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2007年10月28日 (日)

パンティーの力

     女性の下着の歴史は、シュメールに始まる。ルーブル博物館に所蔵するシュメールのテラコッタ像に描かれた二人の婦人のうち一方がはいているパンティが世界最古のものという(紀元前3000年)。

   中世ヨーロッパ、男性下着ロインクロスが発達して、16世紀イタリアで女性用ズロースが生まれた。

    日本では近代になっても女性は和服のままで、下着は長襦袢、腰巻。ショーツ(当時はズロースといった)の使用は昭和初期になってもほとんどなかった。

   ところが昭和7年12月16日、新装なったばかりの東京・日本橋の白木屋デパートの4階玩具売り場のクリスマス・ツリーの電飾から出火。14人が死亡した。「当時の女性はズロースをはいていなかったため、裾の乱れを気にして犠牲者を増やした」という俗説がまことしやかに語られたが、白木屋火災の後に急速にズロースの着用が増えたという事実はない。一般に日本女性がズロースを着けるようになるのは戦後からである。戦後日本女性の意識や行動様式が大きく変化したのはズロースを着用するようになったことが一つの要因であろうが、残念ながら「パンティーの力」を学問的に解明された研究は少ない。

   パンティーという語は昭和31年に発売されたウィークリー・パンティが起源である。しかしパンティーという語には恥じらいがあるためか、ショーツという語を使うこともある。衣食住という言葉があるが、衣服は人類にとって必要不可欠なものであり、羞恥心を超越して下着の歴史についても研究すべきと考えている。

    ところが今日の新聞でこんな記事を読んだ。ミャンマー軍事政権による民主化デモ弾圧に抗議して、世界各地の女性が最寄の大使館にパンティーを送りつける行動が起こっているという。なんでも軍事政権の指導者は男性ばかりで残忍なだけでなく、迷信深く、女性の下着に触れると男性の力を奪われると信じているからだそうだ。女性の下着には世界を変えるパワーがあるようだ。

2007年10月23日 (火)

お夏清十郎悲話

   姫路本町の目抜き通りに店を構える但馬屋九左衛門。その娘にお夏という美少女がいた。次々と持ち込まれる縁談にもうひとつ気乗りしないまま16歳の春を迎えたある日、米問屋但馬屋に新しい手代が雇われた。それが清十郎である。男前で物腰もやさしく、帯の中に昔の恋文を無造作に縫い込んであるのが憎らしい。

   お夏はいつしか恋に落ちる。春の花も闇、雪の曙も白くは見えず、夕暮れに鳴く鳥の声も耳に入らなかった。純真で一途な思いが清十郎にも通じ、二人は手に手を取り合って駆け落ちするが、追手に捕らえられ座敷牢に入れられた。やがて、清十郎が窃盗の濡れ衣を着せられ、船場川下流の一枚橋の東の河原で打ち首になったことを知ったお夏は発狂する。そして、3ヵ月後、ようやく正気に返ったお夏は、頭を丸めて出家し、清十郎の菩提を弔うのであった。(一説によると、お夏は小豆島に縁づいたといわれる。)お夏清十郎の悲話は井原西鶴(1642-1693)の『好色五人女』巻1「姿姫路清十郎物語』、近松門左衛門(1653-1724)「おなつ清十郎五十年忌歌念仏」などで全国に広まった。映画では昭和11年の田中絹代、林長二郎の「お夏清十郎」(犬塚稔監督)、昭和21年の高峰三枝子、市川右太衛門の「お夏清十郎」(木村恵吾監督)が有名。

2007年10月20日 (土)

福田内閣と韓信の故事

  「背水の陣」内閣の福田康夫は10月19日、国立公文書館で開催中の秋の特別展「漢籍」を見学した。そこで展示されていた漢籍を見て「私の心境はまさに韓信の股くぐりだ」と言ったという。その真意は現在、政府が国会に提出しているテロ対策特措法案成立への決意ともみえる。

