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2007年7月29日 (日)

ダビデ王とバルジライ

   イスラエルの王ダビデにはアブサロムという美しい王子がいた。アブサロムは密かに兵を集めて反乱を起こした。不意をつかれたダビデ王はヨルダン川の向こう岸にあるマハナイムへと逃れた。

   ダビデ王の苦難の時、王にいろいろと世話をしたのがバルジライという80歳の老人であった。バルジライは非常に富んでいたので、マハナイムにいる王を養い、兵隊たちの食糧もすべて用意した。やがでダビデ王は反撃にでて、アブサロムをエフライムの森の戦いで破る。王は「アブサロムを殺さないように」と命じたが、樫の木に吊り下げられたアブサロムは兵士たちによって串刺しにされ殺された。ダビデはこのことを知らされ身を震わせて泣いた。「アブサロムよ、わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ」

   やがでダビデ王はエルサレムへ帰還することになった。王はバルジライに言った。「わたしと共に都に来てくれないか」バルジライは王に答えた。「わたしはもう八十歳になります。善悪の区別も知りません。この僕は何を食べ何を飲んでも味がなく、男女の歌い手の声も聞えないのです。どうしてこのうえ主君の重荷になれましょう」と丁重に断わった。そして「むしろ自分の息子キムハムがついて王のお役に立ちましょう」と言った。王はそれを受け入れキムハムをつれて都へもどった。(サムエル記)

   高齢化時代といえども、老齢ゆえの限界はある。「いつかは来たる老いの道」たとえば、日常的な例で言うと、いつ自転車や自動車を運転することをやめるか。人間である以上、必ず個々の判断が迫られる時が来る。バルジライは「自分の限界を知っていた人」といわれる。高齢化時代、老齢ゆえの限界はある。地位や名声のみを重視して、自分の能力の限界を見誤ることのないよう自分に戒めよう。旧約聖書に記されたバルジライの話によって、現実的な見方と慎み深い態度は神への関心事を最優先させるという立派な模範となるであろう。(参考:ものみの塔2007.7.15)

2007年7月28日 (土)

悲運の武将、李広

    李広(?ー前119)。前漢文帝・景帝・武帝につかえた将軍。隴西・成紀の人。背が高く、腕が長く(猿臂)、いわば天性の弓の名手だった。匈奴討伐に加わり、匈奴は彼を飛将軍と称しておそれた。

   ある時、狩りに出て、虎をめがけて矢を放った。しかしそれは虎ではなく矢が石につきささっていた。その後李広はその石に矢を放ったが一度も刺さることはなかった。

   李広は部下に対しては思いやりが深く、行軍中、飢えと渇きに苦しんでいるとき、たまたま泉を発見しても、部下が全員飲み終わるまでは、自分は決して飲まなかった。食事も、部下に行きわたらないうちは、ついぞ手をつけたことはなかった。このため、部下も心から李広を慕い、李広のためなら喜んで死のうとするものばかりだった。司馬遷は「桃や李(すもも)は何も言わなくても、その美しさを慕って人々が集まってきて、木の下には自然に蹊(こみち)ができるものだ」(桃李言わざれども下自ら蹊を成す、桃李不言下自成蹊)と言った。成蹊大学・大阪成蹊大学・大阪成蹊短期大学の名称はこの故事に由来する。

    晩年、対匈奴戦に出撃したさい、李広は別働隊を率いて迂回路を進んだが、途中道に迷ったために戦場に間に合わなかった。李広はその責任をとってみずから首をはねた。部下の将兵はもちろん、李広を知らない者までも、みな涙を流してその死を悲しんだ。

ニーチェの青春の坂道

「淋しくなると訪ねる 坂道の古本屋

立ち読みをする君に 逢える気がして」

と岡田奈々ちゃんが歌う「青春の坂道」。

    哲学者ニーチェも学生時代、生まれ故郷のレッケンという村を離れて大学に通うためライプツィヒの下宿生活をしていた。1865年の10月末か11月の初めのある日、坂道にあるブルーメンガッセという名の小さな古本屋の店頭にある本に目がいった。ショーペンハウエルの「意思と表象としての世界」(1819)との運命的な出会いであった。ニーチェ22歳のときである。いつもは本をすぐに購入しないのに、この時ばかりは「あるデーモンの囁き」に従ってこれを購入し、下宿に帰ってただちに読み始め、寝食も忘れて2週間読みふけった。

    現代思想の先駆者を一人だけ挙げよと言われて、ニーチェと言われる哲学者は多い。21世紀の今日でもなお、哲学のみならず、あらゆる現代文化に大きな影響を与えている。新潮社のPR誌「波」に木田元が「反哲学入門」を連載しているが、わかりやすい内容である。ニーチェの「悲劇の誕生」(1872)は明らかにショーペンハウアーの「意思と表象としての世界」の影響下に生まれたものである、としている。(「波」2007.6)「デュオニュソス的なもの」は「意思としての世界」、「アポロン的なもの」は「表象としての世界」のとらえなおし、そしてショーペンハウアーの「意思としての世界」はカントの「物自体の世界」の、「表象としての世界」はカントの「現象界」のとらえなおしとしている。さらにカントは、ライプニッツがモナドの二つの根本特性と見た「意欲」(アペテイトウス)と「表象」(ペルケプテイオ)から受け継いでいる。ようするに高校の倫理にある西洋思想の系譜の一番重要なところ、つまりドイツ形而上学の系譜を木田はわかりやすく説明しているに過ぎない。しかしこの系譜の中にシェリングやヘーゲルらも入ってくるので、話はやはり込み入ってきそうだ。

