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2007年8月29日 (水)

陸奥宗光の令嬢・陸奥冬子

   陸奥宗光の孫・陸奥陽之助は昭和28年11月、陸奥家の墓所を大阪夕陽岡から鎌倉寿福寺へ移した。墓碑側面には下記の名前が刻まれている。

陸奥蓮子(宗光の妻) 明治5年2月11日

伊達千広(宗光の父) 明治10年5月18日

伊達政子(宗光の母) 明治17年11月13日

陸奥清子(宗光の長女) 明治26年1月3日

陸奥宗光         明治30年8月24日

陸奥亮子(宗光の妻) 明治33年8月15日

陸奥冬子         明治37年5月21日

陸奥イソ子(長男の妻) 昭和5年6月8日

陸奥広吉(宗光の長男)昭和17年11月19日

   なお、二男の陸奥潤吉(1870-1905)は古河市兵衛(1832-1903)の養子となり、足尾銅山公害問題の処理などに心血を注ぎ、明治38年に死去したが、墓所は古河家にある。ところで墓碑にある、陸奥冬子(1873-1904)であるが、広吉とは腹違いの子であるといわれる(下重暁子「純愛 エセルと陸奥広吉」)金田亮子(この名前も伯爵夫人となって後に名付けたもので当時は「りよう」だった)は、17歳で嫁いだときすぐに3人の子の母親となった。幼い子どもたちは実の母の顔さえ知らず(おそらく蓮子の写真はなかっただろう)、若くて美しい亮子を本当の母と思って成長したであろうし、亮子も4人の子を分けへだてなく愛情をもって育てたであろう。明治33年8月18日東京朝日新聞には「伯爵陸奥広吉母亮子儀永々病気の處療養不相叶昨十五日午後九時逝去間此段謹告仕候也」とある。広吉、潤吉、清子、冬子にとって亮子は母であったことはまぎれもない事実であろう。つまり、陸奥家には陸奥清子(1871-1893)、陸奥冬子(1873-1904)の2人の令嬢がいた。2人は22歳、31歳と嫁ぐことなく早世した。

2007年8月28日 (火)

陸奥家の二人の深窓の令嬢

    明治の外務大臣・陸奥宗光(1844-1897)の後妻は「ワシントン社交界の華」と讃えられた陸奥亮子(1856-1900)である。本名りやう。母・山岸むめの娘。父はむめが仕えていた旗本で金田淡路守とも播州竜野藩士ともいわれはっきりしない。ともかく、亮子は庶子として安政3年ごろ生まれ、明治のはじめ頃には、東京新橋柏屋で小兼という名で売り出していた。明治5年に宗光と亮子は知り合い、深い仲になる。このとき宗光には、すでに妻の吹田蓮子と広吉と潤吉という二人の男子がいた。蓮子は病弱で明治5年2月11日に急逝してしまう。この年、宗光と亮子は結婚する。明治6年7月30日、清子(さやこ)誕生する。以上述べたことが通説である。萩原延壽「陸奥宗光」(朝日新聞社)所収の「陸奥宗光年譜」でもそのようになっている。

   ところが、ウィキペディアの「陸奥亮子」の項目では次のように記述されている。

   1872年、陸奥宗光の先妻蓮子が亡くなり、翌1873年、17歳のとき宗光に見初められて後妻となった。先妻の遺した子は、長男広吉と次男潤吉、長女清子の三人だった。結婚の翌年、宗光との間に娘が生まれており、1877年には舅にあたる伊達宗広が死去している。

   ウィキペディアによると、陸奥清子は先妻・吹田蓮子の子という。蓮子も元芸妓であり、美人であったことは想像に難くない。そして長男の陸奥広吉の写真を見たが、美青年であった。つまり相思相愛で結ばれた宗光と蓮子は明治4年ごろに女子を誕生していた可能性は十分にある。この間の事情はおそらく歴史関係の専門雑誌などですでに明らかにされていることであるかもしれない。ウィキペディアの作者は、新研究の成果をふまえての叙述かもしれない。ただ疑問に思うのは、陸奥亮子が明治6年に産んだ女児の名前やその後の消息が明らかでないことである。また長女清子は明治26年12月に享年21歳で死去しているが、出身学校とか、経歴とかほとんど不明なことも謎の一つである。「ワシントン社交界の華」陸奥亮子はよく知られているが、二人の若くて美しい娘たちは、本物の明治の深窓の令嬢であり、いまだに秘密のベールにつつまれているのである。

2007年8月27日 (月)

陸奥宗光の令嬢・陸奥清子

    陸奥宗光(1844-1892)には亮子夫人という明治を代表するような美人がいることはよく知られている。しかし娘の清子(さやこ)が亮子の子であるのか、前妻の蓮子の子であるのは、諸書により異なる。

   陸奥宗光は幕末のころ陸奥陽之助と名のり、坂本龍馬の海援隊に属していた。維新後も土佐人脈によって栄達した。その土佐人が西郷隆盛の反乱に呼応して薩長の政府を倒そうと画策し、陸奥も反乱を企てたとして、山形の監獄に、ついで宮城の監獄に入れられた。山県有朋内閣の農商務相などを経て、伊藤博文内閣の外相となり、イギリスとの条約改正を実現、日清戦争の下関条約には全権として主席した。

