エロ・グロ・ナンセンス
大正末期から昭和のはじめにかけて、都市生活が大きく変わるとともに人々の意識にも大きな変化がみられるようになった。モダンボーイ、モダンガールとよばれる男女が、颯爽と東京の銀座や大阪の心斎橋をぶらぶらと散歩し、喫茶店でお茶を飲むことが流行し、「銀ブラ」「心ブラ」などの言葉が生まれた。男は長髪にロイドメガネ、女は断髪というのがそのスタイルで、タバコをふかし、酒をのみ、退廃的なエロ・グロ・ナンセンス時代が出現した。昭和5、6年ごろがその頂点であった。文学では吉行エイスケ(1906-1940)や中村正常(1901-1981)たちが軽妙奇抜な発想やパロディ、ユーモアなどで人気を集めた。
昭和3年の三・一五事件(徳田球一、野坂参三、志賀義雄、杉浦啓一などが検挙)の直後の4月、日本ビクター会社から国産レコード盤「モン・パリ」「波浮の港」が売り出され、大ヒットした。その翌月にコロムビアから出た「私の青空」「アラビアの唄」も大いにヒットした。翌年、佐藤千夜子が歌った「東京行進曲」(西條八十作詞・中山晋平作曲)の「ジャズで踊ってリキュルで更けて 明けりゃダンサーの涙雨」という歌詞はまさに時代をなまなましく反映していた。この歌の第4節の前半は「長い髪したマルクスボーイ今日も抱える赤い恋」であった。「赤い恋」とは、ソ連のアレクサンドラ・コロンタイ(1872-1952)の小説「赤い恋」のことで、男女同権による自由恋愛を意味していた。ところが、吹き込み直前になってビクターの部長・長岡庄五から「待った」がかかり、急遽、「シネマ見ましょかお茶飲みましょうか」に変更された。その理由は取り締まり当局が厳しくなっているからだった。
そのころ流行った言葉に「三つのS」がある。スポーツ、スクリーン、セックスの三つのSが多くの学生をとらえるようになった。コロンタイ女史の言葉「セックスは一杯のコーヒーを飲むにひとしい程度のものに過ぎない」という自由恋愛の意識も都会から広がっていった。
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