芥川龍之介没後80年
明日は河童忌。昭和2年7月24日、芥川龍之介(1892-1927)は田端の自宅で服毒自殺した。35歳だった。神経と身体の衰弱に苦しむ芥川をともに過ごした妻・芥川文(あくたがわふみ、1900-1968)は、「お父さん、よかったですね」と彼にささやいたという。
芥川文。塚本文が初めて芥川龍之介を見たのは、文が7歳、龍之介が15歳のとき。明治40年の頃である。文の父は海軍少佐・塚本善五郎といい、飛騨高山の士族で、秋山真之とは海軍兵学校では同期でライバルであった。日露戦争では装甲巡洋艦「日進」の艦長であったが、艦橋付近に被弾し戦死した。文は母の実家山本家に住むこととなった。母の末弟の山本喜誉司(1892-1963)は芥川龍之介と東京府立第三中学校の同級生。(のち三菱商事につとめブラジルコーヒーの栽培や日系ブラジル移民の会長となる)
芥川は山本家にしばしば出入りし、幼い文を知ることとなる。ちょうど青山女学院の吉田弥生との結婚を諦めたころであった。大正4年ごろ、芥川は美しく成長している文への恋情を感じる。親友の山本にも心のうちを告げる。そして新思潮に掲載した「鼻」が漱石の激賞を得、期待の新人作家として、文壇の注目を浴びていた。
大正5年、芥川は文にラブレターを送る。「貰ひたい理由は、たつた一つあるきりです。さうしてその理由は僕は文ちゃんが好きだと云ふ事です」「繰り返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです」愛を告白したこの年、大正5年12月、文と婚約した。当時、文は16歳で、跡見女子学園に在学中だった。そして2年後、二人は結婚した。
二人の間には、芥川比呂志(1920-1981)、芥川多加志(1922-1945)、芥川也寸志(1925-1989)が生まれた。龍之介は子煩悩だった。二男の多加志は昭和20年4月12日、戦死した。芥川文は、父の戦死、夫の多彩な女性関係(野々口豊子、秀しげ子、森幸枝、平松麻素子、片山広子)、夫の病気と自殺、子の戦死など苦労の連続であった。龍之介が死んだとき、文はまだ27歳だった。芥川龍之介没後80年というのは、わずか10年あまりの龍之介との家庭生活の想い出を心の支えとして、健気に生きた女性の人生の軌跡でもある。文は、68歳で心臓病で亡くなった。
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