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2007年9月30日 (日)

夏目漱石と「罪と罰」

    夏目漱石は森田草平から英語訳のドストエフスキーを借りて読んだ。森田によると漱石が「白痴から始めて、三四冊読破」したと書いている。「白痴」以外はドストエフスキーのどの作品であるのか明らかではない。現在、比較文学という研究が盛んであろうが、おそらく夏目漱石がドストエフスキーにかなり関心を示し、また影響を受けたことはかなり知られている事実であろう。

    このようなことを論文としてまとめたのは、おそらく文芸評論家の板垣直子(1896-1977)が最初であろう。板垣の「漱石文学の背景」(昭和31年)に「漱石はドストエフスキイの第一等の傑作といわれる罪と罰の深刻な効果に、非常に感動した。そのような事実を証明する文献は残っていないが、その作品をよみ終わって、その暗いリアリズムに非常に感激した結果、漱石みずからもそんな暗い効果をあげた作品をかくことを思いついた。という伝説は、漱石に近かった人々からつぎの代の人間へと、口碑の形でうけつがれ、私の耳にまで達してきたのである。」と書いている。

    板垣直子は青森県に生まれ、青森県立弘前高女を経て、大正7年日本女子大学英文科卒。大正12年のゲオルヒ・グロナウ著「レオナルド・ダ・ヴィンチ」をはじめとして、「事変下の文学」「現代の文芸評論」「欧州文芸思潮史」「文学概論」「婦人作家評伝」「林芙美子」「平林たい子」「明治・大正・昭和の女流文学」「漱石文学の背景」「夏目漱石伝説と文学」「樋口一葉」「現代日本の戦争文学」「漱石・鴎外・藤村」「林芙美子の生涯」など著書は多数ある。女性評論家の草分け的存在で、半世紀にわたる文筆活動は今日高く評価すべきである。

2007年9月29日 (土)

三角大福から背水の陣内閣まで

    昭和47年、佐藤栄作の後継者として、「三角大福」すなわち、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の四人が争そっていた。そして7月7日、第64代内閣総理大臣田中角栄が組閣した。新内閣の支持率は62%と非常に高かった。朝日新聞は福田康夫の新内閣が53%として、田中以降の各内閣の最初の支持率を載せている。(朝日新聞社世論調査)

    三木武夫45%、福田赳夫28%、大平正芳42%、鈴木善幸52%、中曽根康弘37%、竹下登48%、宇野宗佑28%、海部俊樹39%、宮沢喜一54%、細川護熙71%、羽田孜47%、村山富市35%、橋本龍太郎61%、小渕恵三32%、森喜朗41%、小泉純一郎78%、安倍晋三63%である。福田新内閣の最初は53%と予想外に高い支持率だったが、背水の陣内閣の前途は多難だ。

蛍窓雪案

    「灯火親しむの候」、「読書の秋」。そこで「灯かり」と「読書」について一考。石川啄木の歌集「悲しき玩具」(明治44年)に次の歌が収録されている。

  秋近し!

     電燈の球のぬくもりの

     さはれば指の皮膚に親しき。

    これ以前の室内の灯火具といえば、行燈、燭台、ランプだった。明治15年に銀座に初めて電灯が灯されたが、家庭に電気が使われるようになったのは明治19年ごろから。しかし、家庭で電気が一般に使われるようになったのは大正になってからであるので、東京にいる啄木の電気スタンドは明治末年に売り出された新機種だったのだろうか。

    灯かりと読書の話は、中国の古い故事が有名であろう。晋の時代に、車胤と孫康という二人の青年がいた。二人は、本を読むのに、灯かりの油が買えないほど貧しかった。そこで車胤は、夏の夜には、ねり絹のふくろに数十匹の蛍を入れて、蛍の光で本を読んで勉強した。孫康は、冬の夜には、降り積もった雪の灯かりで本を読んで勉強した。この故事から「蛍雪の功」という言葉が生まれ、「蛍窓雪案」(蛍窓はふみ読む窓、雪案は勉強机)は「苦学すること」をさすようになった。

   戦前の歴史学者の朝河貫一(1873-1949)は英語の辞書を1ページずつ覚えては破り、残った皮の表紙を桜の木の根元に埋めた。天文学者の新城新蔵(1873-1938)は深夜勉強していて眠気をもよおすと錐で自分の太ももを突いて眠気を振り払って勉強したという。東大に合格すると、その錐を松の木の根元に埋めた。「朝河桜」「新城松」はまるで車胤、孫康の日本版「蛍雪の功」として伝えられている。

2007年9月25日 (火)

ハン・ジヘが語る素顔のイ・ドンゴン

   イ・ドンゴンの「B型の彼氏」が予想外に面白かったので、イ・ドンゴンの魅力について書いてみたい。彼は1998年に「僕の願いがあの空に届きますように」で歌手デビューしている。映画「B型」の劇中でもギターを弾きながらハミの家の前で「アンド・アイ・ラブ・ユー・ソー」を甘い声で歌っている。韓国では「キンカー」という言葉がある。もてる男、いい男、かっこい男、という意味らしい。イ・ビョンホンのようなタイプをいうのだろうが、日本の女性の好みからいうと、ぺ・ヨンジュンやイ・ドンゴンが正統派キンカーかもしれない。むかしアラン・ドロンの売り出しの頃「お嬢さんお手やわらかに」(1958)という作品があった。甘いマスクの青年が、ミレーヌ・ドモンジョ、パスカル・プチ、ジャクリーヌ・ササールの三人の美女にモテモテで追いかけまわされるという、たわいもないドタバタ・コメディーだった。あのフランス映画に比較すると、「B型の彼氏」という韓国映画は楽しいハートフル・コメディーに仕上がっている。イ・ドンゴンはドロンのように多数の大学の女学生からもてまくる。行動力も金銭感覚もあるハンサム男だが、性格があまりにも自己チューの最低男であるという設定がユニークである。

   この映画でとくに注目されていいのは、ハミ(ハン・ジヘ)と同居している従姉のチョヨン(シン・イ)の存在であろう。結婚相談所に勤めるチョヨンはB型男子嫌悪症で、ハミとヨンビンの仲を妨害する。ハミの服を全部洗濯したり、ヨンビンがサウナに住んでいてお金のないことや、乱れた女性関係を携帯画像で撮影してハミに見せるなど、あらゆる手段であきらめさせようとする。しかしかえって逆効果となりハミはヨンビンをあくまで信ずる。韓服を着てハン・へジが映画デートをするシーンは楽しい。

   ところでこの映画の重要な役であった従姉のシン・イだが、シニという芸名のほうが知られているだろう。「女校怪談」(1998)「セックス・イズ・ゼロ(色即是空)」(2000)「偉大なる遺産」(2003)「浪漫刺客」(2003)「霊リョン」(2004)「バリでの出来事」(2004)「シンソッキ・ブルース」(2005)「スーパーファミリー」(2005)「家門の危機」(2005)「救世主」(2006)など多数ある。個性的な役が多いが、お茶目でカワイイ。めがねをはずすと美人だ。イ・ドンゴンが彼女を手なずけるための作戦で、イ・ヒョヌ(「屋根部屋の猫」の室長)を紹介する場面がある。B型嫌いだったのにあっさりと漢江のドライブで陥落するシーンは笑える。シニは「女イム・チャンジョン」と呼ばれているそうだ。「B型」の結論は、シニの最後のセリフ「恋する男女に血液型なんて関係ないわ!」だった。シニは「救世主」で映画初主演を果たし、今もっとも注目されているコメディアンヌなのだ。

   ハン・ジヘは日本ではユン・ソクホ監督の「夏の香り」のパク・チョンア役でよく知られるようになった。韓国の芸能界には「悪女を演じると女優の株が上がる」という噂がある。チョンアもミヌ(ソン・スンホン)とへウォン(ソン・イェジン)の恋の邪魔をする意地悪な悪女的存在だった。ところが「B型の彼氏」では一転して、純真でカワイイA型娘を素のままで演技していた。あの一重まぶたが魅力的にみえた。ハン・ジヘは17歳のときスーパーエリートモデル選抜大会に入賞し芸能界入り。「ランラン18歳」で人気が沸騰し、「B型」で映画主演でヒット。共演のイ・ドンゴンとも恋愛中というこまことに幸せなお嬢さんである。

