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2007年9月30日 (日)

夏目漱石と「罪と罰」

    夏目漱石は森田草平から英語訳のドストエフスキーを借りて読んだ。森田によると漱石が「白痴から始めて、三四冊読破」したと書いている。「白痴」以外はドストエフスキーのどの作品であるのか明らかではない。現在、比較文学という研究が盛んであろうが、おそらく夏目漱石がドストエフスキーにかなり関心を示し、また影響を受けたことはかなり知られている事実であろう。

    このようなことを論文としてまとめたのは、おそらく文芸評論家の板垣直子(1896-1977)が最初であろう。板垣の「漱石文学の背景」(昭和31年)に「漱石はドストエフスキイの第一等の傑作といわれる罪と罰の深刻な効果に、非常に感動した。そのような事実を証明する文献は残っていないが、その作品をよみ終わって、その暗いリアリズムに非常に感激した結果、漱石みずからもそんな暗い効果をあげた作品をかくことを思いついた。という伝説は、漱石に近かった人々からつぎの代の人間へと、口碑の形でうけつがれ、私の耳にまで達してきたのである。」と書いている。

    板垣直子は青森県に生まれ、青森県立弘前高女を経て、大正7年日本女子大学英文科卒。大正12年のゲオルヒ・グロナウ著「レオナルド・ダ・ヴィンチ」をはじめとして、「事変下の文学」「現代の文芸評論」「欧州文芸思潮史」「文学概論」「婦人作家評伝」「林芙美子」「平林たい子」「明治・大正・昭和の女流文学」「漱石文学の背景」「夏目漱石伝説と文学」「樋口一葉」「現代日本の戦争文学」「漱石・鴎外・藤村」「林芙美子の生涯」など著書は多数ある。女性評論家の草分け的存在で、半世紀にわたる文筆活動は今日高く評価すべきである。

2007年9月29日 (土)

三角大福から背水の陣内閣まで

    昭和47年、佐藤栄作の後継者として、「三角大福」すなわち、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の四人が争そっていた。そして7月7日、第64代内閣総理大臣田中角栄が組閣した。新内閣の支持率は62%と非常に高かった。朝日新聞は福田康夫の新内閣が53%として、田中以降の各内閣の最初の支持率を載せている。(朝日新聞社世論調査)

    三木武夫45%、福田赳夫28%、大平正芳42%、鈴木善幸52%、中曽根康弘37%、竹下登48%、宇野宗佑28%、海部俊樹39%、宮沢喜一54%、細川護熙71%、羽田孜47%、村山富市35%、橋本龍太郎61%、小渕恵三32%、森喜朗41%、小泉純一郎78%、安倍晋三63%である。福田新内閣の最初は53%と予想外に高い支持率だったが、背水の陣内閣の前途は多難だ。

蛍窓雪案

    「灯火親しむの候」、「読書の秋」。そこで「灯かり」と「読書」について一考。石川啄木の歌集「悲しき玩具」(明治44年)に次の歌が収録されている。

  秋近し!

     電燈の球のぬくもりの

     さはれば指の皮膚に親しき。

    これ以前の室内の灯火具といえば、行燈、燭台、ランプだった。明治15年に銀座に初めて電灯が灯されたが、家庭に電気が使われるようになったのは明治19年ごろから。しかし、家庭で電気が一般に使われるようになったのは大正になってからであるので、東京にいる啄木の電気スタンドは明治末年に売り出された新機種だったのだろうか。

    灯かりと読書の話は、中国の古い故事が有名であろう。晋の時代に、車胤と孫康という二人の青年がいた。二人は、本を読むのに、灯かりの油が買えないほど貧しかった。そこで車胤は、夏の夜には、ねり絹のふくろに数十匹の蛍を入れて、蛍の光で本を読んで勉強した。孫康は、冬の夜には、降り積もった雪の灯かりで本を読んで勉強した。この故事から「蛍雪の功」という言葉が生まれ、「蛍窓雪案」(蛍窓はふみ読む窓、雪案は勉強机)は「苦学すること」をさすようになった。

   戦前の歴史学者の朝河貫一(1873-1949)は英語の辞書を1ページずつ覚えては破り、残った皮の表紙を桜の木の根元に埋めた。天文学者の新城新蔵(1873-1938)は深夜勉強していて眠気をもよおすと錐で自分の太ももを突いて眠気を振り払って勉強したという。東大に合格すると、その錐を松の木の根元に埋めた。「朝河桜」「新城松」はまるで車胤、孫康の日本版「蛍雪の功」として伝えられている。

戦後イタリアの映画と音楽

   映画「家族日誌」(ヴァレリオ・ズルリーニ監督)が日本で公開されのは、東京オリンピックが開催されていた昭和39年のことだった。ラスト近くで病気で衰弱した弟のロレンツォ(ジャック・ぺラン)がオレンジ・マーマレードが食べたいと言い、兄のエンリコ(マルチェロ・マストロヤンニ)が雨の中を探し回るが見つけることができなかった。「この時ほど戦争を恨んだことはなかった」

   イタリアは日本と同じ敗戦国。小市民生活の哀歓を描く作品も多く、ハリウッド映画と異なり、庶民が共感できる映画が多かった。「靴みがき」「自転車泥棒」(ビットリオ・デ・シーカ監督)、「にがい米」(ジュゼッペ・デ・サンテス監督)、「無防備都市」(ロべルト・ロッセリーニ監督)など。イタリアン・ネオリスモは国際的ブームとなった。その後もフェデリコ・フェリーニの「道」「「カビリアの夜」「甘い生活」、ピエトロ・ジェルミの「鉄道員」「わらの男」「刑事」、ミケランジェロ・アントニオーニの「情事」「太陽はひとりぼっち」、ヴァレリオ・ズルリーニの「家族日誌」、エルマンノ・オルミの「就職」、マウロ・ボロニーニの「堕落」など芸術性の高い作品がイタリア映画界から生まれた。

   日本でのイタリアブームは映画だけではなかった。ポピュラー音楽では、カンツォーネブームが昭和35年から昭和40年前半まで続いた。森山加代子の「月影のナポリ」(ミーナ)、ザ・ピーナッツ「ブーべの恋人」、弘田三枝子「砂に消えた涙」(ミーナ)などのカヴァ曲がヒットパレードでアメリカン・ポップスを抑えてカンツォーネが第一位を飾っていた。ホイホイミュージックスクール出身の布施明の発声法はいまでもカンツォーネ風なのはその影響によるものである。伊東ゆかり「恋する瞳」のサンレモ音楽祭入賞を頂点として、日本でのカンツォーネブームは衰退に向かう。イタリア映画界も、マカロニウエスタン全盛となり、マウロ・ボロニーニ監督の「わが青春のフローレンス」(マッシモ・ラニエリ、オッタビア・ピッコロ)以降あまり記憶にない。今年7月30日、ミケランジェロ・アントニオーニが94歳で亡くなったという。

世界一の名歌手・エンリコ・カルーソー

   イタリアというば民謡、民謡といえばナポリがまず思いうかぶ。歌とおしゃべりに明け暮れる楽天的なナポリっ子だが、南イタリア共通の貧しさがひそんでいる。ごみごみした路地にはりめぐらされた洗濯物の洪水、だがナポリっ子はそれを「ナポリの旗」だと無邪気に自慢する。

   1873年2月25日、エンリコ・カルーソー(1873-1921)は、ナポリの貧民窟サン・ジョヴァンニエッロ街の機械工の18番目の子として生まれた。父親の名前は知らないが、母親はアンナ・カルーソーという。CARUSOはナポリ風に読めばカルーゾだが、日本では一般に英語風のカルーソーで通っている。ナポリの貧民窟に住む母アンナは、なけなしの金をはたいて小さなエンリコに歌を習わせた。シニョール・ヴェルジーネはエンリコの才能をあまり評価せず、「雨戸をふきぬける風みたいな歌だ」とあざけった。アンナはエンリコの成功を見ずに死んだ。1894年ナポリの新劇場でデビューし、イタリア国内のいくつかの小劇場で歌った。1898年、ミラノで「フェードラ」が初演され、大成功を収めた。1902年、ミラノのスカラ座で歌ったとき、グラモフォン社のフレッド・ガイズバーグと出会ったことが契機となり、レコード録音をする。1903年からニューヨークのメトロポリタン劇場での成功と併せて発売されたレコードによってその名は世界的に知られるようになった。カルーソはオペラ歌手というだけでなく、民謡やポピュラーソングまで歌い、世界のあらゆる階層の人々から愛される歌手であった。カルーソはアダ・ジャケッティとの間に、正式な結婚はしていなかったが二児をもうけていた。1918年、ニューヨークの実業家の娘ドロシー・P・ベンジャミンと結婚した。絶頂期の1921年8月2日に故郷で休暇中に亡くなった。若きカルーソを評して、トスカニーニは「このナポリ人がこのように歌い続けるなら、世界中、彼の噂でもちきりになるだろう」と言った。トスカニーニの言葉どおり、彼は現代につながる発声唱法とレコード産業をも確立させた。

   「オーソーレミオ」(私の太陽)というエドゥアルド・ディ・カープア(1865-1917)作曲のナポリ民謡はカルーソーの創唱で世界中に知られるようになった。のちのオペラのテノール歌手たちがこぞってナポリ民謡をうたのうは、カルーソーの影響によるものだろう。

2007年9月25日 (火)

