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2007年8月30日 (木)

画人龍子と俳人茅舎

    川端龍子(1885-1966)。本名・川端昇太郎は、明治18年6月6日、和歌山市本町3丁目に川端信吉、せい(勢以)の長男として生まれた。生家は呉服商を営み、屋号を代々俵屋といった。しかし、川端家は家産が傾き、明治28年、上京し、浅草、日本橋に住む。信吉は弟・岡本武次の経営する日本橋病院に勤めることになった。

    川端茅舎(1900-1941)。本名・川端信一は、明治33年8月14日、父川端信吉と母ゆきとの間に生まれた。つまり川端龍子とは異母兄弟であった。母ゆきは、病院の看護婦で、父信吉が一時病院で働いていたとき親しい関係となった。その後、父は病院をやめ、日本橋蠣殻町で煙草屋を始めた。父は寿山堂という雅号で、俳句や日本画を嗜んだ通人であったが、家族は生活苦を強いられた。しかし、龍子、茅舎の芸術的資質は、この父の影響が大きいものと思われる。

   長男である龍子は、このような父を嫌いながらも、中学卒業後、画家への志をもち続け、新聞・雑誌の挿絵を描いていた。明治39年、林夏子と結婚し、神田錦町の煙草屋の二階に世帯を持つ。大正2年1月、周囲の反対を推して、渡米する。ボストン美術館で見た「平治物語絵詞」の美しさに心を打たれて、帰国後は日本画に転じた。大正5年、第3回院展に樗牛賞を受け、美術院同人に推され、大正6年「二荒山縁起」を発表、昭和3年、日本美術院を離れ、翌年、青龍社を創立して主催する。

    川端茅舎も初めは洋画家を志した、岸田劉生に師事。昭和4年まで京都東福寺内の正覚庵に寄宿し、半僧半俗的生活をしながら絵画の勉強を続けた。しかし胸部疾患のため絵画を断念、もっぱら俳句に励むようになった。大正11年高浜虚子の面識をえて、「ホトトギス」への投句一本になる。大正13年には「ホトトギス」の巻頭を占めるに至る。昭和5年以降は全く俳句に専念、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」と賛嘆せしめ、自分でも「花鳥諷詠することもまた一個の大丈夫の道」というほど、花鳥諷詠に徹底した。「茅舎浄土」、あるいは比喩の名手、造語の名人として知られる。昭和3年ごろ、倉田艶子との失恋、以後10年間の闘病生活などで生涯独身だった。昭和16年7月17日、茅舎永眠。

   一枚の餅のごとくに雪残る

   金剛の露ひとつぶや石の上

  しんしんと雪降る空に鳶の笛

  ひらひらと月光降りぬ貝割菜

  生き馬の身を大根でうづめけり

  花杏受胎告知の翅音びび

  約束の寒の土筆を煮て下さい

   「約束の」の句は、病状が思わしくなく、なんとなく食欲がない。自分はいったい何が食べたいのだろうと自問したとき、以前約束しておいた「つくし」を思いだした。まだ冬で思うように手にはいらないかもしれない。しかし、そんなことはどうでもいい。とにかく「約束の寒のつくしを煮て下さい」と身の回りを世話してくれる姉の秋子に頼むのだった。

  兄龍子は戦後も壮大気宇な大作を数々発表し画壇の雄として名をはせた。昭和34年には文化勲章を受章、昭和38年6月6日、川端龍子記念館(東京都大田区)を設立した。3年後の昭和41年4月10日、老衰のため死去する。享年80歳。龍子は金力、権力にこびることを何よりも嫌って反骨心が強く、生涯在野精神に一貫した人だった。「画人生涯筆一管」という句にその精神がよく現れている。

ゲーテとシラーの友情

友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする(シラー)

    ヨハン・クリストフ・フリードリッヒ・フォン・シラー(1759-1805)は、1759年11月10日、シュヴァーベン地方のネッカール河の小さな町マールバッハに生まれた。1787年7月21日、シラーはワイマールに着いた。ゲーテ(1749-1832)はイタリア旅行中であったが、ウィーラント、ヘルダーなどと会った。9月7日、ゲーテと初めて会う。1788年12月15日、シラーはゲーテの推薦によってイェーナ大学の歴史の員外教授に就任した。その後、二人の間で手紙のやりとりが交わされたものの、1794年7月20日頃、イェーナの自然科学の学会の帰途ケーテとはじめて胸襟をひらいて語り合うことができた。これが機縁となって二人は急速に親密な友情で結ばれる。

   シラーと付き合いはじめてゲーテの文筆活動は急速に活発になっていった。「ヴィルヘルム・マイステルの修業時代」が完成を見る(1796年)。シラーと共同で文芸批評的な短詩「クセーニエン」(1796年初めより)を書き続ける。1797年3月には「へルマンとドロテーア」ができる。そして「ファウスト」が書き継がれていった。

   1805年5月9日、46歳でシラーが没すると、ゲーテは数日間泣き続けた。親友の音楽家ツェルターにあててこう書いている。「私は自分が死ぬかと思ったが、その代わりに一人の友を失った。そしてこの友のうちに私の存在の半分を失った」。

病床で傑作をものにした作家

   「出家とその弟子」や「愛と認識との出発」などで知られる倉田百三は闘病生活が長かった作家である。そのため「病床で傑作をものにした作家」というレッテルを貼られることがある。これに対して倉田百三の妹である作家・倉田艶子(1896-?)は「出家とその弟子は兄の文筆生活中の一番健康な時に書かれたものだ」と反論している。(「出家とその弟子」ができるまで)

   「病床で傑作をものにした作家」というレッテル誕生の発端は、どうやら倉田の晩年に交友があった文芸評論家・亀井勝一郎にありそうだ。「倉田氏の生涯をみてふしぎに思うことは、病気のとき傑作をかき、健康なとき駄作をかいたことである。「出家とその弟子」の読者は、ここにみなぎる逞しい意力と情熱に驚くであろう」とある。(新潮文庫解説)

   大正5年6月、姉の政子が重態であるとの知らせに、百三、艶子は帰省した。7月15日には政子死去する。倉田百三の年譜などでよく「出家とその弟子」は帰省先で脱稿したことになっているが、艶子の記憶によると帰省先で書かれたものではないという。百三が発病するのは翌年の大正6年になってからのことで、「出家とその弟子」は大正5年の健康時に書かれたものであるという。百三の帰郷と発病とが前後して名作誕生となっているが、事実は艶子の証言どおりであろう。

   倉田百三(1891-1943)。明治23年2月23日、広島県比婆郡庄原町字庄原(現・庄原市)において、倉田吾作の長男として生まれる。一高時代、西田幾多郎に傾倒する。また宗教家・西田天香(1872-1968)の修養団体・一燈園に入る。「出家とその弟子」の親鸞は西田天香がモデルといわれる。

2007年8月29日 (水)

陸奥宗光の令嬢・陸奥冬子

   陸奥宗光の孫・陸奥陽之助は昭和28年11月、陸奥家の墓所を大阪夕陽岡から鎌倉寿福寺へ移した。墓碑側面には下記の名前が刻まれている。

陸奥蓮子(宗光の妻) 明治5年2月11日

伊達千広(宗光の父) 明治10年5月18日

伊達政子(宗光の母) 明治17年11月13日

陸奥清子(宗光の長女) 明治26年1月3日

陸奥宗光         明治30年8月24日

陸奥亮子(宗光の妻) 明治33年8月15日

陸奥冬子         明治37年5月21日

陸奥イソ子(長男の妻) 昭和5年6月8日

陸奥広吉(宗光の長男)昭和17年11月19日

   なお、二男の陸奥潤吉(1870-1905)は古河市兵衛(1832-1903)の養子となり、足尾銅山公害問題の処理などに心血を注ぎ、明治38年に死去したが、墓所は古河家にある。ところで墓碑にある、陸奥冬子であるが、前後の関係から判断して陸奥宗光の二女であることは間違いないであろう。ウィキペディアではその名前こそ無かったが、冬子ことまさしく陸奥亮子の実子であろう。以上のことから推測できることは、金田亮子(この名前も伯爵夫人となって後に名付けたもので当時は「りよう」だった)は、17歳で嫁いだときすぐに3人の子の母親となった。幼い子どもたちは実の母の顔さえ知らず(おそらく蓮子の写真はなかっただろう)、若くて美しい亮子を本当の母と思って成長したであろうし、亮子も4人の子を分けへだてなく愛情をもって育てたであろう。明治33年8月18日東京朝日新聞には「伯爵陸奥広吉母亮子儀永々病気の處療養不相叶昨十五日午後九時逝去間此段謹告仕候也」とある。広吉、潤吉、清子にとって亮子は母であったことはまぎれもない事実であろう。つまり、陸奥家には陸奥清子(1871-1893)、陸奥冬子(1873-1904)の二人の令嬢がいた。二人は22歳、31歳で嫁すことなく早世した。

2007年8月28日 (火)

陸奥家の二人の深窓の令嬢

    明治の外務大臣・陸奥宗光(1844-1897)の後妻は「ワシントン社交界の華」と讃えられた陸奥亮子(1856-1900)である。本名りやう。母・山岸むめの娘。父はむめが仕えていた旗本で金田淡路守とも播州竜野藩士ともいわれはっきりしない。ともかく、亮子は庶子として安政3年ごろ生まれ、明治のはじめ頃には、東京新橋柏屋で小兼という名で売り出していた。明治5年に宗光と亮子は知り合い、深い仲になる。このとき宗光には、すでに妻の吹田蓮子と広吉と潤吉という二人の男子がいた。蓮子は病弱で明治5年2月11日に急逝してしまう。この年、宗光と亮子は結婚する。明治6年7月30日、清子(さやこ)誕生する。以上述べたことが通説である。萩原延壽「陸奥宗光」(朝日新聞社)所収の「陸奥宗光年譜」でもそのようになっている。