   陸奥宗光には前妻の吹田蓮子(ふきたれんこ、陸奥蓮子)との間に三人の子がいる。長男・陸奥広吉(外交官、1869-1942)、二男・陸奥潤吉(古河市兵衛の養子・古河潤吉、1870-1905)、長女・陸奥清子(むつさやこ、1871-1893)。

    明治5年2月11日、蓮子が病死し、翌年、新橋柏屋の芸妓・小鈴(小兼)と結婚する。本名・金田亮子といい、没落した幕臣の娘だった。亮子17歳、宗光29歳。

    若くして死んだ陸奥清子であるが、誕生年が明治4年説と明治6年説がある。明治6年説では、後妻の陸奥亮子が18歳のとき産んだ子としている。明治4年説では前妻の蓮子の子としている。かつてドラマ「明治の群像」(昭和51年、江藤淳原作)で女優山口智子(NHK連続テレビ小説のヒロインとは別人か)が陸奥清子を演じたことがあるらしいが、若くして病死したので詳しい資料があまり残っていないらしい。もし陸奥亮子の娘であればさぞや美しいかったであろう。前妻の蓮子も大阪の難波新地の芸妓だったので美しかったであろう。ただ蓮子は病弱だったので、もしかしたら清子を産んで死んだのかもしれない。

昭和平成の政治と閨閥

    近衛文麿と吉田茂はどちらが早くに生まれたか。戦前の近衛、戦後の吉田、ということで近衛文麿が年長のような気がする。ところが、近衛文麿は明治24年生まれで、吉田茂は明治11年生まれ。吉田茂が13歳も年上である。それは、昭和20年の近衛文麿の服毒自殺は記憶にないが、昭和42年の吉田茂の国葬を記憶しているせいかも知れない。

   ところで、近衛文麿といえば、「英米本位の平和主義を排す」という大正7年の論文があり、後年の東亜新秩序への方向を示したといわれる。一方の吉田茂は戦後の講和条約・日米安全保障条約で知られる政治家であろう。対極ともいえる二人の昭和の政治家が平成の政治家の存在で結びつこうとしている。本日にでも自民党の幹事長に就任されるであろう麻生太郎である。よく知られるように麻生太郎の祖父は吉田茂である。近衛忠煇(近衛文麿の孫)の妻は三笠宮寗子。ヒゲの殿下・三笠宮寛仁の妻は麻生太郎の姉の信子。つまり、麻生太郎は三笠宮家を通じて、近衛文麿と吉田茂という戦前・戦後の政治家の流れを体現する人物である。安倍首相のスローガンであった「戦後からの脱却」は、麻生太郎の幹事長起用を閨閥からみると、戦中・戦後政治の継承というべきものである。

2007年8月26日 (日)

何が彼女をそうさせたか

    昭和5年11月14日、浜口雄幸(1870-1931)首相が、東京駅で愛国社員・佐郷屋留雄に狙撃された。腹部を撃たれて、「男子の本懐だ」と言ったとされるが、手術で一命を取り留める。浜口内閣は海軍軍縮条約を結んだことから野党の政友会や軍部、右翼からの統帥権を侵すものだと攻撃されていた。狙撃犯も統帥権干犯への不満があったとされる。

 浜口首相狙撃事件のあったこの年は、世界恐慌の影響で日本経済は深刻な打撃を受けていた時代であった。解禁による為替相場の急騰に伴う物価と株式の暴落、糸価・米価の大崩落は、農村不況を一段と深刻にした。政府の産業合理化政策が人員整理、賃金切り下げ、労働強化を招き、不況はさらに進んだ。その結果としての貧困、失業、労農の争議。そしてこれを抑圧するための政治的弾圧、階級的対立の意識はこれまでになく拡大し深化し、労働階級の革命化も大衆に浸透していった。このような一般情勢は、文学、演劇、映画界にも波及した。文学の世界では小林多喜二の「蟹工船」(昭和4年)などのプロレタリア文学、演劇の世界では築地小劇場のプロレタリア演劇が労働者、学生を集めていた。映画にも「斬人斬馬剣」(伊藤大輔監督、月形竜之介主演)、「下郎」(辻吉郎監督、河部五郎主演)、「一殺多生剣」(伊藤大輔監督、市川右太衛門主演)、「傘張剣法」(辻吉郎監督、沢田清主演)などの傑作が昭和4年に現れた。これらはプロレタリア的イデオロギーにつらぬかれているというので「イデオロギー映画」、または「傾向映画」とよばれる一群の映画のはしりとなった。しかし、「傾向映画」という言葉がジャーナリズムのうえに大きく登場したのは、「生ける人形」(昭和4年、内田吐夢監督)が大衆的成功をかちえたからであった。これは地方から出てきた野心家で出世主義に徹した一人の青年の、東京での浮き沈みを物語りながら、彼を生きた人形として操り躍らせる資本主義の巨大で複雑で悪意にみちた機構そのものに迫った作品である。続いて傾向映画の代表作といえ作品が昭和5年に現れた。「何が彼女をそうさせたか」(鈴木重吉監督、高津慶子主演)であった。藤森成吉の原作のこの映画は、孤児院に育った一少女が、冷酷な世間の荒波にもてあそばれ、しいたげられて、最後には放火犯人としてひかれていくまでを扱っているが、題名がすでにそれを明示しているように、犯罪者は「彼女」ではなくて、彼女をそうさせた社会の矛盾と残忍さそのものであることをするどく弾劾した。最後に牢獄の鉄格子から彼女の怒りの顔が大写しになる。当時まだ無声映画の時代で、舞台のソデから弁士が、このとき「ナニガ、カノジョヲ、ソウサセタカ!」というやいなや、満員の観衆が「資本家だ!」「そうだ!」と叫ぶという、すさまじい情景であったという。

