逝した。

   長谷は昭和4年に上京して、小砂丘忠義の「綴方生活」の同人として活躍した。白秋の抒情性、童心性を中心とした「児童自由詩」に対して、生活綴方運動では現実生活に根ざして、その生活感動を端的に表現した「生活詩」を重要視していったので、白秋と同郷である長谷健の立場は微妙であり、複雑であったであろう。芥川賞受賞後の戦時中も「九州文学」の同人であった長谷は、戦前と戦後とを繋ぐ九州文学の重要な位置をしめている。

2007年10月16日 (火)

寺田寅彦と珈琲

   寺田寅彦(1878-1935)は幼いころ病弱であったため、医者は牛乳に少量のコーヒーを香り用として混ぜて与えた。そのため、物理学者となり、東大の研究所で働くようになってからも、壁には「好きなもの イチゴ 珈琲 花美人、懐手して宇宙見物」とローマ字で貼っていた。

    寅彦は病気のため1年以上全くコーヒーを口にしなかった。ある秋の日、久しぶりで銀座でコーヒーを一杯味わった。そうしてぶらぶら歩いて日比谷までくるとなんだかそのへんの様子が平時とは違う。すべてのものが美しく明るく愉快なもののように思われ、この世の中全体がすべて祝福と希望に満ち輝いているように思われた、とコーヒーの効用を書いている。そして宗教は官能と理性を麻痺させる点で酒に似ていて、哲学は官能を鋭敏にし洞察力と認識を透明にする点でコーヒーに似ている、とも書いている。(参考:寺田寅彦「コーヒー哲学序説」)

2007年10月15日 (月)

北方教育の父、成田忠久

   成田忠久(1897-1960)は、大正10年から14年まで浜田尋常小学校の代用教員となり、綴り方を通して生活を見つめ、自分の生き方を考える教育を提唱した。大正14年に教員をやめ、秋田市で豆腐屋を始め、昭和4年、北方教育社を創立。児童文集「くさかご」を創刊。昭和5年、岩手、宮城の教師と交流、昭和10年東北6県を連ねる北日本国語教育連盟を結成、機関誌「教育・北日本」を創刊、北方性教育運動をおこし全国的反響を呼ぶ。昭和5年から8年のころに生活綴方教育の台頭によって、大正時代の「赤い鳥」を中心とする童心主義児童文学の思潮が、現実の生活に根ざして、その生活感動を端的に表現した「児童生活詩」教育がさけばれるようになっていった。

    戦前の「生活詩」の一つの結実は次の詩に代表されるであろう。

           きてき

  あのきてき

  たんぼにも  きこえるだろう。

  もう あばが帰るよ。

  八重蔵、

  泣くなよ。

        秋田尋常小学校4年 伊藤重次

        指導 鈴木三治郎(昭和6年)

    この詩には、昭和初期の不況と経済恐慌の時代、貧困にあえぐ秋田の農家の子がありのままの生活の中で、真実をつかもうとする態度が現れている。

おでんと虚子

    高浜虚子(1874-1959)。本名・池内清。明治7年2月22日、松山市長町新丁に父・池内四郎政忠、母・柳の四男として生まれる。明治15年、祖母の家系を継ぎ、高浜姓となる。明治24年、正岡子規に出会う。明治30年6月、高田屋の娘、大畠いとと結婚。明治31年10月、俳句雑誌「ホトトギス」の主宰者となる。

    虚子は若いころから酒好きであったが、大正8年に軽い脳溢血で倒れた。そのため大好きな酒はたしなむ程度にしたが、おでん屋でおでんを食べながら少量の酒を楽しんでいたようだ。

  振り向かず 返事もせずに おでん食ふ

  おでんやを 立ち出でしより 低唱す

  戸の隙(すき)に おでんの湯気の曲り  消え

  硝子戸に おでんの湯気の 消えていく

  志 俳諧にあり  おでん食ふ

  おでんやの 娘愚かに 美しき

など、おでんの句がある。

2007年10月13日 (土)

長谷健と平林たい子

    「あさくさの子供」(第9回芥川賞)などの名作で知られた長谷健(1904-1957)は、本名・藤田正俊(旧姓堤)、福岡県柳川市に生まれ、福岡師範卒。昭和4年に上京し、小砂丘忠義の「綴方生活」の編集同人をしていた。毎月「綴方インターヴュー」という連載で有名作家に会って文章作法などを聞く。昭和10年6月号は平林たい子(1905-1972)である。

  「綴方について何か話していただきたいんですが」と言いながら「綴方生活」を一冊差出すと、「それは大変おやすい御用で、また一面むづかしい問題ですわね」さらさら言ってのけてからさて「文章は、見た通り感じた通りそりままを書くというのが骨子ではありますがね。ただその通りに書いただけでは、写真になってしまいますね。作文は、文学は、写真ではないんです。見た通り感じた通りといっても或部分は事実以上に誇張されたり、時には省略されたりして非常に複雑になるものです。従って感じた要点や、主張したい点は、特に綿密的確に表現するしいくらありのままでもそれが自分の主張と反対の場合は省略してしまうんですね。しかしまた見た事感じた事を、もっともっとよく云い表わすためには、時に、それと反対のものを強く現す場合もあります」「逆効果をねらうといふところですか」「まあ、いってみればさうですね」滔々と喋りつづけるところ、ますます九州なる肥った私の姉とそっくりである。いきおいどうも姐御といった風な親しみがわいてくる。