  ところで福田首相は何かと韓信の故事をひくが、ほんとうに韓信の最期を知っているのだろうか。「国士無双」といわれた韓信も漢帝国成立後は「狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓しまわれ、敵国破れて謀臣滅ぶ」といって准陰候に下げられた。そして5年後、斬殺されその三族まで族滅された。

   はたして福田首相は何という漢籍を見たのであろうか。「股くぐり」の故事が載っている漢籍といえば、やはり司馬遷の「史記 准陰候列伝」が考えられる。しかしその論賛で司馬遷は次のように語っている。

   「もしも韓信が道を学んで謙虚に、自分の功を誇ることなく、才能に慢心することがなかったら、漢朝に対する勲功は、周における周公、召公、太公望らにも比べられ、後世、子々孫々の祭祀を享けられただろう。こうした道をつとめず、天下が平定された時に叛逆をはかったとあれば、宗族を滅ぼしたのも、また当然ではなかろうか。」

    「韓信の股くぐり」は江戸時代以来、日本でも人気のある故事成語ではあるが、「背水の陣」「狡兎死して走狗煮らる」などあまり一国を担うリーダーの使用する故事ではない。おそらく側近の浅知恵であろうが、歴史認識の甘さが気がかりである。

デスペレートな女流作家

    平林たい子(1905-1972)。明治38年10月3日、長野県諏訪郡中洲村福島(現・諏訪市)で生まれる。祖父・平林増右衛門は製糸業を営む自由党員であったが、事業に失敗。父・平林三郎は弟・督男とともに朝鮮に行き、母・勝美が農業のかたわら日用雑貨をひらいた。大正11年、諏訪高等女学校を卒業後、上京し、東京中央電報局の交換手監督見習になるが勤務中に堺利彦に通話して解雇。ドイツ書籍店の店員になり山本虎三と出会う。高津正道の売文社に出入りし、アナーキストグループに接近する。大正13年1月、山本と大連に渡る。大正13年10月、単身帰国。田河水泡(1899-1989)、岡田龍夫(1904-没年不詳)と同棲。大正14年、飯田徳太郎と同棲。昭和2年1月、山田清三郎の媒酌により小堀甚ニ(1901-1959)と結婚。昭和2年5月、「喪章を売る」(のち「嘲る」と改題)が大阪朝日新聞懸賞に入選。昭和2年9月「施療室にて」を「文芸戦線」に発表し、プロレタリア作家としての地位を確立した。代表作に「殴る」「こういう女」「盲中国兵」「鬼子母神」「私は生きる」「人生実験」「人の命」「秘密」「地底の歌」「一人行く」「耕地」「春のめざめ」「栄誉夫人」「桃色の娘」「愛情旅行」「女二人」「うつむく女」「妻は歌う」「愛あらば」「砂漠の花」等ある。

秋の詩、三編

   秋の日

       ライナー・マリーア・リルケ詩

       藤原定訳

主よ、すでに秋です

夏はじつに偉大でした

日時計の上に

あなたのかげをおいてください

そして野に 風を放ってください

果樹にのこっている木の実が

よくみのるよう命じてください

その木の実らになお

あたたかい南風の二日を

おあたえください

その木の実らが十分に熟して

あまやかさがやがて

よいぶどう酒に醸されますよう

秋です。

いま家なき者はもはや

家を建てることができません

いま孤独なひとは

ずっと孤独のままで

夜もねむらず

本を読み

長い手紙を書き

並木道を 心おちつかず

あちこちとさまようでしょう

木の葉ちるなかで

                 *

     枯葉

        ジャック・プレヴェール作詞

        ジョセフ・コスマ作曲

        岩谷時子訳詩

あれは遠い思い出

やがて消えるほかげも

窓辺あかく輝き

光みちたあの頃

時はさりて静かに

降りつむ落ち葉よ

夢に夢をかさねて

ひとり生きる悲しさ

こがらし吹きすさび

時はかえらず

心に唄うは

ああシャンソン 恋の歌

暮れゆく秋の日よ

銀色の枯れ葉散る

つかのま燃えたつ

恋に似た落ち葉よ

いつの日か抱かれて

誓いし言葉よ

はかなくただ散りゆく

色あせし落ち葉

          *

  落葉(らくよう)