   参考までに、そのころ(昭和5年ころ)の物価は次のようである。

月給(初任給)は大学卒(会社員)60円、女(タイピスト)40円、電話交換手35円、女性事務員30円。

米1升25銭、醤油1升48銭、味噌100匁8銭、砂糖100匁23銭、卵100匁18銭。

コロッケ4 個10銭、刺身一人前15銭、塩鮭4切10銭、食パン1斤8銭、リンゴ4個10銭。

うな丼30銭、カツ丼15銭、なべやきうどん12銭、うどんかけ8銭、支那そば10銭、寿司20~30銭、ランチ35~50銭、とんかつ25銭、ビール(カフェーなどで)1本50銭。

床屋15銭、銭湯5銭、タバコ(バット)7銭、歯磨き10銭、ハガキ1銭5厘、背広(三つ揃い)オーダー25円~45円、ワイシャツ(オーダー)1円20銭、足袋25銭、さらし1反25銭、ゆかた1円。

ヨーヨー1個10銭、映画入場料(封切)50銭、雑誌50銭、単行本(全集物の1冊)1円、ミルク・紅茶5銭、コーヒー7銭、地下鉄10銭、市電7銭、円タク(青山~銀座)50銭。

結婚式費用、モーニングなど衣装、30人ぐらいで400円、お産(入院1週間)25円、ミシン120円、冷蔵庫20円、借家(10坪の庭つき)25円から30円、洋服ダンス15円、桐ダンス30円。

   ちなみに、当時、年収1700円以下は所得税は課税されなかった。

2007年8月23日 (木)

顰に倣う

   西施があるとき癪を病んで郷里に帰省した。癪で痛む胸を片手で押さえ押さえ、眉を顰めて歩くいていても、さすがは絶世の美人、えもいわれぬ風情で、見る人びとをうっとりさせる。すると、同じ村にすむ醜女たちがこれを見て、自分も胸を押さえ眉を顰めて、村の通りを歩きまわった。村人たちは、うっとり見惚れてくれるどころではない。ただでさえ醜いのに、とんでもない様子におじけをなして、金持ちの家では門を固く閉じて外に出ようとする者もなく、門もない貧乏人の家では、妻子をひき連れて村を逃げ出すという始末であった。

   この醜女たちは、西施が眉をしかめるようすの美しさはわかっても、何が眉をしかめることを美しく見せるかという理由がわからなかったのだ。聖人のことだからといって、猿まねは禁物だ。荘子は乱世の時代に、魯や衛の国がかつての周王朝の理想政治を再現させようというのは、とんでもない身のほどしらずで、西施の「顰にならう」みたいなもので、人から相手にされないというのである。(「荘子」天運篇)

2007年8月22日 (水)

長尾為景とゴッホ

    NHK大河ドラマ「風林火山」を楽しみに見ているが、いよいよドラマは川中島の戦いへとクライマックスに向かう。ところで過去にも大河ドラマでは「天と地と」「武田信玄」などがあったので、その配役の変遷を調べてみるのも興味深い。昭和44年の海音寺潮五郎原作の「天と地と」は石坂浩二(上杉謙信)、高橋幸治(武田信玄)であったが、滝沢修、宇野重吉、樫山文枝と民藝の看板スターが総出演している。とくに重厚、緻密な芸風で知られる「新劇の神様」滝沢修は、お茶の間のテレビではすこし近寄り難い印象があるが、意外に気さくな面もあったらしい。「天と地と」の配役は、上杉謙信の父・長尾為景の役であるが、これには次のようなエピソードがある。滝沢修は女優の新珠三千代のファンぶりは知られていた。これを知ったNHK側は、滝沢を担ぎ出すため、新珠三千代を妻の袈裟(のちの青岩院)とし、共演話をもってきたという。新珠さんのファンは、松本清張はじめ学者や文化人にも多いので、真実味のある話であろう。

   滝沢修(1906-2000)は、明治39年11月13日、東京に生まれた。大正13年に築地小劇場に入団し、翌年「ジュリアス・シーザー」で初舞台。左翼劇場をへて、昭和9年、新協劇団の結成に参加し、「夜明け前」の青山半蔵、「火山灰地」の雨宮聡などの名演技で名を知られたが、治安維持法違反により昭和15年8月から昭和16年12月に巣鴨拘置所に投獄された。戦後、久保栄、森雅之らと東京芸術劇場を結成。昭和22年、民衆芸術劇場(第一次民芸)を宇野重吉らと結成。昭和25年、滝沢修、清水将夫、宇野重吉らによって民芸が結成され、翌年、三好十郎作、岡倉士郎、村山知義演出で「炎の人」が初演された。ゴッホはもちろん滝沢修であるが、現在も大滝秀治で上演されている。初演の配役は、ゴーギャンを清水将夫、タンギーを宇野重吉、シーンを細川ちか子。昭和44年の再演は、テオを内藤武敏、ロートレックを山内明、ゴーギャンを清水将夫、アルルの踊子を有馬稲子。昭和51年の時は、ゴーギャンを芦田伸介、テオを伊藤孝雄、タンギーを内藤安彦、シーンを仙北谷和子。近年の大滝ゴッホでは、ゴーギャンを岩下浩、ロートレックを横島亘、ベルナールを千葉茂則、ポール・シニャックを矢野勇生、タンギーを水谷貞雄だった。先ごろ亡くなられた南風洋子さん(1930-2007)はベルト・モリゾの役だった。