   長谷健は平林たい子よりもわずか一歳年下であるが、流行作家とまだ無名の文章修業中の「はせけん」では、文士としての格が違うのだろう。恐る恐る女史の話を聞いていたようだ。夫の小堀甚ニ(1901-1959)の咳払いが襖越しに聞えた。長居は病人の神経を刺激するとばかり、用件をすますとさっさと退却した。

中島菊夫と小砂丘忠義

    中島菊夫も中島さと子もあまり戦前のことは多くを語りたがらない。菊夫は大正から昭和にかけて高知で小学校の教師をしていた。綴方教育で知られる小砂丘忠義(1897-1937)とは同級生であり、二人は教育の改革をめざした運動家であった。

    小砂丘忠義(ささおかただよし)。本名・笹岡忠義。明治30年4月25日、長岡郡東本山村に生まれる。大正9年、妻を亡くし、みずからも肺結核で休職する。大正10年、中島菊夫・吉良信之とSNK協会を設立し、「地軸」を創刊。下中弥三郎らの啓明会に地方会員として参加。大正12年、岡豊小学校の校長となり、10月「教育の世紀」高知支部を設立。大正13年「地軸」を再刊。県学務当局の圧迫により4号で中止。大正14年「教育の世紀」編集のため退職し上京。昭和元年、文園社に移り、「鑑賞文選」の編集に専念する。昭和4年「綴方生活」(主幹・志垣寛)を創刊し、全国の綴方教師を結成。小砂丘忠義は、生活綴方運動を推進し、綴方教育を実践していた青年教師たちに大きな影響を与えた。中島菊夫は「綴方生活」で得意の漫画を描いている。「綴方生活」は昭和12年まで刊行された。

2007年10月11日 (木)

ぬげた草履

    昭和40年7月15日、中島さと子(1904-1974)は、ある婦人雑誌の企画「新時代の嫁と姑」というテーマで女優の左幸子と対談をした。その頃、さと子は4年前に書いた「咲子さんちょっと」がドラマ化され原作本もベストセラーとなり、文筆業で忙しくなっていた。夫の中島菊夫(1897-1962)はすでに3年前に他界していた。その日は真夏のこととてクーラーがよく効いていた。本題以外の雑談や食事もあって、3時間近くかかったであろう。その時間中に、私の片足の草履が、ひとりでにポトリと床に落ちた。別に気になるほどのことでもなかった。だが、対談が終わって玄関まで歩くとき、なんだか少し足が冷たすぎ、草履を重いと感じた。なんとかタクシーで家に着いた。自宅の門前に着いたとき、またもや草履が脱げて地面に落ちた。私の足はまるで鉄棒のように重くなり、魔術をかけられたみたいに地面へくっついていた。クーラーで冷えすぎたからだ思い風呂にはいり、血液の循環を促した。しかし湯からでても、膝から下はやはり冷たい。そうしているうちに、さと子は4、5日前の朝日新聞の病気相談「聴診器」の最近発生している奇病の記事を思い出した。それは7月11日の朝刊だった。相談者は「下痢後下半身が下からしびれ始め、現在は歩行困難、視力も衰える一方、診断は医師によりまちまち」という。東大医学部神経内科の豊倉康夫は「一見お互いに関係がないように見えるさまざまな診断が、病気がなにであるかを解くカギになりそうです。あなたの病気は最近全国的に流行してきた「腹部症状を伴う脊髄症」と言う病気である可能性が大きいと思われます。(略)」さと子は二度も三度も読んだ。そうして自分の病気もこれに関係があるかも知れないと思った。

    スモン病は、整腸剤キノホルムを服用したことによる副作用だと考えられている。昭和30年ころから散発し、昭和42年、43年の大量発生で社会の注目を集めた。昭和47年までに全国で11127名の患者が確認されている。厚生省は昭和45年9月8日、キノホルムの製造販売及び使用停止を決定し、それ以降は新患者の発生はない。

    中島さと子は明治37年10月15日、高知県に生まれる。高知師範卒後教職につき、中島菊夫と知り合い結婚して退職。昭和16年、菊夫の漫画「日の丸旗之助」が少年倶楽部に連載される。昭和36年、息子が結婚して、新妻との同居家族の記録が明るいホームドラマとして全国的に知られる。昭和40年、スモン発病。昭和49年12月25日、死去。

(参考:中島さと子「愛する力もてスモン病と闘う日々」)

2007年10月10日 (水)

シニャックとヨット

    ポール・シニャック(1863-1935)という新印象主義の画家は一生、海を愛し、ヨットを愛した。1884年、第1回アンデパンダン展でジョルジュ・ピエール・スーラ(1859-1891)と知り合う。4歳年長のスーラとの出会いはシニャックの芸術に決定的な影響を与えた。しかし、1891年3月29日、スーラの突然の死に深い打撃を受ける。何ヶ月間もまったく意気消沈した日々を過ごした。そこから彼を救ったのは地中海とその光であった。地中海に面したル・ラヴァンドゥの近くに住み始めたアンリ・クロスから「陽の光と豊かな線を愛するあなたはきっとここが気に入るだろう」という手紙をもらい、シニャックは、1892年4月、ヨットで大西洋からミディ運河を抜けて地中海に出、当時海からしか容易に近づけなかった、サン・トロペを発見する。当時はまだ鄙びた漁村であったサン・トロペに住み、以後20年にわたってここを基地としてマルセイユ、ヴェニス、コンスタンチノープルなどヨットで出かけて、地中海の港町を多数描いた。

