月島丸遭難とダンチョネ節
明治30年、東京高等商船学校(現・東京商船大学)練習帆船「月島丸」が建造された。日本初の総合的な帆船実習教育の始まりであった。ところが、明治33年11月17日、月島丸は暴風雨により駿河湾沖で沈没、122人(うち練習生79人)は全員溺死するという痛ましい海難事故が起こった。詩人の横瀬夜雨は「石廊崎に立ちて(月島丸をおもふ)」をうたいその死を悼んだ。
八重立つ雲の流れては
紅匂ふ暁(あけ)の空
夜すがら海に輝きし
鹹(しほ)の光も薄れけり
南に渡る鴻の
聲は岬に落つれども
島根ゆるがす朝潮の
瀬に翻る秋の海
牡蠣殻曝れし荒磯の
巌の高きに佇みて
沖に沈みし溺れ船
悲しみあとを眺めれば
七十五里の灘の上
浪は白く騒げども
玉藻の下に埋れし
船は浮ばずなりぬかな
ところで八代亜紀の「舟唄」に「沖のカモメに 深酒させてよ いとしあの娘とよ 朝寝する ダンチョネ」と「ダンチョネ節」の一節が使われている。「ダンチョネ節」は元は三崎地方の民謡で「勇波節」といい、「三浦三崎でヨ どんと打波はネ 可愛いお方のサ 度胸だめし ダンチョネ」と歌われていた。この月島丸の遭難事故以来、商船学校の生徒たちの間では、その悲しみを「ダンチョネ節」にたくした。ダンチョネとは、断腸の思いという意味ともいわれる。戦時中は特攻隊など死を覚悟した兵士たちにより替え歌が愛唱された。「沖の鴎と飛行機乗りは どこで散るやらネ はてるやらダンチョネ」
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