   滝沢は10歳ころから鶴田吾郎(1890-1969)という有名な画家について油絵を習ったそうで、実際に油絵とカメラは相当な腕前である。戦前にステファン・ポラチェックの「焔と色」(牧野書店、昭和16年)という小説を式場隆三郎の訳で読んで感動した。これを劇化したいという思いはすでにその時から芽生えていた。ともかく滝沢・ゴッホは、その豊かな演技力によって、見る人に強烈な感動を与える歴史的名演技となった。

    因みに初演で宇野重吉が演じたタンギー爺さんというのは、ジュリアン・フランソワ・タンギー(1825-1894)のことで、パリのモンマルトルの画材兼画商。当時さっぱり売れなかったゴッホらの絵を買って画材の代金として、印象派の画家たちを支援していた。ゴッホの名画によって、人のよさそうな爺さんとして永遠に人々に愛され親しまれ続けている。

亡羊の嘆

   むかし、中国に楊子という学者がいた。あるとき、隣家の羊が一匹逃げた。隣人は一家総出で、楊子の家の召使まで借り出して、羊探しに出かけるという騒ぎだった。

   それで、楊子が、「たった一匹の羊を追いかけるのに、なぜそんなに大勢要るのですか」ときいた。

    隣の人は、「逃げた方角には岐路(わかれみち)が多いから」と答えた。やがて、しばらくたつと、羊を探しに行った人たちがクタクタになって帰ってきた。そこで、楊子が「どうしました。羊は見つかりましたか」と聞いた。

   すると、隣の人は「岐路にまた岐路があって、とうとう羊がどこへ行ったかわからなくなったから、あきらめて帰って来た」という。(「列子」説符篇)

    多岐亡羊とは、「逃げた羊を追ううち、道が幾筋にも分かれていて、羊を見失ったというこの故事から、学問の道があまりに多方面に分かれていて真理を得難いことをいう。転じて、方針が多すぎてどれを選んでようか迷うこと」と広辞苑にある。

    「荘子」駢拇篇には次の話がある。男と女のふたりの働き者が、いっしょに羊の番をしていたが、ふたりとも羊を見失ってしまった。主人が怒って下ばたらきの男にたずねてみると、本をかかえて読書していたといい、下ばたらきの女にたずねてみると、双六をして遊んでいたという。ふたりのやっていたことは違っているものの、羊を見失ってしまったことでは同じである。要はほんとうの目標をしっかり把握していないのである。この戒めは学問ばかりではない。人間の生き方についても考えさせられる。ただし、荘子の故事における男女の行動の相違は、儒家の君子と小人との区別に対する批判の意味が含まれているようだ。

2007年8月20日 (月)

宇佐美定満と山本勘助

    NHK大河ドラマ風林火山「勘助捕らわる」。天文20年、長尾景虎(ガクト)と長尾政景との間に戦が展開した。あらたに軍師となった宇佐美定満(緒方拳)の策が奏し、政景は景虎の軍門に下り、ついに越後は統一された。このとき景虎の姉の桃(西田尚美)と政景の和睦の証に婚儀がなされた。桃はのち仙桃院(1528-1609)といい、上杉家を継ぐ上杉景勝(1555-1623)を産む。

   ところで、期限までに鉄砲を用意できなかった勘助は処刑されることになる。最後に、長尾景虎は勘助にいう。「鷦鷯、深林に巣くうも、一枝に過ぎず」鷦鷯(しょうりょう)、スズメ目ミソサザイ科の非常に小さい鳥。みそさざいは、深く大きな林の中に住んでいるが、その巣をかけている所は、一本の樹のひと枝にすぎない。人はそれぞれの分に応じて満足する心がなければならないという意味。

   この場合、景虎は、勘助の傑出した才能を見抜いて越後に仕官することをすすめたが、拒まれたため、「荘子」をもちだしたのである。

    これに対して、勘助は「おれは荘子は好まぬ。孫子で言え!」と応えた。その瞬間、根来衆の鉄砲が届いた。

2007年8月19日 (日)

吉永小百合と山路ふみ子

   オリコンが「品格のある著名人ランキング」を男女別に調査したところ、イチローと吉永小百合が第1位に選ばれた。吉永は昭和61年からボランティアで全国の小中高生たちの前で原爆詩の朗読会を開いてきた。この20年間で2百数十回にも及ぶ。

   吉永小百合が昭和38年1月に第13回ブルーリボン賞女優主演賞を史上最年少で受賞したとき大きな話題になったことを思い出した。昭和25年からの受賞者は、淡島千景、原節子、山田五十鈴、乙羽信子、高峰秀子、望月優子、山本富士子、北林谷栄、岸恵子、若尾文子であった。「キューポラのある街」(浦山桐郎監督)の撮影中は精華学園女子高等学校在学の17歳だった。吉永の映画デビューは昭和34年の「朝を呼ぶ口笛」から4年間ですでに27本の出演作があったが、浜田光夫とのコンビの「ガラスの中の少女」「草を刈る娘」に続く、本格的主演映画であった。その後の数多い主演作品のなかでも、昭和60年の「夢千代日記」(浦山桐郎監督)は彼女の大きな転機となった作品である。こののち朗読会を開くようになる。また第11回山路ふみ子賞女優賞を受賞している。吉永の数多い受賞歴であまり注目されることはないかも知れないが、山路ふみ子映画賞は戦前の新興キネマなどて活躍した女優の山路ふみ子が私財を投じて、昭和51年に文化財団を設立したもので、現在も続いている。その年の一番早くに発表があり、とくに女優賞が注目される。近年は蒼井優、紫咲コウなどが受賞している。吉永小百合は女優としての自覚がてできたころ、とくに田中絹代を意識していたようだし、彼女の半生まで演じているが、実は山路ふみ子という女優も溝口健二が育てた女優の一人である。

