陸奥宗光の令嬢・陸奥冬子
陸奥宗光の孫・陸奥陽之助は昭和28年11月、陸奥家の墓所を大阪夕陽岡から鎌倉寿福寺へ移した。墓碑側面には下記の名前が刻まれている。
陸奥蓮子(宗光の妻) 明治5年2月11日
伊達千広(宗光の父) 明治10年5月18日
伊達政子(宗光の母) 明治17年11月13日
陸奥清子(宗光の長女) 明治26年1月3日
陸奥宗光 明治30年8月24日
陸奥亮子(宗光の妻) 明治33年8月15日
陸奥冬子 明治37年5月21日
陸奥イソ子(長男の妻) 昭和5年6月8日
陸奥広吉(宗光の長男)昭和17年11月19日
なお、二男の陸奥潤吉(1870-1905)は古河市兵衛(1832-1903)の養子となり、足尾銅山公害問題の処理などに心血を注ぎ、明治38年に死去したが、墓所は古河家にある。ところで墓碑にある、陸奥冬子であるが、前後の関係から判断して陸奥宗光の二女であることは間違いないであろう。ウィキペディアではその名前こそ無かったが、冬子ことまさしく陸奥亮子の実子であろう。以上のことから推測できることは、金田亮子(この名前も伯爵夫人となって後に名付けたもので当時は「りよう」だった)は、17歳で嫁いだときすぐに3人の子の母親となった。幼い子どもたちは実の母の顔さえ知らず(おそらく蓮子の写真はなかっただろう)、若くて美しい亮子を本当の母と思って成長したであろうし、亮子も4人の子を分けへだてなく愛情をもって育てたであろう。明治33年8月18日東京朝日新聞には「伯爵陸奥広吉母亮子儀永々病気の處療養不相叶昨十五日午後九時逝去間此段謹告仕候也」とある。広吉、潤吉、清子にとって亮子は母であったことはまぎれもない事実であろう。つまり、陸奥家には陸奥清子(1871-1893)、陸奥冬子(1873-1904)の二人の令嬢がいた。二人は22歳、31歳で嫁すことなく早世した。

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