    シニャックの偉大さは、スーラの科学的絵画理論を広めただけではない。スーラの死後、新印象主義の後継者となり、アンデパンダン協会の中心的存在として活躍する。20世紀初頭に現れたマテイス、マルケ、ピュイ、マンギャン、オトン・フリエス、ラウル・デュフィ、カモワン、ケース・ヴァン・ドンゲン、ルイ・ヴァルタ、ドラン、ヴラマンク、ジョルジュ・ブラックらの作品がほとんどこのサロンに出品された。フォーブ(野獣)の画家たちのほとんどは、シニャックを通じて新印象主義の影響を程度の差こそあれ受けているのである。

2007年10月 9日 (火)

黄水仙に献げる詩

     ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)はよく自然詩人と言われる。そして、それに誤りはないが、しかし単なる自然讃美の詩人とするならば大きな誤解となろう。自然の深奥に秘められた共感の歓喜を謳いあげているのである。

    1770年4月7日、イギリス北西部カンバーランドのコカマスに生まれた。弁護士であった父・ジョン・ワーズワースの二男。五人兄弟で長男リチャードは法律家、長女ドロシー(1771-1855)、三男ジョンは船長となったが1805年難船で死亡、四男クリストファーはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの学寮長となった。母はウィリアムが8歳のときに、父は13歳のときに死亡し、遺児は二人の叔父のもとで離ればなれに養育された。

    ケンブリッジ大学に学んでいた1790年、フランス旅行中に革命を実際に見聞し、共和主義に共鳴した。大学卒業後、渡仏しブロワの外科医の娘アネット・バロン(1766-1841)と恋仲になる。娘キャロラインが生まれる。ところが革命が恐怖政治となり、アネット母子とも生き別れとなる。この恋愛事件や革命の流血化などに彼は絶望と激しい幻滅を覚えるに至った。かれを慰めたのは妹ドロシーと友人コールリッジだった。二人の親交はやがて「抒情詩集」(1798)の出版となり、イギリスロマン主義の一時期を画すに至った。

    ワーズワースの礼賛する自然とは、人間の全存在と固く結ばれることによって想像力の源となる自然である。

     雲のように孤独に

ぼくはさすらっていた、山や谷を見おろしながら。高空をただよいゆく雲のように孤独に、と、いきなりぼくの目にとびこんできたのは、群れをなし金色に咲きほこる黄水仙たち。湖のほとり、樹々の下、そよ風にはためき、踊り狂うその姿だった。天の河にきらめく星屑のように、切れめなく、目路のかぎり、入江にそって咲きつらなる花たち、一べつ、万をこえるその群れが、頭をふりつつ踊る、晴れやかな舞踊。波もまたかたわらで踊っていた、が、花たちは、きららかな波よりも、もっと陽気だった。こんな愉しい仲間に出会っては詩人も心浮かれずにはいられない。ぼくは見つめた。なおも見つめた。が、この眺めがどんな富をぼくにもたらしたか思いもよらなかった。というのは、うつろな物思いのうちにひとり横たわっているときなど、孤独の幸いである、あの内なる眼に花たちの姿がいくたびも閃くのだ、と、たちまちぼくの心は歓びにあふれてきて、踊りだすのだ。黄水仙といっしょに。

               高橋康也訳

    草原の輝き

草原の輝き 花の栄光

再びそれは還らずとも

なげくなかれ

その奥に秘めたる力を見い出すべし

               高瀬鎮夫訳

ジョンソン博士とレイノルズ

  サミュエル・ジョンソン(1709-1784)は、リッチフィールドの書店の子として生まれ、オックスフォード大学で学んだが、故郷に戻り教員となった。やがて自主独立、苦学によって文壇で認められるようになった。ジョンソンは、詩・劇・随想・辞典・小説・旅行記・評論など、ほとんどあらゆるジャンルに手をつけ、それぞれにかなり成功した。ことに「英語辞典」(1755)と「イギリス詩人伝」(1779-1781)は文学史上に不朽の価値をもっている。

   画家のジョシュア・レイノルズ(1723-1792)はプリマス軍港近くのアヴォンシャーの牧師の家庭に生まれた。26歳のとき海軍指揮官ケッペルに連れられてイタリアを遊学する。ローマでミケランジェロにひかれ、ケッペルをはじめとするパトロンの後援をえて、有名な肖像画家となった。現在レイノルズが描いた「ジョンソン博士」の肖像画がロンドン・ナショナルギャラリーにある。

   ジョンソン博士を中心にシェクスピア論や絵画論やイギリス的ロマン主義がサークルの文人たちのなかから生まれ、政治・経済など時局のことなど談論風発に華を咲かせた。

18世紀イギリス文人のローマ旅行

  画家ジョシュア・レイノルズ(1723-1792)は1764年、サミュエル・ジョンソン(1709-1784)と「文学クラブ」(The Literary Club)を結成した。

   クラブには政治家エドマンド・バーク(1729-1797)、作家オリヴァー・ゴールドスミス(1730?-1774)、俳優デビッド・ギャリック(1717-1779)、経済学者アダム・スミス(1723-1790)、政治家リチャード・シェリダン(1751-1816)、ジェイムズ・ボズウェル(1740-1795)、エドワード・ギボン(1737-1794)たち多彩なメンバーが集まったのは、ジョンソンの人柄によるところが大きい。

