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2007年6月19日 (火)

安部公房とエスペラント語

   宮沢賢治のイーハトーブが岩手のエスペラント語風の読み方であることはよく知られている。また長谷川テル(1912-1947)は昭和7年にエスペラントを習ったことから検挙され、中国で緑川英子という名前で対日放送に従事するが、Ⅴenda Majo(緑の五月)はエスペラント語に由来している。

    ところで安部公房(1924-1993)はエスペラントと関わりがあったのだろうか。かつて三島由紀夫(1925-1970)が安部公房と対談したとき共通語で話しているのに、外国人と話しているみたいだ、という感想をもらしたという。同世代の現代文学の旗手にかくもへただりがあるのはなぜか不思議であった。安部公房の両親にその謎を解く鍵をさがしてみる。

   安部の父である安部浅吉は北海道上川郡東鷹栖村の出身で祖父母は石狩川の開拓民だった。そのフロンティア精神の影響からか、浅吉は医学を志し、満州国の奉天にある満州医科大学に勤めた。長男の公房(きみふさ)が生まれた大正13年は、浅吉は東京の医大に留学し研究中であった。母の安部よりみはプロレタリア文学を研究していたという。大正14年に家族3人は満州奉天市にもどり、医院を開業する。安部浅吉は医業のかたわら「奉天エスペラント会」の中心人物として尊敬されていた。そのころ満州では五族協和のスローガンのもと公用語としてのエスペラント語を採用するということが検討されていたのであろう。安部公房は上京して成城高校、東大と進むが、敗戦が近くなるという噂を耳にすると、危険をおかして両親にあいに渡満する。昭和20年、開業医をしている浅吉を手伝っていたが、浅吉は発疹チフスに感染して死亡した。安部浅吉の詳しい経歴は知らないが、「労働科学」という雑誌に「満州に於ける青少年集団栄養に関する調査」(昭和17年)がある。おそらく安部公房は開拓地の医療に取り組む父を尊敬していたであろう。安部公房本人はエスペラントには親しまなかったが、父の国際性と母の文学性を享受したことは想像するに難くない。

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コメント

安部浅吉・公房のエスペラント活動については『日本エスペラント運動人名事典』をご覧ください。「安部公房本人はエスペラントには親しまなかった」ということはありません。

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