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2007年7月22日 (日)

暗い便所でひろ子はしゃがみ腰で泣いた

   佐多稲子(1904-1998)。本名・佐田イネ。筆名は田島いね子、窪川稲子。戦後、窪川と離婚し、佐多稲子となる。

   佐多稲子は田島正文(17歳)を父に、高柳ユキ(14歳)を母にして長崎市八百屋町で田中梅太郎方で生まれた。若い未婚の両親であるため、戸籍上は伯父・田中梅太郎の長女として届けられている。叔父の佐田秀美は当時、早稲田大学の学生で、島村抱月の芸術座にも関係し、小説、戯曲、劇評などを書いていた文学青年で稲子に影響を与えている。(佐田秀美は大正5年死去)しかし、小学校1年のとき、母ユキが肺結核で死んだことから、稲子の少女時代の苦労が始まる。大正4年、父は三菱造船所を退社し、一家をあげて上京する。しかし無計画な上京のために生活は貧窮をきわめた。このため稲子は小学校を5年でやめ、和泉橋のキャラメル工場に幼年の包装工として勤めた。これ以後、浅草六区のシナそば屋、上野池之端の料亭清凌亭の小間使い、座敷女中、日本橋丸善書店の女店員となる。大正13年、丸善の上役から縁談を紹介され、資産家の息子で慶応大学の学生だった小堀槐三と結婚、大正14年には長女葉子が生まれるが、離婚。昭和元年、本郷のカフェー紅緑に女給として勤める。そこで同人雑誌「驢馬」のメンバー、中野重治(1902-1979)、窪川鶴次郎(1903-1974)、堀辰雄、宮木喜久雄、西沢隆二らを知る。そして窪川鶴次郎と再婚。昭和3年、短編「キャラメル工場から」を「プロレタリア芸術」に発表し、プロレタリア女流作家として知られるようになった。ここには小学校を卒業しないうちから生計を助けるため女工になった苦しい体験が素直に表現されている。

ある日郷里の学校の先生から手紙が来た。「誰かから何とか学費を出してもらうよう工面して」とそんなことが書いてあった。(中略)それを破いて読みかけたが、それを掴んだままで便所にはいった。彼女はそれを読み返した。暗くてはっきり読めなかった。暗い便所の中で用もたさず、しゃがみ腰になって彼女は泣いた。

   稲子の夫であった窪川鶴次郎と中野重治とは金沢の旧制第四高等学校時代からの文学仲間である。カフェの女給であった稲子を妻としたのは、窪川のほうであるが、稲子は中野重治を生涯師として仰ぎ、中野重治、原泉(1905-1989)夫妻との親交は長く続いた。

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