       ヴェルレーヌ詩

       上田敏訳

秋の日の

ビオロンの

ためいきの

身にしみて

ひたぶるに

うら悲し。

鐘のおとに

胸ふたぎ

色かえて

涙ぐむ

過ぎし日の

おもいでや。

げにわれは

うらぶれて

ここかしこ

さだめなく

とび散ろう

落葉かな。

2007年10月19日 (金)

セラ・ティズデール詩集

       私の初恋

どうかいとしいその目でふりかえって

ここにいる私を見つけてください

あなたの愛で私をふるい立たせてください

つばめを運ぶ そよ風のように

太陽のように 嵐のように

私たちをどうか遠くへ運んでください

それでも私の初恋がまた私を呼んだら

どうすればいい

          *

      眠っている時だけ

ただ眠っている時だけ

私にはあの人たちの顔が見える

私が子供の時に

いっしょに遊んでいた

あの人たちの顔が

ルイズはあんだ鳶色の髪をして

私のところへ戻ってくる

アニイはやわらかい乱れた

おさげでやってきた

ただ 夢の中だけ

歳月は忘れられる

あれから

あの人たちがどう変ったか

だれが知ろう

けれど 昨夜

私たちは遠い昔のように

いっしょに遊んだ

そして人形の家は幼い日のように

はしご段のはしに立っていた

歳月はあの人たちのまるい顔を

とげとげしくは変えていなかった

あの人たちの瞳は 昔どおり

おだやかで優しかった

私は思う

あの人たちもまた

私の夢を見るであろうか

そして あの人たちにとっても

私は永久に子供なのだろうか

        (みついふたばこ訳)

   セーラ・ティズデール(1884-1933)は20世紀初頭のアメリカの女流詩人。「冬のソナタ」のモチーフである詩「私の初恋」で日本でも知られるようになった。

2007年10月17日 (水)

急行列車「津軽」と出稼ぎ

   青森発上り急行「津軽」は別名「出稼ぎ列車」と呼ばれた。午前6時、冬の農閑期に働きに出た男たちを乗せ、午後8時に上野駅に着く。昭和29年10月から平成5年まで運行していた。出稼ぎは昭和39年の東京オリンピックを契機に急増し、ピーク時の昭和46年前後は、全国で34万人の出稼ぎがおり、東北の農民が18万人。全国の5割強を占めた。東北は季節労働力の大供給地として東京を中心に高度経済成長を支えた。しかし昭和45年頃から食生活の変化により、米が余るようになると、国は米の価格を維持するため減反政策を推進するようになった。そのため農家数の減少や農地の荒廃化など多くの問題が顕在化した。

長谷健と九州文学

    「今日は何の日」を調べると、芥川賞作家の長谷健の誕生日である。長谷は、明治37年、福岡県山門郡東宮永村下宮永北路(現・柳川市)で生まれる。筆名の由来は、長谷川如是閑(1875-1969)とも「長谷の大仏さん」ともいわれる。学生時代に肋膜を患い、健康を願って「長谷健」としたという。東京の小学校の先生(堤正俊といっていた)が芥川賞を受賞したのは昭和14年のことである。戦後、長谷は火野葦平の「鈍魚庵」に同居していた。同じ福岡出身の火野も「糞尿譚」(第6回芥川賞)で受賞している。

   芥川賞受賞者を府県別でみると、第1回から第134回平成17年下期まで139名のうち、東京は27名、大阪府14名、福岡県は11名である。福岡、長崎出身者の作家は多い。九州文学といえる土壌があるようだ。歴代の受賞者は鶴田知也(1902-1988)「コシャマイン記」、火野葦平(1907-1960)「糞尿譚」、中山義秀(1900-1969)「厚物咲」、長谷健(1904-1957)「あさくさの子供」、松本清張(1909-1992)「或る小倉日記伝」、岡松和夫(1931生)「志賀島」、森禮子(1928生)「モッキングバードのいる町」、村田喜代子(1945生)「鍋の中」、藤原智美(1955生)「運転士」、藤野千枝(1962生)「夏の約束」、大道珠貴(1966生)「しょっぱいドライブ」