   ところが、ウィキペディアの「陸奥亮子」の項目では次のように記述されている。

   1872年、陸奥宗光の先妻蓮子が亡くなり、翌1873年、17歳のとき宗光に見初められて後妻となった。先妻の遺した子は、長男広吉と次男潤吉、長女清子の三人だった。結婚の翌年、宗光との間に娘が生まれており、1877年には舅にあたる伊達宗広が死去している。

   ウィキペディアによると、陸奥清子は先妻・吹田蓮子の子という。蓮子も元芸妓であり、美人であったことは想像に難くない。そして長男の陸奥広吉の写真を見たが、美青年であった。つまり相思相愛で結ばれた宗光と蓮子は明治4年ごろに女子を誕生していた可能性は十分にある。この間の事情はおそらく歴史関係の専門雑誌などですでに明らかにされていることであるかもしれない。ウィキペディアの作者は、新研究の成果をふまえての叙述かもしれない。ただ疑問に思うのは、陸奥亮子が明治6年に産んだ女児の名前やその後の消息が明らかでないことである。また長女清子は明治26年12月に享年21歳で死去しているが、出身学校とか、経歴とかほとんど不明なことも謎の一つである。「ワシントン社交界の華」陸奥亮子はよく知られているが、二人の若くて美しい娘たちは、本物の明治の深窓の令嬢であり、いまだに秘密のベールにつつまれているのである。

2007年8月27日 (月)

大正三美人

     明治41年3月、アメリカのヘラルド・トリビューンという新聞社から依頼されて、日本で初めての全国美人写真コンクールがおこなわれた。1位には、九州・小倉市長・末弘直方の令嬢で学習院中等科3年生の末弘ヒロ子(数え年16歳、1892-1942)が選ばれた。日本第1位の彼女は世界では第6位として入選した。しかし、このことが学校で問題となった。当時の学習院長・乃木稀典は粋な計らいをした。末弘ヒロ子を中途退学させて、乃木将軍夫妻の仲人で、野津道貫元帥の長男・野津鎮之助と結婚させ、伯爵夫人となった。

   このときの令嬢たちの写真を見ると、細面の愁い顔の美人は少なく、明眸皓歯の明るい感じの美人が多い。大正になると、映画女優が注目されだして、芸者型美人、令嬢型美人と分化される。

    明治・大正時代の美人といえば、一中節の名手として有名だった日向きん子がいた。彼女は純粋の日本美人とは違っていたという。因みに日向きん子は藤田まことの伯母にあたるという。

   九条武子(1887-1928)、柳原白蓮(1885-1967)、江木欣々(1877-1930)を大正三美人ということがある。九条武子は旧姓・大谷武子。明治20年10月20日、京都西本願寺大谷光尊の二女として生まれる。明治42年、男爵九条良致と結婚。才色兼備の歌人として知られた。柳原白蓮は北小路資武と結婚したがほどなく、離婚。九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚したが、宮崎龍介との恋愛で話題をふりまく。大正12年、宮崎と結婚し、情熱的歌人として知られた。江木欣々は、新橋の芸者で、法律学者江木衷(1858-1925)と結婚し、社交界で名を知られた。昭和5年2月20日、早川徳次(1893-1980)の家で縊死。

陸奥宗光の令嬢・陸奥清子

    陸奥宗光(1844-1892)には亮子夫人という明治を代表するような美人がいることはよく知られている。しかし娘の清子(さやこ)が亮子の子であるのか、前妻の蓮子の子であるのは、諸書により異なる。

   陸奥宗光は幕末のころ陸奥陽之助と名のり、坂本龍馬の海援隊に属していた。維新後も土佐人脈によって栄達した。その土佐人が西郷隆盛の反乱に呼応して薩長の政府を倒そうと画策し、陸奥も反乱を企てたとして、山形の監獄に、ついで宮城の監獄に入れられた。山県有朋内閣の農商務相などを経て、伊藤博文内閣の外相となり、イギリスとの条約改正を実現、日清戦争の下関条約には全権として主席した。

   陸奥宗光には前妻の吹田蓮子(ふきたれんこ、陸奥蓮子)との間に三人の子がいる。長男・陸奥広吉(外交官、1869-1942)、二男・陸奥潤吉(古河市兵衛の養子・古河潤吉、1870-1905)、長女・陸奥清子(むつさやこ、1871-1893)。

    明治5年2月11日、蓮子が病死し、翌年、新橋柏屋の芸妓・小鈴(小兼)と結婚する。本名・金田亮子といい、没落した幕臣の娘だった。亮子17歳、宗光29歳。

    若くして死んだ陸奥清子であるが、誕生年が明治4年説と明治6年説がある。明治6年説では、後妻の陸奥亮子が18歳のとき産んだ子としている。明治4年説では前妻の蓮子の子としている。かつてドラマ「明治の群像」(昭和51年、江藤淳原作)で女優山口智子(NHK連続テレビ小説のヒロインとは別人か)が陸奥清子を演じたことがあるらしいが、若くして病死したので詳しい資料があまり残っていないらしい。もし陸奥亮子の娘であればさぞや美しいかったであろう。前妻の蓮子も大阪の難波新地の芸妓だったので美しかったであろう。ただ蓮子は病弱だったので、もしかしたら清子を産んで死んだのかもしれない。

お笑い三人組は楽しい

   むかし「お笑い三人組」というNHKの長寿番組があった。(昭和31年~41年)。三遊亭小金馬、一竜斎貞鳳、江戸屋猫八の三人が主役の下町喜劇。「お笑い三人組」という言葉はしっくりと決まるが、これが「お笑い四人組」だと何故かおさまりが悪い感じがする。3人だと、ボケ、ツッコミ、残る1人がオサメル、ナダメルでクッションとしての役割をはたすので自然にバランスがとれるという説がある。トリオはまさに黄金比率なのだ。

   同じころ外国テレビで「三バカ大将」という伝説の番組があった。リアルタイムで見た本当に幸せな世代だ。「ウッヒハ ヘンチクリン ヘンチクリン ドンスカドン ラリーだ モーだ カーリーだ」という主題歌で始まるドタバタ喜劇。ラリー・ハワード(1895-1975、オカッパ)、ラリー・ファイン(1902-1975、途中まで禿あがっている)、カーリー・ハワード(1895-1955、丸坊主)。カーリーが死んで、途中からジョー・デリータに変わった。

   昭和30年代、トリオ漫才の全盛期だった。かしまし娘(庄司歌江、照枝、花江)の「うちら陽気なかしまし娘、誰が言ったか知らないが、女三人寄ったら、かしましいとは愉快だね」という明るい歌声がラヂオから聞えたのは昭和32年のことだった。フラワーショウ(ぼたん、ばら、あやめ、昭和36年結成)、ちゃっきり娘(昭和39年結成)、ジョウサンズなど関西では女性の音曲トリオ漫才も華やかだった。

   テレビが一般家庭にも普及しだしたころ、脱線トリオ(由利徹、南利明、八波むと志)が爆発的人気者だった。脱線に対抗して、転覆ということで「てんぷくトリオ」(三波伸介、戸塚睦夫、伊東四朗)、「トリオ・ザ・パンチ」(内藤陳、井波健、栗実)、「ナンセンス・トリオ」(江口章、岸野猛、前田隣)、「トリオスカイライン」(小島三児、原田健二、東八郎)など続々誕生した。関西でも「漫画トリオ」(横山ノック、フック、パンチ)、「タイヘイトリオ」(夢路、糸路、洋児)、「宮川左近ショー」、「レッゴー三匹」(正児、じゅん、長作)などトリオ漫才は盛んであった。

    映画界でトリオの黄金比率を発見した監督といえば、東宝の杉江敏男であろう。杉江は美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ、の三人娘シリーズで大ヒットを連発した。「ジャンケン娘」「ロマンス娘」「大当り三人娘」である。つづいて杉江は、団令子、重山規子、中島そのみ、で「銀座のお姐ちゃん」「大学のお姐ちゃん」などで社会現象にもなる流行語や新風俗を生み出した。団令子の「アンパンのへそ」というキャッチ・コピーは傑作であるし、お姐ちゃんが若くてハンサムな青年に「あんたMMKね」と言ってからかうMMK(もてて、もてて、困るでしょ、という意味)は当時の女性が使用していた。実際にケペルも若手頃、職場の年上の女性から言われたことがある。このいわゆる「お姐ちゃんシリーズ」の骨格は加山雄三の「若大将シリーズ」に継承されていく。大学の若大将・田沼雄一(加山雄三)、対象的なドラ息子・青大将(田中邦衛)、美人のすみちゃん・澄子(星由里子)と、やっぱりトリオ映画だ。TV時代劇では五社英雄の「三匹の侍」(丹波哲郎、平幹二郎、長門勇)が人気を博した。

   近年の洋画ヒット作品をみても、「ハリー・ポッター」「パイレーツ・オブ・カビリアン」「シュレック」など三人組であることに気づく。トリオは不滅の黄金比率である。

昭和平成の政治と閨閥

    近衛文麿と吉田茂はどちらが早くに生まれたか。戦前の近衛、戦後の吉田、ということで近衛文麿が年長のような気がする。ところが、近衛文麿は明治24年生まれで、吉田茂は明治11年生まれ。吉田茂が13歳も年上である。それは、昭和20年の近衛文麿の服毒自殺は記憶にないが、昭和42年の吉田茂の国葬を記憶しているせいかも知れない。