   さて、イ・ドンゴンだがデビュー当時はあまりパッとしなかった。あの深田恭子の「フレンズ」にも、ウォンビンの友人役で出演していたが、さっぱり記憶にない。「サンドゥ、学校へ行こう」でも脇役だった。思うに、イ・ドンゴンのようなキンカー(いい男)は、脇はダメである。「B型」のようなダメな色男がいい。個人的には「パリの恋人」のスヒョクや「ガラスの華」のハン・ドンジュも好きだ。「ガラスの華」(ユリファ)では、大女優キム・ハヌルの胸をかりていたが、まだ演技的に未熟な感じがした。その後2005年の休養宣言ではファンを心配させたようだが、「ランラン18歳」と「B型の彼氏」でハン・ジヘとの黄金コンビが誕生して人気が沸騰した。

   ハン・ジヘが語る素顔のイ・ドンゴンとは。「誰よりも温かくでロマンチックな男性を演じることが多いドンゴンさんですが、実際の性格は内気で自分の殻に閉じこもりがちで、冷たいという話を聞きます。でもそれは誰もがみんなそうなんだと思います。親しい人の前だと、ドンゴンさんもよく笑い、ふざけて冗談も言います。本当に心から楽しくなければ笑いもしないし、やたらとなれなれしい態度をとりません。だからといって社交性がないわけでもありません。ただステキな外見から想像するイメージと、実際の性格にギャップがあって誤解されやすいみたいです」(「韓国TVドラマ11」)

   ハン・ジヘちゃんはドンゴンくんのよき理解者なんだなぁ。

2007年9月24日 (月)

二等兵物語と詩人・梁取三義

   「二等兵物語」というと伴淳三郎、花菱アチャコの軍隊喜劇映画を思い出すかもしれない。原作は梁取三義(やなとりみつよし、1912-1993)の長篇小説である。彩光社から昭和28年に第1巻「五里霧中の巻」が発売され、以降、「練兵休の巻」「南方要員の巻」「東京空襲の巻」「決戦体制の巻」、そして第6巻の「敗色歴然の巻」で第一期が完結したのは昭和30年であった。主人公の古山源吉二等兵は、東北出身であった俳優・伴淳三郎の当り役となる。梁取三義は本名・梁取光義。明治45年6月25日、南会津郡只見町に生まれた。戦前は歌謡曲の詩をつくっていたようで、小説の中にもずいぶんと詩がでてくる。若山牧水、石川啄木を愛した詩人であった。長篇小説「二等兵物語」の最後にある理想郷をうたった「詩に託す心」を紹介する。

 蒼い空の下

 質素な家

 四面の果樹園には

 紅白とりどりの花がひらき

 小鳥の声は終日のどかに聞える

 池には朝から鯉がたはむれ

 軒端には蜜蜂が群れて飛び交ふ

 妻も子供達も

 みんな微笑む

 そこには

 神の恵みの稲が実り

 大根が育つ

 私の生きる望み

 理想と現実を結ぶ

 たった一つの鍵

 そこでは

 争闘も無価値

 虚偽も不必要

 真理を求め

 美を讃え

 子供達と共に

 歌を唄って鍬をふるふ

 桃の花は紅く

 梨の花は白い

 実りを夢見る花々の上を

 蜜蜂の群れ飛ぶ羽音

 ここでは

 太陽の光りが

 健康と愛情を

 何のさまたげもなく育ててくれる

 蒼い空のもと

 質素な家

 そこで私達は

 花々と語る魔術を会得しよう 

2007年9月23日 (日)

岩谷松平と天狗煙草

   「花は霧島、煙草は国分」と歌われるように、煙草は薩摩の特産品の一つとして江戸時代から知られていた。明治の煙草王・岩谷松平(1849-1920)は嘉永2年、岩谷卯之助の二男として薩摩の川内市に生まれた。明治10年の西南戦争で家屋を焼かれたため上京。明治11年、銀座3丁目に「薩摩屋」を構え、呉服反物や薩摩の特産品を販売する。キセルで煙草を吸っていた時代から紙巻煙草が流行りだしたのを機に、明治17年頃からたばこ製造を始め、口付紙巻たばこ「天狗たばこ」を発売し、店名も「天狗屋」と号するようになった。日清戦争以後、派手な宣伝で栄えた。たばこ名も天狗にこだわり、岩谷天狗、白天狗、赤天狗、青天狗、黒天狗、銀天狗、金天狗、小天狗、中天狗、大天狗、日の出天狗、月天狗、陸軍天狗、海軍天狗、義兵天狗、征清天狗、日本天狗、愛国天狗、国益天狗、輸入退治天狗、日英同盟天狗、ベルリ天狗、御慶天狗、鷹天狗、木の葉天狗、強天狗、丁天狗、丙天狗、甲天狗があった。

   岩谷松平は、服部金太郎(1860-1934)と共に長者番付のトップを競い、広大な敷地にある御殿に住み、20数人の愛人を囲い、男女21人の子供がいるという日本一の大家族であった。

2007年9月21日 (金)

塔下苑の女たち

    明治23年11月、浅草に赤煉瓦づくりの凌雲閣(通称を浅草十二階という)が建てられた。浅草六区には見世物小屋が立ち並び、吹き矢店、人形芝居、女軽業師、ジオラマ、花屋敷といった遊び場があった。大正から昭和初期にかけて川端康成(1899-1972)、川口松太郎(1899-1985)、永井荷風(1879-1959)、谷崎潤一郎(1886-1965)、今東光(1898-1977)、江戸川乱歩(1894-1965)、室生犀星(1889-1962)ら浅草界隈を愛した文士たちは多い。石川啄木(1886-1912)も浅草の魅力にひかれたその一人だった。

  浅草の凌雲閣にかけのぼり

     息がきれにし 飛び下りかねき

    啄木は凌雲閣の北側に広がる私娼窟を「塔下苑」と名付けて好んだ。明治41年、釧路を去り函館、東京と単身で戻る。本郷菊坂町82番地赤心館に泊まる。8月21日には次のように綴られている。

夜、金田一君と共に浅草に遊ぶ。蓋し同君嘗て凌雲閣に登り、閣下の伏魔殿の在る所を知りしを以てなり。凌雲閣の北、細路紛糾、広大なる迷宮あり。此処に住むものは皆女なり。若き女なり。家々御神燈を掲げ、行人を見て、頬に挑む。或は簾の中より鼠泣するあり、声をかくるあり、最も甚だしきに至っては、路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、「チョイト」「様子の好い方」「チョイト、チョイト、学生さん」「寄ってらっしゃいな」塔下苑と名づく。蓋しくは、これ地上の仙境なり

   マサは貧乏な年増女のように肌が荒れた18歳の娼婦。ハナは17歳、釧路の芸妓の小奴に似ていた。ハナと過ごした夜はうっとりとしていい気持ちになる。しかしこれらの遊興費は北海道にいる妻子に送るため会社から前借までした大切な金だ。啄木はダメンズ亭主だった。

   啄木が塔下苑とよんだ浅草千束(ちつか)町は、もともと人家の疎らな土地だったが、吉原へ抜ける近道として、明治30年代半ばから40年代にかけて繁栄し、吉原遊郭に匹敵するほどの賑わいであった。

2007年9月19日 (水)

