何が彼女をそうさせたか
昭和5年11月14日、浜口雄幸(1870-1931)首相が、東京駅で愛国社員・佐郷屋留雄に狙撃された。腹部を撃たれて、「男子の本懐だ」と言ったとされるが、手術で一命を取り留める。浜口内閣は海軍軍縮条約を結んだことから野党の政友会や軍部、右翼からの統帥権を侵すものだと攻撃されていた。狙撃犯も統帥権干犯への不満があったとされる。
浜口首相狙撃事件のあったこの年は、世界恐慌の影響で日本経済は深刻な打撃を受けていた時代であった。解禁による為替相場の急騰に伴う物価と株式の暴落、糸価・米価の大崩落は、農村不況を一段と深刻にした。政府の産業合理化政策が人員整理、賃金切り下げ、労働強化を招き、不況はさらに進んだ。その結果としての貧困、失業、労農の争議。そしてこれを抑圧するための政治的弾圧、階級的対立の意識はこれまでになく拡大し深化し、労働階級の革命化も大衆に浸透していった。このような一般情勢は、文学、演劇、映画界にも波及した。文学の世界では小林多喜二の「蟹工船」(昭和4年)などのプロレタリア文学、演劇の世界では築地小劇場のプロレタリア演劇が労働者、学生を集めていた。映画にも「斬人斬馬剣」(伊藤大輔監督、月形竜之介主演)、「下郎」(辻吉郎監督、河部五郎主演)、「一殺多生剣」(伊藤大輔監督、市川右太衛門主演)、「傘張剣法」(辻吉郎監督、沢田清主演)などの傑作が昭和4年に現れた。これらはプロレタリア的イデオロギーにつらぬかれているというので「イデオロギー映画」、または「傾向映画」とよばれる一群の映画のはしりとなった。しかし、「傾向映画」という言葉がジャーナリズムのうえに大きく登場したのは、「生ける人形」(昭和4年、内田吐夢監督)が大衆的成功をかちえたからであった。これは地方から出てきた野心家で出世主義に徹した一人の青年の、東京での浮き沈みを物語りながら、彼を生きた人形として操り躍らせる資本主義の巨大で複雑で悪意にみちた機構そのものに迫った作品である。続いて傾向映画の代表作といえ作品が昭和5年に現れた。「何が彼女をそうさせたか」(鈴木重吉監督、高津慶子主演)であった。藤森成吉の原作のこの映画は、孤児院に育った一少女が、冷酷な世間の荒波にもてあそばれ、しいたげられて、最後には放火犯人としてひかれていくまでを扱っているが、題名がすでにそれを明示しているように、犯罪者は「彼女」ではなくて、彼女をそうさせた社会の矛盾と残忍さそのものであることをするどく弾劾した。最後に牢獄の鉄格子から彼女の怒りの顔が大写しになる。当時まだ無声映画の時代で、舞台のソデから弁士が、このとき「ナニガ、カノジョヲ、ソウサセタカ!」というやいなや、満員の観衆が「資本家だ!」「そうだ!」と叫ぶという、すさまじい情景であったという。
参考までに、そのころ(昭和5年ころ)の物価は次のようである。
月給(初任給)は大学卒(会社員)60円、女(タイピスト)40円、電話交換手35円、女性事務員30円。
米1升25銭、醤油1升48銭、味噌100匁8銭、砂糖100匁23銭、卵100匁18銭。
コロッケ4 個10銭、刺身一人前15銭、塩鮭4切10銭、食パン1斤8銭、リンゴ4個10銭。
うな丼30銭、カツ丼15銭、なべやきうどん12銭、うどんかけ8銭、支那そば10銭、寿司20~30銭、ランチ35~50銭、とんかつ25銭、ビール(カフェーなどで)1本50銭。
床屋15銭、銭湯5銭、タバコ(バット)7銭、歯磨き10銭、ハガキ1銭5厘、背広(三つ揃い)オーダー25円~45円、ワイシャツ(オーダー)1円20銭、足袋25銭、さらし1反25銭、ゆかた1円。
ヨーヨー1個10銭、映画入場料(封切)50銭、雑誌50銭、単行本(全集物の1冊)1円、ミルク・紅茶5銭、コーヒー7銭、地下鉄10銭、市電7銭、円タク(青山~銀座)50銭。
結婚式費用、モーニングなど衣装、30人ぐらいで400円、お産(入院1週間)25円、ミシン120円、冷蔵庫20円、借家(10坪の庭つき)25円から30円、洋服ダンス15円、桐ダンス30円。
ちなみに、当時、年収1700円以下は所得税は課税されなかった。
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