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2007年9月11日 (火)

中山忠能と明治天皇すりかえ説

   九条夙子(1833-1897)は弘化2年9月14日、13歳の時に、2歳年上の東宮統仁(おさひと)親王(のちの孝明天皇)の妃となる。弘化3年2月13日、孝明天皇即位する。嘉永3年に第一皇女順子内親王(1850-1852)、安政5年(1858年)に第二皇女富貴宮(1858-1859)を産んだが、いずれも幼児期に夭折する。

   祐宮(のちの明治天皇)は、中山忠能(1809-1888)の二女・中山慶子(1836-1907)が嘉永5年9月23日、産んだことになっている。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄うことができず、その大半を借金した。祐宮はそのまま京都の八瀬にある中山邸で5歳まで育てられた。孝明天皇のほかに男子が生まれなかったため万延元年7月10日、祐宮は九条夙子の実子とされ、同年9月28日、睦仁となづけられた。明治天皇すりかえ説では、中山慶子が産んだとされる祐宮は死産または夭折し、他家の幼児がすり替わっていただろうと推測している。中山忠能、中山慶子の口封じに一生涯の生活保障をしたことはいうまでもない。忠能は大勲位菊花大受賞を受賞し80歳まで生きている。

   中山慶子の弟・中山忠光(1845-1864)は14歳で孝明天皇の侍従となり、万延3年に睦仁親王の祇候となった。文久3年、吉村寅太郎らの天誅組を指揮して反乱を起こしたが、敗れて長州下関で暗殺された。

   中山忠能にとっては、他家の子とはいえ若宮の成長だけが希望であった。慶応2年12月、孝明天皇急死。天皇36歳、睦仁親王は15歳であった。親王はひどく悲しまれ、深く憂慮に沈まれた。しかし、鹿島昇説では、睦仁親王を殺害し、南朝の末裔である大室寅之祐を明治天皇にしたてあげたとしている。そして中山忠能が岩倉具視の陰謀に加担したと考えている。(参考:鹿島昇「日本侵略興亡史」)

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