   18世紀後期におけるヨーロッパ文芸思潮は啓蒙主義・古典主義から自由と個性を重んじ奔放な空想と自然の感情を尊重したロマン主義が芽生えてきていた。イギリス文人たちは古代のギリシア・ローマの廃墟に関心をしめし、古代ローマ様式が好まれるようになった。

   廃墟への関心は17世紀の詩人ミルトン(1608-1674)の「失楽園」の中でもうかがわれるように、堕落天使が壮大な集合場所を造って、パンダエモニウム(集魔殿)と名づけ、ローマの荒廃したコロッセオ(円形劇場)を思わせた。

   最初にこのローマの廃墟を文学作品として表現したのは詩人ジョン・ダイアーの「ローマの廃墟」(1740年)であろう。歴史家エドワード・ギボンは1764年4月、イタリアに赴き、ジェームズ・バイヤーズの案内で古代ローマの遺跡や文書を徹底的に調査している。それは名著「ローマ帝国衰亡史」(1776年)として結実する。

  「サミュエル・ジョンソン伝」で知られる伝記作家ボズウェルも1765年3月にローマを放蕩旅行している。彼はコロッセオの中に入った時の印象を次のように書いている。

   「この建物は、たしかに古代ローマ人の壮大さについての観念をあらわす、巨大で崇高なすがたをしめしている。1人の隠者の小さな部屋がある。われわれは、その隠者の住み家の前を通り、以前観覧席や廊下があったところへのぼっていった。この円形劇場のいくつかの部分が、牛馬のふんで埋まっているのを見てひじょうに驚いた」とある。

    古代ローマ最大の遺物であるコロッセオの廃墟は過去の栄光と歴史の教訓を教えるものであろう。「コロッセオが滅ぶとき、ローマは滅び、そのとき世界も滅ぶ」と謳われたように、18世紀イギリス文人たちに創造の霊感をもたらした。コロッセオはおよそ5万人を収容できる円形闘技場で、周囲527m、高さ48.5m、4階建ての1階はドーリア式、2階はイオニア式、3階はコリント式の円柱で飾られている。コロッセオの正式な名称は「フラヴィオの円形劇場」といい、フラヴィオ家出身のウェシパシアヌス帝が75年にネロ帝の黄金宮殿の池を埋め立てて建設し、8年の歳月をかけてティトゥス帝の81年に完成した。白大理石で外壁を覆われたコロッセオでの100日間に及ぶ競技会はローマ市民を熱狂させたことであろう。(参考:ピーター・クェンネル著「コロッセウム」講談社)

2007年10月 8日 (月)

ナンシー梅木と戦後ジャズ

    本年8月28日、ミズーリ州オザークのリッキングにある医療保養施設でナンシー梅木(1929-2007)が亡くなった。ナンシー梅木は昭和32年マーロン・ブランドー主演「サヨナラ」で日本人で初めてのアカデミー助演女優賞を獲得している。授賞式のプレゼンターはアンソニー・クインだった。

    後輩のペギー葉山は「私のデビュー当時、ナンシー梅木さんは大スターでした。彼女が穴を開けると私に声がかかり、ナンシーが一軍、私が二軍の感じでした。ハスキーボイスで歌声はセクシー、性格もおおらかで憎めない人でした」と語る。

   戦後の進駐軍時代にジャズは流行したが、日本人歌手たちは憧れの外国スターの名前を拝借して芸名をつけることが多かった。

  ペギー葉山…ペギー・リー

  フランキー堺…フランク・シナトラ

  フランク永井…フランク・シナトラ

  谷啓…ダニー・ケイ

以下の人たちは、関連性は希薄ですが、むりやり当時のハリウッドスターにあてはめるとすれば、

  トニー谷…トニー・カーチス

  ジョージ島袋…ジョージ・ラフト

  ジョージ川口…ジョージ・サンダース 

  ナンシー梅木…ナンシー・オルスン

  ディック・ミネ…ディック・パウエル

  エセル中田…エセル・マーマン

  チャーリー石黒…チャリー・パーカー

和田信賢と館野守男

    NHKアナウンサー・和田信賢(1912-1952)は、昭和14年1月15日、大相撲春場所4日目、双葉山・安芸の海戦の中継を担当したことで知られる。館野守男(1914-2002)は昭和16年12月8日の日米開戦を伝えたアナウンサー。そして昭和20年8月15日、館野は正午から放送される玉音放送の事前予告を担当、和田は進行役と詔書奉読を行なった。東宝映画「日本のいちばん長い日」で、畑中少佐から拳銃を突きつけられ、放送を強要される加山雄三扮するアナウンサーは、館野守男である。

台風のダンス「藤原の効果」

   二つの台風が1000キロ以内に近づいてくると、お互いの渦が干渉しあうため、二つの台風はダンスを踊るように反時計回りにグルッと回転する。中央気象台長の藤原咲平(ふじわらさくへい、1884-1950)が大正10年に、この現象を提唱したので「藤原の効果」という名がつけられた。

   藤原咲平は明治17年、長野県諏訪郡上諏訪町字角間新田に生まれる。お天気博士と呼ばれ、気象学・地震学の全体を通観した渦動論は世界的に有名である。作家の新田次郎(1912-1980)は甥にあたる。

