陸奥家の二人の深窓の令嬢
明治の外務大臣・陸奥宗光(1844-1897)の後妻は「ワシントン社交界の華」と讃えられた陸奥亮子(1856-1900)である。本名りやう。母・山岸むめの娘。父はむめが仕えていた旗本で金田淡路守とも播州竜野藩士ともいわれはっきりしない。ともかく、亮子は庶子として安政3年ごろ生まれ、明治のはじめ頃には、東京新橋柏屋で小兼という名で売り出していた。明治5年に宗光と亮子は知り合い、深い仲になる。このとき宗光には、すでに妻の吹田蓮子と広吉と潤吉という二人の男子がいた。蓮子は病弱で明治5年2月11日に急逝してしまう。この年、宗光と亮子は結婚する。明治6年7月30日、清子(さやこ)誕生する。以上述べたことが通説である。萩原延壽「陸奥宗光」(朝日新聞社)所収の「陸奥宗光年譜」でもそのようになっている。
ところが、ウィキペディアの「陸奥亮子」の項目では次のように記述されている。
1872年、陸奥宗光の先妻蓮子が亡くなり、翌1873年、17歳のとき宗光に見初められて後妻となった。先妻の遺した子は、長男広吉と次男潤吉、長女清子の三人だった。結婚の翌年、宗光との間に娘が生まれており、1877年には舅にあたる伊達宗広が死去している。
ウィキペディアによると、陸奥清子は先妻・吹田蓮子の子という。蓮子も元芸妓であり、美人であったことは想像に難くない。そして長男の陸奥広吉の写真を見たが、美青年であった。つまり相思相愛で結ばれた宗光と蓮子は明治4年ごろに女子を誕生していた可能性は十分にある。この間の事情はおそらく歴史関係の専門雑誌などですでに明らかにされていることであるかもしれない。ウィキペディアの作者は、新研究の成果をふまえての叙述かもしれない。ただ疑問に思うのは、陸奥亮子が明治6年に産んだ女児の名前やその後の消息が明らかでないことである。また長女清子は明治26年12月に享年21歳で死去しているが、出身学校とか、経歴とかほとんど不明なことも謎の一つである。「ワシントン社交界の華」陸奥亮子はよく知られているが、二人の若くて美しい娘たちは、本物の明治の深窓の令嬢であり、いまだに秘密のベールにつつまれているのである。
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