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2007年6月 2日 (土)

明治初期の漢文漢語の流行

   漢文とか漢学というと、古臭くて得たいの知れない代物と思われそうだ。しかし最近、自分より少し年下の行政経営の人と館長の三人で出張の帰り一献酌み交わしたときに、ジャズや芸術論の話が出た後に「あなたは何をしているのか」と聞かれたので「東洋史だ。最近は漢学に興味がある」と正直に言ったら「漢学は奥が深い」と言ってくれた。その一言がとてもうれしかった。

   漢学や儒教は古臭くて、近代日本の発展を阻害した元凶のように考えている人が多数いるが、本来、文化性・合理性を持った学問である。また明治以後の日本の近代化に果たした役割も大きい。朱子学、古学、陽明学などの三学は多少の差はあっても、本質的には思弁的な学問であり、主要なテーマは理と気であり、心であり、性である。つまり幕末明治の漢学者たちは、洋学の受容に先立って、理詰めの判断による事象の理解ができていた。従って彼らにとって洋学も決して異質の学問ではなかった。彼らは漢籍の読書過程で、すでに洋学理解に必要な判断力を備えていたのである。

    明治維新と言えば「文明開化」が同義語のように思われ、漢学は一斉に退潮したと考えられがちであるが、実際は明治初年には「漢語の流行」という現象が起こっている。当時流行した漢語で「勉強」「規制」「注意」「関係」「管轄」「区別」「周旋」など今日もなお日常語として残っているものも少なくない。

    牧野謙次郎は次のように解説している。

明治初年にはなお旧幕の鴻儒が生存し、漢語漢文の流行があった。例えば、当時の言葉、髪床は理髪店と改められ、風呂に入ることは入湯と称せられ、不都合をした時は、失敬と謝るようになった。この漢語の流行を来たした原因は何であったかというに、幕末維新の際、国事に奔走した全国諸藩の人々は、互いに交通し会合する必要があった。しかし各国にはそれぞれ方言があって、今日の如く標準語が普及していても、しかも仙台の人と鹿児島の人とが国の訛りで話せば話が通じないであろうが、当時はなおさらのこと、話す言葉が理解できず、非常に会話の障害となった。そこで漢語ならば話に問題がなかろうという所から、漢語がこれらの社会に流行するに至ったのである。そして維新後には、これらの人々が多く要路に立ったため、ついに漢語が上流社会の言葉となったのである。(「日本漢文学史」昭和13年)

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