富田木歩と新井声風

   富田木歩(とみたもっぽ、1898-1923)。大正の俳人。本名、富田一(はじめ)。明治30年4月14日、東京本所区向島小梅町に生まれる。両親は鰻の蒲焼「大和田」を経営していた。しかし洪水の被害にあい、貧してから姉妹たちは遊郭に身を落とす。木歩は2歳のとき、病により、歩行不能となり、小学校教育も受けられなかった。文字は「いろはかるた」「軍人めんこ」や雑誌のルビで覚えた。やがて足萎えのまま、友禅型紙切りの奉公に出る。そんな日々のなか土手米造を知る。土手は20歳で「波王」の俳号で「小梅吟社」を結成し、木歩は「吟波」と号する。ホトトギスの原石鼎に師事し、「ホトトギス」初学欄に句を投じ、大正5年、臼田亜浪に師事。ここで木歩は同じ年の新井声風(1897-1972)を知り、二人は生涯の友となる。声風の父は浅草で映画館を経営しており、そのころ慶応大学に通っていた。大正10年に声風が「石楠」を去るや木歩もこれに従い、その後は「曲水」に作品を発表した。その間、妹と弟は結核で亡くなり、木歩も大正7年ころから客血するようになり、病臥の身となった。大正8年12月、向島玉の井に移る。大正10年夏、貸本屋「平和堂」を開業する。遊郭に売られた姉の旦那から出してもらった金で開業したらしい。店のお客も玉の井の遊女がお得意であった。

   大正12年9月1日、関東大震災。木歩は近所の人々に助け出されて、辛くも牛の御前近くの堤の上に避難した。当時凸版印刷会社に勤めていた新井声風は、漸くの思いでそこに駆けつけ、木歩を帯で背負い、浅草公園の姉の家に送るべく吾妻橋さして急いだ。しかし枕橋はすでに燃え落ちていた。火の手は三方にまわっていた。目前の隅田川は津波で水かさが増し、急流が渦を巻いている。逃げ場を失った二人は今生の別れを告げ、火をふくむ熱風の中で涙の最後の握手をした。声風が水火のなか隅田川を泳ぎきり、竹屋の渡し近くに辿りついたのはそれから4時間後のことであった。木歩は焼死した。わずか26歳の生涯であった。

  現在、富田木歩終焉の地である枕橋近くに句碑がある。(平成元年3月建立)

  かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花

  震災後、自分だけが助かった声風は慙愧の念に苛まれる。そのため句作をやめ、ひたすら木歩の句を広めることに精魂を傾ける。

「木歩文集」新井声風編、素人社書屋、昭和9年

「定本木歩句集」新井声風編、交蘭社、昭和13年

「富田木歩全集」新井声風編、世界文庫、昭和39年

 木歩の俳号は、彼が歩きたいの一念で自分で作った木の足に依る。現在、富田木歩は歩行不能、肺結核、貧困の三重苦に耐えて句作に励み、「俳壇の啄木」といわれている。

 わが肩に蜘蛛の糸張る秋の暮

 稲架かげに唖ん坊と二人遊びけり

 面影の囚われ人に似て寒し

 遠火事に物売通る静かかな

奉公に出し妹を思ふ

  妹とゐぬ淋しさ羽子を飾りけり

(参考:大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」)

ハン・ジヘが語る素顔のイ・ドンゴン

   イ・ドンゴンの「B型の彼氏」が予想外に面白かったので、イ・ドンゴンの魅力について書いてみたい。彼は1998年に「僕の願いがあの空に届きますように」で歌手デビューしている。映画「B型」の劇中でもギターを弾きながらハミの家の前で「アンド・アイ・ラブ・ユー・ソー」を甘い声で歌っている。韓国では「キンカー」という言葉がある。もてる男、いい男、かっこい男、という意味らしい。イ・ビョンホンのようなタイプをいうのだろうが、日本の女性の好みからいうと、ぺ・ヨンジュンやイ・ドンゴンが正統派キンカーかもしれない。むかしアラン・ドロンの売り出しの頃「お嬢さんお手やわらかに」(1958)という作品があった。甘いマスクの青年が、ミレーヌ・ドモンジョ、パスカル・プチ、ジャクリーヌ・ササールの三人の美女にモテモテで追いかけまわされるという、たわいもないドタバタ・コメディーだった。あのフランス映画に比較すると、「B型の彼氏」という韓国映画は楽しいハートフル・コメディーに仕上がっている。イ・ドンゴンはドロンのように多数の大学の女学生からもてまくる。行動力も金銭感覚もあるハンサム男だが、性格があまりにも自己チューの最低男であるという設定がユニークである。

   この映画でとくに注目されていいのは、ハミ(ハン・ジヘ)と同居している従姉のチョヨン(シン・イ)の存在であろう。結婚相談所に勤めるチョヨンはB型男子嫌悪症で、ハミとヨンビンの仲を妨害する。ハミの服を全部洗濯したり、ヨンビンがサウナに住んでいてお金のないことや、乱れた女性関係を携帯画像で撮影してハミに見せるなど、あらゆる手段であきらめさせようとする。しかしかえって逆効果となりハミはヨンビンをあくまで信ずる。韓服を着てハン・へジが映画デートをするシーンは楽しい。

   ところでこの映画の重要な役であった従姉のシン・イだが、シニという芸名のほうが知られているだろう。「女校怪談」(1998)「セックス・イズ・ゼロ(色即是空)」(2000)「偉大なる遺産」(2003)「浪漫刺客」(2003)「霊リョン」(2004)「バリでの出来事」(2004)「シンソッキ・ブルース」(2005)「スーパーファミリー」(2005)「家門の危機」(2005)「救世主」(2006)など多数ある。個性的な役が多いが、お茶目でカワイイ。めがねをはずすと美人だ。イ・ドンゴンが彼女を手なずけるための作戦で、イ・ヒョヌ(「屋根部屋の猫」の室長)を紹介する場面がある。B型嫌いだったのにあっさりと漢江のドライブで陥落するシーンは笑える。シニは「女イム・チャンジョン」と呼ばれているそうだ。「B型」の結論は、シニの最後のセリフ「恋する男女に血液型なんて関係ないわ!」だった。シニは「救世主」で映画初主演を果たし、今もっとも注目されているコメディアンヌなのだ。

   ハン・ジヘは日本ではユン・ソクホ監督の「夏の香り」のパク・チョンア役でよく知られるようになった。韓国の芸能界には「悪女を演じると女優の株が上がる」という噂がある。チョンアもミヌ(ソン・スンホン)とへウォン(ソン・イェジン)の恋の邪魔をする意地悪な悪女的存在だった。ところが「B型の彼氏」では一転して、純真でカワイイA型娘を素のままで演技していた。あの一重まぶたが魅力的にみえた。ハン・ジヘは17歳のときスーパーエリートモデル選抜大会に入賞し芸能界入り。「ランラン18歳」で人気が沸騰し、「B型」で映画主演でヒット。共演のイ・ドンゴンとも恋愛中というこまことに幸せなお嬢さんである。

   さて、イ・ドンゴンだがデビュー当時はあまりパッとしなかった。あの深田恭子の「フレンズ」にも、ウォンビンの友人役で出演していたが、さっぱり記憶にない。「サンドゥ、学校へ行こう」でも脇役だった。思うに、イ・ドンゴンのようなキンカー(いい男)は、脇はダメである。「B型」のようなダメな色男がいい。個人的には「パリの恋人」のスヒョクや「ガラスの華」のハン・ドンジュも好きだ。「ガラスの華」(ユリファ)では、大女優キム・ハヌルの胸をかりていたが、まだ演技的に未熟な感じがした。その後2005年の休養宣言ではファンを心配させたようだが、「ランラン18歳」と「B型の彼氏」でハン・ジヘとの黄金コンビが誕生して人気が沸騰した。

   ハン・ジヘが語る素顔のイ・ドンゴンとは。「誰よりも温かくでロマンチックな男性を演じることが多いドンゴンさんですが、実際の性格は内気で自分の殻に閉じこもりがちで、冷たいという話を聞きます。でもそれは誰もがみんなそうなんだと思います。親しい人の前だと、ドンゴンさんもよく笑い、ふざけて冗談も言います。本当に心から楽しくなければ笑いもしないし、やたらとなれなれしい態度をとりません。だからといって社交性がないわけでもありません。ただステキな外見から想像するイメージと、実際の性格にギャップがあって誤解されやすいみたいです」(「韓国TVドラマ11」)

   ハン・ジヘちゃんはドンゴンくんのよき理解者なんだなぁ。

2007年9月24日 (月)

韓国血液型シンドローム

    人間の血液にA型、B型、0型の種類があることを最初に発見したのは、オーストリアのウィーン大学の生物学者カール・ラントシュタイナー(1868-1943)で、1901年のことである。この血液型と性格との関連性を初めて論文としたのは日本人で、大正5年に原来復と小林栄が「血液ノ類属的構造ニ就イテ」(医事新報954号)であるが、そののち古川竹二(1891-1940)が本格的に論じた。戦後は、能見正比古(1925-1981)が「血液型人間学」でベストセラーになった。その後も血液型性格診断は相性判断となって、「B型っぽい」とか「A型らしくないね」という会話が成り立つほどに日本では定着している。しかしながら、血液型による性格判断は科学的根拠がなく擬似科学性が指摘されている。でも「A型は几帳面」とか「B型の男は自分勝手で我が儘」といえば、なぜか思い当たることがあるのも不思議な話だ。(バーナム効果)この血液型シンドロームは日本だけでなく、アジアにも波及し2004年には韓国で大ブームになった。映画「B型の彼氏」は、自分勝手なB型の男の子と気弱なA型の女の子のラブコメディーだが、韓国では150万人を超える大ヒットなった。