2007年7月26日 (木)

サラ・ティーズデールと冬のソナタ

   20世紀はじめのアメリカの女流詩人サラ・ティーズデール(1884-1933)の名前は日本でも知られるようになった。自然を愛し、感情をロマンチックに表現したサラの詩は「チョッサラン」(私の初恋)と英語、韓国語、日本語経由で、冬のソナタのモチーフである「それでも私の初恋が、また私を呼んだらどうしましょう?」という詩の一節で、すっかりポピュラーとなって多くのブログでも取り上げられている。もともとは1917年に発表した詩集「ラブソング」の「ザ・フライト」という詩。翌年には詩の部門のピュリッツァー賞を受賞している。

    セーラ・ティーズデール。ミズーリ州セントルイス生まれ。C・ロセッタの影響を受ける。実業家と結婚したが、後に離婚。繊細な感受性の持ち主で、晩年は生への恐怖と情熱の間でさまよい、悩み、自らの命を絶った。代表作に「ドゥーズに寄せるソネット」(1907年)「トロイのヘレン」(1911年)「愛の歌」(1917年)「奇妙な勝利」(1933年)がある。

   冬のソナタ第13話「追憶」。ピアノの蓋をそっと開けて「初めて」を弾き始めるミニョン(ぺ・ヨンジュン)。同じころ高校の恩師(チョン・ウォンジュン)に結婚式の招待状を渡すため、ユジン(チェ・ジウ)は春川を訪れた。放送部に顔を出し、後輩のひとりが朗読する「初恋の詩」に思わず涙する。

      チョッサラン(私の初恋)

  どうか美しい色の目で振り返って

  ここにいる私を見つけてください

  あなたの愛で私を奮い立たせてください

  ツバメを運ぶそよ風のように

  太陽のように

  嵐のように

  私たちをどうか遠くへ運んでください

  それでも私の初恋が

  また私を呼んだら

  どうしたらいい?

山本勘助と山本五十六

   NHK大河ドラマ「風林火山」。甲斐の武田晴信(市川亀治郎)の信濃侵攻によって領地を追われた村上義清(永島敏行)・高梨政頼(大鷹明良)らが越後の長尾景虎(ガクト)のもとへ逃げる。いよいよ信玄謙信の両雄が対峙することとなる。

   ところで井上靖原作の小説「風林火山」は昭和44年に稲垣浩監督によって映画化されている。三船敏郎、中村錦之介、石原裕次郎という超豪華な配役だった。そして三船は前年には「連合艦隊司令長官・山本五十六」を主演している。さて、山本勘助と山本五十六。時代は大きく隔てているが、同姓である二人の武将に関連はあるのだろうか。

    長興寺(新潟県長岡市稽古町1636番地)には、山本勘助の弟の血を引く山本家の代々の墓がある。長岡藩家老職山本家は、代々藩主牧野氏に仕えた。幕末の長岡藩は、戊辰戦争のとき家老河井継之助、山本帯刀らが官軍と戦ったため、明治になって、罪により、山本家は家名断絶となった。山本家再興のため、大正4年、高野五十六は山本家の名跡を嗣ぐ養子となる。後に連合艦隊司令長官となる山本五十六元帥である。そして大正7年8月、会津藩士三橋康守の三女・三橋礼子と結婚し、二男二女をもうけている。

   山本五十六(1884-1943)は、明治17年4月4日、長岡市、越後長岡藩士・高野貞吉、ミネの六男として生まれた。明治37年11月、江田島の海軍兵学校を卒業すると、翌年、日進乗組員として日本海海戦に参戦し負傷。大正8年4月から2年間にわたるアメリカ駐在の体験から、近代戦の主役は軍艦から航空戦力に移行すると信じていた山本は、帰国後、海大教官、航空本部技術部長、第一航空戦隊司令官等を歴任。昭和14年8月、連合艦隊司令長官となった。諸外国の海軍勢力の情報に明るい山本は、アメリカと戦えば負けるのは日本だと確信していた。それにもかかわらず、近衛首相に意見を聞かれたとき、

「やれと言われれば、半年や1年は大いに暴れてごらんにいれる。然しながら2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりましては日米戦争を回避するよう極力努力願いたい」と答えたという。

   昭和16年1月より山本が真珠湾攻撃計画を発案し、大西瀧治郎、源田実、黒島亀人らによって、奇襲作戦が成功した。しかし、昭和17年6月、早期決戦を意図して決行したミッドウェー攻略作戦で、事前に待ち構えていたアメリカ海軍機動部隊の攻撃によって、空母4隻が撃沈され、これをきっかけに太平洋における日本の制海権・制空権は失われた。昭和18年4月18日、南太平洋方面の前線視察中にブーゲンビル上空で暗号を分析して待機していたアメリカ戦闘機ロッキードP38に搭乗機が撃墜され戦死。59歳の生涯であった。山本元帥の死は連合艦隊司令長官で唯一の戦死者であった。