シーボルトと義経伝説

    シーボルト(1796-1866)は日本の種子や植物を採集してヨーロッパに持ち帰ったことでよく知られている。1823年の来日から1829年に日本を離れるまでの6年間に、植物485種類、1200個体がジャワ号で長崎からヨーロッパに運ばれた。シーボルトが日本で見聞、調査したことは多岐にわたる。長崎に鳴滝塾を開設し、高野長英(1804-1850)、二宮敬作(1804-1862)、伊東玄朴(1801-1871)、戸塚静海(1799-1876)など若い蘭学者が育った。シーボルト来日以前から長崎には吉雄耕牛(1724-1800)、本木良永(1735-1794)、志筑忠雄(1760-1806)たちがオランダ語の通詞として蘭学、西洋の科学を学んでいた。シーボルトの来日時には、吉雄耕牛の三男の吉雄権之助(1785-1831)、吉雄忠次郎たちが通詞であった。

    シーボルトは帰国後に書いた「日本」(1832年)という書物で、源義経がジンギスカンになったという説が日本にはあると紹介している。これは通詞であった吉雄忠次郎が義経・ジンギスカン説の熱烈な信奉者であったからだといわれている。

    ところで、ヨーロッパではシーボルト以前に、ドーソンの「蒙古史」に「義経・ジンギスカン説」があるという記事をウェブでみるが、平凡社の東洋文庫「モンゴル帝国史」をさがしてみたが見つからなかった。ドーソン(1780-1855)はイスタンブールの生まれのスウェーデンの外交官で、パリに滞在後、オランダのハーグに1814年に駐在、ベルリンに1834年に駐在している。シーボルトはドイツ人でバイエルン州のヴェルツブルク大学を卒業後、1822年にハーグへ赴き、1823年にジャワ島から長崎出島駐在の医師として来日する。シーボルトとドーソンの直接の接点は見当たらないが、19世紀初頭のヨーロッパでは中近東からアジア、日本に至るまで東洋研究のブームであったことがうかがわれる。そのなかで西洋人にとっても義経・ジンギスカン伝説は興味をひく話であったのであろう。

2007年9月17日 (月)

租界と予備租界

    中国には古くは唐・宋時代の蕃坊、明時代におけるポルトガル人のマカオ、清朝の広東夷館のような外国人居留地があったが、1842年のイギリスとの南京条約によって上海が開港場となると、諸外国が管轄する租界という地域が中国全土に増えた。第一次世界大戦までに、租界設定国はイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、ロシア、日本、イタリアう、ベルギーの8ヵ国、各地の租界総数は28という盛況に達した。主な所在地は、上海、天津、漢口、広東、アモイ、蕪湖、蘇州、杭州、沙市、福州、重慶、鎮江、九江であった。とくに天津などは、イギリス、フランス、ドイツ、日本、ロシア、ベルギー、イタリア、オーストリアと8ヵ国すべてが集中していたので、予備租界といわれる、どの国にも属さない緩衝地域も存在した。中国人たちはこの緩衝地域を「三不管」(サンプーカン)と呼んだ。

    山田清三郎の小説「明けない夜はない」では、「三不管には、三国の軍警は、はいってはこなかった。いわばそこは、権力の真空地帯だったのだ。この権力の真空地帯に、いつとはなしに細民窟が、発達していった。世の落伍者、おたずね者、何かの事情から世をせばめなければならない者、そうした人たちによって、細民窟ができ、それはしだいに戸数と人口を、増やしていった。」とある。中国語の「三不管」のもとの意味は予備租界といったものであったが、やがて「無法地帯」といった意味で使われるようになる。屋台市や安宿、芝居小屋などのほかに妓院(風俗店)が並び、アヘン窟があり、ヤクザの拠点となる。戦後は、香港の九龍城砦も「三不管」と呼ばれている。

2007年9月16日 (日)

伊香保温泉と夏目漱石

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        漱石が熱愛した女性・大塚楠緒子

  青年時代の夏目漱石(1867-1916)は、夏休み中の旅行を通年の行事としていたようである。例えば、明治20年には中村是公らと富士登山。明治22年は兄の和三郎、直矩と興津に行く。8月、学友と房総。明治23年は箱根。明治24年は中村是公(1867-1927)、山川信次郎と富士登山。明治25年は正岡子規と京都から堺。漱石の青春の旅であった。

   ところが、明治26年の夏は帝大の寄宿舎に籠もって過ごし、旅行ができなかった。明治27年の夏は青年時代の最後旅をしようという決意があった。まず早々の7月25日、伊香保温泉に向かう。伊香保行きは通説では結核の療養のためということだが、漱石が群馬を選んだ理由は他にあった。友人の小屋保治(1868-1931)が群馬県前橋にいるからだ。

   漱石は伊香保で有名な木暮武太夫旅館に泊まろうとしたが、満員で泊まれなかった。何という旅館に滞在したかは不明。ここで、前橋に帰省中の小屋保治と会う。二人が何を話したかは後で説明する。伊香保に何日いたかもわからない。8月には、そこから松島に向かっている。(一説によると、松島の近くの菖蒲田に滞在し、勉強したともいわれる) その後、湘南へ海水浴に行く。9月初めまでは寄宿舎にいたが、そこを出て菅虎雄(1864-1943)の家に厄介になる。その頃、極度の人間嫌いになったらしく(おそらく失恋のせいだろう)、12月末から翌年1月へかけて10日間、鎌倉円覚寺搭頭帰源院に入り、釈宗演のもとに参禅し、宗活を知った。明治28年3月上旬、友人の小屋保治と大塚楠緒子の披露宴(星岡茶寮)に漱石は直矩の袴を借りて出席している。そして、4月には、松山へ嘱託講師として赴任する。楠緒子への失恋が漱石を松山に流浪させたのではないだろうか。明治28年12月末に中根鏡子と見合いし、翌年6月に結婚している。

   ところで、大塚楠緒子(1875-1910)という女性は漱石の恋人といわれている。楠緒子は明治8年、控訴院長・大塚正男の長女として生まれた。東京女子師範付属女学院(お茶の水女子大学の前身)を首席で卒業した。父正男は帝国大学の寄宿舎舎監の清水彦五郎に頼んで、娘にふさわしい婿養子を相談していた。そして紹介されたのが、夏目金之助と小屋保治であった。楠緒子が好意を抱いたのは夏目の方だった。しかし、当時の社会では結婚は家が決めるものであり、個人の意思は尊重されなかった。おそらく伊香保温泉で二人が相談したことは、楠緒子のことだったであろう。

   小屋保治は、婿養子となり、大塚保治として、明治29年から約4年間、ヨーロッパに留学する。帰国後、東大教授となり、最初の美学講座を担当。漱石の「吾が輩は猫である」では水島寒月のモデルとなっている。楠緒子は才色兼備の夫人として知られたが、明治43年、流感に肋膜炎を併発して、35歳の若さで亡くなっている。漱石の次のような俳句がある。

   有る程の 菊抛げ入れよ 棺の中

 

2007年9月14日 (金)

愚陀仏庵と漱石の友人たち

   明治28年4月9日、愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語教師として夏目金之助は松山に赴任した。まず三番町の城戸屋旅館にて旅装をといたが、のち城山の麓の下宿愛松亭に落ち着いた。しかし、同年6月下旬頃、中堀貞五郎(正岡子規の妹律と結婚)の世話で、同市二番町八番戸の上野義方の離れ二階建てに転居した。二階が六畳と三畳、階下が六畳と四畳半で、窓から松山城の天守閣を近くに見る。漱石は子規の影響で愚陀または愚陀仏と号し、居宅を愚陀仏庵と名付けた。子規とは8月下旬から10月19日に上京するまで愚陀仏庵に同居した。漱石は毎晩のように子規につられて句作をするようになり、俳句結社「松風会」に参加し、柳原極堂、近藤我観らと知り合う。

    子規が去ったあと孤独になった漱石は、冬にかけて勉強に励む。午前二時まで勉強していた。松山中学を辞し、熊本五高へ転任となる明治29年4月11日頃まで、漱石は愚陀仏庵に居住していた。漱石の松山時代に子規が紹介した松山一のインテリ村上霽月(1869-1946)と出会う。霽月は明治2年生まれで漱石、子規より二歳下だった。明治29年3月1日には漱石は虚子とともに今出にある霽月の家を訪ねている。漱石が松山を去る4月某日、霽月邸を再び訪ねたがあいにく霽月は不在だった。