    ヨンビン(イ・ドンゴン)はハンサムだが「女の子が彼氏にしたくない血液型ナンバーワンのB型だった。B型の彼は、愛情表現はしてくれるものの「自分のしかない」と言って食べ物を分けてくれなかったり、バラの花束をくれたと思ったら、なぜか他の店に売ってしまったりセコイことをする。寿司屋で、刺身嫌いのハミ(ハン・ジヘ)のすしのネタだけ食べる。人のキャッシュカードを無断で使う。すむ家はないのに外車を乗り回すええかっこしい。ヨンビンの身勝手な行動に次第に傷ついていき、ハミはついに別れを決意する。ところが彼には、子どものころバスにひかれそうになったことから心理的な事情があった。あらすじを書いても面白くはないが、映画は主演の二人の息がピッタリでキュートでロマンチックな映画に仕上がっている。

   「パリの恋人」や「B型の彼氏」でイ・ドンゴンも韓流スターの一人になった。ハン・ジヘとは「ランラン18歳」以来、二度目の共演。「パリの恋人」や「ガラスの華」では暗く悲しいイメージだったイ・ドンゴンだが、ハン・ジヘとは「B型の彼氏」でカップルに、「ランラン18歳」では夫婦になっている。二人の相性がいいなぁ、と思ったら、映画「今愛する人と暮らしていますか?」の新作発表で、イ・ドンゴンはハン・ジヘへの熱愛を告白している、いまアツアツの噂のカップル。ちなみにイ・ドンゴン(27歳)もハン・ジヘ(23歳)も血液型はともにA型でした。

二等兵物語と詩人・梁取三義

   「二等兵物語」というと伴淳三郎、花菱アチャコの軍隊喜劇映画を思い出すかもしれない。原作は梁取三義(やなとりみつよし、1912-1993)の長篇小説である。彩光社から昭和28年に第1巻「五里霧中の巻」が発売され、以降、「練兵休の巻」「南方要員の巻」「東京空襲の巻」「決戦体制の巻」、そして第6巻の「敗色歴然の巻」で第一期が完結したのは昭和30年であった。主人公の古山源吉二等兵は、東北出身であった俳優・伴淳三郎の当り役となる。梁取三義は本名・梁取光義。明治45年6月25日、南会津郡只見町に生まれた。戦前は歌謡曲の詩をつくっていたようで、小説の中にもずいぶんと詩がでてくる。若山牧水、石川啄木を愛した詩人であった。長篇小説「二等兵物語」の最後にある理想郷をうたった「詩に託す心」を紹介する。

 蒼い空の下

 質素な家

 四面の果樹園には

 紅白とりどりの花がひらき

 小鳥の声は終日のどかに聞える

 池には朝から鯉がたはむれ

 軒端には蜜蜂が群れて飛び交ふ

 妻も子供達も

 みんな微笑む

 そこには

 神の恵みの稲が実り

 大根が育つ

 私の生きる望み

 理想と現実を結ぶ

 たった一つの鍵

 そこでは

 争闘も無価値

 虚偽も不必要

 真理を求め

 美を讃え

 子供達と共に

 歌を唄って鍬をふるふ

 桃の花は紅く

 梨の花は白い

 実りを夢見る花々の上を

 蜜蜂の群れ飛ぶ羽音

 ここでは

 太陽の光りが

 健康と愛情を

 何のさまたげもなく育ててくれる

 蒼い空のもと

 質素な家

 そこで私達は

 花々と語る魔術を会得しよう 

2007年9月23日 (日)

寺田寅彦と煙草

   ケペルはタバコは吸わないが「しんせい」という名前を聞くと懐かしさがこみ上げてくる。親父が愛煙家で「しんせい」を一日に何箱も吸っていたからだ。ハイライトなどのフィルター付タバコが普及しても、頑固に吸い続けていた。昭和24年の戦後の発売で「新生」というネーミングも戦後の世相を現していることをはじめて知った。ゴールデンバットもしんせいもいまも発売されているそうだ。バットは明治39年の発売なので、発売されているなかでは最も古いタバコである。そもそもタバコ専売は、日露戦争の巨額な戦費を捻出するため、政府は煙草に目をつけ、明治37年、煙草専売法を公布し、7月に敷島、大和、朝日、スター、チェリーを発売した。官制煙草が出る以前は岩谷松平の天狗煙草や村井吉兵衛(1864-1926)のサンライズなどが人気だった。寺田寅彦の「喫煙四十年」(昭和9年)にはずいぶんと古い話がでてくる。

  巻き煙草を吸いだしたのはやはり中学時代のずっと後のほうであったらしい。宅には東京平河町の土田という家で製した紙巻きがいつもたくさんに仕入れてあった。平河町は自分の生まれた町だからそれが記憶に残っているのである。ピンヘッドとかサンライズとか、その後にはまたサンライトというような香料入りの両切り紙巻きが流行しだして今のバットやチェリーの先駆者となった。そのうちのどれだったか東京の名妓の写真が一枚ずつ紙箱に入れてあって、ぽん太とかおつまとかいう名前が田舎の中学生の間にも広く宣伝された。煙草の味もやはり甘ったるい、しっこい、安香水のような香のするものであったような気がする。

   ぽん太は新橋玉の家かかえの名妓。鹿島清兵衛に落籍され貞淑をもって有名。おつまも「洗い髪のおつま」というわれた名妓である。

    ところで、科学者、随筆家として知られる寺田寅彦は、喫煙と健康についてどのように考えていたのだろうか。寺田寅彦も愛煙家として知られたが、健康には恵まれなかった。「喫煙四十年」に次のような一文がある。

   先年胃をわずらった時に医者から煙草をやめてほうがいいと言われた。「煙草も吸わないで生きていたってつまらないからよさない」と言ったら、「乱暴なことを言う男だ」と言って笑われた。もしあの時に煙草をやめていたら胃のほうはたしかによくなったかもしれないが、そのかわりにとうに死んでしまったかもしれないという気がする。なぜだか理由はわからないがただそんな気がするのである。

   なかなかお医者さんの言うことを聞かない困った寺田先生である。そこで日本一の名医といわれる日野原重明先生にご登場いただこう。

   私は「生涯を通じて健康に」と強調しておりますが、人生の幸福は「健やかさ」をおいてほかに何もないと思うのです。心と体の健康ですね。両者は非常に関係が深いのです。体が病めば心が縮むというわけです。ですから、生涯を通して私たちが健やかさを保つにはいつもよい環境や条件を自分で考え、つくろうというわけです。健やかな心や体の目標は、私たちが社会や人のために何ができるか、ということを考えてまで生きるということです。その場合私たちは、やはり生きる価値観を考える。そしてまた、意義深く生きるためにはどうしても健康が必要ですね。ところがたばこというのは、自分の健康と周囲の人の健康を破戒してしまうのですから大きな問題なのです。(「生涯を通じて健康に」タバコは吸わない、頑固に禁煙)

岩谷松平と天狗煙草

   「花は霧島、煙草は国分」と歌われるように、煙草は薩摩の特産品の一つとして江戸時代から知られていた。明治の煙草王・岩谷松平(1849-1920)は嘉永2年、岩谷卯之助の二男として薩摩の川内市に生まれた。明治10年の西南戦争で家屋を焼かれたため上京。明治11年、銀座3丁目に「薩摩屋」を構え、呉服反物や薩摩の特産品を販売する。キセルで煙草を吸っていた時代から紙巻煙草が流行りだしたのを機に、明治17年頃からたばこ製造を始め、口付紙巻たばこ「天狗たばこ」を発売し、店名も「天狗屋」と号するようになった。日清戦争以後、派手な宣伝で栄えた。たばこ名も天狗にこだわり、岩谷天狗、白天狗、赤天狗、青天狗、黒天狗、銀天狗、金天狗、小天狗、中天狗、大天狗、日の出天狗、月天狗、陸軍天狗、海軍天狗、義兵天狗、征清天狗、日本天狗、愛国天狗、国益天狗、輸入退治天狗、日英同盟天狗、ベルリ天狗、御慶天狗、鷹天狗、木の葉天狗、強天狗、丁天狗、丙天狗、甲天狗があった。

   岩谷松平は、服部金太郎(1860-1934)と共に長者番付のトップを競い、広大な敷地にある御殿に住み、20数人の愛人を囲い、男女21人の子供がいるという日本一の大家族であった。

啄木と小奴

   石川啄木(1886-1912)との出会いは、やはり中学校の教科書であろう。教科書には「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」「燈影(ほかげ)なき室に我あり父と母壁のなかより杖つきて出づ」などが載っていて、啄木を親孝行の見本のようのように思っていたら、芸者遊びや女性関係がだらしないことを知ってがっかりしたというブログ記事を読んだ。ケペルとしては教科書的イメージの啄木よりも、苦難の実生活のなかから生まれた「心のさけび」のような歌を好んでいる。そこで釧路時代に馴染んだ芸者の小奴を歌ったものを探してみた。

小奴といひし女の

やはらかき

耳朶なども忘れがたかり

              *

よりそひて

深夜の雪の中に立つ

女の右手のあたたかさかな

               *

きしきしと寒さに踏めば板軋む

かへりの廊下の

不意のくちづけ

               *

死にたくはないかと言へば

これ見よと

咽喉の痍を見せし女かな

       *

いかにせしと言へば

あわじろき酔ひざめの

面に強ひて笑みをつくりき

                 *

かなしきは

かの白玉のごとくなる腕に残せし

キスの痕かな

                *

酔ひてわがうつむく時も

水ほしと眼ひらく時も

呼びし名なりけり

    小奴。明治23年10月15日、函館に生まれた。父は渡辺庄六。母はより。9歳のとき母方の叔父坪松太郎の養女となり、十勝の大津で成長したが、高等小学校のとき養父に死別したので、その後母の知人である函館屋という帯広の小料理屋にあずけられ、ここで芸事を覚えた。数年後、彼女は釧路市内の本行寺という寺の前に一軒の家を借り、軍鶏寅という料亭の専属の芸者となって、小奴と名乗っていた。明治41年、釧路新聞社に赴任した石川啄木と知り合ったのは、啄木23歳、小奴17歳のころである。