  天皇の御盾とちかふ真心は

  とどめおかまし命死ぬとも

   山本勘助の生年には、明応2年説、明応9年説、文亀元年説があるが、享年はほぼ60歳過ぎとみてよい。山本五十六とともに悲運の武将という共通性がみられるなお、未亡人の山本礼子(1897-1972)は戦後、保険外交員をしながら四人の子供を育てたという。

2007年7月23日 (月)

芥川龍之介没後80年

Photo_3塚本文

  明日は河童忌。昭和2年7月24日、芥川龍之介(1892-1927)は田端の自宅で服毒自殺した。35歳だった。神経と身体の衰弱に苦しむ芥川をともに過ごした妻・芥川文(あくたがわふみ、1900-1968)は、「お父さん、よかったですね」と彼にささやいたという。

   芥川文。塚本文が初めて芥川龍之介を見たのは、文が7歳、龍之介が15歳のとき。明治40年の頃である。文の父は海軍少佐・塚本善五郎といい、飛騨高山の士族で、秋山真之とは海軍兵学校では同期でライバルであった。日露戦争では装甲巡洋艦「日進」の艦長であったが、艦橋付近に被弾し戦死した。文は母の実家山本家に住むこととなった。母の末弟の山本喜誉司(1892-1963)は芥川龍之介と東京府立第三中学校の同級生。(のち三菱商事につとめブラジルコーヒーの栽培や日系ブラジル移民の会長となる)

    芥川は山本家にしばしば出入りし、幼い文を知ることとなる。ちょうど青山女学院の吉田弥生との結婚を諦めたころであった。大正4年ごろ、芥川は美しく成長している文への恋情を感じる。親友の山本にも心のうちを告げる。そして新思潮に掲載した「鼻」が漱石の激賞を得、期待の新人作家として、文壇の注目を浴びていた。

    大正5年、芥川は文にラブレターを送る。「貰ひたい理由は、たつた一つあるきりです。さうしてその理由は僕は文ちゃんが好きだと云ふ事です」「繰り返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです」愛を告白したこの年、大正5年12月、文と婚約した。当時、文は16歳で、跡見女子学園に在学中だった。そして2年後、二人は結婚した。

   二人の間には、芥川比呂志(1920-1981)、芥川多加志(1922-1945)、芥川也寸志(1925-1989)が生まれた。龍之介は子煩悩だった。二男の多加志は昭和20年4月12日、戦死した。芥川文は、父の戦死、夫の多彩な女性関係(野々口豊子、秀しげ子、森幸枝、平松麻素子、片山広子)、夫の病気と自殺、子の戦死など苦労の連続であった。龍之介が死んだとき、文はまだ27歳だった。芥川龍之介没後80年というのは、わずか10年あまりの龍之介との家庭生活の想い出を心の支えとして、健気に生きた女性の人生の軌跡でもある。文は、68歳で心臓病で亡くなった。

石坂洋次郎と葛西善蔵

    石坂洋次郎(1900-1986)は、明治33年1月25日、青森県弘前市田代町に父・石坂忠次郎、母・トメの二男として生まれた。慶応義塾大学に入学した大正10年、同郷の横浜聖書学院の学生・今井うら子(17歳)と結婚する。大学卒業後の大正12年、弘前出身の作家・葛西善蔵(1887-1928)を鎌倉に訪ね、以後昭和3年7月、葛西の死まで子弟関係は続いた。葛西はいわゆる破滅型の小説家で、社会人としても欠落した部分があった。後年、石坂は「津軽には、ただ小説を書くというだけのために、妻子を飢えさせ、親類や友人に迷惑をかけて恬として平気でいるという風がある」といっている。それは葛西善蔵や太宰治などをさしているのだろうか。

    ともかく、若い石坂は葛西を芸術の殉教者として尊敬していた。鎌倉の建長寺のある別院に葛西を初めて訪ねたときのことである。善蔵はかなり酒気を帯びていた。機嫌が悪く、禅問答めいた調子でしばらく形をなさない話をしたあげく、突然彼は「石坂君、ぼくに君のキンタマを見せ給え!」と言い出した。どぎもをぬかれた私は「見せられません!」と強く反撥した。すると善蔵は眉をいっそう大げさにしかめて、「君、人にキンタマもみせられないで、作家になれると思っているのかね」ときめつけた上、煙草盆にペッと唾を吐いた。

    もうひとつ事件がある。大正15年のことである。葛西は新米教師石坂を頼って弘前の旅館に滞在した。当然のことのように宿泊費、酒代のツケを石坂に回した。女学校に玄人女が乗り込んできたことで、大騒ぎとなり、石坂は秋田の横手高等女学校へ転勤となった。

   このように困った師匠ではあるが、石坂に小説家というものを身をもって教えてくれたもの事実である。石坂は昭和12年の「若い人」で作家的地位を確立したとされる。37歳であった。若くして結婚したため、経済的な苦労もあったであろう。妻の石坂うら子と作家・山田清三郎(1896-1987)との不倫関係に悩んだのもこのころであった。その苦悩を赤裸々に「麦死なず」で作品としている。一般に石坂文学の特徴は明朗文学、青春文学と思われがちであるが、「若い人」のヒロイン・江波恵子が私生児であることが重要な要素となっているように、葛西流の私小説から出発しており、どの作品の主人公にも出生の暗い影が底流にあり、そこから鮮烈に生きることに多くの若い読者の共感を得たのであろう。