   ところで、近衛文麿といえば、「英米本位の平和主義を排す」という大正7年の論文があり、後年の東亜新秩序への方向を示したといわれる。一方の吉田茂は戦後の講和条約・日米安全保障条約で知られる政治家であろう。対極ともいえる二人の昭和の政治家が平成の政治家の存在で結びつこうとしている。本日にでも自民党の幹事長に就任されるであろう麻生太郎である。よく知られるように麻生太郎の祖父は吉田茂である。近衛忠煇(近衛文麿の孫)の妻は三笠宮寗子。ヒゲの殿下・三笠宮寛仁の妻は麻生太郎の姉の信子。つまり、麻生太郎は三笠宮家を通じて、近衛文麿と吉田茂という戦前・戦後の政治家の流れを体現する人物である。安倍首相のスローガンであった「戦後からの脱却」は、麻生太郎の幹事長起用を閨閥からみると、戦中・戦後政治の継承というべきものである。

2007年8月26日 (日)

台湾ゴールドラッシュ

   中国では古く台湾を琉求とよび、明代以降は小琉球と呼んだ。また別称としては神仙思想にもとづく蓬莱島という呼称もある。日本では高砂、高山国とよび、ヨーロッパではポルトガル航海者が美麗島 Ilha formosa(イラ・フィルモサ)と称したのが、フィルモサの起源となり、清以後は台湾と公称されるようになった。台湾は日清戦争後、台湾総督府が置かれ、明治28年から昭和20年まで半世紀以上にわたる日本の統治下時代に、鉄道の開通、基隆港の整備、台湾銀行の設立など資本主義経済の準備はほぼ整った。しかし日本の台湾経営は島民から農地・山林を奪い、低賃金で労働者を雇って多くの収益をあげてきたため、多くの民衆は貧困で生活水準は低かった。

   昭和14年11月24日、台湾総督府(第18代総督・長谷川清)の総務長官が来日の際に船中で次のような談話をした。「台湾中部のタッキリ渓上流で小笠原技師が10月末に純度92%の砂金を見つけた。台湾には大砂金源があるのではないだろうか。」この小笠原談話によって、不安で暗い社会ムードにときならぬ黄金騒動が起こった。

    12月19日には、東京帝国大学教授で工学博士・鉱山学の権威である佐野秀之助(さのひでのすけ)を団長とする砂金調査団がタッキリ上流のタビト蕃界を調査することとなった。石崎技師や高砂族人夫150人などが入山試掘した。12月20日、ドヨン、タウサイ、シリチヤの岩丘を調査したが、結果は採掘は採算にあわない僅かの砂金であり、調査団は12月24日に下山した。

   しかしそのころ日本国内では、仙台と札幌の鉱山監督局に3万件を超える試掘届が殺到するという大騒ぎになっていた。やがて台湾砂金騒動は儚い夢となって消えていった。

関屋敏子とゾルゲ事件

    アメリカ南北戦争の英雄ル・ジャンドル将軍(1830-1899)を祖父にもつ関屋敏子(1904-1941)は、日本人として最初にハリウッドホール公演をもった声楽家である。この世界的なプリマドンナ関屋敏子が、ゾルゲ事件に関係して、38歳の若さで、昭和16年11月23日深夜、自宅の二階で縊死したことはあまり知られていない。

   ル・ジャンドルはフランス人であったが、アメリカに移住帰化して、南北戦争で活躍し、明治5年、アメリカ公使デ・ロングの紹介で外務省顧問となる。明治6年、副島種臣に随行し、清国に渡る。台湾問題の功績により、「李仙得」「李善得」「李聖得」などの名前が与えられる。また松平春嶽の庶子・池田絲と結婚し、一男二女をもうけた。男子はのちの第十五代市村羽左衛門(1874-1945)、女子は関屋敏子の母、愛子である。大名の娘とフランス人との間に生まれた録太郎(のちの第15代市村羽左衛門)は4歳の時、歌舞伎役者坂東家の養子となり、第15代目をついでからは団・菊なきあとの歌舞伎界の名優となった。「花の橘屋、前髪役者」と呼ばれ二枚目中の二枚目。妹の愛子は実業家・関屋祐之介と結婚。明治34年3月12日、東京市小石川区に生まれる。小さい頃から琴や日本舞踊・長唄などを習う。のち三浦環に見出され、大正14年デビュー。イタリア人のサルコリーに師事し、昭和2年イタリアに留学。ボローニャ大学でディプロマ(学位)を取得。スカラ座のスキャボニーに師事し「椿姫」「ルチアン」「リゴレット」を習得。帰国後、昭和9年、「歌劇お夏狂乱」(川路柳虹作詞、関屋敏子作曲)を自演。昭和12年、旧将軍家剣道師範の家柄・柳生五郎と結婚。ところが、昭和16年10月、スパイ容疑で尾崎秀実、リヒャルト・ゾルゲがスパイ容疑で逮捕されるという国際的スパイ事件が起こった。犬養健、ロベール・ギランなど関係者数百人が参考人として取調べを受けた。関屋敏子とゾルゲとの関係の真偽は明らかになっていない。敏子の自殺の原因がゾルゲ事件であるのか、芸術・生活上の悩みであるのか、謎のままである。

何が彼女をそうさせたか

    昭和5年11月14日、浜口雄幸(1870-1931)首相が、東京駅で愛国社員・佐郷屋留雄に狙撃された。腹部を撃たれて、「男子の本懐だ」と言ったとされるが、手術で一命を取り留める。浜口内閣は海軍軍縮条約を結んだことから野党の政友会や軍部、右翼からの統帥権を侵すものだと攻撃されていた。狙撃犯も統帥権干犯への不満があったとされる。

 浜口首相狙撃事件のあったこの年は、世界恐慌の影響で日本経済は深刻な打撃を受けていた時代であった。解禁による為替相場の急騰に伴う物価と株式の暴落、糸価・米価の大崩落は、農村不況を一段と深刻にした。政府の産業合理化政策が人員整理、賃金切り下げ、労働強化を招き、不況はさらに進んだ。その結果としての貧困、失業、労農の争議。そしてこれを抑圧するための政治的弾圧、階級的対立の意識はこれまでになく拡大し深化し、労働階級の革命化も大衆に浸透していった。このような一般情勢は、文学、演劇、映画界にも波及した。文学の世界では小林多喜二の「蟹工船」(昭和4年)などのプロレタリア文学、演劇の世界では築地小劇場のプロレタリア演劇が労働者、学生を集めていた。映画にも「斬人斬馬剣」(伊藤大輔監督、月形竜之介主演)、「下郎」(辻吉郎監督、河部五郎主演)、「一殺多生剣」(伊藤大輔監督、市川右太衛門主演)、「傘張剣法」(辻吉郎監督、沢田清主演)などの傑作が昭和4年に現れた。これらはプロレタリア的イデオロギーにつらぬかれているというので「イデオロギー映画」、または「傾向映画」とよばれる一群の映画のはしりとなった。しかし、「傾向映画」という言葉がジャーナリズムのうえに大きく登場したのは、「生ける人形」(昭和4年、内田吐夢監督)が大衆的成功をかちえたからであった。これは地方から出てきた野心家で出世主義に徹した一人の青年の、東京での浮き沈みを物語りながら、彼を生きた人形として操り躍らせる資本主義の巨大で複雑で悪意にみちた機構そのものに迫った作品である。続いて傾向映画の代表作といえ作品が昭和5年に現れた。「何が彼女をそうさせたか」(鈴木重吉監督、高津慶子主演)であった。藤森成吉の原作のこの映画は、孤児院に育った一少女が、冷酷な世間の荒波にもてあそばれ、しいたげられて、最後には放火犯人としてひかれていくまでを扱っているが、題名がすでにそれを明示しているように、犯罪者は「彼女」ではなくて、彼女をそうさせた社会の矛盾と残忍さそのものであることをするどく弾劾した。最後に牢獄の鉄格子から彼女の怒りの顔が大写しになる。当時まだ無声映画の時代で、舞台のソデから弁士が、このとき「ナニガ、カノジョヲ、ソウサセタカ!」というやいなや、満員の観衆が「資本家だ!」「そうだ!」と叫ぶという、すさまじい情景であったという。

   参考までに、そのころ(昭和5年ころ)の物価は次のようである。

月給(初任給)は大学卒(会社員)60円、女(タイピスト)40円、電話交換手35円、女性事務員30円。

米1升25銭、醤油1升48銭、味噌100匁8銭、砂糖100匁23銭、卵100匁18銭。

コロッケ4 個10銭、刺身一人前15銭、塩鮭4切10銭、食パン1斤8銭、リンゴ4個10銭。

うな丼30銭、カツ丼15銭、なべやきうどん12銭、うどんかけ8銭、支那そば10銭、寿司20~30銭、ランチ35~50銭、とんかつ25銭、ビール(カフェーなどで)1本50銭。

床屋15銭、銭湯5銭、タバコ(バット)7銭、歯磨き10銭、ハガキ1銭5厘、背広(三つ揃い)オーダー25円~45円、ワイシャツ(オーダー)1円20銭、足袋25銭、さらし1反25銭、ゆかた1円。

