伊香保温泉と夏目漱石
漱石が熱愛した女性・大塚楠緒子
青年時代の夏目漱石(1867-1916)は、夏休み中の旅行を通年の行事としていたようである。例えば、明治20年には中村是公らと富士登山。明治22年は兄の和三郎、直矩と興津に行く。8月、学友と房総。明治23年は箱根。明治24年は中村是公(1867-1927)、山川信次郎と富士登山。明治25年は正岡子規と京都から堺。漱石の青春の旅であった。
ところが、明治26年の夏は帝大の寄宿舎に籠もって過ごし、旅行ができなかった。明治27年の夏は青年時代の最後旅をしようという決意があった。まず早々の7月25日、伊香保温泉に向かう。伊香保行きは通説では結核の療養のためということだが、漱石が群馬を選んだ理由は他にあった。友人の小屋保治(1868-1931)が群馬県前橋にいるからだ。
漱石は伊香保で有名な木暮武太夫旅館に泊まろうとしたが、満員で泊まれなかった。何という旅館に滞在したかは不明。ここで、前橋に帰省中の小屋保治と会う。二人が何を話したかは後で説明する。伊香保に何日いたかもわからない。8月には、そこから松島に向かっている。(一説によると、松島の近くの菖蒲田に滞在し、勉強したともいわれる) その後、湘南へ海水浴に行く。9月初めまでは寄宿舎にいたが、そこを出て菅虎雄(1864-1943)の家に厄介になる。その頃、極度の人間嫌いになったらしく(おそらく失恋のせいだろう)、12月末から翌年1月へかけて10日間、鎌倉円覚寺搭頭帰源院に入り、釈宗演のもとに参禅し、宗活を知った。明治28年3月上旬、友人の小屋保治と大塚楠緒子の披露宴(星岡茶寮)に漱石は直矩の袴を借りて出席している。そして、4月には、松山へ嘱託講師として赴任する。楠緒子への失恋が漱石を松山に流浪させたのではないだろうか。明治28年12月末に中根鏡子と見合いし、翌年6月に結婚している。
ところで、大塚楠緒子(1875-1910)という女性は漱石の恋人といわれている。楠緒子は明治8年、控訴院長・大塚正男の長女として生まれた。東京女子師範付属女学院(お茶の水女子大学の前身)を首席で卒業した。父正男は帝国大学の寄宿舎舎監の清水彦五郎に頼んで、娘にふさわしい婿養子を相談していた。そして紹介されたのが、夏目金之助と小屋保治であった。楠緒子が好意を抱いたのは夏目の方だった。しかし、当時の社会では結婚は家が決めるものであり、個人の意思は尊重されなかった。おそらく伊香保温泉で二人が相談したことは、楠緒子のことだったであろう。
小屋保治は、婿養子となり、大塚保治として、明治29年から約4年間、ヨーロッパに留学する。帰国後、東大教授となり、最初の美学講座を担当。漱石の「吾が輩は猫である」では水島寒月のモデルとなっている。楠緒子は才色兼備の夫人として知られたが、明治43年、流感に肋膜炎を併発して、35歳の若さで亡くなっている。漱石の次のような俳句がある。
有る程の 菊抛げ入れよ 棺の中
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