金尾種次郎

    オッぺケペー節で知られる川上音二郎(1864-1911)は、明治32年、妻の川上貞奴(1872-1946)ら座員20名らと共にアメリカを巡業。翌年、パリ万博でも人気を博した。明治34年2月には「川上音二郎欧米漫遊記」という本が大阪の金尾文淵堂から出版されている。著者は金尾文淵堂の主人、金尾種次郎(1879-1947)である。

    金尾種次郎(かねおたねじろう)は江戸時代から続く本屋の3代目として、明治12年、大阪で生まれた。明治32年、文芸雑誌「ふた葉」を創刊、薄田泣菫詩集「暮笛集」などを出版した。明治33年10月には「ふた葉」を「小天地」と改題して発行。しかし、経営はふるわず破綻した。

    明治38年には、上京して麹町平河町5丁目5番地に金尾文淵堂を創業した。そして、薄田泣菫詩集「白羊宮」が好評であった。その後も、三宅雪嶺の「日本及び日本人」を引き受け、木下尚江「火の柱」、河井酔茗「塔影」、綱島梁川「病間録」、与謝野晶子「新釈源氏物語」などを出版。美本、良書の出版社として明治、大正の出版史に残る著作を数多く手がけた。

2007年7月22日 (日)

阮籍青眼

    阮籍は青眼(黒眼)と白眼を自在に使い分けることができた。気に食わぬ者がやって来ると盃を手にしたまま、ぎょろりと白眼でにらんだ。そのかわり、気の合った仲間が来ると、黒い眼を輝かして大盃を傾けた。この故事から、冷淡に扱うことを「白眼視」といい、反対に、心から人を歓迎することを「阮籍青眼」という。(「蒙求」)

    しかし阮籍もやはり人の子であった。母親が死んだとき、悲しみのあまり二斗の酒をぐい飲みして、泣いた。そして、数升の血を吐いた。葬式のときにも、母の亡がらにすがりつき、酔眼をみひらいて、弔問客を黙って見つめていたそうである。

    阮籍(210-263)。字は嗣宗。陳留・尉氏(河南省開封県朱仙鎮南西)の人。晋の時代、官吏となったが、司馬氏の専横のため、世塵を避け、酒を飲んで紛らし、隠遁生活したことで知られる。阮籍は父の阮瑀(げんう)についで文学に名をはせ、思想家としては嵆康と並んで時代を動かした。竹林に遊び、酒に酔いしれては、清談にふけったので、後世、「竹林の七賢」(阮籍、嵆康、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎)の代表的な一人となる。

  竹林は薮蚊の多き所とて

     知らでうかうか遊ぶ生酔い

                  (蜀山人)

エロ・グロ・ナンセンス

    大正末期から昭和のはじめにかけて、都市生活が大きく変わるとともに人々の意識にも大きな変化がみられるようになった。モダンボーイ、モダンガールとよばれる男女が、颯爽と東京の銀座や大阪の心斎橋をぶらぶらと散歩し、喫茶店でお茶を飲むことが流行し、「銀ブラ」「心ブラ」などの言葉が生まれた。男は長髪にロイドメガネ、女は断髪というのがそのスタイルで、タバコをふかし、酒をのみ、退廃的なエロ・グロ・ナンセンス時代が出現した。昭和5、6年ごろがその頂点であった。文学では吉行エイスケ(1906-1940)や中村正常(1901-1981)たちが軽妙奇抜な発想やパロディ、ユーモアなどで人気を集めた。

   昭和3年の三・一五事件(徳田球一、野坂参三、志賀義雄、杉浦啓一などが検挙)の直後の4月、日本ビクター会社から国産レコード盤「モン・パリ」「波浮の港」が売り出され、大ヒットした。その翌月にコロムビアから出た「私の青空」「アラビアの唄」も大いにヒットした。翌年、佐藤千夜子が歌った「東京行進曲」(西條八十作詞・中山晋平作曲)の「ジャズで踊ってリキュルで更けて 明けりゃダンサーの涙雨」という歌詞はまさに時代をなまなましく反映していた。この歌の第4節の前半は「長い髪したマルクスボーイ今日も抱える赤い恋」であった。「赤い恋」とは、ソ連のアレクサンドラ・コロンタイ(1872-1952)の小説「赤い恋」のことで、男女同権による自由恋愛を意味していた。ところが、吹き込み直前になってビクターの部長・長岡庄五から「待った」がかかり、急遽、「シネマ見ましょかお茶飲みましょうか」に変更された。その理由は取り締まり当局が厳しくなっているからだった。

   そのころ流行った言葉に「三つのS」がある。スポーツ、スクリーン、セックスの三つのSが多くの学生をとらえるようになった。コロンタイ女史の言葉「セックスは一杯のコーヒーを飲むにひとしい程度のものに過ぎない」という自由恋愛の意識も都会から広がっていった。

