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2007年6月 3日 (日)

吉川英治の父母兄弟妹

   吉川英治は小学校を中退し、横浜関内住吉町の川村印刻店へ丁稚小僧、少年活版工、税務監督局の給仕、海軍御用商の店員、土建場の日雇、横浜ドックの船具工などを転々としている。これらは父の吉川直広の事業の失敗が原因となっている。

   吉川直広は旧小田原藩下士の吉川銀兵衛の子として生まれた。明治になって県庁書記、酒税官などを勤め、後、牧畜経営を志すも失敗、当時、根岸競馬場付近で近所の子弟を対象に、寺子屋風の家塾を開いていた。明治29年頃、高瀬理三郎に見出され、横浜桟橋合資会社を設立し、家運は隆盛に向かうかにみえた。しかし直広は高瀬と対立し、裁判を起こし敗訴すると、文書偽造、背任横領などの罪にとわれて根岸監獄に収容された。

   母のいくは、直広と明治22年6月結婚した。実家の山上家は、佐倉の堀田藩の上士の出であり、本家は馬廻り、勘定頭、勝手役兼破損奉行などを歴任した由緒ある家柄だったといわれる。母方の祖父は誠心流槍術の遣い手として知られ、明治になってからは戸長や町長をつとめた土地の有力者だった。いくは佐倉の女学校を卒業したのち、姉の嫁いでいた斎藤恒太郎(攻玉社の語学教師)の関係で芝新銭座の近藤真琴の家に家事見習いに行き、開明的な気風のなかで過ごした。吉川英治には、異母兄弟の綾部政広、二女きの、三女かゑ、三男素男、四女はま、五女ちよ、四男晋がある。また、他に乳児で死亡したくに、きく、すえの三女があった。

    明治42年、千葉県の田舎町に奉公に出された四女のはま死亡。(7歳)大正7年、父直広(58歳)、大正10年、母いく(54歳)をそれぞれ窮乏生活の中で亡くくしている。

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