   ところで長谷健の作品には、同じ柳川出身の北原白秋(1885-1942)を題材にした「からたちの花」(昭和30年)がある。昭和32年、白秋三部作の終章「帰去来」執筆半ばに交通事故で急逝した。

   長谷は昭和4年に上京して、小砂丘忠義の「綴方生活」の同人として活躍した。白秋の抒情性、童心性を中心とした「児童自由詩」に対して、生活綴方運動では現実生活に根ざして、その生活感動を端的に表現した「生活詩」を重要視していったので、白秋と同郷である長谷健の立場は微妙であり、複雑であったであろう。芥川賞受賞後の戦時中も「九州文学」の同人であった長谷は、戦前と戦後とを繋ぐ九州文学の重要な位置をしめている。

2007年10月15日 (月)

北方教育の父、成田忠久

   成田忠久(1897-1960)は、大正10年から14年まで浜田尋常小学校の代用教員となり、綴り方を通して生活を見つめ、自分の生き方を考える教育を提唱した。大正14年に教員をやめ、秋田市で豆腐屋を始め、昭和4年、北方教育社を創立。児童文集「くさかご」を創刊。昭和5年、岩手、宮城の教師と交流、昭和10年東北6県を連ねる北日本国語教育連盟を結成、機関誌「教育・北日本」を創刊、北方性教育運動をおこし全国的反響を呼ぶ。昭和5年から8年のころに生活綴方教育の台頭によって、大正時代の「赤い鳥」を中心とする童心主義児童文学の思潮が、現実の生活に根ざして、その生活感動を端的に表現した「児童生活詩」教育がさけばれるようになっていった。

    戦前の「生活詩」の一つの結実は次の詩に代表されるであろう。

           きてき

  あのきてき

  たんぼにも  きこえるだろう。

  もう あばが帰るよ。

  八重蔵、

  泣くなよ。

        秋田尋常小学校4年 伊藤重次

        指導 鈴木三治郎(昭和6年)

    この詩には、昭和初期の不況と経済恐慌の時代、貧困にあえぐ秋田の農家の子がありのままの生活の中で、真実をつかもうとする態度が現れている。

2007年10月13日 (土)

長谷健と平林たい子

    「あさくさの子供」(第9回芥川賞)などの名作で知られた長谷健(1904-1957)は、本名・藤田正俊(旧姓堤)、福岡県柳川市に生まれ、福岡師範卒。昭和4年に上京し、小砂丘忠義の「綴方生活」の編集同人をしていた。毎月「綴方インターヴュー」という連載で有名作家に会って文章作法などを聞く。昭和10年6月号は平林たい子(1905-1972)である。

  「綴方について何か話していただきたいんですが」と言いながら「綴方生活」を一冊差出すと、「それは大変おやすい御用で、また一面むづかしい問題ですわね」さらさら言ってのけてからさて「文章は、見た通り感じた通りそりままを書くというのが骨子ではありますがね。ただその通りに書いただけでは、写真になってしまいますね。作文は、文学は、写真ではないんです。見た通り感じた通りといっても或部分は事実以上に誇張されたり、時には省略されたりして非常に複雑になるものです。従って感じた要点や、主張したい点は、特に綿密的確に表現するしいくらありのままでもそれが自分の主張と反対の場合は省略してしまうんですね。しかしまた見た事感じた事を、もっともっとよく云い表わすためには、時に、それと反対のものを強く現す場合もあります」「逆効果をねらうといふところですか」「まあ、いってみればさうですね」滔々と喋りつづけるところ、ますます九州なる肥った私の姉とそっくりである。いきおいどうも姐御といった風な親しみがわいてくる。