暗い便所でひろ子はしゃがみ腰で泣いた

   佐多稲子(1904-1998)。本名・佐田イネ。筆名は田島いね子、窪川稲子。戦後、窪川と離婚し、佐多稲子となる。

   佐多稲子は田島正文(17歳)を父に、高柳ユキ(14歳)を母にして長崎市八百屋町で田中梅太郎方で生まれた。若い未婚の両親であるため、戸籍上は伯父・田中梅太郎の長女として届けられている。叔父の佐田秀美は当時、早稲田大学の学生で、島村抱月の芸術座にも関係し、小説、戯曲、劇評などを書いていた文学青年で稲子に影響を与えている。(佐田秀美は大正5年死去)しかし、小学校1年のとき、母ユキが肺結核で死んだことから、稲子の少女時代の苦労が始まる。大正4年、父は三菱造船所を退社し、一家をあげて上京する。しかし無計画な上京のために生活は貧窮をきわめた。このため稲子は小学校を5年でやめ、和泉橋のキャラメル工場に幼年の包装工として勤めた。これ以後、浅草六区のシナそば屋、上野池之端の料亭清凌亭の小間使い、座敷女中、日本橋丸善書店の女店員となる。大正13年、丸善の上役から縁談を紹介され、資産家の息子で慶応大学の学生だった小堀槐三と結婚、大正14年には長女葉子が生まれるが、離婚。昭和元年、本郷のカフェー紅緑に女給として勤める。そこで同人雑誌「驢馬」のメンバー、中野重治(1902-1979)、窪川鶴次郎(1903-1974)、堀辰雄、宮木喜久雄、西沢隆二らを知る。そして窪川鶴次郎と再婚。昭和3年、短編「キャラメル工場から」を「プロレタリア芸術」に発表し、プロレタリア女流作家として知られるようになった。ここには小学校を卒業しないうちから生計を助けるため女工になった苦しい体験が素直に表現されている。

ある日郷里の学校の先生から手紙が来た。「誰かから何とか学費を出してもらうよう工面して」とそんなことが書いてあった。(中略)それを破いて読みかけたが、それを掴んだままで便所にはいった。彼女はそれを読み返した。暗くてはっきり読めなかった。暗い便所の中で用もたさず、しゃがみ腰になって彼女は泣いた。

   稲子の夫であった窪川鶴次郎と中野重治とは金沢の旧制第四高等学校時代からの文学仲間である。カフェの女給であった稲子を妻としたのは、窪川のほうであるが、稲子は中野重治を生涯師として仰ぎ、中野重治、原泉(1905-1989)夫妻との親交は長く続いた。

2007年7月15日 (日)

正木退蔵とスチーブンソン

    正木退蔵(1846-1896)。明治の化学者、教育者。弘化3年、正木治右衛門の三男として萩に生まれる。安政5年、13歳の時に松下村塾に入門。元治元年、世子公の小姓役に挙げられ、干城隊士としてし出征したが、維新後は留学生に選ばれ明治4年から7年までイギリスで学んだ。2年後の明治9年、東京帝国大学の外人雇い教師を探すために再びイギリスに留学。このとき「宝島」で知られる作家スチーブンソン(当時28歳)に出会って、松陰の思い出を語った。明治13年、スチーブンソンはイギリスの雑誌に「ヨシダ・トラジロウ」を掲載した。文章は16ページしかないが、松陰の誕生から処刑までを紹介し、「生命を生き生きさせてくれる日本の英雄」であり「その名は、ガリバルディやジョン・ブラウンの名と同じように、人口に膾炙されている名前になるべきだと思っている」と書いている。

    正木退蔵は帰国後、東京職工学校(現・東京工業大学)初代校長に任ぜられ、後外務省に奉職、明治24年ハワイ総領事に任ぜられた。明治26年官界を退き、明治29年死去、享年59歳。

詩的瞑想録

   ラマルチーヌ(1790-1869)は、美しい田舎の自然のなかに育ち、リヨンやベレーで教育を受け、20歳のときイタリアを旅した。1816年にエクス・レ・バンに療養生活中、ある科学者の妻ジュリ・シャルルと知り合い、恋におちたが、翌年夫人に死別され、そのわずかの間の恋愛がロマン主義の叙情をはじめてうたいあげた「瞑想詩集」となった。

     谷間     (ラマルティーヌ)

あらゆることにものうく、希望にさえ疲れはてたぼくの心は、祈りで運命をわずらわせることもない。子どものころの谷よ、せめて貸しておくれ、死を待つのに一日の隠れ家を。

ここは暗い谷間のせまい小道。丘の中腹におい繁った木がたれさがり、ぼくの額に乱れた影をのぞかせて、ぼくを深く沈黙と平和とで包んでしまう。

ここは緑色の橋の下にかくれたふたつの流れが、谷の周囲をうねり流れる。それは波とせせらぎの音とがまじり合って、泉から遠くもないところでひっそり、消えてゆく。

その流れのように、ぼくの青春の泉も流れ去った。それは音もなく、名もなく、もどることもなく、すぎ去ってしまった。だが、谷川の水は清らかだ。ぼくの心は乱れて、美しかった日の輝きを、もう映さない。

川床のさわやかさ、それをおおう影が、いちんち流れのほとりでぼくをひきつける。単調な歌にゆすられるあかんぼうのように、ぼくの心は水のささやきにまどろむ。

ああ、ぼくはここにきて、緑色のとりでのような地平線にすっかり目をさえぎられ、ひとり自然のなかに足をとめて、せせらぎを聞き、空を見あげる。ただそれだけをぼくは愛する。

