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2007年7月26日 (木)

山本勘助と山本五十六

   NHK大河ドラマ「風林火山」。甲斐の武田晴信(市川亀治郎)の信濃侵攻によって領地を追われた村上義清(永島敏行)・高梨政頼(大鷹明良)らが越後の長尾景虎(ガクト)のもとへ逃げる。いよいよ信玄謙信の両雄が対峙することとなる。

   ところで井上靖原作の小説「風林火山」は昭和44年に稲垣浩監督によって映画化されている。三船敏郎、中村錦之介、石原裕次郎という超豪華な配役だった。そして三船は前年には「連合艦隊司令長官・山本五十六」を主演している。さて、山本勘助と山本五十六。時代は大きく隔てているが、同姓である二人の武将に関連はあるのだろうか。

    長興寺(新潟県長岡市稽古町1636番地)には、山本勘助の弟の血を引く山本家の代々の墓がある。長岡藩家老職山本家は、代々藩主牧野氏に仕えた。幕末の長岡藩は、戊辰戦争のとき家老河井継之助、山本帯刀らが官軍と戦ったため、明治になって、罪により、山本家は家名断絶となった。山本家再興のため、大正4年、高野五十六は山本家の名跡を嗣ぐ養子となる。後に連合艦隊司令長官となる山本五十六元帥である。そして大正7年8月、会津藩士三橋康守の三女・三橋礼子と結婚し、二男二女をもうけている。

   山本五十六(1884-1943)は、明治17年4月4日、長岡市、越後長岡藩士・高野貞吉、ミネの六男として生まれた。明治37年11月、江田島の海軍兵学校を卒業すると、翌年、日進乗組員として日本海海戦に参戦し負傷。大正8年4月から2年間にわたるアメリカ駐在の体験から、近代戦の主役は軍艦から航空戦力に移行すると信じていた山本は、帰国後、海大教官、航空本部技術部長、第一航空戦隊司令官等を歴任。昭和14年8月、連合艦隊司令長官となった。諸外国の海軍勢力の情報に明るい山本は、アメリカと戦えば負けるのは日本だと確信していた。それにもかかわらず、近衛首相に意見を聞かれたとき、

「やれと言われれば、半年や1年は大いに暴れてごらんにいれる。然しながら2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりましては日米戦争を回避するよう極力努力願いたい」と答えたという。

   昭和16年1月より山本が真珠湾攻撃計画を発案し、大西瀧治郎、源田実、黒島亀人らによって、奇襲作戦が成功した。しかし、昭和17年6月、早期決戦を意図して決行したミッドウェー攻略作戦で、事前に待ち構えていたアメリカ海軍機動部隊の攻撃によって、空母4隻が撃沈され、これをきっかけに太平洋における日本の制海権・制空権は失われた。昭和18年4月18日、南太平洋方面の前線視察中にブーゲンビル上空で暗号を分析して待機していたアメリカ戦闘機ロッキードP38に搭乗機が撃墜され戦死。59歳の生涯であった。山本元帥の死は連合艦隊司令長官で唯一の戦死者であった。

  天皇の御盾とちかふ真心は

  とどめおかまし命死ぬとも

   山本勘助の生年には、明応2年説、明応9年説、文亀元年説があるが、享年はほぼ60歳過ぎとみてよい。山本五十六とともに悲運の武将という共通性がみられるなお、未亡人の山本礼子(1897-1972)は戦後、保険外交員をしながら四人の子供を育てたという。

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