    逢はで去る 花に涙を 濺(そそげ)かし

                                              愚陀仏

日本のビール王・馬越恭平

   明治32年の夏、次のような広告が新聞に現れた。

「恵比寿ビール、ビアホール開店。今般欧米の風に倣い、7月4日改正条約実施の吉辰を卜し、京橋区南金六町五番地(橋際)に於いて、ビール店(ビアホール)を開店し、常に新鮮なる樽ビールを氷室に貯蔵いたし置、最も高尚優美に一杯売仕候間、大方の諸彦賑々敷御光来恵比寿ビールの真味を御賞玩あらんことを願ふ。売価半リーテル金拾銭、四半リーテル金五銭 日本麦酒株式会社」

   明治32年8月4日の開店早々から大入り満員の盛況であった。このビアホールというアイデアを出したのは日本麦酒の社長・馬越恭平である。

   馬越恭平(1844-1933)は弘化元年、岡山県後月郡木之子村で生まれた。安政3年、大坂に出て、鴻池家の丁稚となる。明治6年上京して、井上馨の先取会社に入社し、三井物産の中心的な存在となる。明治維新以降、ビール会社は東京に日本麦酒(後のヱビスビール)、大阪に大阪麦酒(後のアサヒビール)、北海道に札幌麦酒(後のサッポロビール)が設立されていた。日本麦酒の社長であった馬越は恵比寿麦酒を話題にするため、ビアホールを思いついた。明治39年には、三社が合併して大日本麦酒株式会社となり、馬越は社長に就任した。馬越時代の大日本麦酒は発展を遂げ、市場シェアは79%に達し、「日本のビール王」といわれた。

2007年9月13日 (木)

武者小路実篤の初恋

   二月のある晩のことだった。自分は兄と同じ室で机に向かって学校の本を読んでいた。九時ごろだった。不意に半鐘がなった。「火事だ」と兄とふたりで顔を見合わせて耳をすませているとスリ鐘だった。「火事は近い」「見にゆきましょう」ふたりは立って格子戸を開けて出た。そこにはお貞さんとお静さんが立っていて火事を見ていた。火の子が南のほうに盛んに見えた。「見にゆこう」と兄は自分に言って、「見にゆきませんか」とふたりに言った。

   お静さんもお貞さんも「ゆきましょう」と言った。自分はよろこんだ。そうして四人で火事を見に行った。自分は火事を見るよりもお貞さんのわきにいるのがうれしかった。自分たちは焼けている家の見える、ある軒の下に立って火事を見ていた。人々は走せちがった。火消しは興奮と権威を感じて働いていた。自分たちのいる前を長いポンプの管が走っていて、そのすきまから水がもれていた。

   自分たちは興奮しながらそれを見ていた。お貞さんやお静さんをふり向いて見る人もあった。自分は地上でいちばん美しい女といっしょにいることを自覚して誇りを感じた。火事はまもなく下火になった。兄が「帰ろうか」と言うので、もっといたかったけれども帰ることにした。半町ばかり来たところで自分はひとりの走けてゆく男に足をふまれた。「あ痛っ!」と言っているうちにその男は走けて行った。そうして自分の足の指からは血が流れていた。

    お静さんはそれを見つけた。お貞さんも「痛かなくって」と言った。お静さんは自分の半けちを出してそれを手早くさいた。そうして自分の傷した足の指を包帯しようとした。自分は「お貞さんがお静さんのようにしてくれたら」と思いながらお静さんにすまして包帯してもらっていた。兄は先にひとりで帰った。兄のひとりで帰る姿を見て、自分は自分の身にひきくらべてさびしいだろうと思って同情した。自分は包帯してもらってからそう痛くはなかったのだが、そこから自家までの往来が人通りのまるでない、暗い往来だったので、足をひきずりながらお静さんとお貞さんの肩に手をかけて歩いて帰った。自分は自分の負傷したことを幸福に思った。(武者小路実篤「初恋」)

                      *  *  *  *

   「初恋」は大正3年2月、29歳の作品。「初恋」のお貞、「お目出たき人」の月子、「ある日の夢」のたか子、とは志茂テイ(貞)である。明治33年4月、実篤15歳、テイ12歳。実篤は学習院中等科4年で、テイは下田歌子が創設した実践女学校に通っていた。明治36年、テイが学業をおえて帰郷するとともに、実篤の初恋も終わった。「初恋」という作品は、もちろん創作ではあるが、実篤15歳から18歳までの回想が素直に綴られている。学習院時代、不得意な学科は作文、体操、唱歌、そして図画だった。高等科になっても勉強はしなかった。明治39年7月いよいよ、実篤も学習院高等科を卒業することとなった。学習院高等科の卒業式は、成績の低い順から並んで式場に入っていく。実篤は最低から三番目の成績。だが、その先頭を歩くべき人が欠席してしまった。それがわかると次の二番目の友人は先頭は厭だといって、抜け出しそうになったので、実篤はいそいで引き止めた。やはり実篤も先頭はさけたかったのだ。それで先を行く友人を励まして、元気良く歩いたという。

   お貞さんに失恋したころから、実篤は聖書とトルストイを読み出した。一生の人生観が形づくられた頃である。

2007年9月12日 (水)

孝明天皇、急死の謎

    幕末維新史を専門とする国立大学系の学者の方には、孝明天皇毒殺説はとるにたらぬ俗説であるとされる人が多い。佐々木克は「岩倉具視」(吉川弘文館)において、「古くからの俗説に、孝明天皇の死因は毒殺で、それを計画したのが岩倉だという説がある。岩倉犯人説は、岩倉が王政復古を構想し、その実現のためには幕府との協力体制を維持しようとする孝明天皇が邪魔であったからという、あまりにも単純・短絡的な考えに基づいた理由付けによるものである。岩倉にとって孝明天皇は欠くことのできない存在であったことは、いま述べた通りである。そして死因が悪性の天然痘であったことは、病理学的に検討した結果明白になった。毒殺説は岩倉の構想を深く検討しない上に、当時の朝廷内外の政治状況を正確に把握しないでなされた、まったくの妄説である。」(本書99頁)

    そして、佐々木克は原口清の文献をあげている。「孝明天皇は毒殺されたのか」(日本近代史の虚像と実像1巻 大月書店 1990年、「孝明天皇と岩倉具視」(名城商学39巻別冊、名城大学商学会、1990年)

   佐々木克は、大久保利謙の弟子にあたる学者で、岩倉関係の史料を全て渉猟したうえでの見解であり、傾聴すべきであろう。ただ、岩倉が天皇毒殺という謀事を日記や書簡に得意げに書き残すことはしないであろう。孝明天皇の死を知った岩倉は、翌日の坂本静衛に宛てた手紙で「仰天恐愕…千世万代の遺憾」と嘆いていた。これほどまで落胆したのは、この手紙で「いささか方向を弁じ、少しく胸算を立て、追々投身尽力と存じ候処、悉皆画餅となり」として、岩倉を弁護しているが、犯人と思われないように知人に証拠として残る手紙を書くという工作は誰しもやるこではないだろうか。

   孝明天皇毒殺説は、俗説として一笑に付す事柄ではなく、かなり真面目な日本史通史にも必ず記述されている歴史的事件である。昭和40年代からのシリーズ物「日本の歴史」において孝明天皇の急死をどのように記述しているか列挙する。