ヨーヨー1個10銭、映画入場料(封切)50銭、雑誌50銭、単行本(全集物の1冊)1円、ミルク・紅茶5銭、コーヒー7銭、地下鉄10銭、市電7銭、円タク(青山~銀座)50銭。

結婚式費用、モーニングなど衣装、30人ぐらいで400円、お産(入院1週間)25円、ミシン120円、冷蔵庫20円、借家(10坪の庭つき)25円から30円、洋服ダンス15円、桐ダンス30円。

   ちなみに、当時、年収1700円以下は所得税は課税されなかった。

2007年8月24日 (金)

日本海軍聯合艦隊誕生す

    日本海軍の聯合艦隊が編成されたのは、日清戦争(明治27年7月~明治28年2月)のときのことである。それ以前、海戦遂行を主目的とする「常備艦隊」は、明治22年7月始めて編成された。西日本警備を目的とする「西海艦隊」を併せて、司令長官伊藤祐亨海軍中将指揮下の「聯合艦隊」が組織されたのは、明治27年7月19日である。編成わずか6日後の25日、巡洋艦「吉野」(河原要一艦長)・「浪速」(東郷平八郎艦長)・「秋津州」(上村彦之丞艦長心得)は、豊島沖で「済遠」「広乙」を砲撃し、勝利する。9月の黄海海戦では「松島」「厳島」「橋立」の三景艦が参戦する。

   このような海軍の軍備拡張のため、明治26年2月26日、製艦費という税金が議会を可決している。つまり官吏は毎月の給料の十分の一を製艦費として天引きされるようになった。

    明治29年の熊本時代の漱石の収入は月給100円で、その中から製艦費10円、父へ10円、姉へ3円、毎月送金し、奨学金返済が7円50銭、書籍代が約20円、のこりの50円が家計として生活費に充てられる。誠に聯合艦隊を維持していくことは高くついたものだ。

2007年8月23日 (木)

熊本時代の夏目漱石

    夏目漱石(1867-1916)とラフカディオ・ハーン(1850-1904)という明治を代表する二人の文化人の奇妙なすれちがいはよく知られている。

    ハーン(小泉八雲)が松江から第五高等学校(現熊本大学)の英語教師として転任してきたのは明治24年11月19日のこと。3年後の明治27年10月、熊本を去り、神戸へ移る。漱石が松山から熊本五高に赴任したのは明治29年4月のことである。この熊本時代、漱石は貴族院書記官長・中根重一(?-1906)の娘・中根鏡子(1877-1963)と見合い結婚している。漱石29歳、鏡子19歳。「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえなんかにかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」といっている。おそらく漱石は文学の方面で一流の学者となり、大きな仕事を一つ完成して、その余力をもって、人生論的な、あるいは社会時評的な文章を自由に、発表してゆきたいと思っていたのであろう。まだ作家生活に関心をもっていなかったようだ。

   熊本五高における漱石の教授法は、なるべく早く多くの英書を読めるようにすることにあったようである。生徒から「先生もう少し詳しく解釈して下さい」といわれると、漱石は、「お前たちがそんな風だから、いつまでも、上達しないんだ。もう、中学生じゃないぞ」と怒鳴りつけて、相変わらずきびきびした授業ぶりを続けていた。熊本五高時代、漱石の教えを受けた者には、寺田寅彦(1878-1935)、白仁三郎(のちの能楽評論家・坂元雪鳥、1879-1938)などがいて、俳句の指導も受けている。英語研究のため、現職のままで二年間のイギリス留学をしている。(明治33年9月から明治36年1月まで)

顰に倣う

   西施があるとき癪を病んで郷里に帰省した。癪で痛む胸を片手で押さえ押さえ、眉を顰めて歩くいていても、さすがは絶世の美人、えもいわれぬ風情で、見る人びとをうっとりさせる。すると、同じ村にすむ醜女たちがこれを見て、自分も胸を押さえ眉を顰めて、村の通りを歩きまわった。村人たちは、うっとり見惚れてくれるどころではない。ただでさえ醜いのに、とんでもない様子におじけをなして、金持ちの家では門を固く閉じて外に出ようとする者もなく、門もない貧乏人の家では、妻子をひき連れて村を逃げ出すという始末であった。

   この醜女たちは、西施が眉をしかめるようすの美しさはわかっても、何が眉をしかめることを美しく見せるかという理由がわからなかったのだ。聖人のことだからといって、猿まねは禁物だ。荘子は乱世の時代に、魯や衛の国がかつての周王朝の理想政治を再現させようというのは、とんでもない身のほどしらずで、西施の「顰にならう」みたいなもので、人から相手にされないというのである。(「荘子」天運篇)

2007年8月22日 (水)

長尾為景とゴッホ

    NHK大河ドラマ「風林火山」を楽しみに見ているが、いよいよドラマは川中島の戦いへとクライマックスに向かう。ところで過去にも大河ドラマでは「天と地と」「武田信玄」などがあったので、その配役の変遷を調べてみるのも興味深い。昭和44年の海音寺潮五郎原作の「天と地と」は石坂浩二(上杉謙信)、高橋幸治(武田信玄)であったが、滝沢修、宇野重吉、樫山文枝と民藝の看板スターが総出演している。とくに重厚、緻密な芸風で知られる「新劇の神様」滝沢修は、お茶の間のテレビではすこし近寄り難い印象があるが、意外に気さくな面もあったらしい。「天と地と」の配役は、上杉謙信の父・長尾為景の役であるが、これには次のようなエピソードがある。滝沢修は女優の新珠三千代のファンぶりは知られていた。これを知ったNHK側は、滝沢を担ぎ出すため、新珠三千代を妻の袈裟(のちの青岩院)とし、共演話をもってきたという。新珠さんのファンは、松本清張はじめ学者や文化人にも多いので、真実味のある話であろう。

   滝沢修(1906-2000)は、明治39年11月13日、東京に生まれた。大正13年に築地小劇場に入団し、翌年「ジュリアス・シーザー」で初舞台。左翼劇場をへて、昭和9年、新協劇団の結成に参加し、「夜明け前」の青山半蔵、「火山灰地」の雨宮聡などの名演技で名を知られたが、治安維持法違反により昭和15年8月から昭和16年12月に巣鴨拘置所に投獄された。戦後、久保栄、森雅之らと東京芸術劇場を結成。昭和22年、民衆芸術劇場(第一次民芸)を宇野重吉らと結成。昭和25年、滝沢修、清水将夫、宇野重吉らによって民芸が結成され、翌年、三好十郎作、岡倉士郎、村山知義演出で「炎の人」が初演された。ゴッホはもちろん滝沢修であるが、現在も大滝秀治で上演されている。初演の配役は、ゴーギャンを清水将夫、タンギーを宇野重吉、シーンを細川ちか子。昭和44年の再演は、テオを内藤武敏、ロートレックを山内明、ゴーギャンを清水将夫、アルルの踊子を有馬稲子。昭和51年の時は、ゴーギャンを芦田伸介、テオを伊藤孝雄、タンギーを内藤安彦、シーンを仙北谷和子。近年の大滝ゴッホでは、ゴーギャンを岩下浩、ロートレックを横島亘、ベルナールを千葉茂則、ポール・シニャックを矢野勇生、タンギーを水谷貞雄だった。先ごろ亡くなられた南風洋子さん(1930-2007)はベルト・モリゾの役だった。

   滝沢は10歳ころから鶴田吾郎(1890-1969)という有名な画家について油絵を習ったそうで、実際に油絵とカメラは相当な腕前である。戦前にステファン・ポラチェックの「焔と色」(牧野書店、昭和16年)という小説を式場隆三郎の訳で読んで感動した。これを劇化したいという思いはすでにその時から芽生えていた。ともかく滝沢・ゴッホは、その豊かな演技力によって、見る人に強烈な感動を与える歴史的名演技となった。

    因みに初演で宇野重吉が演じたタンギー爺さんというのは、ジュリアン・フランソワ・タンギー(1825-1894)のことで、パリのモンマルトルの画材兼画商。当時さっぱり売れなかったゴッホらの絵を買って画材の代金として、印象派の画家たちを支援していた。ゴッホの名画によって、人のよさそうな爺さんとして永遠に人々に愛され親しまれ続けている。

ポン・タヴァンのゴーギャン

    フランス西部ブルターニュにあるポン・タヴァンは、人口500人ほどの小さな村だったが、1886年にポール・ゴーギャン(1848-1903)が最初に訪れたころには、すでに画家たちにはよく知られた保養地となっていた。ゴーギャンはこの町で仕事に熱中するとともに、ボヘミアンのような生活を送ったが、ほかの芸術家たちは彼の強い性格を尊敬していた。ゴーギャンの周囲に集まった若い画家たち、エミール・ベルナール(1868-1941)、ポール・セリュジェ(1863-1927)、クーノ・アミエ(1868-1961)、アルマン・セガン(1869-1903)らは後にポン・タヴァン派と呼ばれ、20世紀美術を予告するような様々な絵画制作上の実験を行なった。

   1888年10月、ゴーギャンは2年ばかり前にパリで会ったことのあるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)からの招きで、南フランスのアルルで共同生活をすることになった。ゴーギャン40歳、ゴッホ35歳。最初の数週間の共同生活は順調だった。しかし、共同生活するには、2人の個性はあまりにも違いすぎた。見たものしか描けないゴッホに対して、ゴーギャンは想像力を駆使して表現した。また、画材の使い方や、お金のやりくりなどで、乱雑さが目立つゴッホは、神経質で几帳面なゴーギャンに、何度もその弱点を指摘されている。そして1888年12月23日、クリスマスをひかえた町を歩くゴーギャンを、突然かみそりを持ったゴッホが追いかけてきた。驚いたゴーギャンが、それでも厳しい視線でにらみつけると、ゴッホは何もできず、そのままうなだれて走り去る。翌日になって、ゴーギャンが家に戻ってみると、ゴッホは血まみれになってシーツにくるまっていた。この「耳切り事件」によって、ゴーギャンとゴッホの2ヵ月間の共同生活は終わった。パリに戻ったゴーギャンは、1891年4月1日、マルセイユから船出してタヒチに向かった。