   小奴は明治41年11月、逸見豊之輔と結婚して長女貞子をもうけたが、大正11年に離婚。娘を連れて実母の再婚先である釧路の旅館近江屋に帰り、近江じん、と名乗って旅館の経営に当たったが、昭和29年の暮れ廃業して、静かな余生を送ったという。昭和10年ごろ、林芙美子が旅館の角大を訪れ、次のような印象を書いている。

   啄木の唄った女のひとは昔小奴と云ったが、いまは近江じんと云って、角大という宿屋を営なんでいた。新しくて大きい旅館で、旧市街と新市街の間のようなところにあった。おじんさんは四十五歳だったといっていた。小奴と云う女のひとを現在眼の前にすると、啄木もそんなに老けてはいない年頃だったと思ふ。生きていたら、たしか五十歳位ででもあったろう。誰でもひととほりは聞くであろう啄木との情話よりも、啄木が優しい人であったと云ふ何でもない挿話を、私は大事にきいた。(林芙美子「摩周湖紀行」昭和10年)

2007年9月22日 (土)

軍神広瀬中佐の銅像

    広瀬武夫(1868-1904)の数ある銅像の中でも、とくに知られたのは東京神田区須田町(現・千代田区神田須田町)、万世橋駅頭にあった像であろう。周辺は人や自動車や路面電車がひっきりなしに行き交い東京でも屈指の繁華街であった。明治37年4月20日、海軍の同期・上官であった八代六郎(1860-1939)、有馬良橘(1861-1944)、財部彪(1867-1949)、小笠原長生(1867-1958)らの推薦によって「広瀬中佐銅像建設趣意書」が提出され、時事新報が寄附金を募って、明治43年3月に建設された。

    「東京銅像唱歌」の25番に「電車の乗換、いとしげき、昌平橋のそば近く、広瀬中佐は立てりけり、下には杉野兵曹長」の歌詞にあるように、台座上部に広瀬の像があり、台座の下に広瀬を見上げるように跪いた杉野の像があった。銅像の製作者は、広瀬と大分県竹田市出身の彫刻家・渡辺長男(1874-1952)が同郷の縁で広瀬の像を製作した。杉野の像は渡辺の実弟の朝倉文夫(1883-1964)が製作した。これらの像は昭和22年6月に撤去され、現存していないそうだ。杉野は何処、杉野は居ずや、銅像は何処。

2007年9月21日 (金)

塔下苑の女たち

    明治23年11月、浅草に赤煉瓦づくりの凌雲閣(通称を浅草十二階という)が建てられた。浅草六区には見世物小屋が立ち並び、吹き矢店、人形芝居、女軽業師、ジオラマ、花屋敷といった遊び場があった。大正から昭和初期にかけて川端康成(1899-1972)、川口松太郎(1899-1985)、永井荷風(1879-1959)、谷崎潤一郎(1886-1965)、今東光(1898-1977)、江戸川乱歩(1894-1965)、室生犀星(1889-1962)ら浅草界隈を愛した文士たちは多い。石川啄木(1886-1912)も浅草の魅力にひかれたその一人だった。

  浅草の凌雲閣にかけのぼり

     息がきれにし 飛び下りかねき

    啄木は凌雲閣の北側に広がる私娼窟を「塔下苑」と名付けて好んだ。明治41年、釧路を去り函館、東京と単身で戻る。本郷菊坂町82番地赤心館に泊まる。8月21日には次のように綴られている。

夜、金田一君と共に浅草に遊ぶ。蓋し同君嘗て凌雲閣に登り、閣下の伏魔殿の在る所を知りしを以てなり。凌雲閣の北、細路紛糾、広大なる迷宮あり。此処に住むものは皆女なり。若き女なり。家々御神燈を掲げ、行人を見て、頬に挑む。或は簾の中より鼠泣するあり、声をかくるあり、最も甚だしきに至っては、路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、「チョイト」「様子の好い方」「チョイト、チョイト、学生さん」「寄ってらっしゃいな」塔下苑と名づく。蓋しくは、これ地上の仙境なり

   マサは貧乏な年増女のように肌が荒れた18歳の娼婦。ハナは17歳、釧路の芸妓の小奴に似ていた。ハナと過ごした夜はうっとりとしていい気持ちになる。しかしこれらの遊興費は北海道にいる妻子に送るため会社から前借までした大切な金だ。啄木はダメンズ亭主だった。

   啄木が塔下苑とよんだ浅草千束(ちつか)町は、もともと人家の疎らな土地だったが、吉原へ抜ける近道として、明治30年代半ばから40年代にかけて繁栄し、吉原遊郭に匹敵するほどの賑わいであった。

2007年9月20日 (木)

一柳満喜子と清友園幼稚園

   旧播磨国小野藩藩主・一柳末徳(1850-1922)の三女・一柳満喜子(1884-1969)は東京で生まれた。女子高等師範学校付属高等女学校、神戸女学院を経て、プリンマー女子大学を卒業する。大正8年6月3日、建築家で近江兄弟社を設立したウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)と結婚した。滋賀県近江八幡市池田町に住み、大正9年、自宅内にプレイ・グラウンドを設け、大正11年に清友園幼稚園(現在・近江兄弟学園)を創立した。

   夫のヴォーリズは建築事務所を創設し、関西学院、神戸女学院など多数の建築物を手がけ、またメンソレータムの塗り薬で知られる販売事業も行なった。ちなみに容器のデザインは今竹七郎(1905-2000)で、リトルナースのモデルは女優のシャーリー・テンプルであるといわれる。

    つまり、ヴォーリズ夫妻はキリスト教の信仰にもとずきながら、幼児教育と建築業と医薬の販売という関連性のあるような無いような三事業を並行して成功させた。

2007年9月19日 (水)

寺田寅彦とバイオリン

   寺田寅彦(1878-1936)は第五高在学中の明治30年に阪井夏子(15歳)と結婚している。しかし当時の熊本はバンカラの気風であったので、新妻を熊本へ呼び寄せることはできず、高知と熊本と別れて暮らすことになる。明治32年9月、寅彦は東京帝国大学物理学科に入学し、夏子と所帯をもつことができた。ところが夏子は明治35年、20歳で亡くなる。明治38年には浜口寛子と再婚するが、やはり結婚生活10年余りで妻に先立たれている。

   寅彦は結婚生活には余り恵まれていたとはいえないが、先生にはたいへんめぐまれていたようだ。第五高時代に、夏目漱石に英語、田丸卓郎(1872-1922)に数学と物理学を学んだ。わずか6歳年上の田丸卓郎からは初めてバイオリンをみせてもらった。寅彦は多趣味で、俳句は漱石から手ほどきをうけ、尺八をはじめ、西洋音楽にも興味をしめした。大正11年から弘田龍太郎(1892-1952)からバイオリンを本格的に習いだした。長男の東一は次のように回想している。

   「上達の度合いはどうかというと、年をとってから始めたのにしては割合に上手になったのでははないかと思う。とにかくクロイツェル・ソナタでも何とか弾けるようになったのである。後年は藤岡由夫先生のチェロ、坪井忠二先生のビアノ、父のバイオリンで、トリオを試みたようであるが、はじめのうちは、ごくやさしいトリオの譜、主としてシューマンやメンデルスゾーンの小曲を編曲したものを仕入れてきて、子供たちと合奏して楽しんだ」とある。

   寅彦はバイオリンのほかにピアノ、チェロ、オルガン、ホルン、アコーディオンなど弾いたという。

シーボルトと義経伝説

    シーボルト(1796-1866)は日本の種子や植物を採集してヨーロッパに持ち帰ったことでよく知られている。1823年の来日から1829年に日本を離れるまでの6年間に、植物485種類、1200個体がジャワ号で長崎からヨーロッパに運ばれた。シーボルトが日本で見聞、調査したことは多岐にわたる。長崎に鳴滝塾を開設し、高野長英(1804-1850)、二宮敬作(1804-1862)、伊東玄朴(1801-1871)、戸塚静海(1799-1876)など若い蘭学者が育った。シーボルト来日以前から長崎には吉雄耕牛(1724-1800)、本木良永(1735-1794)、志筑忠雄(1760-1806)たちがオランダ語の通詞として蘭学、西洋の科学を学んでいた。シーボルトの来日時には、吉雄耕牛の三男の吉雄権之助(1785-1831)、吉雄忠次郎たちが通詞であった。

    シーボルトは帰国後に書いた「日本」(1832年)という書物で、源義経がジンギスカンになったという説が日本にはあると紹介している。これは通詞であった吉雄忠次郎が義経・ジンギスカン説の熱烈な信奉者であったからだといわれている。