ぼくはいままであまりにも見、あまりにも感じ、あまりにも愛した。ぼくは生きながら、あの世の静けさをもとめにきたのだ。美しい場所よ、世に忘れられた場所であっておくれ。忘れることだけがこれからのぼくにとって最大の幸福なのだ。

ぼくの心は休息し、ぼくの魂は沈黙する。この世の遠い物音もここまでくると消えてしまう。ぼけた耳には風にはこばれてきても、距離に弱められる遠い音のように。

ここからぼくは雲をへだてて、人生が過去のなかへ消えていくのを見る。目がさめたときには大きな姿をして、愛だけが消えた夢のなかに残る。

ぼくの魂よ、この最後の隠れ家にいこえ。旅人が希望に胸をふくらませて、町の前の城門にひと休みして、しばらく夕暮れのかぐわしい空気を吸うように。

ぼくも旅人のように、足のほこりを払おう。二度とこの道を行く人はいない。ぼくは旅人のように、人生行路のはしで、永遠の平和の先がけとなる。この静けさを味わおう。秋の日のように、暗い、短い日が、夜明けのように、丘の坂に傾く。ぼくは友情にそむかれ、あわれみ捨てられて、ひとり墓への小道をおりていく。

しかし、自然はそこにいて、招き、愛する。つねに開いているその胸に身を投げよ。すべてが変わっても、自然だけは変わらない。同じ太陽がいつでものぼっているのだ。

2007年7月14日 (土)

薄田泣菫「白羊宮」

               ひとづま

あえかなる笑や、濃青の天つそら、

君が眼ざしの日のぬるみ

寂しき胸の末枯野につと明らめば、

ありし世の日ぞ散りしきし落葉樹は

また若やぎの新青葉枝に芽ぐみて、

歓喜の、はた悲愁のかげひなた、

戯るる木間のした路に、美し涙の

雨滴り、けはひ静かにしたたりつ、

蹠やはき「妖惑」の風おとなへば、

ここかしこ、「追懐」の花淡じろく、

ほのめきゆらぎ、「囁き」の色は唐棣に、

「接吻」のうまし香は霧の如、

くゆり靡きて、夢幻の春あたたかに、

酔ごこち、あくがれまどふ束の間を、

あなうら悲し、優まみの日ざしは頓に、

日曇り、「現し心」の風あれて、

花はしをれぬ、蘗えし青葉は落ちぬ、

立枯の木しげき路よありし世の

事榮の日は、はららかにそそ走りゆき、

鷺脚の「嘆き」ぞひとり青びれし

溜息低にまよふのみ。夢なりけらし、

ああ人妻、

實にあえかなる優目見のもの果なさは、

日直りの和ざむと見れば、やがてまた、

掻きくらしゆく冬の日の空合なりき。

    薄田泣菫(1877-1945)。薄田隼人正の弟の子孫といわれ、父・薄田篤太郎は俳諧を好んで湖月清風と号していた。その叔母は天誅組の藤本鉄石について南画を学ぶ。

    泣菫、本名は薄田淳介。明治10年、岡山県浅口郡連島村に生まれた。岡山中学での成績は優秀だったが、中学2年のとき教師と対立して退学し、京都に出て同志社の予備校に通う。しかしこれも面白くないといって退学し、それ以後は図書館に通って独学を続けた。明治32年、第一詩集「暮笛集」刊行。明治33年10月、大阪で金尾文淵堂の文芸誌「ふた葉」改題「小天地」を編集、「明星」の客員ともなる。明治39年5月、「白羊宮」刊行。以後、「落葉」「泣菫小品」などの文集や短編小説を書く。大正元年からは毎日新聞社に入社し、学芸部長として活躍。同紙上に書いた「茶話」が好評で以後随筆家として活躍を続けた。昭和20年10月9日、岡山県井原町で、尿毒症で死去。享年69歳。

  「白宮羊」が世に出たとき、「明星」はその年第7号の巻首37ページをさいて与謝野鉄幹、馬場孤蝶、茅野蕭々らは合評を試みている。評者たちがとりわけ問題としたのが、泣菫の古語、廃語使用である。鉄幹は「上田敏の海潮音に比すれば幾倍か難解である」と評した。後年、国文学者の折口信夫は「泣菫さんに驚くことは、私のような古文体の研究を専門とする者にすら、生命の感じられない死語の摂取せられていることである。泣菫の語彙を批評した鉄幹は鄭重な言い廻しではあるが、極めて皮肉な語気をもって噂した。たとえば青水無月という語は、われわれには辞書にすら見出すことは出来ないが、薄田氏だから拠り所があるに違いない。美しい言葉だという風に。当時の詩人・文人の間に行なわれた勉強の一つで、辞書を読み、その美しい語を覚える、そういう行き方の、泣菫さんにあり過ぎることを風刺したものである」(「詩語としての日本語」)と書いている。

2007年7月 8日 (日)