テオとヨハンナ

   ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、サン・レミの精神病院で約1年間の入院生活の後、退院し、パリにいる弟テオドルス・ファン・ゴッホ(1857-1891)のもとに帰った。1890年5月20日、ゴッホは精神科医ポール・フェルディナン・ガシェ(1828-1909)のいるオーヴェル・シュル・オワーズへ列車で向かった。オーヴェルの豊かな自然と美しい風景はゴッホを慰めた。しかし、このときすでに悲劇の影は差し始めていた。

   1890年7月、ゴッホは久しぶりに弟テオとその妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(ボンガー、1862-1925)のいるパリに戻った。パリ滞在中は、ロートレックやアルベール・オリエに再会した。しかしある日、ゴッホとテオとの間で些細ないさかいが起こった。ゴッホが作品の保管の仕方を非難したのに対して、テオはいまの経済状態の苦しいことをこぼしたのだ。それは、テオにとっては口が滑ったくらいの小さな愚痴だったが、ゴッホの張りつめた糸を切ってしまうには十分すぎる言葉だった。

   1890年7月27日、ゴッホは拳銃で自殺を図った。2日後の29日、テオに見守れながら息をひきとる。「人間の苦しみは生きるているものだ」という言葉を残して。兄を尊敬しつづけ、理解者であろうと努めたテオもまた、兄の死からわずか半年で亡くなった。

   ゴッホは、わずか37年という短い生涯で、二種類の巨大な作品を生み出した。一つはデッサンと油絵からなる造形的な作品、もう一つは文学作品とよぶにふさわしい膨大に量の書簡である。テオの死後、652通にものぼった手紙の束を3巻の書簡集にまとめたのは、テオの妻ヨハンナだった。24年の歳月をかけてこの書簡集を刊行するまでの間、ヨハンナはテオの所蔵したゴッホの作品を世間に認めさせる活動に献身。その尽力は並大抵のものではなかった。手紙の整理は困難が多い仕事だ。しかし何よりも彼女は出版のタイミングを辛抱強く待った。愛情と知性をもった彼女の仕事は、息子フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(V.W.ファン・ゴッホ、1890-1978、技師)に引き継がれ、1931年からアムステルダム市立美術館で常設展示されることとなった。こうしてゴッホの評価は高まり、1960年にはゴッホ財団設立。1973年、国立ゴッホ美術館が開館され、作品はここに集められた。

亡羊の嘆

   むかし、中国に楊子という学者がいた。あるとき、隣家の羊が一匹逃げた。隣人は一家総出で、楊子の家の召使まで借り出して、羊探しに出かけるという騒ぎだった。

   それで、楊子が、「たった一匹の羊を追いかけるのに、なぜそんなに大勢要るのですか」ときいた。

    隣の人は、「逃げた方角には岐路(わかれみち)が多いから」と答えた。やがて、しばらくたつと、羊を探しに行った人たちがクタクタになって帰ってきた。そこで、楊子が「どうしました。羊は見つかりましたか」と聞いた。

   すると、隣の人は「岐路にまた岐路があって、とうとう羊がどこへ行ったかわからなくなったから、あきらめて帰って来た」という。(「列子」説符篇)

    多岐亡羊とは、「逃げた羊を追ううち、道が幾筋にも分かれていて、羊を見失ったというこの故事から、学問の道があまりに多方面に分かれていて真理を得難いことをいう。転じて、方針が多すぎてどれを選んでようか迷うこと」と広辞苑にある。

    「荘子」駢拇篇には次の話がある。男と女のふたりの働き者が、いっしょに羊の番をしていたが、ふたりとも羊を見失ってしまった。主人が怒って下ばたらきの男にたずねてみると、本をかかえて読書していたといい、下ばたらきの女にたずねてみると、双六をして遊んでいたという。ふたりのやっていたことは違っているものの、羊を見失ってしまったことでは同じである。要はほんとうの目標をしっかり把握していないのである。この戒めは学問ばかりではない。人間の生き方についても考えさせられる。ただし、荘子の故事における男女の行動の相違は、儒家の君子と小人との区別に対する批判の意味が含まれているようだ。

2007年8月20日 (月)

宇佐美定満と山本勘助

    NHK大河ドラマ風林火山「勘助捕らわる」。天文20年、長尾景虎(ガクト)と長尾政景との間に戦が展開した。あらたに軍師となった宇佐美定満(緒方拳)の策が奏し、政景は景虎の軍門に下り、ついに越後は統一された。このとき景虎の姉の桃(西田尚美)と政景の和睦の証に婚儀がなされた。桃はのち仙桃院(1528-1609)といい、上杉家を継ぐ上杉景勝(1555-1623)を産む。

   ところで、期限までに鉄砲を用意できなかった勘助は処刑されることになる。最後に、長尾景虎は勘助にいう。「鷦鷯、深林に巣くうも、一枝に過ぎず」鷦鷯(しょうりょう)、スズメ目ミソサザイ科の非常に小さい鳥。みそさざいは、深く大きな林の中に住んでいるが、その巣をかけている所は、一本の樹のひと枝にすぎない。人はそれぞれの分に応じて満足する心がなければならないという意味。

   この場合、景虎は、勘助の傑出した才能を見抜いて越後に仕官することをすすめたが、拒まれたため、「荘子」をもちだしたのである。

    これに対して、勘助は「おれは荘子は好まぬ。孫子で言え!」と応えた。その瞬間、根来衆の鉄砲が届いた。

2007年8月19日 (日)

吉永小百合と山路ふみ子

   オリコンが「品格のある著名人ランキング」を男女別に調査したところ、イチローと吉永小百合が第1位に選ばれた。吉永は昭和61年からボランティアで全国の小中高生たちの前で原爆詩の朗読会を開いてきた。この20年間で2百数十回にも及ぶ。

   吉永小百合が昭和38年1月に第13回ブルーリボン賞女優主演賞を史上最年少で受賞したとき大きな話題になったことを思い出した。昭和25年からの受賞者は、淡島千景、原節子、山田五十鈴、乙羽信子、高峰秀子、望月優子、山本富士子、北林谷栄、岸恵子、若尾文子であった。「キューポラのある街」(浦山桐郎監督)の撮影中は精華学園女子高等学校在学の17歳だった。吉永の映画デビューは昭和34年の「朝を呼ぶ口笛」から4年間ですでに27本の出演作があったが、浜田光夫とのコンビの「ガラスの中の少女」「草を刈る娘」に続く、本格的主演映画であった。その後の数多い主演作品のなかでも、昭和60年の「夢千代日記」(浦山桐郎監督)は彼女の大きな転機となった作品である。こののち朗読会を開くようになる。また第11回山路ふみ子賞女優賞を受賞している。吉永の数多い受賞歴であまり注目されることはないかも知れないが、山路ふみ子映画賞は戦前の新興キネマなどて活躍した女優の山路ふみ子が私財を投じて、昭和51年に文化財団を設立したもので、現在も続いている。その年の一番早くに発表があり、とくに女優賞が注目される。近年は蒼井優、紫咲コウなどが受賞している。吉永小百合は女優としての自覚がてできたころ、とくに田中絹代を意識していたようだし、彼女の半生まで演じているが、実は山路ふみ子という女優も溝口健二が育てた女優の一人である。

    山路ふみ子(1912-2004)。本名大久保ふみ子。昭和4年、ミス神戸で、昭和6年「神戸行進曲」でデビュー。昭和12年「愛怨峡」で東京の大学を出た温泉宿の若主人と駆け落ちしたものの、気の弱い男の親から呼び戻され、子どもをかかえて苦闘する宿の女中を好演した。この作品で溝口監督に鍛えられ、つづいて「露営の歌」「ああ故郷」「元禄忠臣蔵」など溝口作品に出演した。

   こうして考えると溝口監督は田中絹代にしても、山路ふみ子にしても、演技以上のもの、女優としての人生そのものに大きな影響を与えた人物であったような気がする。吉永小百合がこのような日本映画の良質の部分を継承して、品格ある女優としての道を歩んでいることはよろこばしいものであろう。