    ところで、ヨーロッパではシーボルト以前に、ドーソンの「蒙古史」に「義経・ジンギスカン説」があるという記事をウェブでみるが、平凡社の東洋文庫「モンゴル帝国史」をさがしてみたが見つからなかった。ドーソン(1780-1855)はイスタンブールの生まれのスウェーデンの外交官で、パリに滞在後、オランダのハーグに1814年に駐在、ベルリンに1834年に駐在している。シーボルトはドイツ人でバイエルン州のヴェルツブルク大学を卒業後、1822年にハーグへ赴き、1823年にジャワ島から長崎出島駐在の医師として来日する。シーボルトとドーソンの直接の接点は見当たらないが、19世紀初頭のヨーロッパでは中近東からアジア、日本に至るまで東洋研究のブームであったことがうかがわれる。そのなかで西洋人にとっても義経・ジンギスカン伝説は興味をひく話であったのであろう。

2007年9月17日 (月)

ありふれた姓と首相の座

   昭和33年の若原一郎(1931-1990)のヒット曲に「おーい中村君」( 作詞・矢野亮、作曲・中野忠晴)がある。

 おーい 中村君

 ちょいと まちたまえ

 いかに新婚 ほやほやだとて

 伝書鳩でも あるまいものを

 昔なじみの 二人じゃないか

 たまにゃつきあえ  いいじゃないか

 中村君

   この歌が「中村」という姓でなくて、「西園寺」だとか「近衛」とかいう姓では「おーい」というわけにはいかない。ありふれた姓でなければ成立しない。では、日本人の姓でどれが一番多いのだろうか?。ウィキペディアによると、第1位が佐藤(約192万8000人)。以下、鈴木、高橋、田中、渡辺、伊藤、山本、中村、小林、加藤、吉田、山田、佐々木、山口、松本、井上、斉藤、木村、林、清水、山崎、池田、阿部、森、橋本、山下、石川、中島、前田、藤田。調査によって順位が多少異なるかもしれないが、ともかく中村という姓は第8位でウィキペディア公認のありふれた姓であった。ちなみに、この歌を佐藤や鈴木、高橋で替え歌で歌ってみたがどうもうまくゆかない。作詞家の矢野亮もいろいろ試してみたが、中村が一番と判断したのだろうか。矢野亮のほかヒット曲には「港に赤い灯がともる」(岡晴夫)、「星影の小径」(小畑実)、「お花ちゃん」「夕焼けとんび」(三橋美智也)などがある。

    日本人の多い名字のランキングをみると、歴代首相の名前が浮かんできた。佐藤栄作、鈴木貫太郎、鈴木善幸、高橋是清、田中義一、田中角栄、伊藤博文、山本権兵衛、加藤友三郎、加藤高明、吉田茂、斉藤実、林銑十郎、池田隼人、阿部信行、森喜朗、橋本龍太郎と30位中に17人がいる。この中には伊藤博文、吉田茂、佐藤栄作、田中角栄という記憶に残る首相が多い。とくに佐藤栄作は連続在任数は2798日(昭和39年~昭和47年)と最長記録保持者である。

   ところで安倍晋三が所信表明のわずか2日後の9月12日に突然の辞意表明をした。福田康夫、麻生太郎が自民党総裁選に立候補している。安倍晋三が総理の座を投げ出したことについて、世間では無責任だとのご批判もあろうが、田原総一朗がいうように「自分の運の悪さに愛想が尽きた」のが真相だと思う。

    最長記録保持者の佐藤栄作の退陣ときを思えばまだ安倍はましなほうだ。佐藤は「テレビは真実を伝えてくれるので、私は直接テレビから国民の皆さんにご挨拶します。テレビはどこだ。偏向的新聞は大嫌いだ。記者の方は帰って下さい」といった。記者はいっせいに退席して、空席で引退あいさつをしたが、まことに珍妙な光景だった。昭和47年6月のことで、安倍は高校生だったと思うが、彼の記憶にあるはず。新聞、マスコミの論調とは別に存在する、巷の者には心情的に安倍への同情もあるので、まずは十分に静養することが必要だろう。

租界と予備租界

    中国には古くは唐・宋時代の蕃坊、明時代におけるポルトガル人のマカオ、清朝の広東夷館のような外国人居留地があったが、1842年のイギリスとの南京条約によって上海が開港場となると、諸外国が管轄する租界という地域が中国全土に増えた。第一次世界大戦までに、租界設定国はイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、ロシア、日本、イタリアう、ベルギーの8ヵ国、各地の租界総数は28という盛況に達した。主な所在地は、上海、天津、漢口、広東、アモイ、蕪湖、蘇州、杭州、沙市、福州、重慶、鎮江、九江であった。とくに天津などは、イギリス、フランス、ドイツ、日本、ロシア、ベルギー、イタリア、オーストリアと8ヵ国すべてが集中していたので、予備租界といわれる、どの国にも属さない緩衝地域も存在した。中国人たちはこの緩衝地域を「三不管」(サンプーカン)と呼んだ。

    山田清三郎の小説「明けない夜はない」では、「三不管には、三国の軍警は、はいってはこなかった。いわばそこは、権力の真空地帯だったのだ。この権力の真空地帯に、いつとはなしに細民窟が、発達していった。世の落伍者、おたずね者、何かの事情から世をせばめなければならない者、そうした人たちによって、細民窟ができ、それはしだいに戸数と人口を、増やしていった。」とある。中国語の「三不管」のもとの意味は予備租界といったものであったが、やがて「無法地帯」といった意味で使われるようになる。屋台市や安宿、芝居小屋などのほかに妓院(風俗店)が並び、アヘン窟があり、ヤクザの拠点となる。戦後は、香港の九龍城砦も「三不管」と呼ばれている。

新京ペスト流行と731部隊

     昭和15年9月29日、人口50万を誇る満州国の首都・新京(現在の長春市)で一人のペスト患者が死亡した。関東軍防疫給水部の石井四郎軍医中佐(1892-1959)は直ちに発生地区の「三不管」の家屋を焼却し、ペスト騒動は1ヵ月半で終息した。石井部隊の実に迅速なる防疫活動であった。一説では感染者は57人で26人の死者であったという。

    この新京ペスト騒動は、あまり日本では知られることはなかったが、中国では有名な作家・古丁(1914-1964)が昭和20年に「新生」(芸文書房)で取り上げ、日本でも戦後、左翼作家・山田清三郎(1896-1987)の「明けない夜はない、東方の虹第一部」(理論社、昭和30年)で描かれていた。そのころすでに噂で新京ペストが自然発生的なものではなく、第七三一部隊によるものであるということは知られており、山田清三郎の小説の「あとがき」にもふれられている。

    しかし近年、常石敬一の「戦場の疫学」(海鳴社)によると、731部隊がノミを使用してペスト菌などの細菌兵器を開発していたとしている。英文の報告書「人体解剖記録報告」の「Q報告」には、昭和15年6月から秋にかけて中国東北地区の農安と新京で行なったペスト菌による細菌戦研究の状況が記録されている。

    関東軍の石井部隊は昭和11年に創設され、ノモンハン事件(昭和14年)にさいして、ハルハ河をコレラ菌で汚染したり(石井部隊は防疫活動をしたとする説もある)、細菌兵器の開発のために人間をモルモットとして病理解剖していたことは、森村誠一「悪魔の飽食」以来大きな話題になったが、その真偽のほどはおいておくとして、新京ペスト流行においては、関東軍石井部隊が大きく関与しているとみなして間違いないであろう。

社会科の常識クイズ

   小学校で覚えた知識は、年をとっても記憶に残っている。ただし、社会科の知識は時代の変化とともに修正されなければならない。理屈でわかっていても、なかなか新しい知識に修正することは努力がいる。例えば、「日本一長いトンネルは?」と聞かれると、青函トンネル(全長53,85km)と知識でわかっていても、頭の中で丹那トンネル(全長7,807m)という声がしているようだ。

   ケペルより年配の人に「仏教伝来は何年?」と聞くと、「イチニ・イチニ仏教伝来、1212年だ」と答える。いまでは皇紀1212年という知識はあまり役に立たないだろう。日本書紀による皇紀1212年は西暦552年に当たるが、現在の歴史の教科書では、宣化3年、西暦538年を仏教伝来の年としているそうだ。地理などで世界の国々の首都なども、小学生のときに覚え知識と変わっていることがしばしばある。

   しかし、地理でも地形の知識などは何年経ても変わることはない。世界一高い山は、エベレスト(8,848m)、世界一大きい湖はカスピ海(37万4000平方キロメートル)、世界一長い川はナイル川(6650kmないし6695km)である。また「最初に○○した人は?」というクイズも不変の知識である。最初に宇宙飛行に成功した人は、ソ連のユーリイ・ガガーリン(1938-1968)で1961年4月12日に人類として初めて宇宙飛行をなしとげたという歴史的事実は不変である。常識的な知識をもう一度整理して学習することも、また楽しからず哉!

2007年9月16日 (日)

漱石の義侠心

   明治29年4月13日、夏目金之助(漱石)は菅虎雄の斡旋で第五高等学校講師に着任した。校長は中川元、教頭は桜井房記、佐久間信恭、篠本二郎、杉山岩三郎、賀来能次郎、山川信次郎、内田周平、菅虎雄、羽生慶三郎、田丸卓郎、近重眞澄、中川久和、武藤虎太、長谷川貞一郎、中沼清蔵、大浦肇、黒本植、加藤晴比古、南部常次郎、黒木千尋などがいた。

    漱石は着任して間もなく竜南会の端艇部長になった。当時、端艇部には吉田久太郎という腕力自慢の猛者がいた。久太郎は明治6年、佐賀県東松浦郡左志村唐房の吉田定七の三男として生まれる。端艇部を牛耳っていた久太郎が一つの事件を引起した。

    その頃、日清戦争で分捕りたる大型のボート二艇を記念として海軍省から五高へ下げ渡されることになった。この二艇の船を引取るために、竜南会より佐世保に派遣して、久太郎が宰領として回航した。往路は無事であったが、帰路にこの記念船の修理のため某所に滞在中、徒然に乗じて一同盛んに飲食をなし、正当の支払の他に、百円たらず使い込んでしまった。弁済の道もなく、教師一同に救ってほしいという願いであった。吉田久太郎は日頃から職員間に人望ないため誰もとりあわない。そこで、赴任早々であるうえに、薄給であった漱石が、寝耳に水の事件であるにもかかわらず、全額を償い同時に部長を辞してしまった。漱石の責任感、義侠心、金銭に対する淡白な心情などが現れたる逸話であろう。

小天温泉と夏目漱石

   旧制第五高等学校の英語教師であった夏目漱石は、山川信次郎とともに明治30年12月27、28日頃から翌年の正月にかけて、熊本から金峰山を越えて有明海沿いの小天温泉までの小旅行をしている。郷士である前田案山子(1828-1938)による道楽半分の温泉宿(前田家別邸)に泊まった。小説「草枕」で小天温泉は「那古井の宿」、前田家は「志保田家」となっている。

    前田案山子は本名を覚之助といって、文政11年4月、小天八久保に前田金吾の三男として生まれた。細川藩の槍指南を勤めていた武芸の達人だったが、維新後、農民とともに歩む決意で「案山子(かがし)」と改名した。第1回衆議院議員として自由民権運動に奔走した。「草枕」の「志保田の髯の隠居」のモデルである。

    那古井の「那美さん」のモデルは、前田案山子の二女の前田卓(つな、1868-1938)である。卓の最初の結婚は明治20年10月に土地の豪農の息子である植田耕太郎と結婚するが翌年には離婚している。漱石が行ったときは年は31歳だった。漱石は才気煥発の卓に興味を感じたのだろう。小天温泉での旅行中の色々な出来事は、ほとんどすべて、さまざまに変容して「草枕」に採用されている。

    前田卓は、父の影響から自由に思想を語り、上京してからは中国革命を支える妹の槌(つち)・宮崎滔天夫妻を助けて活躍し、中国人留学生から慕われていた。明治37年に歩兵中佐・加藤錬太郎と二度目の再婚をするが、翌年に離婚している。昭和13年、71歳で亡くなっている。

伊香保温泉と夏目漱石

   青年時代の夏目漱石(1867-1916)は、夏休み中の旅行を通年の行事としていたようである。例えば、明治20年には中村是公らと富士登山。明治22年は兄の和三郎、直矩と興津に行く。8月、学友と房総。明治23年は箱根。明治24年は中村是公(1867-1927)、山川信次郎と富士登山。明治25年は正岡子規と京都から堺。漱石の青春の旅であった。

   ところが、明治26年の夏は帝大の寄宿舎に籠もって過ごし、旅行ができなかった。明治27年の夏は青年時代の最後旅をしようという決意があった。まず早々の7月25日、伊香保温泉に向かう。伊香保行きは通説では結核の療養のためということだが、漱石が群馬を選んだ理由は他にあった。友人の小屋保治(1869-1916)が群馬県前橋にいるからだ。

   漱石は伊香保で有名な木暮武太夫旅館に泊まろうとしたが、満員で泊まれなかった。何という旅館に滞在したかは不明。ここで、前橋に帰省中の小屋保治と会う。二人が何を話したかは後で説明する。伊香保に何日いたかもわからない。8月には、そこから松島に向かっている。(一説によると、松島の近くの菖蒲田に滞在し、勉強したともいわれる) その後、湘南へ海水浴に行く。9月初めまでは寄宿舎にいたが、そこを出て菅虎雄(1864-1943)の家に厄介になる。その頃、極度の人間嫌いになったらしく(おそらく失恋のせいだろう)、12月末から翌年1月へかけて10日間、鎌倉円覚寺搭頭帰源院に入り、釈宗演のもとに参禅し、宗活を知った。明治28年3月上旬、友人の小屋保治と大塚楠緒子の披露宴(星岡茶寮)に漱石は直矩の袴を借りて出席している。そして、4月には、松山へ嘱託講師として赴任する。楠緒子への失恋が漱石を松山に流浪させたのではないだろうか。明治28年12月末に中根鏡子と見合いし、翌年6月に結婚している。

   ところで、大塚楠緒子(1875-1910)という女性は漱石の恋人といわれている。楠緒子は明治8年、控訴院長・大塚正男の長女として生まれた。東京女子師範付属女学院(お茶の水女子大学の前身)を首席で卒業した。父正男は帝国大学の寄宿舎舎監の清水彦五郎に頼んで、娘にふさわしい婿養子を相談していた。そして紹介されたのが、夏目金之助と小屋保治であった。楠緒子が好意を抱いたのは夏目の方だった。しかし、当時の社会では結婚は家が決めるものであり、個人の意思は尊重されなかった。おそらく伊香保温泉で二人が相談したことは、楠緒子のことだったであろう。

   小屋保治は、婿養子となり、大塚保治として、明治29年から約4年間、ヨーロッパに留学する。帰国後、東大教授となり、最初の美学講座を担当。漱石の「吾が輩は猫である」では水島寒月のモデルとなっている。楠緒子は才色兼備の夫人として知られたが、明治43年、流感に肋膜炎を併発して、35歳の若さで亡くなっている。

    明治28年12月末、漱石は子規に宛てた手紙の中に次のような俳句がある。

   淋しいな 妻ありてこそ 冬籠

2007年9月15日 (土)

赤シャツと野だいこ

   「あいさつをしたうちに教頭のなにがしというのがいた。これは文学士だそうだ。文学士といえば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のようなやさしい声を出す人だった。もっと驚いたのはこの暑いのにフランネルのシャツを着ている。いくらか薄い地には相違なくっても暑いにはきまっている。文学士だけにご苦労千万な服装をしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人をばかにしている。あとから聞いたらこの男は年がら年中赤シャツを着るんだそうだ。妙な病気があったものだ」

   勧善懲悪小説 「坊っちゃん」に登場する教頭赤シャツは、昭和に至っても学園ドラマでは校長を追放する悪玉として欠かせない存在だ。「青春とはなんだ」の山茶花究、「これが青春だ」の藤木悠、星十郎、「進め青春」の平田昭彦、そして極めつけは「飛び出せ青春」「われら青春」の穂積隆信、柳生博のコンビであろう。

    このような悪玉教頭のモデルとされた横地石太郎先生には誠にお気の毒としかいいようがない。横地先生は金沢藩士出身で、東京帝大理科を卒業後、明治28年頃は松山中学の教頭であった。明治32年にはしし座流星群を観測、明治33年には周桑郡吉岡村の古墳の発掘調査をしている。明治40年には山口高等商業学校の校長をつとめた。赤シャツは「人類学雑誌」にも論文を多数寄稿する考古学者だった。ところで、赤シャツのモデルは近藤英雄「坊ちゃん秘話」(昭和60年)によれば、西川忠太郎、沢幸次郎、中村宗太郎、横地石太郎など複数の人物が当てられた。通説では赤シャツ=西川忠太郎であったが、近年に「赤シャツと考古学」展(愛媛県立歴史文化博物館)が開催されて以来、今日では赤シャツ=横地石太郎に比定されているようである。

   「野だいこ」とは「野太鼓」「野幇間」と書く。たいこもちをする男という意味であろう。モデルは高瀬半哉画伯。「昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、だいぶご精励で。とのべつに弁じたのはあいきょうのあるお爺さんだ。画学の教師は全く芸人風だ。ぺらぺらした透綾の羽織を着て、扇子をばちつかせて、お国はどちらでげす、え?東京?そりゃうれしい、お仲間ができて…私もこれで江戸っ子ですと言った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生まれたくないもんだと心中に考えた。」高瀬半哉先生も松山中学から東予分校に転任した名物教師だった。

2007年9月14日 (金)

妻がいた坊ちゃんのモデル

   「親譲りのむてっぽうで子供の時から損ばかりしている」で始まる夏目漱石の小説「坊ちゃん」は永遠の青春小説の白眉といえる。旗本の裔に生まれたが既に両親はなく、その遺産で物理学校を卒業した。幼時より清(きよ)という下女に可愛がられて育った。短気ではあるが正義心の強い江戸っ子である。清に涙ながらに見送られて生まれてはじめて箱根を越えて松山へと出立した。この「坊っちゃん」のモデルは弘中又一(1873-1938)という先生だという。

    弘中又一は山口県都濃郡湯野村第287番地で、父・弘中伊亮、母・タメの長男として生まれる。明治28年5月27日、愛媛県尋常中学校へ単身赴任。。漱石は同年4月1日、転任したので二人はほぼ同じ頃中学校に在職していた。又一は、明治26年に戸澤タカと結婚し、長男・進も誕生していた。明治29年4月1日、愛媛県尋常中学校東予分校(のちの西条中学)に転任、在職8ヵ月で明治28年11月に退職している。その後、徳島第二分校(のちの富岡中学)を経て埼玉県の熊谷中学に転じ、退職後も熊谷に住んだ。昭和7年3月31日、同志社中学を退職。昭和13年8月6日永眠。松山ではシッポクうどん四杯を平らげ数え歌にうたわれた。

  一つとや ひとつ弘中シッポックさん

  二つとや ふたつふくれたブタの腹

  三つとや みっつみにくい太田さん

  四つとや よっつ横地のゴートさん

  五つとや いつつ色男中村さん

  六つとや むっつ無理いう伊藤さん

  七つとや ななつ夏目の鬼瓦

  八つとや やっつやかしの本吾さん

  九つとや ここのつこっとり一寸坊

  十つとや じゅうでとりこむ寒川さん

   数学の弘中又一(坊ちゃん)、英語の西川忠太郎、漢学の太田厚、教頭の横地石太郎(赤シャツ)、歴史の中村宗太郎(鈴ちゃん)、体操の伊藤朔太郎、英語の夏目金之助、植物の安芸本吾、物理の中堀貞五郎、会計係の寒川朝陽。このほか数学の渡辺正和(山嵐)、校長の住田昇(校長の狸)、高瀬半哉(野だいこ)、梅木忠朴(うらなり)など明治28年の松山中学の教員たちが100年後の平成の世にも、漱石の「坊ちゃん」という小説によって、永遠の生命が与えられている。(参考:宮崎俊彦「坊ちゃんは独身ではなかった」文芸春秋)

愚陀仏庵と漱石の友人たち

   明治28年4月9日、愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語教師として夏目金之助は松山に赴任した。まず三番町の城戸屋旅館にて旅装をといたが、のち城山の麓の下宿愛松亭に落ち着いた。しかし、同年6月下旬頃、中堀貞五郎(正岡子規の妹律と結婚)の世話で、同市二番町八番戸の上野義方の離れ二階建てに転居した。二階が六畳と三畳、階下が六畳と四畳半で、窓から松山城の天守閣を近くに見る。漱石は子規の影響で愚陀または愚陀仏と号し、居宅を愚陀仏庵と名付けた。子規とは8月下旬から10月19日に上京するまで愚陀仏庵に同居した。漱石は毎晩のように子規につられて句作をするようになり、俳句結社「松風会」に参加し、柳原極堂、近藤我観らと知り合う。

    子規が去ったあと孤独になった漱石は、冬にかけて勉強に励む。午前二時まで勉強していた。松山中学を辞し、熊本五高へ転任となる明治29年4月11日頃まで、漱石は愚陀仏庵に居住していた。漱石の松山時代に子規が紹介した松山一のインテリ村上霽月(1869-1946)と出会う。霽月は明治2年生まれで漱石、子規より二歳下だった。明治29年3月1日には漱石は虚子とともに今出にある霽月の家を訪ねている。漱石が松山を去る4月某日、霽月邸を再び訪ねたがあいにく霽月は不在だった。

    逢はで去る 花に涙を 濺(そそげ)かし

                                              愚陀仏

メロドラマのヒロイン、ジェーン・ワイマン

   ロバート・ゼメキス監督の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のワン・シーン。若き日のドク(クリストファー・ロイド)がタイムスリップしたマーティー(マイケル・J・フォックス)に「ロナルド・レーガンが大統領なら、ファースト・レディはジェーン・ワイマンかい?」というセリフがあった。ジェーン・ワイマン(1914-2007)は1940年から1948年までロナルド・レーガンと結婚していた。今年9月10日、カリフォルニア州パームスプリングスの自宅で老衰のため死去した。享年93歳。

    サラー・ジェーン・フォークスは、1914年1月5日、 ミズーリ州セントジョセフに生まれた。誕生名はサラ・ジェーン・メイフィールド。父は町長。8歳の時、両親が離婚したので、彼女の名前はサラ・ジェーン・フォークスとなった。女優であった母の希望で幼い頃からダンスを習い、ロサンゼルスへ移住。10代でハリウッドで仕事を探したが失敗。帰郷してミズーリ大学卒業後、ネイリストや電話交換手をしていた。1932年頃、ラジオのコーラスガールとなり、ジェーン・デュエルという芸名で歌手となったが、やがてハリウッドへ行く。1936年、ワーナーブラザーズと契約し、「踊る三十七年」でジェーン・ワイマンに改名したが、その後もなかなかチャンスは掴めずブロンド娘役など脇役をしていた。「カナリヤ姫」「ハリウッド玉手箱」などで次第に脇役から主役級になっていく。1945年に「失われた週末」のアル中のレイ・ミランドを支える恋人役で注目されるようになった。クラレンス・ブラウン監督の「子鹿物語」(1946年)で厳格な南部の開拓農民の妻に扮してアカデミー主演女優賞にノミネートされた。「ジョニー・ベリンダ」(1948年)で聾唖のレイプ被害者を演じ、アカデミー最優秀主演女優賞を獲得した。「青いヴェール」(1951年)で二度目のオスカーをとりそこなったものの、1950年代半ばになると、ダグラス・サーク(1897-1987)監督のメロドラマで演技派女優としての貫禄が加わってきた。「心のともしび」(1954年)「天はすべて許し給う」(1955年)でロック・ハドソンと共演。ジェーン・ワイマン主演の作品はやがてお涙頂戴ものの陳腐なメロドラマとしてアメリカでは評価が低かったが、70年代になってヨーロッパでダグラス・サークの評価が高まった。母を演じ、妻を演じ、そして年下の青年との恋に苦悩するメロドラマ。50年代ハリウッド映画界には、ジェーン・ワイマン、ラナ・ターナー、スーザン・ヘイワード、デボラ・カー、ドロシー・マクガイアなどの名女優が健在であった。日本でいえば、三益愛子、月丘夢路、高峰三枝子といった感じであろうか。私生活では、マイロン・ファーマン、ロナルド・レーガン、フレデリック・カーガーの3人の男性と4度の結婚をしている。このほか「西部戦線異状なし」の俳優リュー・エアーズとのロマンスの噂もあった。レーガンとの娘モーリンはTV女優として活躍している。

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   ジェーン・ワイマンの人気が全盛であった頃の「映画の友」の記事を紹介する。「ドリス・デイには虫がおさまらぬ事がただ一つ、それはジェーン・ワイマンがビング・クロスビーとの共演以来(花婿御入来、あなただけの為に)、レコードにデイ張りの唄い方をすることです。これにはさすがのドリスもすっかりツムジを曲げ、今のところ、イッカナ仲のとりなしようもありません。そのジェーン・ワイマンは先日、ビング映画を監督の為欧州へ旅立ウィリアム・パールバークの為に大パーティを催して、ハリウッド各方面の名士が総出席、朝まで盛大に踊りぬきました。スタアではグリア・ガースン、ゲーリー・クーパー、ヴァン・へフリン、ヴァン・ジョンソンの奥方イーヴァーは一人で現れフランス語の唄を歌ってバーバラ・スタンウィックと一緒に来たジャン・ピエール・オーモンを顔負けさせ、ベティ・ハットン、チャールス・オカーラン(振付師)夫妻は得意のダンスをご披露し、タイロン・パワーはバンドに交じってドラムをたたく脱線ぶりの賑やかさでした。」(映画の友、1953.1、91p)

日本のビール王・馬越恭平

   明治32年の夏、次のような広告が新聞に現れた。

「恵比寿ビール、ビアホール開店。今般欧米の風に倣い、7月4日改正条約実施の吉辰を卜し、京橋区南金六町五番地(橋際)に於いて、ビール店(ビアホール)を開店し、常に新鮮なる樽ビールを氷室に貯蔵いたし置、最も高尚優美に一杯売仕候間、大方の諸彦賑々敷御光来恵比寿ビールの真味を御賞玩あらんことを願ふ。売価半リーテル金拾銭、四半リーテル金五銭 日本麦酒株式会社」

   明治32年8月4日の開店早々から大入り満員の盛況であった。このビアホールというアイデアを出したのは日本麦酒の社長・馬越恭平である。

   馬越恭平(1844-1933)は弘化元年、岡山県後月郡木之子村で生まれた。安政3年、大坂に出て、鴻池家の丁稚となる。明治6年上京して、井上馨の先取会社に入社し、三井物産の中心的な存在となる。明治維新以降、ビール会社は東京に日本麦酒(後のヱビスビール)、大阪に大阪麦酒(後のアサヒビール)、北海道に札幌麦酒(後のサッポロビール)が設立されていた。日本麦酒の社長であった馬越は恵比寿麦酒を話題にするため、ビアホールを思いついた。明治39年には、三社が合併して大日本麦酒株式会社となり、馬越は社長に就任した。馬越時代の大日本麦酒は発展を遂げ、市場シェアは79%に達し、「日本のビール王」といわれた。

2007年9月13日 (木)

武者小路実篤の初恋

   二月のある晩のことだった。自分は兄と同じ室で机に向かって学校の本を読んでいた。九時ごろだった。不意に半鐘がなった。「火事だ」と兄とふたりで顔を見合わせて耳をすませているとスリ鐘だった。「火事は近い」「見にゆきましょう」ふたりは立って格子戸を開けて出た。そこにはお貞さんとお静さんが立っていて火事を見ていた。火の子が南のほうに盛んに見えた。「見にゆこう」と兄は自分に言って、「見にゆきませんか」とふたりに言った。

   お静さんもお貞さんも「ゆきましょう」と言った。自分はよろこんだ。そうして四人で火事を見に行った。自分は火事を見るよりもお貞さんのわきにいるのがうれしかった。自分たちは焼けている家の見える、ある軒の下に立って火事を見ていた。人々は走せちがった。火消しは興奮と権威を感じて働いていた。自分たちのいる前を長いポンプの管が走っていて、そのすきまから水がもれていた。

   自分たちは興奮しながらそれを見ていた。お貞さんやお静さんをふり向いて見る人もあった。自分は地上でいちばん美しい女といっしょにいることを自覚して誇りを感じた。火事はまもなく下火になった。兄が「帰ろうか」と言うので、もっといたかったけれども帰ることにした。半町ばかり来たところで自分はひとりの走けてゆく男に足をふまれた。「あ痛っ!」と言っているうちにその男は走けて行った。そうして自分の足の指からは血が流れていた。

