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2007年7月15日 (日)

詩的瞑想録

   ラマルチーヌ(1790-1869)は、美しい田舎の自然のなかに育ち、リヨンやベレーで教育を受け、20歳のときイタリアを旅した。1816年にエクス・レ・バンに療養生活中、ある科学者の妻ジュリ・シャルルと知り合い、恋におちたが、翌年夫人に死別され、そのわずかの間の恋愛がロマン主義の叙情をはじめてうたいあげた「瞑想詩集」となった。

     谷間     (ラマルティーヌ)

あらゆることにものうく、希望にさえ疲れはてたぼくの心は、祈りで運命をわずらわせることもない。子どものころの谷よ、せめて貸しておくれ、死を待つのに一日の隠れ家を。

ここは暗い谷間のせまい小道。丘の中腹におい繁った木がたれさがり、ぼくの額に乱れた影をのぞかせて、ぼくを深く沈黙と平和とで包んでしまう。

ここは緑色の橋の下にかくれたふたつの流れが、谷の周囲をうねり流れる。それは波とせせらぎの音とがまじり合って、泉から遠くもないところでひっそり、消えてゆく。

その流れのように、ぼくの青春の泉も流れ去った。それは音もなく、名もなく、もどることもなく、すぎ去ってしまった。だが、谷川の水は清らかだ。ぼくの心は乱れて、美しかった日の輝きを、もう映さない。

川床のさわやかさ、それをおおう影が、いちんち流れのほとりでぼくをひきつける。単調な歌にゆすられるあかんぼうのように、ぼくの心は水のささやきにまどろむ。

ああ、ぼくはここにきて、緑色のとりでのような地平線にすっかり目をさえぎられ、ひとり自然のなかに足をとめて、せせらぎを聞き、空を見あげる。ただそれだけをぼくは愛する。

ぼくはいままであまりにも見、あまりにも感じ、あまりにも愛した。ぼくは生きながら、あの世の静けさをもとめにきたのだ。美しい場所よ、世に忘れられた場所であっておくれ。忘れることだけがこれからのぼくにとって最大の幸福なのだ。

ぼくの心は休息し、ぼくの魂は沈黙する。この世の遠い物音もここまでくると消えてしまう。ぼけた耳には風にはこばれてきても、距離に弱められる遠い音のように。

ここからぼくは雲をへだてて、人生が過去のなかへ消えていくのを見る。目がさめたときには大きな姿をして、愛だけが消えた夢のなかに残る。

ぼくの魂よ、この最後の隠れ家にいこえ。旅人が希望に胸をふくらませて、町の前の城門にひと休みして、しばらく夕暮れのかぐわしい空気を吸うように。

ぼくも旅人のように、足のほこりを払おう。二度とこの道を行く人はいない。ぼくは旅人のように、人生行路のはしで、永遠の平和の先がけとなる。この静けさを味わおう。秋の日のように、暗い、短い日が、夜明けのように、丘の坂に傾く。ぼくは友情にそむかれ、あわれみ捨てられて、ひとり墓への小道をおりていく。

しかし、自然はそこにいて、招き、愛する。つねに開いているその胸に身を投げよ。すべてが変わっても、自然だけは変わらない。同じ太陽がいつでものぼっているのだ。

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