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2007年7月23日 (月)

石坂洋次郎と葛西善蔵

    石坂洋次郎(1900-1986)は、明治33年1月25日、青森県弘前市田代町に父・石坂忠次郎、母・トメの二男として生まれた。慶応義塾大学に入学した大正10年、同郷の横浜聖書学院の学生・今井うら子(17歳)と結婚する。大学卒業後の大正12年、弘前出身の作家・葛西善蔵(1887-1928)を鎌倉に訪ね、以後昭和3年7月、葛西の死まで子弟関係は続いた。葛西はいわゆる破滅型の小説家で、社会人としても欠落した部分があった。後年、石坂は「津軽には、ただ小説を書くというだけのために、妻子を飢えさせ、親類や友人に迷惑をかけて恬として平気でいるという風がある」といっている。それは葛西善蔵や太宰治などをさしているのだろうか。

    ともかく、若い石坂は葛西を芸術の殉教者として尊敬していた。鎌倉の建長寺のある別院に葛西を初めて訪ねたときのことである。善蔵はかなり酒気を帯びていた。機嫌が悪く、禅問答めいた調子でしばらく形をなさない話をしたあげく、突然彼は「石坂君、ぼくに君のキンタマを見せ給え!」と言い出した。どぎもをぬかれた私は「見せられません!」と強く反撥した。すると善蔵は眉をいっそう大げさにしかめて、「君、人にキンタマもみせられないで、作家になれると思っているのかね」ときめつけた上、煙草盆にペッと唾を吐いた。

    もうひとつ事件がある。大正15年のことである。葛西は新米教師石坂を頼って弘前の旅館に滞在した。当然のことのように宿泊費、酒代のツケを石坂に回した。女学校に玄人女が乗り込んできたことで、大騒ぎとなり、石坂は秋田の横手高等女学校へ転勤となった。

   このように困った師匠ではあるが、石坂に小説家というものを身をもって教えてくれたもの事実である。石坂は昭和12年の「若い人」で作家的地位を確立したとされる。37歳であった。若くして結婚したため、経済的な苦労もあったであろう。妻の石坂うら子と作家・山田清三郎(1896-1987)との不倫関係に悩んだのもこのころであった。その苦悩を赤裸々に「麦死なず」で作品としている。一般に石坂文学の特徴は明朗文学、青春文学と思われがちであるが、「若い人」のヒロイン・江波恵子が私生児であることが重要な要素となっているように、葛西流の私小説から出発しており、どの作品の主人公にも出生の暗い影が底流にあり、そこから鮮烈に生きることに多くの若い読者の共感を得たのであろう。

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