塔下苑の女たち
明治23年11月、浅草に赤煉瓦づくりの凌雲閣(通称を浅草十二階という)が建てられた。浅草六区には見世物小屋が立ち並び、吹き矢店、人形芝居、女軽業師、ジオラマ、花屋敷といった遊び場があった。大正から昭和初期にかけて川端康成(1899-1972)、川口松太郎(1899-1985)、永井荷風(1879-1959)、谷崎潤一郎(1886-1965)、今東光(1898-1977)、江戸川乱歩(1894-1965)、室生犀星(1889-1962)ら浅草界隈を愛した文士たちは多い。石川啄木(1886-1912)も浅草の魅力にひかれたその一人だった。
浅草の凌雲閣にかけのぼり
息がきれにし 飛び下りかねき
啄木は凌雲閣の北側に広がる私娼窟を「塔下苑」と名付けて好んだ。明治41年、釧路を去り函館、東京と単身で戻る。本郷菊坂町82番地赤心館に泊まる。8月21日には次のように綴られている。
夜、金田一君と共に浅草に遊ぶ。蓋し同君嘗て凌雲閣に登り、閣下の伏魔殿の在る所を知りしを以てなり。凌雲閣の北、細路紛糾、広大なる迷宮あり。此処に住むものは皆女なり。若き女なり。家々御神燈を掲げ、行人を見て、頬に挑む。或は簾の中より鼠泣するあり、声をかくるあり、最も甚だしきに至っては、路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、「チョイト」「様子の好い方」「チョイト、チョイト、学生さん」「寄ってらっしゃいな」塔下苑と名づく。蓋しくは、これ地上の仙境なり
マサは貧乏な年増女のように肌が荒れた18歳の娼婦。ハナは17歳、釧路の芸妓の小奴に似ていた。ハナと過ごした夜はうっとりとしていい気持ちになる。しかしこれらの遊興費は北海道にいる妻子に送るため会社から前借までした大切な金だ。啄木はダメンズ亭主だった。
啄木が塔下苑とよんだ浅草千束(ちつか)町は、もともと人家の疎らな土地だったが、吉原へ抜ける近道として、明治30年代半ばから40年代にかけて繁栄し、吉原遊郭に匹敵するほどの賑わいであった。
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