中央公論社「日本の歴史、第19巻、開国と攘夷」(昭和41年)小西四郎(東京大学教授)著

    こうして見ると、毒殺説はどうも風説にすぎないように思われる。東京大学史料編纂所の吉田常吉氏は、この問題について論じている中で、「天皇も疱瘡にかかられる可能性がある」との見解を示し、「当時天皇の御周囲で、疱瘡をわずらっていた者が全然なかったとはいいきれない」と、例えば天皇の側近に奉仕した公卿の子女で疱瘡にかかった者があるとか、あるいは同じころ関白二条斉敬の二人の男の子が痘瘡で死亡したことなどをあげている。さらに孝明天皇毒殺事件については、それが「白か、黒か、読者諸君に正面きって切り込まれると、筆者は困る。推論に推論を重ねたうえでの筆者の論旨なのだから、そこは諸君の良識にまつ以外にない。ただ筆者の見解を述べるならば、毒殺事件そのものは、確乎たる史料がない限り、従来の定説を覆すわけにまいらぬ。云々」と。わたしもこれと同意見である。

文英堂「国民の歴史、第18巻、開国」(昭和45年)高橋磌一著

  慶応2年12月25日に、孝明天皇が36歳で急死したのも、謀略のにおいがする。痘瘡わわずらっていたとはいえ、だいぶ容態もよくなっていたのが急変し、「御九穴から御出血」という異常な死を迎えたのである。徹底した攘夷論者ではあったが、幕府打倒などは毛頭考えていなかった天皇は、討幕派にはやっかいな存在となっていたことはじゅうぶん考えられるのである。

「日本の歴史23 開国」芝原拓自(名古屋市立大学)昭和50年

    天皇のこのふしぎな死が、毒殺説を流布させる一根拠ともなった。その風評や憶測はたちまちひろがり、犯人をさしむけたのは岩倉具視だとさえ、まことしやかにささやかれた。その噂は、死去から一週間後には、長州の一豪商の日記にさえ登場し、通訳官サトウの記録のなからもでてくる。しかし、王政復古から戦前をつうじて不敬の毒殺説はタブーとなり、宮内庁編「孝明天皇紀」などは、もちろん病死として史料を配列している。けれども、かんじんの24日夜のことについては、なぜか典医たちの医学的な記録はなく、真相はいまだに不明である。戦後になってねづまさし(禰津正志)氏などは、この病状急変と死のようすこそ、古くから中国や日本でみられた砒素による毒死に特有であることなどを根拠にして、毒殺説にかたむいている。他方、吉田常吉氏などは毒殺説に確証なしとし、病死であったろうと推定している。ところが、昭和50年4月4日付の「サンケイ新聞」の記事によれば、近江八幡市の開業医伊良子光孝氏宅の蔵から孝明天皇の典医をつとめていた同氏祖先光順の日記形式のカルテ「拝診日記」が発見され、そのカルテの天皇死去当日の描写は暗に薬物中毒症状をにおわせるものである、と紹介されている。

    奈良本辰也(立命館大学教授)著「明治天皇即位の舞台裏、孝明天皇崩御と討幕工作」(歴史読本、昭和52年12月)

   日本医学史学会の佐伯理一郎氏などは、これらの日記を検討した結果、「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして天皇に一服盛らせたのである」(日本医事新報)と大胆な断定を下している。

                 * * * * *

    新人物往来社など一般歴史雑誌の読物などは孝明天皇毒殺説を支持する記事が多い。国立系の学者は、とるにたらぬ俗説として斥けるであろう。しかし孝明天皇毒殺説をとると、聡明な明治天皇は毒殺犯をさがして必ずや復讐すると考えられるので、鹿島昇の明治天皇すりかえ説がセットになって浮上する。ただし、大室近祐の証言、あるいは存在そのものが実在性があるのか一読する限りでは確証できない。いまだ孝明天皇急死には事件性が認められ、幕末・明治の宮中には謎が多い。

2007年9月11日 (火)

中山忠能と明治天皇すりかえ説

   九条夙子(1833-1897)は弘化2年9月14日、13歳の時に、2歳年上の東宮統仁(おさひと)親王(のちの孝明天皇)の妃となる。弘化3年2月13日、孝明天皇即位する。嘉永3年に第一皇女順子内親王(1850-1852)、安政5年(1858年)に第二皇女富貴宮(1858-1859)を産んだが、いずれも幼児期に夭折する。

   祐宮(のちの明治天皇)は、中山忠能(1809-1888)の二女・中山慶子(1836-1907)が嘉永5年9月23日、産んだことになっている。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄うことができず、その大半を借金した。祐宮はそのまま京都の八瀬にある中山邸で5歳まで育てられた。孝明天皇のほかに男子が生まれなかったため万延元年7月10日、祐宮は九条夙子の実子とされ、同年9月28日、睦仁となづけられた。明治天皇すりかえ説では、中山慶子が産んだとされる祐宮は死産または夭折し、他家の幼児がすり替わっていただろうと推測している。中山忠能、中山慶子の口封じに一生涯の生活保障をしたことはいうまでもない。忠能は大勲位菊花大受賞を受賞し80歳まで生きている。

   中山慶子の弟・中山忠光(1845-1864)は14歳で孝明天皇の侍従となり、万延3年に睦仁親王の祇候となった。文久3年、吉村寅太郎らの天誅組を指揮して反乱を起こしたが、敗れて長州下関で暗殺された。

   中山忠能にとっては、他家の子とはいえ若宮の成長だけが希望であった。慶応2年12月、孝明天皇急死。天皇36歳、睦仁親王は15歳であった。親王はひどく悲しまれ、深く憂慮に沈まれた。しかし、鹿島昇説では、睦仁親王を殺害し、南朝の末裔である大室寅之祐を明治天皇にしたてあげたとしている。そして中山忠能が岩倉具視の陰謀に加担したと考えている。(参考:鹿島昇「日本侵略興亡史」)

2007年9月 9日 (日)

明治天皇と相撲

    土佐藩士の那須盛馬(1836-1908)は、元治元年8月14日、田中光顕(1843-1939)らと脱藩した。明治維新後、那須盛馬は片岡利和と名前を変え、新政府に出仕する。のち侍従となる。片岡は小柄ながら腕力があり、明治天皇のよき相撲の相手であったことが伝えられている。明治天皇も体格がよく、丈夫であったようである。しかしながら、幼少の頃は女官たちに囲まれて育ち、蒲柳の質であった。幕末期の睦仁親王と明治天皇とずいぶんと違う逸話に奇異な観があった。田中光顕は「明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、実は睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第11番目の息子、満良親王の御王孫で大室寅之祐である」と証言している。田中光顕と片岡利和は土佐藩出身であり、長州力士隊の大室寅之祐とは幕末期からの知り合いであったのだろう。片岡利和との相撲の話が田中証言の傍証とはならないだろうか。片岡が明治天皇から千島探検を命ぜられた理由もなんとなくわかるような気がする。

2007年9月 8日 (土)

伊井蓉峰からキムタクまで

    木村拓哉主演の映画「無限の住人」が本日から公開される。キムタクは雑誌「anan」の好きな男ランキングで14年連続1位を獲得している。現在そのカリスマ性で映画館に観客を呼べる数少ないスターといえる。それは永遠の二枚目といわれた林長ニ郎こと長谷川一夫の域に迫っている。気になるアンアンのランキングは次のとおり。1位木村拓哉。2位以下は、福山雅治、中居正広、岡田准一、松本潤、香取慎吾、妻夫木聡、赤西仁、稲垣吾郎、亀梨和也、草なぎ剛、滝沢秀明、オダギリジョー、山下智久、堂本光一、長瀬智也、速水もこみち、二宮和也、小栗旬、坂口憲ニ、櫻井翔、錦戸亮、小池徹平、玉木宏、堂本剛、瑛太、大倉忠義、成宮寛貴、松田翔太、小出恵介の順。

   31位以下は未調査であるが、大野智、相葉雅紀、ウェンツ瑛士、今井翼、塚本高史、山田孝之、山本耕史、吉沢悠、加瀬亮、佐藤隆太、森山未來、市原隼人、斉藤祥太、斉藤慶太、辻本祐樹、生田斗真、玉山鉄ニ、忍成修吾、坂本昌行、三宅健、井ノ原快彦、森田剛、長野博、山口達也、松岡昌宏、国分太一、城島茂、藤原竜也、姜暢雄、塩谷瞬らがランキング外にいると思われる。

    いい男、イケメン、美男など流行るが、近代日本演芸史を紐解いてみても歌舞伎、新派、活動写真など分野は違えども二枚目はやはり、立役、主役が王道である。新派の重鎮・伊井蓉峰(1871-1932)が無声映画草創期に出演したが、演技的にオーバーすぎたがやはり主演が似合う。ちなみに伊井蓉峰の芸名の由来は、依田学海(1833-1909)が「いい容貌」をもじってつけたものである。ともかくも伊井は江戸っ子肌で統制力があり新派劇では活躍し、「金色夜叉」の間貫一、「婦系図」の早瀬主税、「不如帰」の川島武男などを当り役とした。

    戦前の映画界では鈴木伝明、岡田時彦、中野英二、早川雪州、諸口十九、勝見庸太郎、立花貞二郎、南光明、河部五郎、高田稔、竹内良一、岡譲二、新井淳、磯野秋雄、藤井貢、林長二郎、羅門光三郎、阪東妻三郎、江川宇礼雄、片岡千恵蔵、市川百々助、沢田清、市川右太衛門、黒川弥太郎、坂東好太郎、夏川大二郎、高田浩吉、上原謙、大日方伝、佐分利信、佐野周二、森雅之たちが二枚目として活躍していた。

   戦後の二枚目スター第1号といえば、小林桂樹に始まる。正確にいえば小林は昭和17年に日活に入社して、大映を経て東宝に入社。評論家・大宅壮一から「戦後は物資不足のおりから二枚目も不足している」とデビュー時に酷評され、以後二枚目を断念して、二枚目半のユーモラスな味を出すことで成功した。また多くの男性俳優は若いときは二枚目で売り出しやがて悪役に転向して息の長い俳優となるケースが多い。日活アクション路線で悪役のイメージの強い安部徹も戦前昭和14年、原不二雄の芸名で新興キネマ「結婚問答」でデビューし、「決戦」(昭和19年、松竹)では高峰三枝子の相手役を演ずる二枚目だった。奇怪な俳優として知られた天本英世も「女の園」「二十四の瞳」では高峰秀子の相手役であり、二枚目スターだった。コメディアンのイメージが強い石立鉄男も「愛の渇き」(昭和42年)で浅丘ルリ子と三島文学のメロドラマで共演している。

    戦後のスターといえば、池部良(漫画家池部均の子息で正確には昭和16年デビュー)、山村聡、水島道太郎、竜崎一郎、沼崎勲、大友柳太郎、細川俊夫、三船敏郎、岡田英次、小泉博、丹波哲郎、堀雄二、三国連太郎、船越英二、木村功、伊豆肇、根上淳、三橋達也、鶴田浩二、佐田啓二、菅原謙次、東千代介、高橋貞二、原保美、田村高広、大川橋蔵、市川雷蔵、天知茂、葉山良二、二谷英明、勝新太郎、南原宏治、大村文武、波島進、南広、宇津井健、御木本伸介、大木実、安井昌二、高倉健、仲代達矢、中村錦之介、川崎敬三、石浜朗、宍戸錠、菅原文太、吉田輝男、寺島達夫、高宮敬二、石原裕次郎、岡田真澄、宝田明、田宮二郎、江原真二郎、川口浩、里見浩太郎、小林旭、加山雄三、赤木圭一郎、津川雅彦、和田浩治、川地民夫、渡哲也、杉良太郎、本郷功次郎、藤巻潤、川津祐介、園井啓介、勝呂誉、森美樹、待田京介、千葉真一、山内賢、青山恭二、沢本忠雄、小高雄二、天田俊明、栗塚旭、石坂浩二、松方弘樹、北大路欣也、梅宮辰夫、沢村精四郎、浜田光夫、高橋英樹、太田博之、加藤剛、夏木陽介、近藤正臣、船戸順、佐原健二、高島忠夫、竹脇無我、平幹二郎、渡瀬恒彦、市川染五郎、緒方拳、若林豪、中山仁、松橋登、萩原健一、森田健作、浜畑賢吉、志垣太郎、沖雅也、仲雅美、藤岡弘、草刈正雄、原田大二郎、田中健、三浦友和、水谷豊、田村正和、古谷一行、田村亮、篠田三郎、村野武範、永島敏行、高岡健二、柴俊夫、長塚京三、松田優作、中村雅俊、藤竜也、三ツ木清隆、風間杜夫、国広富之、柴田恭兵、舘ひろし、名高達男、西岡徳馬、神田正輝、仲村トオル、真田広之、松村雄基、村上弘明、長谷川初範、萩原流行、奥田瑛二、古尾谷雅人、林隆三、速水亮、勝野洋、三田村邦彦、榎本孝明、渡辺謙、佐藤浩一、中井貴一、時任三郎、広岡瞬、渡辺裕之、高嶋政宏、高嶋政伸、藤井フミヤ、三上博史、別所哲也、本木雅弘、東幹久、役所光司、吉岡秀隆、柳葉敏郎、鹿賀丈史。

   平成になると、「愛と平成の色男」の石田純一から始まる。加勢大周、吉田栄作、織田裕二、風間トオル、岸谷五朗、阿部寛、唐沢寿明、宅間伸、緒方直人、マイケル富岡、岡本健一、東山紀之、永瀬正敏、保坂尚輝、筒井道隆、上川隆也、豊川悦司、小澤征悦、押尾学、徳重聡、渡部篤郎、竹野内豊、反町隆史、江口洋介、大沢たかお、武田真治、羽場裕一、袴田吉彦、萩原聖人、浅野忠信、勝村政信、葛山信吾、佐々木蔵之介、北村一輝、小泉孝太郎、加藤雅也、要潤、田辺誠一、豊原功補、椎名桔平、藤木直人、窪塚洋介、大鶴義丹、永井大、山田純大、杉浦太陽、堤真一、高橋克典、寺脇康文、松岡充、伊藤英明、伊原剛志、ユースケ・サンタマリア、谷原章介、賀集利樹、柏原崇、中村獅童、Gackt、赤坂晃、有吉崇匡、一条俊、小橋賢児、松田龍平、西島秀俊。(以下調査中)

   これまでのアンアン「好きな男ランキング」をみると、1977年は第1位に水谷豊、第2位に田中邦衛、第3位に矢沢永吉と、ルックスよりも個性を重視した選考基準だった。不思議なことに青大将の田中邦衛が「好きな男ランキング」第2位で、若大将の加山雄三は一度もランキング入りしていない。青大将の石山は役柄とはいえ、カンニングはするし、「うちのパパは社長だ」と自慢し、スポーツカーに乗せて「澄ちゃん~」 といって強姦をはたらく。映画ながらもサイテイ男なんだけれども、当時の女性がどこが「いい男」と選んだのか不可解である。要するに「いい男ランキング」は遊び感覚でスタートしたものであった。

   それ以後は次第に真剣味を増して、「好きな男」の基準は、ルックスと優しさが重要視され、「いい男」の基準がはっきりしてきた。反面そのために毎年の顔ぶれの固定化傾向が目立つようになる。1988年は田原俊彦、1991は織田裕二、1993年は真田広之、1994年に木村拓哉が1位となってからは、14年連続、福山雅治も2000年から8年不動の2位である。

   そこで結論として、独断と偏見をもって、ケペル的「いい男ランキング」を発表する。

 第1位 加山雄三

 第2位 高倉健

 第3位 三船敏郎

 第4位 早川雪州

 第5位 坂東妻三郎

 第6位 市川雷蔵

 第7位 片岡千恵蔵

 第8位 石原裕次郎

 第9位 佐分利信

 第10位 赤木圭一郎

    第1位の加山雄三の選考理由は、これまでの日本人男性に類例をみない、ギリシア神話のアポロンのような向日性、明朗性、健全性を高く評価するからである。もとより男性ナンバーワンを決めることは不可能であることから、1位から10位までの男性は偶像(イコン)のような存在と思っていただきたい。21世紀の石原裕次郎や加山雄三を目指せ!と芸能スカウトは明日のスターを探している。

