悲運の武将、李広
李広(?ー前119)。前漢文帝・景帝・武帝につかえた将軍。隴西・成紀の人。背が高く、腕が長く(猿臂)、いわば天性の弓の名手だった。匈奴討伐に加わり、匈奴は彼を飛将軍と称しておそれた。
ある時、狩りに出て、虎をめがけて矢を放った。しかしそれは虎ではなく矢が石につきささっていた。その後李広はその石に矢を放ったが一度も刺さることはなかった。
李広は部下に対しては思いやりが深く、行軍中、飢えと渇きに苦しんでいるとき、たまたま泉を発見しても、部下が全員飲み終わるまでは、自分は決して飲まなかった。食事も、部下に行きわたらないうちは、ついぞ手をつけたことはなかった。このため、部下も心から李広を慕い、李広のためなら喜んで死のうとするものばかりだった。司馬遷は「桃や李(すもも)は何も言わなくても、その美しさを慕って人々が集まってきて、木の下には自然に蹊(こみち)ができるものだ」(桃李言わざれども下自ら蹊を成す、桃李不言下自成蹊)と言った。成蹊大学・大阪成蹊大学・大阪成蹊短期大学の名称はこの故事に由来する。
晩年、対匈奴戦に出撃したさい、李広は別働隊を率いて迂回路を進んだが、途中道に迷ったために戦場に間に合わなかった。李広はその責任をとってみずから首をはねた。部下の将兵はもちろん、李広を知らない者までも、みな涙を流してその死を悲しんだ。
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