姚安

    臨洮の姚安は美男だった。同郷に、緑娥という娘がいた。美しいし、それに賢かったが、相手を選んで、なかなか嫁にゆかない。

「門閥や風采が姚さんのようだったら、あたし結婚するわよ」といつも人にいうのだった。

   姚はそれを聞くと妻をだまして、井戸をのぞかせ、後からつきおとして殺してしまった。そして緑蛾を娶った。

   溺愛したが、緑娥があまりにも美しいので、安はたえず浮気をしているのではないかと疑っていた。女が外出すると後をつけた。女は気持ちを悪くして言った。「あたしがもし逢いびきしていたら、そんなにこせこせしたって、とめられないわ」

    ある日、姚が外から帰ってきて、寝室をみると、貂の帽子をかぶった一人の男がベットの上で寝ていた。姚は怒って刀を取り、力まかせに斬りつけた。そして近づいてよく見ると、女が寒さのため、貂の皮を覆い、昼寝をしていたのだった。姚はひどく驚き悔やんだが、あとのまつりだった。

   あるとき姚が独りで坐っていると、髯のはえた男となれなれしく話している女の姿が見えた。憎くてたまらなかったので、刀をもってそばに行くと、消えてしまった。元の場所に返ってきて坐るとまた見えるのである。姚はひどく怒って、刀を振り回して、あたりを斬りつけた。すると女が姚を見て笑うので、たちどころに首を斬った。やがてまた坐ると、女はもとのところで、もとのように笑っていた。

   夜、灯(あかり)を消すと、言いようのない厭な声がする。毎日そんなで、それはとても耐えられないものだったので、姚は田畑や邸宅を売って引っ越した。まもなく、泥棒に大金を盗まれて、錐の先ほどの土地もない貧乏人になり、くやみ死(じに)をしたそうである。(「聊斎志異」)

修道院運動

   修道院は東方オリエントに起源を有するが、ローマ・カトリック教会が世俗的権力を有するにつれて、原始キリスト教の純粋性を失っていったので、6世紀にヌルシアのベネディクトゥス(480?-543)は、529年、モンテカシノにベネディクトゥス派修道院(モンテカシノ修道院)を設立した。「ベネディクトゥス戒律書」が、のちの多くの修道院の戒律の基本となった。それによれば、清貧、貞潔、従順の三つの誓いおよび所属の修道院に一生を送ることの誓いが立てられ、日ごとに規律正しい祈祷と瞑想と勤労の義務が課せられた。「祈り、働け」の精神のもとに、最初は農耕のような肉体労働であったが、のちに写本、読書などの学問も推奨された。

   10、11世紀にはクリュニュー修道院(910年設立)を中心とする改革運動が全西欧に拡大するようになった。改革運動で知られるグレゴリウス7世(在位1073-1085)、ウルバヌス2世(1088-1099)はいずれもクリュニー改革運動の具現者とみることができる。しかしクリュニー派もしだいに俗化していった。

   その後、修道院の世俗化に反対する改革運動は、12世紀にクレールヴォーの母修道院を中心とする聖ベルナールのシトー派修道会(1098年設立)、13世紀前半にアッシジのフランチェスコ(1182-1226)とスペインのドメニコ(1170-1221)による托鉢修道会などにおいてみられたが、これらもまた、その規模を拡大するにつれて、世俗化せざるをえなかった。十字軍を契機として12世紀に出現した、フランスのテンプル騎士団、ドイツのドイツ騎士団、イタリアのヨハネ騎士団などの騎士修道会もまた同様であった。キリスト教武装集団、テンプル騎士団は、武勇と財力ともに秀でていることで知られる。彼らの存在は、初期十字軍の成功とは切っても切り離せない。しかし、騎士団内部で秘密の儀式が行われているという噂が疑惑を招くる1307年、テンプル騎士団に多額の借金があったフランスのフィリップ4世は、彼らが異端のペテン師でみだらな行為を行っていると訴えられる。その責めを受けて、騎士団のリーダーたちは火あぶりの刑に処せられた。

2007年7月 7日 (土)

15世紀の異端運動

   15世紀にはいると、教会の中心は、ピサ(1409年)、コンスタンツ(1414-1418)、バーゼル(1431-1449)などの公会議が開かれて教会改革が議せられるようになった。そして、この過程において、フランスのアルビジョア派、イギリスのジョン・ウイクリフ(1320?-1384)、ベーメンのフス(1369?-1415)、フィレンツェのサヴォナローラ(1451-1498)などがカトリックの教義を批判し、かつ教会改革の運動に乗り出しし、宗教界は大いに混乱した。皇帝ジギスムント(在位1411-1437)はコンスタンツに公会議を召集し、教会の統一、異端問題の処理などを議し、その結果、公会議の最高主権が確認され、ローマの大分裂を終わらせ、かつフスの説を異端として彼を火刑に処した。このため混乱は一応おさまったが、ベーメンの民衆はフスを殉教者と仰いで反乱をおこし(フシーテン運動)、カトリック側と対抗した。フス戦争は20年余り続き(1419-1436)、結局カトリック側の譲歩によって終わった。こうしたウィクリフやフスの思想と行動は、のちの宗教改革の先駆となった。

2007年7月 6日 (金)

ど忘れ

   美空ひばりは、いつものようにステージに立った。幕が上がり、伴奏が流れた。ところが、歌いだしの歌詞がどうしても思い出せない。ひばりは「えーっと、一番の歌詞、一番、いちばん、イチバン…」と心の中で念じた。すると、突如、思い出した。