    山路ふみ子(1912-2004)。本名大久保ふみ子。昭和4年、ミス神戸で、昭和6年「神戸行進曲」でデビュー。昭和12年「愛怨峡」で東京の大学を出た温泉宿の若主人と駆け落ちしたものの、気の弱い男の親から呼び戻され、子どもをかかえて苦闘する宿の女中を好演した。この作品で溝口監督に鍛えられ、つづいて「露営の歌」「ああ故郷」「元禄忠臣蔵」など溝口作品に出演した。

   こうして考えると溝口監督は田中絹代にしても、山路ふみ子にしても、演技以上のもの、女優としての人生そのものに大きな影響を与えた人物であったような気がする。吉永小百合がこのような日本映画の良質の部分を継承して、品格ある女優としての道を歩んでいることはよろこばしいものであろう。

楡の梢までしか飛べない小鳥の話

    何千里もある翼を持ち、九万里を飛ぶことができるという鵬という鳥がいる。斥鷃(みそさざい)は、鵬のありさまを見て、あざ笑っていう。「われわれは力いっぱい飛んでも、楡の梢までしか飛べない。それでも結構飛ぶことの楽しみはあろうというもんだ。それなのにやつはいったいどこまで飛ぼうというんだろう」

   ここに、小さいものと大きいものの区別があり、小鳥に大鵬の心を知ることがどうしてできるであろうか。(「荘子」逍遥遊篇)

   荘子(前370?-前290?)。宋の蒙(河南省商邱県)の人。姓を荘、名を周という。漆園の番人をつとめたり、手内職などで飢えをしのぎ、戦乱の世をよそに、ひとり悠々と生活し、貧困のうちに一生を終わったといわれている。

   この逸話から「鵬鷃(ほうあん)」(大小の懸隔のはなはだしいことのたとえ)という言葉もある。荘子にはまず対象を二分法で捉えるが、それはあくまで人間思考の相対的なものでしかないとする。人為をなくすと、あとに残る世界は。二元の対立のない、すべてが斉(ひと)しい一つの世界である。これが「万物斉同」の立場である。

2007年8月18日 (土)

「人民寺院」集団自殺の謎

   ジェームズ・ウォレン・ジョーンズ(1931-1978)は、1931年5月13日、インディアナ州の郊外で生まれた。KKKの一員だった父親は彼が12歳の時に家族を捨て、以後、母親の手で育てられた。12歳の時にはじめて説教をした。1947年に宣教師の娘マーセリン・ボールドウィンと結婚。1957年にインディアナポリスで宗教団体「人民寺院」を設立。1965年、信者140人とカリフォルニア州ユキアに移る。1970年、サンフランシスコに移る。1977年、約1000人が南米ガイアナへ移る。そこでジョーンズ・タウンを建設し、信者は2500人になっていた。元信者であったグレース・ストーンが教団の実態を告発したのをきっかけに、マスコミがジム・ジョーンズを非難しはじめた。1978年11月14日、実態調査のため議員レオ・ライアンらが現地を訪れた。そして、現地を後にしようとした時、信者が急に発砲、議員ら5人が殺害された。

   1978年11月18日、追いつめられたジョーンズは、会衆たちに儀式的な集団自殺「白い夜」を命じた。信者は、桶にシアン化合物を加えた飲料を規律正しく飲んだ。916人の信者(うち200人ほどは子供)が彼の周りで死に、ジョーンズは頭を撃って死んだ。当時ジョーンズタウンにいたのは約1100人ほどだったので180人以上は生存者がいることになる。カルト宗教の集団自殺として最悪の事件である。

2007年8月17日 (金)

溝口健二と一条百合子

    「映画女優」(市川崑監督)は吉永小百合99本記念映画であり、田中絹代の生涯を吉永が演ずるというこで話題となった作品である。田中絹代は昭和15年「浪花女」という映画で溝口健二と出会う(劇中では溝内健二監督になっていた)。田中は後年、「溝口先生に会わなかったら、私の女優生活は終わっていたかもしれない」と語っている。

  菅原文太が演ずる溝内健二の背中の切り傷の話は、実際に起こった事件だ。大正14年6月11日の東京朝日新聞に「日活の溝口監督、情婦に斬らる、別れ話から剃刀で夕食中に大立ち回り」と報じられた。「赤い夕陽に照らされて」のロケーションから帰宅した溝口は、木屋町の芸妓で溝口に惚れ、押し掛け女房におさまっていた一条百合子と痴話喧嘩となり、カミソリで背中を切られ、溝口は謹慎させられた。事件当時溝口と自炊していて、一条を取り押さえた助監督の安積幸ニは、「あの事件以来、溝口さんの女性に対する執拗なまでの凝視がはじまった」という。映画「赤い夕陽に照らされて」は三枝源次郎監督の手によって完成した。そのころの溝口は酒乱で、お茶屋の床の間へ小便して庭の石灯籠に縛りつけられたり、大酒をくらって放埓の限りをつくし、売春婦に耽溺していた。一条百合子は、小柄でぽっちゃりとした丸顔、小股がきれあがっておきゃんな気風があり、溝口との痴話けんかは近所の評判だった。百合子は警察に引っ張られたが、すぐに釈放され、行方をくらました。溝口は、百合子が浅草にいると聞いて、追っかけて行ったが、会えなかった。