   長谷健は平林たい子よりもわずか一歳年下であるが、流行作家とまだ無名の文章修業中の「はせけん」では、文士としての格が違うのだろう。恐る恐る女史の話を聞いていたようだ。夫の小堀甚ニ(1901-1959)の咳払いが襖越しに聞えた。長居は病人の神経を刺激するとばかり、用件をすますとさっさと退却した。

中島菊夫と小砂丘忠義

    中島菊夫も中島さと子もあまり戦前のことは多くを語りたがらない。菊夫は大正から昭和にかけて高知で小学校の教師をしていた。綴方教育で知られる小砂丘忠義(1897-1937)とは同級生であり、二人は教育の改革をめざした運動家であった。

    小砂丘忠義(ささおかただよし)。本名・笹岡忠義。明治30年4月25日、長岡郡東本山村に生まれる。大正9年、妻を亡くし、みずからも肺結核で休職する。大正10年、中島菊夫・吉良信之とSNK協会を設立し、「地軸」を創刊。下中弥三郎らの啓明会に地方会員として参加。大正12年、岡豊小学校の校長となり、10月「教育の世紀」高知支部を設立。大正13年「地軸」を再刊。県学務当局の圧迫により4号で中止。大正14年「教育の世紀」編集のため退職し上京。昭和元年、文園社に移り、「鑑賞文選」の編集に専念する。昭和4年「綴方生活」(主幹・志垣寛)を創刊し、全国の綴方教師を結成。小砂丘忠義は、生活綴方運動を推進し、綴方教育を実践していた青年教師たちに大きな影響を与えた。中島菊夫は「綴方生活」で得意の漫画を描いている。「綴方生活」は昭和12年まで刊行された。

2007年10月 9日 (火)

黄水仙に献げる詩

     ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)はよく自然詩人と言われる。そして、それに誤りはないが、しかし単なる自然讃美の詩人とするならば大きな誤解となろう。自然の深奥に秘められた共感の歓喜を謳いあげているのである。

    1770年4月7日、イギリス北西部カンバーランドのコカマスに生まれた。弁護士であった父・ジョン・ワーズワースの二男。五人兄弟で長男リチャードは法律家、長女ドロシー(1771-1855)、三男ジョンは船長となったが1805年難船で死亡、四男クリストファーはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの学寮長となった。母はウィリアムが8歳のときに、父は13歳のときに死亡し、遺児は二人の叔父のもとで離ればなれに養育された。

    ケンブリッジ大学に学んでいた1790年、フランス旅行中に革命を実際に見聞し、共和主義に共鳴した。大学卒業後、渡仏しブロワの外科医の娘アネット・バロン(1766-1841)と恋仲になる。娘キャロラインが生まれる。ところが革命が恐怖政治となり、アネット母子とも生き別れとなる。この恋愛事件や革命の流血化などに彼は絶望と激しい幻滅を覚えるに至った。かれを慰めたのは妹ドロシーと友人コールリッジだった。二人の親交はやがて「抒情詩集」(1798)の出版となり、イギリスロマン主義の一時期を画すに至った。

    ワーズワースの礼賛する自然とは、人間の全存在と固く結ばれることによって想像力の源となる自然である。

     雲のように孤独に

ぼくはさすらっていた、山や谷を見おろしながら。高空をただよいゆく雲のように孤独に、と、いきなりぼくの目にとびこんできたのは、群れをなし金色に咲きほこる黄水仙たち。湖のほとり、樹々の下、そよ風にはためき、踊り狂うその姿だった。天の河にきらめく星屑のように、切れめなく、目路のかぎり、入江にそって咲きつらなる花たち、一べつ、万をこえるその群れが、頭をふりつつ踊る、晴れやかな舞踊。波もまたかたわらで踊っていた、が、花たちは、きららかな波よりも、もっと陽気だった。こんな愉しい仲間に出会っては詩人も心浮かれずにはいられない。ぼくは見つめた。なおも見つめた。が、この眺めがどんな富をぼくにもたらしたか思いもよらなかった。というのは、うつろな物思いのうちにひとり横たわっているときなど、孤独の幸いである、あの内なる眼に花たちの姿がいくたびも閃くのだ、と、たちまちぼくの心は歓びにあふれてきて、踊りだすのだ。黄水仙といっしょに。