川端康成「伊豆の踊子」の映画化

   川端康成(1899-1972)の短編小説「伊豆の踊子」は雑誌「文芸時代」大正15年2月号、4月号に発表され、同年、金星堂から刊行された。松竹キネマが田中絹代(1909-1977)主演で映画化したのは、それから8年も後のことである。田中絹代はすでに23歳になっていたが、口もとに指を持っていくしぐさが可愛かった。「文芸時代」は新感覚派の文芸運動の強い雑誌で、「伊豆の踊子」は初恋物語の形を借りながら、職業差別や女性の地位の低さ、貧困など根深い当時の社会問題も原作にはみられるが、五所平之助(1902-1981)監督によって「恋の花咲く伊豆の踊子」(昭和8年)という抒情味あふれる作品となり、以後の映画化にも継承されていく。昭和8年当時、ほとんどの映画がトーキーになっていたが、わざわざサイレントで撮っている。「百舌が鳴く、天城七里の峠道」という字幕で、桃割れ姿の可憐な絹代が太鼓を背負って登場する。原作では「踊り子は十七くらいに見えた。私にはわからない古風の不思議な形に大きく髪を結っていた。それが卵形の凛々しい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。髪を豊かに誇張して描いた、稗史的な娘の絵姿のような感じだった」とある。田中絹代以降、踊子かおる役には、美空ひばり(昭和12生、当時17歳)、鰐淵晴子(昭和20年生、当時15歳)、吉永小百合(昭和20年生、当時18歳)、内藤洋子(昭和24年生、当時17歳)、山口百恵(昭和34年生、当時15歳)といずれも15歳から18歳の十代のヒロインが選ばれている。「芸術新潮、平成19年2月号」特集「おそるべし!川端康成コレクション」の記事に、川端康成と内藤洋子が並んで写っている写真が掲載されている。キャプションには「骨董屋には愛想のない川端だが、美女にはこんな優しい顔も。白いワンピースの少女は当時十七歳の女優、内藤洋子」とある。伊豆の踊子の撮影前に川端康成に面会したのは、内藤洋子だけではないだろうか。川端好みの美少女なのでご機嫌な様子が一枚の写真ではっきりと確認できる。内藤洋子主演の「伊豆の踊子」(昭和42年、恩地日出夫監督)は川端康成公認版といえる。映画には短編「温泉宿」の挿話も含まれている。

   ところで「伊豆の踊子」は6本の映画化作品のほか、テレビドラマとして5作品がある。かおる役には、小林千登勢、栗田ひろみ、小田茜、早瀬美里、後藤真希が演じている。昭和36年にはNHKは「連続テレビ小説」と銘打った小林千登勢「伊豆の踊子」を夜に放送した。この作品の成功により、4月3日から朝の時間帯に「娘と私」がスタートしたという。

   「伊豆の踊子」薫は女優の登竜門であるが、映画では昭和49年の山口百恵、ドラマでは平成14年の後藤真希を最後に登場していない。いま旬の10代女優のなかで、薫にふさわしいのは誰であろう。「パパとムスメの7日間」の新垣結良(19歳)、「花ざかりの君たちへ」の堀北真希(18歳)、「山田太郎ものがたり」の多部未華子(18歳)、「天然コケッコー」の夏帆(16歳)、「受験の神様」の成海璃子(15歳)、「14歳の母」の志田未来(14歳)、「風林火山・美留姫」の菅野莉央(13歳)といったところであろうか。

楡の梢までしか飛べない小鳥の話

    何千里もある翼を持ち、九万里を飛ぶことができるという鵬という鳥がいる。斥鷃(みそさざい)は、鵬のありさまを見て、あざ笑っていう。「われわれは力いっぱい飛んでも、楡の梢までしか飛べない。それでも結構飛ぶことの楽しみはあろうというもんだ。それなのにやつはいったいどこまで飛ぼうというんだろう」

   ここに、小さいものと大きいものの区別があり、小鳥に大鵬の心を知ることがどうしてできるであろうか。(「荘子」逍遥遊篇)

   荘子(前370?-前290?)。宋の蒙(河南省商邱県)の人。姓を荘、名を周という。漆園の番人をつとめたり、手内職などで飢えをしのぎ、戦乱の世をよそに、ひとり悠々と生活し、貧困のうちに一生を終わったといわれている。

   この逸話から「鵬鷃(ほうあん)」(大小の懸隔のはなはだしいことのたとえ)という言葉もある。荘子にはまず対象を二分法で捉えるが、それはあくまで人間思考の相対的なものでしかないとする。人為をなくすと、あとに残る世界は。二元の対立のない、すべてが斉(ひと)しい一つの世界である。これが「万物斉同」の立場である。

2007年8月18日 (土)

宗教団体「人民寺院」の白い夜

   ジム・ウォーレン・ジョーンズ(1931-1978)は、1931年5月13日、インディアナ州の郊外で生まれた。KKKの一員だった父親は彼が12歳の時に家族を捨て、以後、母親の手で育てられた。12歳の時にはじめて説教をした。1947年に宣教師の娘マーセリン・ボールドウィンと結婚。1957年にインディアナポリスで宗教団体「人民寺院」を設立。1965年、信者140人とカリフォルニア州ユキアに移る。1970年、サンフランシスコに移る。1977年、約1000人が南米ガイアナへ移る。そこでジョーンズ・タウンを建設し、信者は2500人になっていた。元信者であったグレース・ストーンが教団の実態を告発したのをきっかけに、マスコミがジム・ジョーンズを非難しはじめた。1978年11月14日、実態調査のため議員レオ・ライアンらが現地を訪れた。そして、現地を後にしようとした時、信者が急に発砲、議員ら5人が殺害された。

   1978年11月18日、追いつめられたジョーンズは、会衆たちに儀式的な集団自殺「白い夜」を命じた。信者は、桶にシアン化合物を加えた飲料を規律正しく飲んだ。916人の信者(うち200人ほどは子供)が彼の周りで死に、ジョーンズは頭を撃って死んだ。当時ジョーンズタウンにいたのは約1100人ほどだったので180人以上は生存者がいることになる。カルト宗教の集団自殺として最悪の事件である。

比較文学と海軍マニア少年

    島田謹二(1901-1993)は、文学を国際的な比較の目で検討する比較文学の日本における創始者として知られている。明治34年、東京神田に生まれ、東北大学英文学科卒業後、台北大学講師、旧制一高教授、東大教養学部教授、東大大学院比較文学・比較文化課程主任となる。エドガー・アラン・ポー、バイロン、マラルメ、上田敏、永井荷風、北原白秋、佐藤春夫、泉鏡花などを詳細に研究。後年、研究分野は、明治期ナショナリズムに及ぶ。「ロシヤにおける広瀬武夫」(昭和36年)「アメリカにおける秋山真之」(昭和45年)などの著書は、司馬遼太郎「坂の上の雲」(昭和43年から46年)に見られる司馬史観に影響を与えた。晩年には、89歳で「ロシヤ戦争前夜の秋山真之」(平成2年)を刊行した。

    島田は中学生の頃から海軍マニアで日本の軍艦のみならず、世界の軍艦をすべて知っていた。どこの国の駆逐艦は何トンで、大砲が何門あるか。日本の連合艦隊の軍艦から巡洋艦、魚雷艇まですべて艦名、排水量、だれが艦長か、いつどこでつくられたか。(いつどこで沈没したかは未来のことなのでもちろんのこと知らなかった)

    ある日、島田少年はイギリスの有名なジェーンズ年鑑を読んで間違いを見つけた。そしてその間違いを英語で書いてイギリスに送った。次の年のジェーンズ年鑑に、「プロフェッサー島田の指摘によってここに訂正する」と載ったという。

   島田謹二に限らず、大正から昭和初期に育った少年たちには軍事知識の豊富な少年は多い。不思議なことに戦後世代の中にも軍事マニアは多い。昭和35年から40年代にかけて少年誌は軍事ブームだった。初期の「少年サンデー」「少年マガジン」は特集記事が詳細で零戦や戦艦大和が人気だった。多くの少年は戦艦の名前ぐらいは総べて暗記していだろう。さらにマニアは「丸」という大人の雑誌を読む。夏の恒例東宝戦争映画が始まったのもこのころからだ。いろいろ批判もあろう。軍事史は複雑であり、資料も豊富なので、少年時代にそれを出発点として専門の歴史学や文学へと育っていくこともある。島田謹二の場合は語学に秀でていたので、比較文学へと進み、後年、広瀬武夫や秋山真之への人間学的洞察へと展開していった。「ロシアにおける広瀬武夫」の副題が「武骨天使伝」とあり、「「詩人北原白秋氏に献ず」とあり、石上露子の和歌「海こえてこゆきちりくる夕べなど こひしさの身に湧きまさるかな」が載せられているなどみても、比較文学で培われた視野の広さと実証的資料研究が融合されてユニークな研究成果となって結実したことがうかがわれる。

2007年8月17日 (金)

溝口健二と一条百合子

    「映画女優」(市川崑監督)は吉永小百合99本記念映画であり、田中絹代の生涯を吉永が演ずるというこで話題となった作品である。田中絹代は昭和15年「浪花女」という映画で溝口健二と出会う(劇中では溝内健二監督になっていた)。田中は後年、「溝口先生に会わなかったら、私の女優生活は終わっていたかもしれない」と語っている。

  菅原文太が演ずる溝内健二の背中の切り傷の話は、実際に起こった事件だ。大正14年6月11日の東京朝日新聞に「日活の溝口監督、情婦に斬らる、別れ話から剃刀で夕食中に大立ち回り」と報じられた。「赤い夕陽に照らされて」のロケーションから帰宅した溝口は、木屋町の芸妓で溝口に惚れ、押し掛け女房におさまっていた一条百合子と痴話喧嘩となり、カミソリで背中を切られ、溝口は謹慎させられた。事件当時溝口と自炊していて、一条を取り押さえた助監督の安積幸ニは、「あの事件以来、溝口さんの女性に対する執拗なまでの凝視がはじまった」という。映画「赤い夕陽に照らされて」は三枝源次郎監督の手によって完成した。そのころの溝口は酒乱で、お茶屋の床の間へ小便して庭の石灯籠に縛りつけられたり、大酒をくらって放埓の限りをつくし、売春婦に耽溺していた。一条百合子は、小柄でぽっちゃりとした丸顔、小股がきれあがっておきゃんな気風があり、溝口との痴話けんかは近所の評判だった。百合子は警察に引っ張られたが、すぐに釈放され、行方をくらました。溝口は、百合子が浅草にいると聞いて、追っかけて行ったが、会えなかった。