   もしも、溝口の女難がなかったなら、女を描いて随一の定評をとることもなかったかもしれない。「浪華悲歌」「祇園の姉妹」の梅村蓉子、山田五十鈴も「愛怨峡」の山路ふみ子、「近松物語」の香川京子、「西鶴一代女」の田中絹代も見ることは出来なかったかもしれない。

    今日一般的に言えば、溝口健二は日本映画監督三大巨匠の一人に数えられている。その三人とは、溝口健二(1898-1956)、小津安二郎(1903-1963)、黒澤明(1910-1998)である。(参考:新藤兼人「小説田中絹代」)

2007年8月11日 (土)

人類ホモ・サピエンスへの道

   現世人類(ホモ・サピエンス)の祖先は、これまでアフリカで生まれたホモ・ハビルスがホモ・エレクトスに進化したと考えられてきた。(わかりやすくいえばラミダス猿人やアファール猿人はヒトの直接の祖先の可能性があると考えられていた)しかし、このたびケニアやイギリスの国際研究チームがケニア北西部のトゥルカナ湖北で6本の歯が残った上あごの化石を発見し、ホモ・ハビルスのものと結論づけた報道があった。(朝日新聞2007.8.9夕刊)今回の発見で、ハビルスとエレクトスは同じアフリカで約50万年間共存していた兄弟分の関係であるという。(つまり親子の関係ではないということか)

   1992年から1993年にかけて、鮮新世初めの440万年前の地層から、ヒトの祖先と思われる化石が発見され、1995年にラミダス猿人(アルディピテクス・ラミダス)と命名された。アファール猿人は1974年以来、エチオピア北東部のアファール低地、タンザニア北部で発見され、今から300万年前にさかのぼる。アファール猿人とアフリカヌス猿人とは約50万年共存していたが、アファール猿人は140万年前ごろには消えて、アフリカヌス猿人のみが残り、ホモ・サピエンスに進化していったと考えられる。更新性中期に入った約70万年前から40万年前ごろを中心に、ホモ・エレクトスとよばれる段階の人類がアフリカからユーラシアに広がっていった。ジャワ原人と北京原人などである。更新性末期(約4万年から3万年前)になると現代人とほぼ同じ形態の新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)が広がった。

赤まんま

    紅葉にはまだ早い初秋の頃、山野に薄紅色の花穂をゆらす赤まんま。赤飯のまんまとも呼ばれ、古よりずっと、秋の野に彩りを添えてきた。その温かさ、素朴さは文人たちも心動かされ、その思いを俳句や短歌にしている。

露草や赤のまんまもなつかしき(泉鏡花)

此辺の道はよく知り赤のまま(高浜虚子)

赤のまま墓累々と焼け残り(三橋鷹女)

立どまりあたり見廻しぬ紅に咲き満ちたるは犬蓼の花(斉藤茂吉)

   赤まんまはタデ科タデ属の一年草で、和名はイヌタデ(犬蓼)。俗称の赤まんまは、ままごと遊びに由来するといわれる。子どもたちは、紅花を赤飯に見立てて遊んだ。「イヌ」がつくのは、辛みに欠けるため食用にもならず、役に立たないためである。同じタデ科の植物でも、独自の辛みで刺身のつまや香辛料、漬物に用いられるのはヤナギダデである。「蓼食う虫も好き好き」という諺は、「辛いタデを食べる虫があるように、人の好みはさまざまなもので、ひとくちにはいえないもの」という意味だが、ヤナギタデのこととされている。タデと酢とを合わせたタデ酢がどんな魚にも合うと室町時代の料理書に書かれており、江戸時代に醤油が登場するまでは、魚料理の調味料として重宝された。現在でも鮎の塩焼きにタデ酢が添えられる。(参考:「赤まんまと秋の山野草」講談社)

いずれ菖蒲か杜若

   鳥羽院の女官に菖蒲前(あやめのまえ)という美人がおり、源頼政(1104-1180)は一目ぼれをする。頼政は菖蒲前に手紙を送るが、返事はなかった。そうこうしているうちに3年がたってしまい、二人の関係が鳥羽院に知られてしまう。

    ある時、頼政が鵺という怪物を退治して手柄をたてた。鳥羽院は頼政を呼びだして、褒美に何がいいかたずねると、菖蒲前を妻にもらいたいという。上皇は本当に菖蒲前が好きか試してみようと考えた。

    宮中の女官の選りすぐりの美女12人に厚化粧をさせて、その中から菖蒲前を選ばせた。もし間違えれば、菖蒲前をえることができず、末代までの笑いものになってしまう。困り果てた頼政はとっさにつぎの歌を詠んだ。

   五月雨に 沢辺の真菰 水こえて

   いづれあやめと 引きぞ煩ふ

   鳥羽院はこれに感心し、菖蒲前を頼政に引き渡した。

 この故事から、「いずれ菖蒲と引きぞ煩ふ」という句が広まり、「いずれ菖蒲か杜若」の語源となったといわれる。

    頼政はその後、以仁王と結んで平家打倒を計画したが、宇治平等院の戦いで敗北し、自害した。享年77歳。菖蒲前は種若丸をつれて、乳母と猪野隼太らに守られて、舟で安芸の国に落ち延びた。菖蒲前伝説など各地に残っている。しかし、源頼政がかなりの高齢だったようなので、若い女官・菖蒲前とのロマンスが本当にあったのだろうか。(「源平盛衰記」)

2007年8月10日 (金)

ニーチェ、リルケ、フロイトに愛された女

   ニーチェと出会ったとき、ルー・サロメ(1861-1937)は21歳だった。ニーチェはサロメを熱狂的に愛するが、失恋におわる。サロメは肉体関係をぬきにして、互いの知的向上をめざした男女の交友をもとめていたのである。しかし、ルー・サロメに魅了され悩まされた男は、詩人、文学者、芸術家、哲学者、心理学者と数え切れない。ハウプトマン、ヴェデキント、ストリンドベリ、シュニッツラー、ヴァッサーマン等との交友を経て、1897年、若い詩人リルケに出会い親密な関係を結ぶ。1899年と1900年、2人はロシア旅行を二度している。リルケと別れたサロメは、さらに1911年、国際精神分析会議に出席したジグムント・フロイト(1856-1939)と知り合う。フロイトは彼女の崇高で清澄な性格を深く尊敬した。サロメは世界的な精神分析学者の心の支えになった。そして70歳を過ぎてなお、フロイトの門下生タウスクという40歳ぐらいの学者と親密な関係になるが、彼は恋の苦悩のあまり自殺している。

   サロメは「女とは、自分を引き裂く雷を渇望する木のようなもの、しかも同時に成長を欲する木のようなものです」といっている。

2007年8月 9日 (木)

戸田極子とブラームス

   日本画家・守屋多々志が平成4年第77回院展に出品した作品に「ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)」がある。

   戸田極子(とだきわこ、1859-1936)は岩倉具視の次女で、旧大垣藩主戸田氏共(とだうじたか)に嫁いだ。生来の美貌と華やかさで、陸奥亮子(1856-1900)と並び、鹿鳴館の華と呼ばれた。

   戸田氏共は、廃藩置県後、伯爵となり、オーストリアの全権公使としてウィーンに赴任。山田流の筝曲をたしなむ極子は、ウィーン公使館でのパーティーで、琴の演奏を披露した。1887年から1890年にかけての話である。その席の客の一人だったのが作曲家のヨハネス・ブラームス(1833-1897)で、東洋のめずらしい調べに真剣に耳を傾けていたという。

2007年8月 8日 (水)

ウジェニー皇后

   ウジェニー・モンティホ(1826-1920)はスペイン貴族の娘で、ルイ・ナポレオン(ナポレオンの弟の子)と結婚し、ボナパルト家再興をめざし、宮廷を女性として支え、19世紀のパリをモードの中心地にした立役者である。また彼女はデバ伯爵と呼ばれる。

   「ウジェニー」は仏語で、スペインでは「デバ伯ユージェニー」と呼ばれる。ウジェニーは、1826年5月5日にスペインのグラナダに生まれた。父はモンティホ伯爵ドン・シプリアーノ・モンティホ、母はドニア・マヌエラ・カークパトリック。母のマヌエラはマラガ領事を勤めたアメリカ人(もとはスコットランド商人)の娘。次女。

   ウジェニー・モンティホはパリ滞在中の26歳の時、ルイ・ナポレオン(1852年、皇帝に即位してナポレオン3世となる)に見初められた。1853年1月30日、ノートル・ダムで2人は結婚し、ウジェニーはスペイン人でフランス皇后となった。1856年には長男ナポレオン・ルイ・ユージェーヌ・ジャン・ジョゼフ(1856-1879)を出産した。しかしナポレオン3世は1870年、普仏戦争に敗北して、3年後に死ぬ。ウジェニー皇后は子供ルイにボナパルト家再興の夢をたくしたが、1879年、ルイは南アフリカで戦死する。皇太子死後、ウジェニーは死ぬまで喪服以外に身につけなかった。40年もの長きにわたり孤独な余生を送ったウジェニーは、1920年7月11日、バルセロナで風邪がもとで亡くなった。

伊東巳代治と盆栽

    伊東巳代治(1857-1934)は、伊藤博文にその才幹を認められ、出世した。「憲法の番人」と自称し、のちに枢密院に入り、明治・大正・昭和の政界に隠然たる勢力を持った。とくに晩年、金融恐慌にさいしては若槻内閣を崩壊に導き、協調外交を非難して、公然たる中国侵略を強調した人物である。

    明治16年、伊東は東京の中心、永田町に住居を構えるが、ここに翠雨荘と名付けた別邸を建て、千余種の盆栽を蒐集した。国内はもとより朝鮮、台湾、中国よりも取り寄せた。徳川家光愛蔵の五葉松ほか、島津重豪が近衛家に贈った鉢、西園寺公望、黒田清隆らの愛蔵品もあった。

2007年8月 6日 (月)