「たった一度の雪」と「チルソクの夏」

   1972年2月3日、アジアで初めての冬季オリンピック「札幌オリンピック」が開会された。神田沙也加とチェン・ボーリン(陳柏霖)主演の「たった一度の雪」は日本人選手と台湾人選手の国境を越えた淡い冬の恋。「チルソクの夏」は1977年7月7日、下関と釜山との間で行なわれた親善陸上競技大会での日韓高校生の夏の恋。二つのドラマの背景には未だに解決されずにいる戦後政治のアジア問題がある。

   「たった一度の雪」の台湾選手はスキーを一度もしたことがなかった。1971年10月25日、それまで中華民国として国連および安保理の常任理事国であった台湾は、大陸の中華人民共和国に国連代表権が与えられたため、国連を脱退せざるを得なくなった。台湾選手はこのような問題を世界にアピールするため五輪に派遣されたものであった。ヒロイン下村千穂は、はじめはガールハントだけに興味をもつ孫台生に反感をもっていたが、政治的な事情があることを知って、やがて二人の間に友情が生まれてくる。現在も台湾は国連の枠組みから外されているため、「中華民国」名義でのオリンピック参加も承認されず「中華台北」で参加している。

   ドラマの背景となる台湾問題を深く知るためには、太平洋戦争末期の日本統治下時代にまでさかのぼらなければならないであろう。戦後すぐに刊行された弘文堂のアテネ文庫の一冊に「アジア問題辞典」(平野義太郎編、昭和26年)がある。朝鮮戦争勃発時の同時代史としての視点でアジア問題が記されているので「台湾問題」の項目を引用する。

  昭和18年のカイロ宣言によって台湾は中国への返還が約束され、さらにポツダム宣言によって確認され、日本降伏後は国民政府軍によって占領され、国民政府は昭和20年9月に台湾省行政長官公署組織条例を公布して、台湾を中国の一省として編入した。したがって台湾は中国領土であるという原則は確認されたはずであったが、中華人民共和国の成立と前後してアメリカ政界では台湾を中共の手に渡すなとの議論が次第に勢いをうるようになった。これに対しトルーマン大統領は1950年1月5日の声明でカイロ宣言とポツダム宣言を確認するとともに台湾干渉の政策をとらないと言明したが、同年6月の朝鮮戦争発生とともにアメリカ第7艦隊を台湾水域に派遣して台湾を防衛するという処置をとった。この処置は、北京政府の立場からは、中国の内政への干渉であり、中国領土の侵犯であるとされ、北京政府はソ連の援助をえて国連に抗議し、国連第5回総会は北京政府代表・伍修権の出席を求めてこの問題を討議した。しかしこれと前後して中国志願兵の朝鮮参戦問題が発生したので、アメリカ側は朝鮮問題の先議を優先を主張し、これに対して北京政府は朝鮮問題の平和的解決の前提として朝鮮・台湾からの米軍撤退を主張している。台湾の地位がこのように紛糾しているのは、その戦略的地位がアメリカによって重要視されているからで、台湾が北京政府の手に帰すれば、日本とフィリピンをつなぐ線が台湾で切断され、中国をその外部で包囲しようとするアメリカのアジア政策が破綻をきたすからである。(以下略)

2007年9月 7日 (金)

ゲーテの抒情詩

    薬師丸ひろ子のヒット曲「天の星、地の花」にある「天に星、地には花、君に愛を」という歌詞の元ネタは、武者小路実篤ではなく、ゲーテである、というコメントをいただきました。ブログで検索すると「天には星がなければならない。そして大地には花がなければならない、人間には愛がなければならない」という詩が見つかりました。ゲーテは小説家、劇作家であるよりも前に、なによりも抒情詩人であったようです。膨大な詩作の中から詩の断片を見つけるのは少し時間がかかるので、何という詩の一節であるかはいまだ判明していません。

  ここではゲーテの抒情詩の代表作とされる一編を紹介する。

       さすらい人の夜の歌

  すべてのいただきに

  いこいあり。

  すべてのこずえには

  そよとのいぶきも

  なし。

  鳥は森にさわがず。

  ただ待て、やがて、

  なれもいこいをえん。

                      (高橋義孝訳)

   1780年9月6日、ゲーテ30歳の作とされる。ワイマール近郊に散歩した。キッケルハーンの山に登って、暮れなずむあたりの山々をはるかに望みながら作った。

中田喜直・團伊玖麿、犬猿の仲

   「夏の思い出」「雪の降る町を」などの作曲家・中田喜直(1923-2000)は、嫌煙論者としても知られていた。あるとき中田が東京駅で新幹線を待っていたら、鮫島有美子、ヘルムート・ドイチェ夫妻と出会った。列車が来て、中田は禁煙の8号車に乗った。当然、鮫島夫妻も同じ車両に乗ると思ったら喫煙車の9号車に乗った。中田は「えっ、どうして」と聞いたら、夫がタバコを吸うので、ということだった。鮫島有美子はもちろんタバコは吸わない。「国民的ソプラノ歌手」といわれる鮫島にとって、美しい声が何より大切であり、声のためにも、体のためにも禁煙車の方がいいのにと中田は思った、と「音楽と人生」という随筆集に書いている。

   この鮫島夫妻のエピソードはファンにとっても心配事であろう。良妻である鮫島は、いまでも受動喫煙による健康の害を被りながらも、ご主人の傍らにいるのであろうか。(余計なお世話だ、と言われるかもしれないが)

   中田喜直は「嫌煙の時代タバコと社会」(昭和55年)を出版しており、当時としては過激で感情的とも思える嫌煙論者と見なされていた。「人間の生存に一番大切な空気を汚すことに無関心な人を信用するわけにいかない」という基本的な考えを通すためには奇妙な徹底振りも見受けられた。たとえばヘビースモーカーで知られる市川崑や今井正の映画は絶対に見ないという。監督がタバコを吸うからといって映画作品とは無関係なように思えるのだが、その異常とも思える嫌煙論は終生止むことはなかった。ことに音楽関係者への攻撃は激しい。「オーボエ奏者の宮本文昭氏の演奏も聴きたくない。体をくねくね動かしてオーボエを吹き、その後でタバコを吸うCMを見てがっかりした。音楽は音が出ればいい、というものではない。その演奏者の人間性も一応は気になる。TVのコマーシャルで有名になって、宮本氏のCDはかなり売れているらしいが、私は勿論買わないし、もらっても捨ててしまう」(「音楽と人生」音楽之友社)と書いている。

   「パイプのけむり」の随筆で知られる作曲家・團伊玖麿(1924-2001)とは、まさに音楽家ライバルというより、愛煙家vs嫌煙家との論戦バトルが繰り広げられた。「日本のもっとも美しいオペラ・夕鶴が演奏されている時、やくざ風の男が何人か入ってきてタバコをプカプカ吸いはじめたら、私は、今は演奏中だから休憩の時に外で吸って欲しい、と言う。これが嫌煙権の主張なのである。その時、團伊玖麿氏は、嫌煙権などという下らないもの、と言って、やくざの方に味方するだろうか。こんなことは実際にないかもしれないが、團氏は文章の上ではこれと同じような事をしばしば書いている。嫌煙権を犬猿という字でからかって嘲笑した、連載随筆「パイプのけむり」を読んだ。(「音楽と人生」72頁)

   中田喜直の「音楽と人生」という本には、このほか福田恆存、西部邁、岩城宏之、生島治郎など実名をあげて愛煙家たちを批判している。昨今の日本社会での分煙対策を見ていると、中田喜直の過激とも思えた嫌煙論はほぼ全面的に認められたと思える。

2007年9月 2日 (日)

衛生博覧会と蝋人形

    衛生博覧会は、明治20年に東京築地で開催された「衛生参考品展覧会」がそのはじまりで、全国各地で戦後まで開催された。その目的は伝染病や性病などの危険から体を守り、予防知識を普及させることにあった。会場には、蝋人形の人体模型やホルマリン漬けの標本などを用いて病気の怖さを視覚的に認識させた。