咲子さんちょっと

   「おおい、居ないか、ちょっと来てみい」

   高太郎が呼んでいる。何でも呼びつけるのが高太郎の癖である。

                        *

   中島さと子の原作「咲子さんちょっと」(嫁に贈る手紙)のドラマ化が江利チエミ主演で実現したのは昭和36年のことであった。

   昭和30年代、歌手江利チエミは「サザエさん」のような庶民的なキャラクターでホームドラマには欠かせない女優でもあった。昭和36年から40年まで断続的に制作された「咲子さんちょっと」はテレビ初期の人気番組。新妻の咲子(江利チエミ)、作曲家の夫の京太郎(小泉博)、京太郎の父・高太郎(伊志井寛)、規子(葦原邦子)らの暖かい人間関係を描く。主題歌「咲子さんちょっと」や劇中歌の神津善行の「新妻に捧げる歌」もヒツトした。

   原作者の中島さと子(1904-1974)の夫は漫画家の中島菊夫(1897-1962)であり、長男の中島靖侃はSFマガジンの表紙イラストレーターとして知られている。咲子さんのモデルは、中島和子。

             咲子さんちょっと

          作詞:宮田達男、曲:神津善行

  ちょっと ちょっと来て

  ちょっと  待って

  ハイ ハイ

  ハイハイハイハイ

  ハイハイハイハイ

  目がまわる

  ある日ある時 日が暮れて

  甘く明るい 窓あかり

  ちょっぴりおセンチ ああ……

  ちょっとふくれた 花嫁さん

  ワン トゥー スリー フォー

  アッハッ ハヒフヘホホホー

  アッハッ ハヒフヘホホホー

  ちゃっかり笑った 咲子さん

ナポレオンと雪合戦

   コルシカ島はイタリア半島の西に位置するフランス領の島である。ナポレオン(1769-1821)が生まれる1年ほど前はジェノバ領であったが、1768年5月15日、コルシカはジェノバからフランスに割譲された。(したがってナポレオンは自らをフランス人であると主張している)翌年の5月9日、パスカル・パオリ(1725-1807)を指導者とするコルシカ独立軍はポンテ・ノーヴァでフランス軍に敗れ、パオリはイギリスに亡命した。

  ナポレオンの父カルロ・ブオナパルテ(シャルル・マリ・ボナパルト)(1746-1785)は、コルシカで判事をしていたが、コルシカ島独立戦争のときはパオリの副官を務めていた。敗戦によって、幼いナポレオンは父カルロと兄ジュゼッペとともにフランスに渡った。そして1779年3月15日、プリエンヌ陸軍幼年学校に入学する。オリーブ色の顔色とコルシカ語なまり、そして奇妙な名前(当時はナブリオーネ・ブオナパルテといった)をひやかされて孤独な少年時代であった。しかし、少年時代のナポレオンを物語る有名なエピソードがある。

   1782年の冬のある日、プリエンヌ兵学校の校庭は一面に大雪が降り積った。ナポレオンは級友たちと塹壕と要塞をつくって、雪合戦を始めた。雪合戦といってもボールのなかに石をつめる激しい戦闘であった。ナポレオンは自軍を2隊に分けて、最初にその半数の部隊を攻撃させる。当然、敵軍は、いっせいに攻撃してくる。そこで先鋒隊はいったん退却して、相手を味方の陣地へおびき寄せる。相手の軍が陣地に攻めてきたとき、待ちかまえていた残りの半数の部隊が、先鋒隊と敵軍を取り囲んで、一斉に攻撃して、見事に勝利した。ボナパルトのあざやかな指揮ぶりをみて、顔色と奇妙ななまりを冷やかす者はもはや一人もなくなった。

2007年10月 7日 (日)

これが青春だ

   イギリス帰りの大岩雷太(竜雷太)は、山と海に囲まれた南海高校の教師となり、サッカーを通じて劣等生たちに「どろんこ紳士道」を教える。第12話「ホラ吹き大将故郷に帰る」(倉本聰・脚本)の大岩先生のセリフ「人を信じない奴は、俺は嫌いだ!」はとくに印象に残る。

   南海高校の卒業生山上大作(西沢利明)は、東京で行なわれる東西大学対抗試合にサッカー部全員を招待するという。しかし、部員たちは「どうせホラだから行かない」と言い出す。

   大岩「なるほど、お前らには親がいたわけだな。いい親、悪い親、…各人おのおの親を持っている。…親の意見が君らにうけつがれ、君らは頭からそれを信ずる。不憫なことだな。親を持っているということは」みんなは雷太の言っていることがよくわからない。なおも雷太は歩きまわりながら、「君らは親の意見に従い、山上大作を信じないと言う。ところが大作の方は、君らを信じてる。君らのサッカーを育ててやりたいと、本気になって考えている。あんな立看板でからかわれてもだ!なおかつ彼は、君らを信じている」と雷太は立止まって、凄い目つきで一同をにらみつけた。

   「人を信じないような奴は、俺はきらいだ!人にだまされることを怖れるあまり、人を信じない奴を俺はきらいだ!そんなのは若者のなまえに恥じる。信じてだまされた。何が恥ずかしい。少しも恥じるべきところなどない。恥ずべきは、最初から人を信じない奴、努力しない奴、そういう奴だ。そういう奴こそ俺は認めない。若者として全く認めない。