風林火山「砥石崩れ」

    天文19年7月、武田信玄(市川亀治郎)は、信濃守護小笠原長時(今井朋彦)を破り、信濃府中を手中にした。信玄は余勢をかって小県に進出、村上義清(永島敏行)の出城である砥石城を攻めた。しかし9月朔日の戦で武田軍は敗北し、横田備中守高松を初めとして千人ばかりが戦死し、小山田信有(田辺誠一)も戦死し、有力な武将を失った武田軍は退却した。この武田軍の負け戦を「砥石崩れ」という。

   こののち信玄は真田幸隆(佐々木蔵之介)にこの城を攻撃させたが、村上義清は筑摩郡に入り、小笠原長時とともに、10月、平瀬城に進出、ここを拠点として深志城をおびやかした。信玄が甲府を出てここに向かうおうとすると、義清は転じて佐久郡の野沢・桜井などに放火し、信玄が佐久に進もうとすると義清はいち早く引き揚げて筑摩・安曇の武田属城を攻めるなど、内陸作戦の妙を発揮した。

   しかしさしもの要害堅固を誇った砥石城も、真田幸隆によって天文20年5月、落城させられると、小県郡の諸士は相次いで武田方につき、村上義清の威勢も衰えてきた。天文21年には苅屋原・塔原の諸城が陥り、ついに小笠原長時は越後の長尾景虎のもとに走った。

   NHK大河ドラマ風林火山では、上田原の合戦で板垣信方(千葉真一)、甘利虎泰(竜雷太)の壮絶な討死場面を描いたが、この砥石崩れで殿(しんがり)をつとめた武田二十四将の一人、横田高松の戦死シーンはあるのだろうか。(参考:「日本の合戦3」新人物往来社)

ラムプシニスト王の話

    エジプトのラムプシニスト王は莫大な富を持っていた。これを安全に保管するために、石の倉をつくった。ところが建築者が死ぬ直前に、この倉の秘密を二人の息子に話した。二人はときどきこの財宝を盗み出した。それを知った王がわなを仕掛けて、息子の一人が捕まった。かれはもうひとりの息子に「おれの素性がわかるとお前もやられるから、おれの首を切って逃げよ」といった。仕方なく首を切って戻ってきた息子に、母親は嘆き悲しみ、死体を取り戻すよう命じた。彼は、皮袋につめたブドウ酒を番人にたらふく飲ませ、酔いつぶしてから兄弟の死体を取り戻した。

   王は、別な計画を考えた。自分の王女を娼婦にさせて、この盗人を誘惑させた。王女はこの盗人とめぐりあい、この男の腕をしっかりと捕まえた。しかし盗人は、暗闇であるのを利用して、王女に死人の腕をつかませたのである。王は、エジプトで一番大胆なこの男を許して賞金を与えることにしたので、この男は姿を現した。そうして、例の王女を妻としてあたえた。

   ヘロドトス(前484?-前425?)の「歴史」のなかに紹介されているランプシニスト王とは、ラムセスのことであり、石の倉とはピラミッドのことであろう。ヘロドトスはギリシア植民市ハリカルナッソスの名家に生まれた。父の名はリュクセス。ヘロドトスは紀元前450年ごろ、エジプトへ行き、ナイルをさかのぼり、第1瀑布まで行ったらしい。ピラミッドの建築法、ミイラの製造法など多くを見聞し、エジプト人の生活を「歴史」に生き生きと書き残している。

2007年8月 4日 (土)

毘沙門天の化身、上杉謙信

   上杉謙信(1530-1578)は享禄3年1月21日、越後守護代長尾為景の末子として、春日山城(上越市中屋敷)に生まれた。母は栖吉城長尾氏の娘虎御前。寅年生まれのため、幼名虎千代、14歳のとき元服して平三景虎を名乗り、永禄4年には政虎、輝虎と名を改めた。大徳寺の徹岫宗九に帰依して宗心と称し、晩年には剃髪して不識庵謙信と号した。謙信には、兄と姉が何人いたか不詳。晴景、景康、景房と姉の仙桃院だけが、はっきりしている。天文17年12月30日、19歳の景虎は守護上杉定実の調停で、兄晴景に代わって守護代長尾氏を相続し、春日山城に入った。天文19年、守護代上杉定実が死去した。定実に嗣子がなかったので、越後守護代上杉家は断絶した。景虎は将軍足利義輝から白傘袋と毛氈の鞍覆の着用を許された。実質的に国主大名の待遇が与えられたのである。

   景虎は毘沙門天に帰依し、毘を軍旗とした。毘沙門天は須弥山の北方を守護する武神である。謙信は自らを、毘沙門天の化身と信じ、越後の地で朝廷と幕府を守護したいと思っていたのである。

   天文22年、信濃諸将の村上義清、高梨政頼、井上清政、島津規久、粟田寛明らが武田信玄に領土を奪われ、景虎に援助を求めてきた。景虎は8千の兵を率いて信濃川中島に出陣した。8月下旬に布施で、ついで9月1日には八幡で武田軍を撃破した。第1回川中島の合戦である。しかし上洛を間近にひかえていたので、深追いはしなかった。

    上杉謙信に関しては、人物は道義を重んじ清廉であったとか、武田信玄に塩を送った逸話など古来から有名であるが、養子の上杉景勝(1555-1623)がつくった米沢藩が江戸時代に残り、山鹿素行の「武家事紀」などの影響など、江戸期の諸伝が多く含まれるので、注意を要する。(参考:花ヶ前盛明「上杉謙信」)

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