   もしも、溝口の女難がなかったなら、女を描いて随一の定評をとることもなかったかもしれない。「浪華悲歌」「祇園の姉妹」の梅村蓉子、山田五十鈴も「愛怨峡」の山路ふみ子、「近松物語」の香川京子、「西鶴一代女」の田中絹代も見ることは出来なかったかもしれない。

    今日一般的に言えば、溝口健二は日本映画監督三大巨匠の一人に数えられている。その三人とは、溝口健二(1898-1956)、小津安二郎(1903-1963)、黒澤明(1910-1998)である。(参考:新藤兼人「小説田中絹代」)

2007年8月15日 (水)

牧野富太郎と「本草綱目啓蒙」

   牧野富太郎(1862-1957)は、文久2年4月24日、土佐国高岡郡佐川村西町組101番屋敷に生まれる。生家岸屋は名字帯刀を許された酒造業と雑貨商を営む裕福な商家である。幼少から父母を失い祖母浪子の手で養育された。明治7年、佐川町に小学校が開校されたので、下等一級に入学した。しかし授業に飽き足らず、明治8年退学。これが、彼が受けた正規の学校教育のすべてである。

    この逸話は小学校を退学したころの話。その頃、近くに住む西村尚貞という医師が小野蘭山の「本草綱目啓蒙」の写本を数冊持っていた。富太郎はたのんでこれを借り、行燈の灯の下で、一心にこの端本を筆写した。この苦心して写した写本をたよりにして、採集してきた植物と照合し、名前を考定してみたが、それらの端本では、ないものが多くて用をなさなくなっていた。なんとかして、完本がほしいと祖母浪子に願ったところ、すでに富太郎の才能を見抜いていた浪子は、高価な「重訂本草綱目啓蒙」全20巻を、すぐに町の洋物屋の鳥羽屋へ命じて、大阪から取り寄せてもらった。牧野少年の喜びと感激は生涯忘れぬものとなった。祖母浪子は、牧野富太郎が26歳の明治20年5月6日、78歳で没した。

2007年8月13日 (月)

ユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドン

    エコール・ド・パリを代表する画家モーリス・ユトリロ(1883-1955)の母であるシュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)は女流画家として知られている。1883年12月26日、パリ、モンマルトルのポトー通りの一角で、男児を生んだ。彼女は18歳、父親はわからない。シュザンヌは1865年、フランスのリムーザンで洗濯女の私生児として生まれた。本名は、マリ・クレマンティーヌ・ヴァラドン。5歳のとき母とパリに出てモンマルトルで暮らした。はじめサーカスのアクロバットの美少女として人気があったが、ブランコから転落して足をくじいたため、母とゲルマ小路の洗濯屋で働いた。15歳のとき、画家ビュヴィス・ド・シャヴァンヌの家へ洗濯物を届けに行った。画家は彼女にモデルになることをすすめた。娘はマリアという名でモンマルトル界隈の画家たちを相手にポーズをとった。ドガ、ロートレック、ルノワールの名があげられる。祖母のマドレーヌと三人でトゥールラック三番街に住んでいた。その隣に住んでいたのがロートレック(1864-1901)である。20歳のシュザンヌは2歳のモーリス・ユトリロを連れて、ロートレック(21歳)の愛人になる。そしてシュザンヌもいつとはなしに絵筆を持つようになっていた。ロートレックは気難し屋で皮肉屋の画家ドガ(1834-1917)に彼女のデッサンを見せた。抜群のデッサン力を持つこの老画家は、彼女のデッサンをしげしげと眺めて「この娘はぼくらの仲間だね」といった。

   シュザンヌは1896年、数年来同棲していたポール・ムージと結婚する。その後、離婚し、ユトリロよりも若い凡庸な画家アンドレ・ユテルと再婚し、奇妙な三人暮らしが始まる。1935年、ユトリロは裕福な未亡人リュシー・ポーウェルと結婚し、ユトリロ夫婦と母は幸せな生活を送る。シュザンヌは、1938年、73歳で亡くなっている。

すこし早く秋を感じる歌を聴く

   8月11日(土)の晩はNHK「第39回思い出のメロディー」を見る。とくに印象に残ったのは、岩崎宏美の「思秋期」だった。おそらく阿久悠の作詞ということで選曲されたものであろうが、番組のテーマ「ありがとう青春の歌」にふさわしい曲だ。サビ歌詞は「青春はこわれもの 愛しても傷つき 青春は忘れもの 過ぎてから気がつく」。ケペルは格別の岩崎宏美のファンではないが、数年前にポリプによる喉の不調の時期があったときくが、さまざまな人生経験を経て、聴く人の心を打つ歌手に成長したように感ずる。「思秋期」は昭和52年9月の発売で、番組「スター誕生」などでアイドル時代の岩崎がうたっているのを聞いたが、歌唱力は抜群だが、むしろ大仰な曲の盛り上げが、かえってアイドル歌手としてはマイナスに感じられた。30年の歳月が流れて改めて聞くと、一編のロマンチックな名画を観たようなドラマチックな感動にひたれる曲だ。ところで「思秋期」とは阿久悠の造語だが、青春時代を過ぎた人生の秋に初恋をおもいだす、というニュアンスが感じられてとてもいい。「秋」という季節感も心惹かれるものがある。

  秋になると聴きたい曲は?秋を感じる曲、など探せばきりがないかもしれない。「♪だれかさんが だれかさんが だれかさんが みつけた ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた」と誰もが一番にあげるのは「ちいさい秋」(作詞:サトウハチロー、作曲:中田喜直)だろう。昭和30年の曲だが、昭和37年、ボニージャックスで広く知られるようになった。トワ・エ・モアの「誰もいない海」も秋を感じるだろう。山口百恵「秋桜」、アリス「秋止符」、横山みゆき「秋止符」も個人的に好きだ。ヒット曲とはいえないが、石川ひとみ「秋が燃える」(昭和55年)もよく味わうといい曲だ。しかしなんたってアイドルの王道ともいえる曲のなかでは、松田聖子のグリコのポッキーのCMでお馴染みの曲「風たちぬ 今は秋 今日から私は心の旅人」と歌いだしにサビがある「風立ちぬ」(作詞:松本隆、作曲:大滝詠一、昭和56年)であろう。「高原のテラスで手紙 風のインクで したためています」という信州か軽井沢を思わせる歌詞が、堀辰雄の「風立ちぬ」の文学的旅情へと誘う。山口百恵にも映画化作品「風立ちぬ」(若杉光夫監督、昭和51年)がある。病身の若い女性・節子と求婚者の青年との、高原のサナトリウムでの純愛を描いた。堀辰雄の小説では「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の章で昭和10年頃の高原の春夏秋冬を描いているが、節子が血痰を吐くのは秋が深まった頃だった。秋は四季のなかでも最もセンチメンタルな季節であろう。

2007年8月11日 (土)

人類ホモ・サピエンスへの道

   現世人類(ホモ・サピエンス)の祖先は、これまでアフリカで生まれたホモ・ハビルスがホモ・エレクトスに進化したと考えられてきた。(わかりやすくいえばラミダス猿人やアファール猿人はヒトの直接の祖先の可能性があると考えられていた)しかし、このたびケニアやイギリスの国際研究チームがケニア北西部のトゥルカナ湖北で6本の歯が残った上あごの化石を発見し、ホモ・ハビルスのものと結論づけた報道があった。(朝日新聞2007.8.9夕刊)今回の発見で、ハビルスとエレクトスは同じアフリカで約50万年間共存していた兄弟分の関係であるという。(つまり親子の関係ではないということか)

   1992年から1993年にかけて、鮮新世初めの440万年前の地層から、ヒトの祖先と思われる化石が発見され、1995年にラミダス猿人(アルディピテクス・ラミダス)と命名された。アファール猿人は1974年以来、エチオピア北東部のアファール低地、タンザニア北部で発見され、今から300万年前にさかのぼる。アファール猿人とアフリカヌス猿人とは約50万年共存していたが、アファール猿人は140万年前ごろには消えて、アフリカヌス猿人のみが残り、ホモ・サピエンスに進化していったと考えられる。更新性中期に入った約70万年前から40万年前ごろを中心に、ホモ・エレクトスとよばれる段階の人類がアフリカからユーラシアに広がっていった。ジャワ原人と北京原人などである。更新性末期(約4万年から3万年前)になると現代人とほぼ同じ形態の新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)が広がった。

ホワイトハウス・ファームの呪い

   イングランド東部エセックス州南部のモールドンの富裕な農夫ネビル・バンバーの屋敷、ホワイトハウス・ファーム(土地160ha所有)で、1985年8月7日、一家5人がライフルで射殺されるという凄惨な事件が起こった。警察は、当初、自殺した元モデルの義姉シーラ・キャフェルの犯行とみなしたが、その後、世間の注目を集めた裁判で、1986年10月、遺産目当ての犯行として、義弟ジェレミー・バンバーに終身刑が言い渡された。だが彼は現在も無実を主張しているという。