   俺がお前たちにのぞむのはどろんこ紳士だ。みんなどろんこになれ、しかし紳士であれ!」

   雷太の言葉に圧倒されて、一同何も言えない。「今日の授業はここまで!」というと雷太はパチンと本を閉じて教室を出た。

   日曜日。神宮のサッカー場入口で、時計をみながら大岩先生と大作は部員たちを待っている。大作がしょんぼりと「先生、もう来ませんよ」と雷太に話しかけるが、雷太は黙って立っている。「あの町じゃあ、俺の言葉なんか信用するやつはいない。俺は今まで全くろくでなしだったし信用しないのが当たり前です。試合が終わっちゃいますよ。もう入りましょう」大岩「もう少し待とう」煙草に火をつけ落ち着かない大作。じっと待つ大岩先生。その時。

    部員たちの声「先生ーッ」「みてみろ!奴らはやっぱりあんたを信じていただろう」大作は何度も大きく頷く。その胸にこみあげてくるうれしさをかくしきれない。「先輩!遅くなってすみません」と出目(矢野間啓治)は汗だくで二人のところに走って来た。続いて金田(木村豊幸)が、「何しろ東京ってところは初めてだもんで」と走ってきた。次々と集まってくる。「よく来た。俺は信じてたよ」

   若さはつっ走る。信じあう仲間と、大きなかたまりになって球場を!つっ走る!。.

   「これが青春だ」の脚本には、須崎勝彌、井出俊郎、桜井康裕、倉本聰があたっていた。この「ホラ吹き大将故郷へ帰る」の巻では、初期倉本作品であり、その長セリフにも彼の特徴をよくううがうことができる。

赤埴源蔵

   源蔵は普通「赤垣」姓を以て呼ばれているが、記録などによると「赤埴(あかばね)」が正しい。赤埴源蔵重賢(1669-1703)は、信濃国飯田の出身で、祖父は赤埴十右衛門、父は赤埴一閑、母は高野忠左衛門女。源蔵は馬廻役の江戸勤番で、浅野家断絶ののちは、江戸の芝浜松町に浪宅を構えて高畠源五右衛門と称し、吉良邸の動静をさぐることに専念していた。

   「徳利の別れ」という話は後世の創作で実際の源蔵は下戸であったという。親類書によると、源蔵には兄はなく、弟妹があり、妹は阿部対馬守正邦の家臣田村縫右衛門に嫁していた。源蔵は討入りの三日前に妹の嫁ぎ先を訪れたが、あいにく縫右衛門は不在で、妹おさみと舅の與左衛門とに対面した。そのとき、源蔵は今生の別れと美服をまとっていたが、それを知らない硬骨の舅は赤穂旧臣の不甲斐なさを苦々しく意見したという。源蔵には妻子はおらず、享年は35歳。

  河竹黙阿弥(1816-1893)の歌舞伎「赤垣源蔵」(仮名手本硯高島)は、義士銘々伝の一つで、四世市川小団次の当り芸で安政5年(1858年)に初演された。明治期に入っても、「赤垣源蔵・徳利の別れ」は講談で庶民の人気をはくし、昭和の流行歌では上原敏の「徳利の別れ」(野村俊夫詩、阿部武雄曲、昭和13年)、三波春夫「元禄花の兄弟、赤垣源蔵」(北村桃児詩、春川一夫曲)などがある。

           徳利の別れ

  さげた徳利を 撫でながら

  仇を討つ日は 何時のこと

  明日は 明日はで 酔うて寝りゃ

  夢で兄者が また叱る

          *

   元禄花の兄弟 赤垣源蔵

  酒は呑んでも

  呑まれちゃならぬ

  武士の心を忘れるな

  体こわすな源蔵よ

  親の無い身にしみじみと

  叱る兄者が懐かしい

            ▽                 ▽

  迫る討入り

  この喜びを

  せめて兄者によそながら

  告げてやりたや知らせたい

  別れ徳利を手に下げりゃ

  今宵名残の雪が降る

巷説「赤垣源蔵、徳利の別れ」

   赤垣源蔵は大の酒好き。脇坂淡路守に仕える塩山伊左衛門という兄がいた。ある雪の夜、源蔵は貧乏徳利と土産の品をさげて、芝新銭座にある兄の家をひょっこり訪ねた。折悪しく兄は留守で、嫂は癪で臥せていた。いつもは着たきり雀の源蔵は、今日に限って珍しく小袖を着ていたが、下女のおすぎに暫く待たせてもらうと断わって、横になってひと眠りした。目が覚めたが兄はまだ帰らない。すると源蔵は、兄の羽織を出させ、衣紋かけに通して柱にかけ、湯呑みに冷や酒を注いでその前におくと、居ずまいを正して両手をつき、「兄上、今日はお暇乞いに参りましたが御不在、源蔵、力なく戻ります」といって、ホロリとひとしずく、おすぎに遠方へ行くといって、帰っていった。

   その夜、兄は若党をつれて帰ってきたが、明くれば元禄15年12月15日、雪の朝の日本晴れ。大勢の者が、「仇討ちの引きあげだ」と叫びながら駆けて行く。よく聞くと、赤穂の浪人が吉良上野介の屋敷へ討ち入り、引きあげる途中だという。伊左衛門は驚いて、すぐ若党を走らせた。若党は返り血を浴びた源蔵に会い、槍につけた短冊や笛、癪の薬、小判などを貰って帰ってきた。伊左衛門は源蔵が残したた貧乏徳利とそれらの品物を床の間におき、その前に両手をついて、「源蔵、昨日は残念であった」と語りかけた。

   これをみたおすぎはたまげて、「昨日は源蔵さまが着物に口をきいていらっしゃいましたが、今日は、旦那さまが徳利に口をきいていらっしゃいます」

   さて、このことが脇坂淡路守のお耳に入り、伊左衛門は五十石の加増、貧乏徳利は脇坂家の家宝になり、徳利の入った箱には、「忠義赤垣の徳利」と墨くろぐろと書かれたという。(参考:「決定版忠臣蔵のすべて」人物往来社)

2007年10月 5日 (金)

ベアトリ姐ちゃん

   ベアトリーチェという名を聞けばダンテの理想の女性を連想されるかもしれない。しかしこの歌の「ベアトリ姐ちゃん」とは、床屋のスカルツァの妻ベアトリーチェであり、ダンテの永遠の女性とは無関係、というよりも正反対の浮気女である。スッペ作曲のオペレッタ「ボッカチオ」の中で清水金太郎(1889-1932)が歌った。そして昭和になって榎本健一の持ち歌になった。訳詩は小林愛雄(こばやし よしお、1881-1945)。

   ベアトリ姐ちゃん

  娘よベアトリチェ

  なぜそんなに寝坊なんだ

  さあ早く起きないと

  もう夜が明けてるぜ

  歌はトチチリチン

  トチチリチーツ

  歌はトチチリチン

  トチチリチーツ

  歌はペロペロぺ

  歌はペロペロペ

  さあ早く起きろよ

   大正6年、伊庭孝の作演出「女軍出征」のヒットによって誕生した浅草オペラは、安藤文子、清水金太郎、田谷力三、原信子、羽衣歌子、松木みどり、木村時子、清水静子、藤原義江らを輩出した。「ベアトリ姐ちゃん」のほかにも浅草オペラから生まれた愛唱歌は多い。コロッケーの唄(カフェーの夜)、ハバネラ(カルメン)、恋はやさし野辺の花よ(ボッカチオ)、乾杯の歌(ラ・トラヴィアータ)、大将閣下の名前はブンブン(ブンブン大将)、恋のために(アルカンタラの医者)、おてくさん(カフェーの夜)、波をけり(古城の鐘)、岩にもたれた(フラ・ティアボロ)、君が姿みし日より(マルタ)、闘牛士の唄(カルメン)、ジプシーの唄(カルメン)、テッベラリー(女軍出征)

   浅草オペラの活動は関東大震災により、衰退したが、日本における西洋音楽の移入と音楽の大衆化に大いに貢献した。

一茶集・秋の句

 露の世は 露の世ながら さりながら

  文化13年4月に生まれた長男千太郎が翌年5月に亡くなった。去年文政元年5月に生まれた長女さとが今年文政2年6月21日、亡くなった。この世がはかないものであることはよく承知しているのだが、それにしてもあきらめきれないものである、との意。

 秋の雨 小さき角力 通りけり

   いまの平成の世も大相撲では序ノ口力士に対する親方・兄弟子の暴行が問題になっている。180年前、一茶にはすでに弱いものに対するやさしいまなざしがあった。しょぼしょぼと降る秋の雨は、なかなかに侘び侘しいものである。その侘しい秋の雨降るとある村を、褌かつぎらしい小柄な角力取りが、一行に遅れたのであろう、ただ一人冷飯草履でぴしゃぴしゃとはねを上げながら、うすら寒そうにして通って行く。なんとわびしく、哀れな姿であろう、との意。

  秋風に 歩いて逃る 蛍かな

   秋風の吹くま昼。おとろえかけた蛍が草の葉の上をはっている。何かに追われて逃げているようだ、との意。

  名月を 取ってくれろと なく子哉

  秋風に むしりたがりし 赤い花

  おさな子や ひとり飯くふ 秋の暮

  古郷の 留守居も一人 月見哉

  麦秋や 子を負ひながら いはし売

  仰のけに 落ちて鳴けり 秋の蝉

  なきながら 蟲の流れる 浮木かな

  又人に かけ抜かれけり 秋の暮

  一人と 帳面につく 夜寒かな

ひなぶり俳諧師・小林一茶

   文化・文政(1804-1829)の江戸俳諧は、「通」を基調とする都会的で洒落た雰囲気が漂っていた。井上士朗(1742-1812)、鈴木道彦(1757-1819)、建部巣兆(1761-1814)、夏目成美(1749-1816)、岩間乙二(1753-1823)らがいた。一茶の師にあたる夏目成美も、平穏かつ都会的な表現を旨としていた。

   一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)、信濃国上水内郡柏原の貧農の長男として生まれた。本名は弥太郎。父・弥五兵衛、母・くに。3歳の時、母を失い、8歳の時、父がはつと再婚する。継母とは馴染めず、15歳の時に江戸へ奉公に出る。25歳の時、葛飾派の二六庵小林竹阿(生年不詳ー1790)に師事して俳諧を学ぶ。葛飾派とは山口素堂(「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句で知られる)をその祖とする。当時の江戸俳諧の主流であった洒落風に対して、田舎臭く詠むのが特徴であった。気取らず、大衆的で、日常的な題材をとりあげ俗語も使う。一茶も自らを「夷(ひなぶり)俳諧」と言っている。

   俳人一茶は竹阿の跡を辿って西国行脚のち江戸暮らしを10年したが、「いざいなん江戸は涼みもむつかしき」の一句を残して、帰郷する。信濃で、52歳の一茶は28歳の若妻きくを迎えた。三男一女をもうけたが、不幸にして次々に夭死した。10年連れ添った妻にも先立たれた。そのうえ宿場の火災で類焼し、残った土蔵で65歳の生涯を閉じた。