               高橋康也訳

    草原の輝き

草原の輝き 花の栄光

再びそれは還らずとも

なげくなかれ

その奥に秘めたる力を見い出すべし

               高瀬鎮夫訳

ジョンソン博士とレイノルズ

  サミュエル・ジョンソン(1709-1784)は、リッチフィールドの書店の子として生まれ、オックスフォード大学で学んだが、故郷に戻り教員となった。やがて自主独立、苦学によって文壇で認められるようになった。ジョンソンは、詩・劇・随想・辞典・小説・旅行記・評論など、ほとんどあらゆるジャンルに手をつけ、それぞれにかなり成功した。ことに「英語辞典」(1755)と「イギリス詩人伝」(1779-1781)は文学史上に不朽の価値をもっている。

   画家のジョシュア・レイノルズ(1723-1792)はプリマス軍港近くのアヴォンシャーの牧師の家庭に生まれた。26歳のとき海軍指揮官ケッペルに連れられてイタリアを遊学する。ローマでミケランジェロにひかれ、ケッペルをはじめとするパトロンの後援をえて、有名な肖像画家となった。現在レイノルズが描いた「ジョンソン博士」の肖像画がロンドン・ナショナルギャラリーにある。

   ジョンソン博士を中心にシェクスピア論や絵画論やイギリス的ロマン主義がサークルの文人たちのなかから生まれ、政治・経済など時局のことなど談論風発に華を咲かせた。

2007年10月 8日 (月)

和田信賢と館野守男

    NHKアナウンサー・和田信賢(1912-1952)は、昭和14年1月15日、大相撲春場所4日目、双葉山・安芸の海戦の中継を担当したことで知られる。館野守男(1914-2002)は昭和16年12月8日の日米開戦を伝えたアナウンサー。そして昭和20年8月15日、館野は正午から放送される玉音放送の事前予告を担当、和田は進行役と詔書奉読を行なった。東宝映画「日本のいちばん長い日」で、畑中少佐から拳銃を突きつけられ、放送を強要される加山雄三扮するアナウンサーは、館野守男である。

台風のダンス「藤原の効果」

   二つの台風が1000キロ以内に近づいてくると、お互いの渦が干渉しあうため、二つの台風はダンスを踊るように反時計回りにグルッと回転する。中央気象台長の藤原咲平(ふじわらさくへい、1884-1950)が大正10年に、この現象を提唱したので「藤原の効果」という名がつけられた。

   藤原咲平は明治17年、長野県諏訪郡上諏訪町字角間新田に生まれる。お天気博士と呼ばれ、気象学・地震学の全体を通観した渦動論は世界的に有名である。作家の新田次郎(1912-1980)は甥にあたる。

2007年10月 7日 (日)

これが青春だ

   イギリス帰りの大岩雷太(竜雷太)は、山と海に囲まれた南海高校の教師となり、サッカーを通じて劣等生たちに「どろんこ紳士道」を教える。第12話「ホラ吹き大将故郷に帰る」(倉本聰・脚本)の大岩先生のセリフ「人を信じない奴は、俺は嫌いだ!」はとくに印象に残る。

   南海高校の卒業生山上大作(西沢利明)は、東京で行なわれる東西大学対抗試合にサッカー部全員を招待するという。しかし、部員たちは「どうせホラだから行かない」と言い出す。

   大岩「なるほど、お前らには親がいたわけだな。いい親、悪い親、…各人おのおの親を持っている。…親の意見が君らにうけつがれ、君らは頭からそれを信ずる。不憫なことだな。親を持っているということは」みんなは雷太の言っていることがよくわからない。なおも雷太は歩きまわりながら、「君らは親の意見に従い、山上大作を信じないと言う。ところが大作の方は、君らを信じてる。君らのサッカーを育ててやりたいと、本気になって考えている。あんな立看板でからかわれてもだ!なおかつ彼は、君らを信じている」と雷太は立止まって、凄い目つきで一同をにらみつけた。

   「人を信じないような奴は、俺はきらいだ!人にだまされることを怖れるあまり、人を信じない奴を俺はきらいだ!そんなのは若者のなまえに恥じる。信じてだまされた。何が恥ずかしい。少しも恥じるべきところなどない。恥ずべきは、最初から人を信じない奴、努力しない奴、そういう奴だ。そういう奴こそ俺は認めない。若者として全く認めない。

   俺がお前たちにのぞむのはどろんこ紳士だ。みんなどろんこになれ、しかし紳士であれ!」

   雷太の言葉に圧倒されて、一同何も言えない。「今日の授業はここまで!」というと雷太はパチンと本を閉じて教室を出た。

   日曜日。神宮のサッカー場入口で、時計をみながら大岩先生と大作は部員たちを待っている。大作がしょんぼりと「先生、もう来ませんよ」と雷太に話しかけるが、雷太は黙って立っている。「あの町じゃあ、俺の言葉なんか信用するやつはいない。俺は今まで全くろくでなしだったし信用しないのが当たり前です。試合が終わっちゃいますよ。もう入りましょう」大岩「もう少し待とう」煙草に火をつけ落ち着かない大作。じっと待つ大岩先生。その時。

    部員たちの声「先生ーッ」「みてみろ!奴らはやっぱりあんたを信じていただろう」大作は何度も大きく頷く。その胸にこみあげてくるうれしさをかくしきれない。「先輩!遅くなってすみません」と出目(矢野間啓治)は汗だくで二人のところに走って来た。続いて金田(木村豊幸)が、「何しろ東京ってところは初めてだもんで」と走ってきた。次々と集まってくる。「よく来た。俺は信じてたよ」

   若さはつっ走る。信じあう仲間と、大きなかたまりになって球場を!つっ走る!。.

   「これが青春だ」の脚本には、須崎勝彌、井出俊郎、桜井康裕、倉本聰があたっていた。この「ホラ吹き大将故郷へ帰る」の巻では、初期倉本作品であり、その長セリフにも彼の特徴をよくううがうことができる。

2007年10月 5日 (金)

ベアトリ姐ちゃん

   ベアトリーチェという名を聞けばダンテの理想の女性を連想されるかもしれない。しかしこの歌の「ベアトリ姐ちゃん」とは、床屋のスカルツァの妻ベアトリーチェであり、ダンテの永遠の女性とは無関係、というよりも正反対の浮気女である。スッペ作曲のオペレッタ「ボッカチオ」の中で清水金太郎(1889-1932)が歌った。そして昭和になって榎本健一の持ち歌になった。訳詩は小林愛雄(こばやし よしお、1881-1945)。

   ベアトリ姐ちゃん

  娘よベアトリチェ

  なぜそんなに寝坊なんだ

  さあ早く起きないと

  もう夜が明けてるぜ

  歌はトチチリチン

  トチチリチーツ

  歌はトチチリチン

  トチチリチーツ

  歌はペロペロぺ

  歌はペロペロペ

  さあ早く起きろよ

   大正6年、伊庭孝の作演出「女軍出征」のヒットによって誕生した浅草オペラは、安藤文子、清水金太郎、田谷力三、原信子、羽衣歌子、松木みどり、木村時子、清水静子、藤原義江らを輩出した。「ベアトリ姐ちゃん」のほかにも浅草オペラから生まれた愛唱歌は多い。コロッケーの唄(カフェーの夜)、ハバネラ(カルメン)、恋はやさし野辺の花よ(ボッカチオ)、乾杯の歌(ラ・トラヴィアータ)、大将閣下の名前はブンブン(ブンブン大将)、恋のために(アルカンタラの医者)、おてくさん(カフェーの夜)、波をけり(古城の鐘)、岩にもたれた(フラ・ティアボロ)、君が姿みし日より(マルタ)、闘牛士の唄(カルメン)、ジプシーの唄(カルメン)、テッベラリー(女軍出征)

   浅草オペラの活動は関東大震災により、衰退したが、日本における西洋音楽の移入と音楽の大衆化に大いに貢献した。

2007年10月 1日 (月)

明治天皇、大正天皇の謎

    五摂家(近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家)の一つである一条家・左大臣・一条忠香(1812-1863)は、幕末維新期、公武合体推進派の公卿として活躍した。忠香の三女・勝子(まさこ、1849-1914)は、富貴姫、寿栄姫とも称したが、慶応3年、明治天皇の女御に内定される。明治元年に入内し、12月28日、皇后の宣下をうけ、御名は美子(はるこ)と称した。美子と明治天皇との間には子はなく、明治天皇は5人の女官との間に男女15人の子をもうけている。柳原愛子(やなぎはらなるこ、1855-1943)、葉室光子(1867-1912)、橋本夏子(1858-1873)、園祥子(そのさちこ、1867-1947)、千種任子(ちぐさことこ、1855-1944)である。典侍・柳原愛子は明治12年8月31日、第3皇子・明宮(はるのみや)を産み、大正天皇の母となる。

    明治天皇の皇子は嘉仁親王(大正天皇)以外はいずれも短命であった。稚瑞照彦尊(わかみずてるひのみこと)、敬仁(ゆきひと)親王、猷仁(みちひと)親王、輝仁(てるひと)である。

    皇女は昌子(まさこ)内親王51歳、房子(ふさこ)内親王84歳、允子(のぶこ)内親王42歳、聡子(としこ)内親王81歳、稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)、薫子(しげこ)内親王、韶子(あきこ)内親王、章子(ふみこ)内親王、静子(しずこ)内親王、多喜子(たきこ)内親王である。

    さて、皇后(一条美子)は、大正4年4月12日に65歳で亡くなった。5月1日に明治神宮の御祭神として内務省告示第30号により祭神「明治天皇・昭憲皇太后」の祭神名が発表された。すでに明治天皇は崩御されていたので、昭憲皇太后と呼ばれていた。しかし、本来ならば昭憲皇后とすべきであった。当時の宮内大臣・波多野敬直(はたのよしなお、1850-1922)が誤って上奏し、そのまま裁可された。前代未聞のミスであるが、御祭名を改めることはできないとして、現在に至る。つまり、明治天皇の皇后は昭憲皇太后、大正天皇は貞明皇后、昭和天皇は香淳皇后である。しかしこの重大なミスに関して、宮内大臣の波多野敬直も、内大臣の大山巌も何故か責任を問われたということは聞かない。大正天皇の即位礼が、昭憲皇太后の大葬のために一年延期されていたためかも知れない。大正4年11月10日、京都御所で大正天皇の即位の大礼が行なわれた。今日、明治天皇や昭和天皇の誕生日は知っていても、大正天皇の誕生日を知る人は少ない。明治天皇を神として祀る明治神宮が大正9年につくられたが、大正神宮は何故か造られなかった。現人神であった明治天皇、大正天皇には謎が多い。

   明治天皇の皇后・昭憲皇太后については、戦前に教育を受けた人は「金剛石も磨かずば」という唱歌でご記憶のかたも多い。和歌をよくし、「磨かずば玉も鏡もなにかせむ 学びの道もかくこそありけれ」「磨かずば光の玉は出でざらん 人のこころもかくこそあるらし」 が知られている。

       金剛石 

      昭憲皇太后作詞 奥好義作曲

 金剛石も 磨かずば

 珠のひかりは 沿わざらん

 人も学びて 後にこそ

 誠の徳は 現るれ

 時計の針の 絶え間なく

 巡る 時の間の

 日陰を惜しみて 励みなば

 如何なる業か ならざらむ

「金剛石」の着想には、ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)の勤労・節約の哲学(時は金なり、タイム・イズ・マネー)が根底にあるようだ。

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