    江戸川乱歩(1894-1965)の小説に次のような一節がある。「衛生博覧会場は、大小さまざまのガラス張りの陳列台、医療器機、奇怪な解剖模型、義手義足、疾病模型の蝋人形などが並べられていた。ガラス箱の中には、等身大の若い女が横たわっていた。薄暗い光線で、見分けられないほどであるが、しかしなんとなく生きているような蝋人形である。」(「悪魔の紋章」昭和12年)

    衛生博覧会の呼び物はなんといっても蝋人形だった。京都の島津源蔵(1869-1951)は、明治42年に蝋による人体解剖模型の作成に成功し、衛生博覧会の普及に貢献している。

ドガとニューオーリンズ

    アメリカ南部で一番大きく有名であるニューオーリンズは誰しもルイジアナの州都だと思うだろうが、実はニューオーリンズから百余マイル上流のバトンルージュである。ちなみにここの出身者で阪神タイガースで活躍している野球選手がアンディ・シーツである。(1971年生)

   ところで踊り子たちの愛らしい姿をデッサンしたことで知られるエドガー・ドガ(1834-1917)が、普仏戦争を逃れて母の実家のあるニューオーリンズに滞在していたことは、あまり知られていないように思う。

   ドガ(本名イレール・ジェルマン・エドガー・ド・ガス)の母セレスティーヌ・ミュッソンはニューオーリンズに植民したフランス人家庭の出身であった。1873年10月、ドガは綿花取引業をしていた叔父と弟ルネとアシルたちを訪ねてニューオーリンズを訪れた。そこには母セレスティーヌと家族が住んでいた。ドガはたちまち退屈してしまい、「人々は綿花のために生き、綿花によって生きている」とぼやいた。翌年まで滞在したドガは、ここで「ダンスのレッスン」(メトロポリタン美術館)「若い婦人の花瓶」(オルセー美術館)など家族の肖像を描いている。

   そのほか「エステル・ドガ夫人」(ニューオーリンズ美術館)、「ルネ・ド・ガス夫人の肖像」(ボストン美術館)がある。ドガのニューオーリンズ滞在中は、弟のルネに世話になった。この絵に描かれている女性は、弟ルネの夫人エステルである。彼女は、ドガの母を通じてドガ家とは縁続きにあたり、最初アメリカ人と結婚したが、南北戦争で夫を失ってから、ルネ・ド・ガスと結ばれた。彼女は当時すでに視力を失って、ほとんど盲目の状態であった。ドガは世話になった弟の家族への感謝と愛情を込めて描いた。しかしルネ夫妻は1878年離婚している。弟ルネはニューヨークで、レオンス・オリヴィエ夫人と再婚した。ドガはこのような弟の行為を非難し、兄弟は20年間交際を絶っている。ドガのやさしい人柄が現れた逸話である。

韓国ドラマのヒロインの名前

   「冬のソナタ」のユン・ソクホ監督が描く四季シリーズ最終章「春のワルツ」のNHK総合地上放送が昨夜の第20話「愛と希望の島」の終了をもって完結した。2003年の「冬のソナタ」で中高年の女性の心を鷲掴みにした韓流といわれる社会現象もひとつの節目を迎えたといえる。

    ところで少数派ながらケペルの男目線からの四季シリーズの魅力は、ウンソ(秋の童話)、ユジン(冬のソナタ)、へウォン(夏の香り)、ウニョン(春のワルツ)たち4人のヒロインの清純で新鮮な個性であった。いまではお馴染みのチェ・ジウもソン・へギョも本作が初見参だった。

   四季シリーズに限らず韓国ドラマの「純愛」というジャンルには必ずというほど、ヒロインとアンチヒロインが登場する。

   ウンソーシネ(秋の童話)

   ユジンーチェリン(冬のソナタ)

   へウォンーウネ(夏の香り)

   ウニョンーイナ(春のワルツ)

   ジャヨンーシニ(真実)

   ヨンスーセナ(美しき日々)

   チョンソーユリ(天国の階段)

   これのら名を並べてみると、ヒロインの役名には語尾が「ン」で終わることが多く、アンチヒロインには2音が多いことがわかる。(チェリンは例外) 役名の正確な漢字表記はわからないが、例えばチョン・ユジン(鄭有真)、パク・ウニョン(朴恩瑛、朴銀英)と当てているとみなされる。「真」「瑛」「英」「美」「玉」「姫」「淑」などの漢字は清く美しくて女性らしい感じがするので、必然、「ン」で終わることが多いのだろう。反対にアンチヒロインに「ン」名前が少ないというのは、彼女たちにあえて女性らしさを現わす漢字を使わないで存在感を示そうとしているのであろう。

   ところで、日本でも「花子」「和子」「良子」「貞子」などはお母さん時代の古い名前と感じられるように、韓国でも、今どきの名前とか、古い名前とか、あるようだ。1945年は韓国が日本の植民地支配から解放された年で、この年に生まれた女性の名前の1位がヨンジャ(永子、蓮子など)、2位がチョンジャ(正子など)、3位がスンジャ(順子など)、4位がチュンジャ(春子など)、5位がキョンジャ(京子など)で「子」のつく名前が多い。これは日本の影響がまだみられるのであろう。ところが1975年生まれの女性には「子」のつく名前はほとんどみられなくなった。ちなみに第1位はミヨン(美瑛など)、2位はウンジョン(銀貞など)、3位はウンジュ(恩珠など)、4位はウニョン(銀英など)、5位はヒョンジュ(賢珠など)。

   「春のワルツ」のヒロインの名が「ウニョン」というのは、一般的な現代女性に多い名前で、平凡な家庭の少女を現しているように思える。また「秋の童話」の主人公兄妹が「ジュンソ」「ウンソ」となっていたように、最近は名前に同じ文字を共有するのは男子に限らないようになって、名前に男女の区別が少なくなっているらしい。日本でもそうだが、漢字の意味にあまり捉われないで、当て字のように音で名前をつけたりすることもある。また、漢字を伴わない、ハングルだけの名前が増えているのも、最近の特徴の一つである。

ニューオーリンズと神戸

   アメリカ合衆国ルイジアナ州の都市ニューオーリンズと神戸とをつなぐ2人の日本人がいた。井田一郎(1894-1972)と服部一三(はっとりいちぞう、1851-1929)である。ニューオーリンズはジャズの発祥地として知られるが日本では神戸がその発祥地 !?といわれる。

   井田一郎は大正10年、東儀鉄三郎の誘いで宝塚少女歌劇団のオーケストラの一員となり、ショウの合間にジャズを演奏した。大正12年4月、わが国最初のジャズバンド「井田一郎とラッフィング・スターズ」を結成(井田一郎・高見友祥、山田敬一、岩波桃太郎の4人)。京阪神のホテルでダンスパーティを開催していた「踊華クラブ」「トロッター倶楽部」で演奏していた。

   服部一三は明治17年に文部省督学局の使節として、ニューオーリンズ万国工業綿花博覧会に派遣された。それに新聞記者として取材していたのがラフカディオ・ハーン(1850-1904)だった。ハーンは日本の展示に多いに興味をそそられ、会場に足繁く通うようになり、服部とも親しくなる。ハーンは「古事記」とギリシア神話との共通性にも惹かれて、明治23年来日する。その前年の明治22年には、イギリスからリチャード・ゴードン・スミス(1858-1918)が来日していた。ゴードン・スミスは、神戸に住んで、大英博物館の依頼で標本を集めたり、「日本怪談集」を収集した。服部は明治33年から大正5年まで兵庫県知事をしていたのでスミスとも親しくなる。ハーンとスミスとは面識はなかったが、二人の共通の友として服部から情報を得ていたらしい。服部一三や井田一郎は神戸とニューオーリンズを繋ぐ架け橋となっていたのである。

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