    一茶といえば、「我と来て 遊べや 親のない雀」が知られている。母親のないおれは、遊び友達もなくて淋しい。親のない雀よ、お前も淋しいだろう。こっちへ来ておれと一緒に遊ばないか、の意。この句は6歳の年の作とする六歳説や八歳説があるが、いずれも怪しい。やはり「おらが春」(文政2年)の57歳に頃に、幼児の頃を思って作ったのであろう。一茶は3歳の時に継母を迎えている。

   句文集「おらが春」には、娘さとのことが出ている。「去年の夏、竹を植える日のころ(つらい節の多い)このつらい世に生まれた娘に「さと」と名付けた。今年、誕生日を祝うころから、ちょうちちょうち、あわわ、あたまてんてん、かぶりかぶり振りながら、同じ子供が風車というものを持っているのを、しきりにほしがってきげんが悪くて泣くので、すぐに与えたのを、そのままむしゃむしゃしやぶって捨て、ほんの少しばかりの風車に執着する気持ちもなく、すぐにまたほかの物に心が移って、そのあたりにある茶わんをうちこわして、今度は障子の薄い紙をめりめりむしるので「よくやった、よくやった」とほめると、きゃらきゃらと笑って、やたらにひどくむしり散らす。心の中に一つのちりもなく、名月のように明るく輝いて澄んで見えるので、無邪気な俳優を見るように、かえって心のしわを伸ばしたはればれした気持ちになった」とある。しかし、長女さとは間もなく痘瘡で死んだ。一茶の悲しみはいかばかりであっただろうか。

2007年10月 1日 (月)

明治天皇、大正天皇の謎

    五摂家(近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家)の一つである一条家・左大臣・一条忠香(1812-1863)は、幕末維新期、公武合体推進派の公卿として活躍した。忠香の三女・勝子(まさこ、1849-1914)は、富貴姫、寿栄姫とも称したが、慶応3年、明治天皇の女御に内定される。明治元年に入内し、12月28日、皇后の宣下をうけ、御名は美子(はるこ)と称した。美子と明治天皇との間には子はなく、明治天皇は5人の女官との間に男女15人の子をもうけている。柳原愛子(やなぎはらなるこ、1855-1943)、葉室光子(1867-1912)、橋本夏子(1858-1873)、園祥子(そのさちこ、1867-1947)、千種任子(ちぐさことこ、1855-1944)である。典侍・柳原愛子は明治12年8月31日、第3皇子・明宮(はるのみや)を産み、大正天皇の母となる。

    明治天皇の皇子は嘉仁親王(大正天皇)以外はいずれも短命であった。稚瑞照彦尊(わかみずてるひのみこと)、敬仁(ゆきひと)親王、猷仁(みちひと)親王、輝仁(てるひと)である。

    皇女は昌子(まさこ)内親王51歳、房子(ふさこ)内親王84歳、允子(のぶこ)内親王42歳、聡子(としこ)内親王81歳、稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)、薫子(しげこ)内親王、韶子(あきこ)内親王、章子(ふみこ)内親王、静子(しずこ)内親王、多喜子(たきこ)内親王である。

    さて、皇后(一条美子)は、大正4年4月12日に65歳で亡くなった。5月1日に明治神宮の御祭神として内務省告示第30号により祭神「明治天皇・昭憲皇太后」の祭神名が発表された。すでに明治天皇は崩御されていたので、昭憲皇太后と呼ばれていた。しかし、本来ならば昭憲皇后とすべきであった。当時の宮内大臣・波多野敬直(はたのよしなお、1850-1922)が誤って上奏し、そのまま裁可された。前代未聞のミスであるが、御祭名を改めることはできないとして、現在に至る。つまり、明治天皇の皇后は昭憲皇太后、大正天皇は貞明皇后、昭和天皇は香淳皇后である。しかしこの重大なミスに関して、宮内大臣の波多野敬直も、内大臣の大山巌も何故か責任を問われたということは聞かない。大正天皇の即位礼が、昭憲皇太后の大葬のために一年延期されていたためかも知れない。大正4年11月10日、京都御所で大正天皇の即位の大礼が行なわれた。今日、明治天皇や昭和天皇の誕生日は知っていても、大正天皇の誕生日を知る人は少ない。明治天皇を神として祀る明治神宮が大正9年につくられたが、大正神宮は何故か造られなかった。現人神であった明治天皇、大正天皇には謎が多い。

   明治天皇の皇后・昭憲皇太后については、戦前に教育を受けた人は「金剛石も磨かずば」という唱歌でご記憶のかたも多い。和歌をよくし、「磨かずば玉も鏡もなにかせむ 学びの道もかくこそありけれ」「磨かずば光の玉は出でざらん 人のこころもかくこそあるらし」 が知られている。

       金剛石 

      昭憲皇太后作詞 奥好義作曲

 金剛石も 磨かずば

 珠のひかりは 沿わざらん

 人も学びて 後にこそ

 誠の徳は 現るれ

 時計の針の 絶え間なく

 巡る 時の間の

 日陰を惜しみて 励みなば

 如何なる業か ならざらむ

「金剛石」の着想には、ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)の勤労・節約の哲学(時は金なり、タイム・イズ・マネー)が根底にあるようだ。

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