    お静さんはそれを見つけた。お貞さんも「痛かなくって」と言った。お静さんは自分の半けちを出してそれを手早くさいた。そうして自分の傷した足の指を包帯しようとした。自分は「お貞さんがお静さんのようにしてくれたら」と思いながらお静さんにすまして包帯してもらっていた。兄は先にひとりで帰った。兄のひとりで帰る姿を見て、自分は自分の身にひきくらべてさびしいだろうと思って同情した。自分は包帯してもらってからそう痛くはなかったのだが、そこから自家までの往来が人通りのまるでない、暗い往来だったので、足をひきずりながらお静さんとお貞さんの肩に手をかけて歩いて帰った。自分は自分の負傷したことを幸福に思った。(武者小路実篤「初恋」)

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   「初恋」は大正3年2月、29歳の作品。「初恋」のお貞、「お目出たき人」の月子、「ある日の夢」のたか子、とは志茂テイ(貞)である。明治33年4月、実篤15歳、テイ12歳。実篤は学習院中等科4年で、テイは下田歌子が創設した実践女学校に通っていた。明治36年、テイが学業をおえて帰郷するとともに、実篤の初恋も終わった。「初恋」という作品は、もちろん創作ではあるが、実篤15歳から18歳までの回想が素直に綴られている。学習院時代、不得意な学科は作文、体操、唱歌、そして図画だった。高等科になっても勉強はしなかった。明治39年7月いよいよ、実篤も学習院高等科を卒業することとなった。学習院高等科の卒業式は、成績の低い順から並んで式場に入っていく。実篤は最低から三番目の成績。だが、その先頭を歩くべき人が欠席してしまった。それがわかると次の二番目の友人は先頭は厭だといって、抜け出しそうになったので、実篤はいそいで引き止めた。やはり実篤も先頭はさけたかったのだ。それで先を行く友人を励まして、元気良く歩いたという。

   お貞さんに失恋したころから、実篤は聖書とトルストイを読み出した。一生の人生観が形づくられた頃である。

2007年9月12日 (水)

孝明天皇、急死の謎

    幕末維新史を専門とする国立大学系の学者の方には、孝明天皇毒殺説はとるにたらぬ俗説であるとされる人が多い。佐々木克は「岩倉具視」(吉川弘文館)において、「古くからの俗説に、孝明天皇の死因は毒殺で、それを計画したのが岩倉だという説がある。岩倉犯人説は、岩倉が王政復古を構想し、その実現のためには幕府との協力体制を維持しようとする孝明天皇が邪魔であったからという、あまりにも単純・短絡的な考えに基づいた理由付けによるものである。岩倉にとって孝明天皇は欠くことのできない存在であったことは、いま述べた通りである。そして死因が悪性の天然痘であったことは、病理学的に検討した結果明白になった。毒殺説は岩倉の構想を深く検討しない上に、当時の朝廷内外の政治状況を正確に把握しないでなされた、まったくの妄説である。」(本書99頁)

    そして、佐々木克は原口清の文献をあげている。「孝明天皇は毒殺されたのか」(日本近代史の虚像と実像1巻 大月書店 1990年、「孝明天皇と岩倉具視」(名城商学39巻別冊、名城大学商学会、1990年)

   佐々木克は、大久保利謙の弟子にあたる学者で、岩倉関係の史料を全て渉猟したうえでの見解であり、傾聴すべきであろう。ただ、岩倉が天皇毒殺という謀事を日記や書簡に得意げに書き残すことはしないであろう。孝明天皇の死を知った岩倉は、翌日の坂本静衛に宛てた手紙で「仰天恐愕…千世万代の遺憾」と嘆いていた。これほどまで落胆したのは、この手紙で「いささか方向を弁じ、少しく胸算を立て、追々投身尽力と存じ候処、悉皆画餅となり」として、岩倉を弁護しているが、犯人と思われないように知人に証拠として残る手紙を書くという工作は誰しもやるこではないだろうか。

   孝明天皇毒殺説は、俗説として一笑に付す事柄ではなく、かなり真面目な日本史通史にも必ず記述されている歴史的事件である。昭和40年代からのシリーズ物「日本の歴史」において孝明天皇の急死をどのように記述しているか列挙する。

中央公論社「日本の歴史、第19巻、開国と攘夷」(昭和41年)小西四郎(東京大学教授)著

    こうして見ると、毒殺説はどうも風説にすぎないように思われる。東京大学史料編纂所の吉田常吉氏は、この問題について論じている中で、「天皇も疱瘡にかかられる可能性がある」との見解を示し、「当時天皇の御周囲で、疱瘡をわずらっていた者が全然なかったとはいいきれない」と、例えば天皇の側近に奉仕した公卿の子女で疱瘡にかかった者があるとか、あるいは同じころ関白二条斉敬の二人の男の子が痘瘡で死亡したことなどをあげている。さらに孝明天皇毒殺事件については、それが「白か、黒か、読者諸君に正面きって切り込まれると、筆者は困る。推論に推論を重ねたうえでの筆者の論旨なのだから、そこは諸君の良識にまつ以外にない。ただ筆者の見解を述べるならば、毒殺事件そのものは、確乎たる史料がない限り、従来の定説を覆すわけにまいらぬ。云々」と。わたしもこれと同意見である。

文英堂「国民の歴史、第18巻、開国」(昭和45年)高橋磌一著

  慶応2年12月25日に、孝明天皇が36歳で急死したのも、謀略のにおいがする。痘瘡わわずらっていたとはいえ、だいぶ容態もよくなっていたのが急変し、「御九穴から御出血」という異常な死を迎えたのである。徹底した攘夷論者ではあったが、幕府打倒などは毛頭考えていなかった天皇は、討幕派にはやっかいな存在となっていたことはじゅうぶん考えられるのである。

「日本の歴史23 開国」芝原拓自(名古屋市立大学)昭和50年

    天皇のこのふしぎな死が、毒殺説を流布させる一根拠ともなった。その風評や憶測はたちまちひろがり、犯人をさしむけたのは岩倉具視だとさえ、まことしやかにささやかれた。その噂は、死去から一週間後には、長州の一豪商の日記にさえ登場し、通訳官サトウの記録のなからもでてくる。しかし、王政復古から戦前をつうじて不敬の毒殺説はタブーとなり、宮内庁編「孝明天皇紀」などは、もちろん病死として史料を配列している。けれども、かんじんの24日夜のことについては、なぜか典医たちの医学的な記録はなく、真相はいまだに不明である。戦後になってねづまさし(禰津正志)氏などは、この病状急変と死のようすこそ、古くから中国や日本でみられた砒素による毒死に特有であることなどを根拠にして、毒殺説にかたむいている。他方、吉田常吉氏などは毒殺説に確証なしとし、病死であったろうと推定している。ところが、昭和50年4月4日付の「サンケイ新聞」の記事によれば、近江八幡市の開業医伊良子光孝氏宅の蔵から孝明天皇の典医をつとめていた同氏祖先光順の日記形式のカルテ「拝診日記」が発見され、そのカルテの天皇死去当日の描写は暗に薬物中毒症状をにおわせるものである、と紹介されている。

    奈良本辰也(立命館大学教授)著「明治天皇即位の舞台裏、孝明天皇崩御と討幕工作」(歴史読本、昭和52年12月)

   日本医学史学会の佐伯理一郎氏などは、これらの日記を検討した結果、「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして天皇に一服盛らせたのである」(日本医事新報)と大胆な断定を下している。

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    新人物往来社など一般歴史雑誌の読物などは孝明天皇毒殺説を支持する記事が多い。国立系の学者は、とるにたらぬ俗説として斥けるであろう。しかし孝明天皇毒殺説をとると、聡明な明治天皇は毒殺犯をさがして必ずや復讐すると考えられるので、鹿島昇の明治天皇すりかえ説がセットになって浮上する。ただし、大室近祐の証言、あるいは存在そのものが実在性があるのか一読する限りでは確証できない。いまだ孝明天皇急死には事件性が認められ、幕末・明治の宮中には謎が多い。

2007年9月11日 (火)

中山忠能と明治天皇すりかえ説

   九条夙子(1833-1897)は弘化2年9月14日、13歳の時に、2歳年上の東宮統仁(おさひと)親王(のちの孝明天皇)の妃となる。弘化3年2月13日、孝明天皇即位する。嘉永3年に第一皇女順子内親王(1850-1852)、安政5年(1858年)に第二皇女富貴宮(1858-1859)を産んだが、いずれも幼児期に夭折する。

   祐宮(のちの明治天皇)は、中山忠能(1809-1888)の二女・中山慶子(1836-1907)が嘉永5年9月23日、産んだことになっている。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄うことができず、その大半を借金した。祐宮はそのまま京都の八瀬にある中山邸で5歳まで育てられた。孝明天皇のほかに男子が生まれなかったため万延元年7月10日、祐宮は九条夙子の実子とされ、同年9月28日、睦仁となづけられた。明治天皇すりかえ説では、中山慶子が産んだとされる祐宮は死産または夭折し、他家の幼児がすり替わっていただろうと推測している。中山忠能、中山慶子の口封じに一生涯の生活保障をしたことはいうまでもない。忠能は大勲位菊花大受賞を受賞し80歳まで生きている。

   中山慶子の弟・中山忠光(1845-1864)は14歳で孝明天皇の侍従となり、万延3年に睦仁親王の祇候となった。文久3年、吉村寅太郎らの天誅組を指揮して反乱を起こしたが、敗れて長州下関で暗殺された。

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