薄田泣菫「白羊宮」
ひとづま
あえかなる笑や、濃青の天つそら、
君が眼ざしの日のぬるみ
寂しき胸の末枯野につと明らめば、
ありし世の日ぞ散りしきし落葉樹は、
また若やぎの新青葉枝に芽ぐみて、
歓喜の、はた悲愁のかげひなた、
戯るる木間のした路に、美し涙の
雨滴り、けはひ静かにしたたりつ、
蹠やはき「妖惑」の風おとなへば、
ここかしこ、「追懐」の花淡じろく、
ほのめきゆらぎ、「囁き」の色は唐棣に、
「接吻」のうまし香は霧の如、
くゆり靡きて、夢幻の春あたたかに、
酔ごこち、あくがれまどふ束の間を、
あなうら悲し、優まみの日ざしは頓に、
日曇り、「現し心」の風あれて、
花はしをれぬ、蘗えし青葉は落ちぬ、
立枯の木しげき路よありし世の
事榮の日は、はららかにそそ走りゆき、
鷺脚の「嘆き」ぞひとり青びれし
溜息低にまよふのみ。夢なりけらし、
ああ人妻、
實にあえかなる優目見のもの果なさは、
日直りの和ざむと見れば、やがてまた、
掻きくらしゆく冬の日の空合なりき。
薄田泣菫(1877-1945)。薄田隼人正の弟の子孫といわれ、父・薄田篤太郎は俳諧を好んで湖月清風と号していた。その叔母は天誅組の藤本鉄石について南画を学ぶ。
泣菫、本名は薄田淳介。明治10年、岡山県浅口郡連島村に生まれた。岡山中学での成績は優秀だったが、中学2年のとき教師と対立して退学し、京都に出て同志社の予備校に通う。しかしこれも面白くないといって退学し、それ以後は図書館に通って独学を続けた。明治32年、第一詩集「暮笛集」刊行。明治33年10月、大阪で金尾文淵堂の文芸誌「ふた葉」改題「小天地」を編集、「明星」の客員ともなる。明治39年5月、「白羊宮」刊行。以後、「落葉」「泣菫小品」などの文集や短編小説を書く。大正元年からは毎日新聞社に入社し、学芸部長として活躍。同紙上に書いた「茶話」が好評で以後随筆家として活躍を続けた。昭和20年10月9日、岡山県井原町で、尿毒症で死去。享年69歳。
「白宮羊」が世に出たとき、「明星」はその年第7号の巻首37ページをさいて与謝野鉄幹、馬場孤蝶、茅野蕭々らは合評を試みている。評者たちがとりわけ問題としたのが、泣菫の古語、廃語使用である。鉄幹は「上田敏の海潮音に比すれば幾倍か難解である」と評した。後年、国文学者の折口信夫は「泣菫さんに驚くことは、私のような古文体の研究を専門とする者にすら、生命の感じられない死語の摂取せられていることである。泣菫の語彙を批評した鉄幹は鄭重な言い廻しではあるが、極めて皮肉な語気をもって噂した。たとえば青水無月という語は、われわれには辞書にすら見出すことは出来ないが、薄田氏だから拠り所があるに違いない。美しい言葉だという風に。当時の詩人・文人の間に行なわれた勉強の一つで、辞書を読み、その美しい語を覚える、そういう行き方の、泣菫さんにあり過ぎることを風刺したものである」(「詩語としての日本語」)と書いている。
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