毘沙門天の化身、上杉謙信
上杉謙信(1530-1578)は享禄3年1月21日、越後守護代長尾為景の末子として、春日山城(上越市中屋敷)に生まれた。母は栖吉城長尾氏の娘虎御前。寅年生まれのため、幼名虎千代、14歳のとき元服して平三景虎を名乗り、永禄4年には政虎、輝虎と名を改めた。大徳寺の徹岫宗九に帰依して宗心と称し、晩年には剃髪して不識庵謙信と号した。謙信には、兄と姉が何人いたか不詳。晴景、景康、景房と姉の仙桃院だけが、はっきりしている。天文17年12月30日、19歳の景虎は守護上杉定実の調停で、兄晴景に代わって守護代長尾氏を相続し、春日山城に入った。天文19年、守護代上杉定実が死去した。定実に嗣子がなかったので、越後守護代上杉家は断絶した。景虎は将軍足利義輝から白傘袋と毛氈の鞍覆の着用を許された。実質的に国主大名の待遇が与えられたのである。
景虎は毘沙門天に帰依し、毘を軍旗とした。毘沙門天は須弥山の北方を守護する武神である。謙信は自らを、毘沙門天の化身と信じ、越後の地で朝廷と幕府を守護したいと思っていたのである。
天文22年、信濃諸将の村上義清、高梨政頼、井上清政、島津規久、粟田寛明らが武田信玄に領土を奪われ、景虎に援助を求めてきた。景虎は8千の兵を率いて信濃川中島に出陣した。8月下旬に布施で、ついで9月1日には八幡で武田軍を撃破した。第1回川中島の合戦である。しかし上洛を間近にひかえていたので、深追いはしなかった。
上杉謙信に関しては、人物は道義を重んじ清廉であったとか、武田信玄に塩を送った逸話など古来から有名であるが、養子の上杉景勝(1555-1623)がつくった米沢藩が江戸時代に残り、山鹿素行の「武家事紀」などの影響など、江戸期の諸伝が多く含まれるので、注意を要する。(参考:花ヶ前盛明「上杉謙信」)
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