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2007年8月22日 (水)

亡羊の嘆

   むかし、中国に楊子という学者がいた。あるとき、隣家の羊が一匹逃げた。隣人は一家総出で、楊子の家の召使まで借り出して、羊探しに出かけるという騒ぎだった。

   それで、楊子が、「たった一匹の羊を追いかけるのに、なぜそんなに大勢要るのですか」ときいた。

    隣の人は、「逃げた方角には岐路(わかれみち)が多いから」と答えた。やがて、しばらくたつと、羊を探しに行った人たちがクタクタになって帰ってきた。そこで、楊子が「どうしました。羊は見つかりましたか」と聞いた。

   すると、隣の人は「岐路にまた岐路があって、とうとう羊がどこへ行ったかわからなくなったから、あきらめて帰って来た」という。(「列子」説符篇)

    多岐亡羊とは、「逃げた羊を追ううち、道が幾筋にも分かれていて、羊を見失ったというこの故事から、学問の道があまりに多方面に分かれていて真理を得難いことをいう。転じて、方針が多すぎてどれを選んでようか迷うこと」と広辞苑にある。

    「荘子」駢拇篇には次の話がある。男と女のふたりの働き者が、いっしょに羊の番をしていたが、ふたりとも羊を見失ってしまった。主人が怒って下ばたらきの男にたずねてみると、本をかかえて読書していたといい、下ばたらきの女にたずねてみると、双六をして遊んでいたという。ふたりのやっていたことは違っているものの、羊を見失ってしまったことでは同じである。要はほんとうの目標をしっかり把握していないのである。この戒めは学問ばかりではない。人間の生き方についても考えさせられる。ただし、荘子の故事における男女の行動の相違は、儒家の君子と小人との区別に対する批判の意味が含まれているようだ。

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