租界と予備租界
中国には古くは唐・宋時代の蕃坊、明時代におけるポルトガル人のマカオ、清朝の広東夷館のような外国人居留地があったが、1842年のイギリスとの南京条約によって上海が開港場となると、諸外国が管轄する租界という地域が中国全土に増えた。第一次世界大戦までに、租界設定国はイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、ロシア、日本、イタリアう、ベルギーの8ヵ国、各地の租界総数は28という盛況に達した。主な所在地は、上海、天津、漢口、広東、アモイ、蕪湖、蘇州、杭州、沙市、福州、重慶、鎮江、九江であった。とくに天津などは、イギリス、フランス、ドイツ、日本、ロシア、ベルギー、イタリア、オーストリアと8ヵ国すべてが集中していたので、予備租界といわれる、どの国にも属さない緩衝地域も存在した。中国人たちはこの緩衝地域を「三不管」(サンプーカン)と呼んだ。
山田清三郎の小説「明けない夜はない」では、「三不管には、三国の軍警は、はいってはこなかった。いわばそこは、権力の真空地帯だったのだ。この権力の真空地帯に、いつとはなしに細民窟が、発達していった。世の落伍者、おたずね者、何かの事情から世をせばめなければならない者、そうした人たちによって、細民窟ができ、それはしだいに戸数と人口を、増やしていった。」とある。中国語の「三不管」のもとの意味は予備租界といったものであったが、やがて「無法地帯」といった意味で使われるようになる。屋台市や安宿、芝居小屋などのほかに妓院(風俗店)が並び、アヘン窟があり、ヤクザの拠点となる。戦後は、香港の九龍城砦も「三不管」と呼ばれている。
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