  一番 乗りをやるんだと

  力んで 死んだ 戦友の

  遺骨を抱いて 今入る

  シンガポールの 街の朝

   「戦友の遺骨を抱いて」(昭和18年)は、陸軍主計軍曹だった達原実(1918年生)が陣中新聞に詩を発表し、それに松井孝造が曲をつけ、南西艦隊軍楽隊のコンクールで当選した歌。戦後になっても、多くの歌手によって歌い継がれている。

過庭の訓(かていのおしえ)

    孔子(前551-前479)は19歳で結婚して、20歳で長男が誕生している。魯の昭公は誕生のお祝いに鯉を贈ったので、子供には「鯉」と名づけられた。孔鯉(前532-前483)は凡庸だった。ただ次の逸話が残されている。

    孔子の弟子の陳亢(ちんこう、字は子禽)が、伯魚(孔鯉)に言った。「あなたは先生のお子さんなのだから、何か特別な教えでも聞いていますか」とたづねた。伯魚は次のように答えた。「いいえ、そのようなことはありません。ただある時、父が一人で縁側に立っている時、私がその前を小走りして庭先を通り過ぎますと、父が呼び止めて、「鯉よ、お前は詩を学んだか」と言われたので、私は、「まだでございます」と答えました。すると父は「詩を学ばなくては人と話ができないよ。詩は人情の発露であり、言葉が洗練されて耳ざわりのよいものだ。詩を学びなさい」と申しました。そこで私はすぐ引き下がって詩の勉強をしました。その後、またある時、父が一人でいる時、その前を小走りして庭先を通り過ぎますと、父が私を呼びとめて、「礼を学んだか」と申しますので、私は「まだ学びません」と答えました。すると父は、「礼を学ばないと、人として世に立つことができないよ」と申しました。私はまた退いてすぐ礼の勉強を始めました。もし、特に聞いたことがあったかと考えますなら、まずこの二つだけでございましょう」と。

    この故事に因み「庭のおしえ」すなわち「庭訓」(ていきん)とは、家庭の教訓、家庭教育を意味するようになった。(参考:吉田賢抗「論語 李氏篇」)

舟ばたに刻む

   楚の人が舟に乗って河を渡っている時、剣を水の中に落としてしまった。ところが彼はすこしもあわてず、すぐに舟ばたの剣を落とした場所を刻んで印をつけ、「剣が落ちたのはここだ」といって、舟を停めさせ、印の下の水中を捜がしたが、見つからなかった。彼は舟が移動することを知らないで、後で捜すための目印として船ばたに刻みをつけたのだった。この「刻舟求剣」の故事から、時勢の移り行くのを知らず、いたずらに古い習慣を守ることのたとえを「刻舟」(こくしゅう)という。(「呂氏春秋」)

2007年7月 3日 (火)

ウソツキ禮次郎

   若槻禮次郎(1866-1949)は、加藤高明が死んだあとと、浜口雄幸が死んだあと、二度にわたって総理大臣をつとめた。第25代(1926-1927)と第28代(1930)である。東大から大蔵省へ入った生粋の官僚出身で、謹厳実直な能吏でありながら、名前をもじられて「ウソツキ禮次郎」と誹られて、もう一つ人気のない政治家であった。

2007年7月 1日 (日)

無頓着な王安石

   王安石は勉強に熱心であったが、風呂が嫌いで、服を着換えるのもめんどくさがった。いつも垢のこびりついた服を洗濯させずにいつまでも平気で身に着けていた。

   食べ物でもそうだった。ある人から王安石は鹿の干し肉を好むと聞かされ、夫人はけげんに思った。というのも、夫から食べ物の好みなど聞いたことがなかったからである。この人には味覚というものがないのではないか、とさえ思うことがあった。夫人はそこで、なにゆえ鹿の干し肉が好物だと分かったの、と尋ねたところ、王安石のそばづきの者が答えた。

   「お食事のたびに他の物には目もくれず、鹿の干し肉だけを召し上がられるからです」

   夫人が、食事のとき干し肉はどこにあるか訊いてみると、箸とスプーンの近くにありました、という答え、そこで夫人が言った。

  「明日、他の物を箸とスプーンの近くに置いてごらん」

   はたして、くだんの好物は食べ残された。つまり、王安石は鹿の干し肉が好きだったのではなく、近いところにあったから食べたのだった。

   王安石(1021-1086)は北宋の神宗のときの宰相。「王安石の新法」つまり均輸、青苗、市易、募役、方田均税、保甲、保馬法などの革新政策を断行した。(三浦國雄「王安石」集英社)

金の卵を産むめんどり

   貪欲は一切を得ようとして一切を失う。このことの証明に、わたしはいま、寓話の言い伝える、日々、金の卵を一つ産むめんどりを持った男のことだけを語りたい。

   彼は、めんどりの腹の中には金塊があるに違いないと思った。そこで腹を裂いてみた。しかし、腹の中には金塊などなかった。こうして、一挙に、最も立派な財産を自ら捨てることになった。

   これは、けちな連中へのよい教え。早く金持ちになろうと、焦るあまりに一夜明ければ乞食となりさがる。近頃、こうした連中のいかに多くいることか。(「ラ・フォンテーヌの寓話」)

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