   ところで、ホワイトハウス・ファームで起こった惨劇は最初のものではなかった。以前のオーナー、フランク・ペイジという農夫は、1946年に馬用の水槽で溺れるという奇妙な死に方をしている。ペイジの前のオーナーの死に方も尋常ではなく、家の中で首吊り自殺をしたという。シーラ、ジェレミーは生後3ヵ月で、バンバー夫妻の養子として、このホワイトハウス・ファームで育てられた。しかし、ことあるごとに聖書の言葉を引用し、家庭内に何冊も聖書を置いておくという母親の好みに、ジェレミーとシーラは反発した。ジェレミーがあらゆる宗教を軽蔑したのに対し、シーラは神秘宗教に迷い込み、精神病者となった。2人は養父母の期待どおりには成長しなかった。そしてホワイトハウス・ファームに悲劇が起こったのである。(参考:「疑惑の遺産相続事件」省心書房)

赤まんま

    紅葉にはまだ早い初秋の頃、山野に薄紅色の花穂をゆらす赤まんま。赤飯のまんまとも呼ばれ、古よりずっと、秋の野に彩りを添えてきた。その温かさ、素朴さは文人たちも心動かされ、その思いを俳句や短歌にしている。

露草や赤のまんまもなつかしき(泉鏡花)

此辺の道はよく知り赤のまま(高浜虚子)

赤のまま墓累々と焼け残り(三橋鷹女)

立どまりあたり見廻しぬ紅に咲き満ちたるは犬蓼の花(斉藤茂吉)

   赤まんまはタデ科タデ属の一年草で、和名はイヌタデ(犬蓼)。俗称の赤まんまは、ままごと遊びに由来するといわれる。子どもたちは、紅花を赤飯に見立てて遊んだ。「イヌ」がつくのは、辛みに欠けるため食用にもならず、役に立たないためである。同じタデ科の植物でも、独自の辛みで刺身のつまや香辛料、漬物に用いられるのはヤナギダデである。「蓼食う虫も好き好き」という諺は、「辛いタデを食べる虫があるように、人の好みはさまざまなもので、ひとくちにはいえないもの」という意味だが、ヤナギタデのこととされている。タデと酢とを合わせたタデ酢がどんな魚にも合うと室町時代の料理書に書かれており、江戸時代に醤油が登場するまでは、魚料理の調味料として重宝された。現在でも鮎の塩焼きにタデ酢が添えられる。(参考:「赤まんまと秋の山野草」講談社)

いずれ菖蒲か杜若

   鳥羽院の女官に菖蒲前(あやめのまえ)という美人がおり、源頼政(1104-1180)は一目ぼれをする。頼政は菖蒲前に手紙を送るが、返事はなかった。そうこうしているうちに3年がたってしまい、二人の関係が鳥羽院に知られてしまう。

    ある時、頼政が鵺という怪物を退治して手柄をたてた。鳥羽院は頼政を呼びだして、褒美に何がいいかたずねると、菖蒲前を妻にもらいたいという。上皇は本当に菖蒲前が好きか試してみようと考えた。

    宮中の女官の選りすぐりの美女12人に厚化粧をさせて、その中から菖蒲前を選ばせた。もし間違えれば、菖蒲前をえることができず、末代までの笑いものになってしまう。困り果てた頼政はとっさにつぎの歌を詠んだ。

   五月雨に 沢辺の真菰 水こえて

   いづれあやめと 引きぞ煩ふ

   鳥羽院はこれに感心し、菖蒲前を頼政に引き渡した。

 この故事から、「いずれ菖蒲と引きぞ煩ふ」という句が広まり、「いずれ菖蒲か杜若」の語源となったといわれる。

    頼政はその後、以仁王と結んで平家打倒を計画したが、宇治平等院の戦いで敗北し、自害した。享年77歳。菖蒲前は種若丸をつれて、乳母と猪野隼太らに守られて、舟で安芸の国に落ち延びた。菖蒲前伝説など各地に残っている。しかし、源頼政がかなりの高齢だったようなので、若い女官・菖蒲前とのロマンスが本当にあったのだろうか。(「源平盛衰記」)

2007年8月10日 (金)

ニーチェ、リルケ、フロイトに愛された女

   ニーチェと出会ったとき、ルー・サロメ(1861-1937)は21歳だった。ニーチェはサロメを熱狂的に愛するが、失恋におわる。サロメは肉体関係をぬきにして、互いの知的向上をめざした男女の交友をもとめていたのである。しかし、ルー・サロメに魅了され悩まされた男は、詩人、文学者、芸術家、哲学者、心理学者と数え切れない。ハウプトマン、ヴェデキント、ストリンドベリ、シュニッツラー、ヴァッサーマン等との交友を経て、1897年、若い詩人リルケに出会い親密な関係を結ぶ。1899年と1900年、2人はロシア旅行を二度している。リルケと別れたサロメは、さらに1911年、国際精神分析会議に出席したジグムント・フロイト(1856-1939)と知り合う。フロイトは彼女の崇高で清澄な性格を深く尊敬した。サロメは世界的な精神分析学者の心の支えになった。そして70歳を過ぎてなお、フロイトの門下生タウスクという40歳ぐらいの学者と親密な関係になるが、彼は恋の苦悩のあまり自殺している。

   サロメは「女とは、自分を引き裂く雷を渇望する木のようなもの、しかも同時に成長を欲する木のようなものです」といっている。

2007年8月 9日 (木)

鹿鳴館の淑女たち

    外務卿井上馨は不平等条約改正交渉のため、日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えた。明治16年7月、イギリス人ジョサイア・コンドルの設計により、東京千代田区内幸町(旧薩摩藩装束屋敷跡)に鹿鳴館が完成した。総工費18万円の巨額と3年の歳月をかけて、大倉組(大倉喜八郎)の手になる煉瓦造2階建ての欧風建物。「鹿鳴館」という名称は万葉集巻9の雄略天皇の歌に「夕されば小椋の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寝ねにけらしも」に由来する。詩経小雅の「鹿鳴」、つまり、高貴なる客をもてなす宴会という意味からとったという。

    舞踏会の主役である日本夫人たちも外国人の饗応に最初はとまどったことであろうが、夫人・令嬢は従順にふるまった。中心となった井上武子(1850-1920、井上馨夫人)、伊藤梅子(1848-1923、伊藤博文夫人)、大山捨松(1860-1919、大山巌夫人)、森阿常(1855-1900、森有礼夫人)らは積極的に舞踏会、仮装会、慈善バザーなどを主催した。また美貌で知られた陸奥亮子,戸田極子らは鹿鳴館の華といわれた。

   しかし、民間からは「鹿鳴館夜会の燭光は天に沖するも重税の為めに餓鬼道に陥りたる蒼生を照す能はず」と非難の声があがった。おりしも、場所は鹿鳴館ではなく、首相官邸であったが、明治20年の伊藤博文首相主催の仮装舞踏会(ファンシー・ボール)で伊藤が戸田極子に醜怪な事件を起こしたとして、スキャンダルとなった。明治22年には森有礼が刺客西野文太郎に暗殺された。民論は欧化主義への反対となって沸騰した。華美を誇った鹿鳴館も明治23年には華族会館となり、さらに保険会社のものとなり、昭和15年には国辱的建物として取り壊された。

戸田極子とブラームス

   日本画家・守屋多々志が平成4年第77回院展に出品した作品に「ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)」がある。

   戸田極子(とだきわこ、1859-1936)は岩倉具視の次女で、旧大垣藩主戸田氏共(とだうじたか)に嫁いだ。生来の美貌と華やかさで、陸奥亮子(1856-1900)と並び、鹿鳴館の華と呼ばれた。

   戸田氏共は、廃藩置県後、伯爵となり、オーストリアの全権公使としてウィーンに赴任。山田流の筝曲をたしなむ極子は、ウィーン公使館でのパーティーで、琴の演奏を披露した。1887年から1890年にかけての話である。その席の客の一人だったのが作曲家のヨハネス・ブラームス(1833-1897)で、東洋のめずらしい調べに真剣に耳を傾けていたという。

日比谷焼打ち事件と小村マチ

   小村寿太郎(1855-1911)は安政2年、日向国飫肥藩の下級武士・小村寛平、梅子の長男として生まれる。文久元年、安井息軒が教える藩校振徳堂に入学。大学南校に入学し、明治8年にはハーバード大学に留学。帰国後、美人のマチと結婚する。しかし新妻は裁縫、料理など家事は一切しない女性だった。近くに実家があり、その仕送りで女中を雇い、すべて家事をやらせる。浪費家であり、趣味は芝居見物だった。子供ができても妻の生活態度は変わらなかった。小村の家庭は高官にもかかわらず、貧窮にあえいでいた。高級官僚にしてなお貧乏暮らしを余儀なくされたのは、妻の浪費癖のほかに、父から受け継いだ莫大な借金が原因ともいわれる。ともかく、小村は家庭的には恵まれなかったようだ。

   しかし小村は多くの先輩たちに見出されて、明治顕官への道を順調に歩んだ。小倉処平(1846-1877)、陸奥宗光(1844-1897)、桂太郎(1847-1913)たちである。桂内閣のとき、外務大臣を二度務めている。今日の霞ヶ関外交の基礎をつくったのは小村寿太郎といわれている。

  セオドア・ルーズベルト大統領の斡旋を得て、明治38年8月9日、ポーツマスの海軍工廠において非公式に講和談判予備会議が開かれた。(第1回本会議は翌10日から開かれた)

   会議の列席者は日本側が、小村寿太郎(1855-1911)、高平小五郎(1854-1926)両全権と佐藤、安達、落合の三書記官。ロシア側はセルゲイ・ウイッテ(1849-1915)、ローゼン両全権とブランソン、コロストヴェツ、ナボコフの三書記官であった。

    日露講和条約(ポーツマス条約)の調印によって、ロシアは樺太全島及び遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなどポーツ