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2007年6月30日 (土)

原敬と原奎一郎

    大正10年11月4日、午後7時20分、総理大臣原敬(1856-1921)が、東京駅改札口付近で中岡艮一(1903年生まれ。当時19歳)に短刀で胸を刺された。すぐに駅長室に運び込まれたが、傷は右肺部から心臓に達し、数分後に絶命した。65歳だった。

    原敬は、京都で開かれる政友会支部大会に出席するため、東京駅に来ていたが、見送りの中橋徳五郎文相(1861-1934)と談笑していたとき、凶行にあった。暗殺犯の中岡は、国鉄大塚駅運轍手で、9月28日の安田善次郎(1838-1921)を殺害した国粋主義者・朝日平吾(1890-1921)に感激し、犯行を決意したといわれる。

    この暗殺事件で原内閣は翌日総辞職し、高橋是清(1854-1936)が政友会総裁を継ぎ、新内閣を組織した。

    敬には実子がなく、兄の二男の原貢(1902-1983)を明治44年に養子にしていた。原貢は大正10年、慶応予科を中退して、大正10年11月に英国に留学に向かう途中で養父の死を知る。11月5日夜、マラッカ海峡を航行中の船上で電報を受け取った。帰国せずにそのまま留学せよ、という命令により翌年まで英国に滞在。昭和15年から昭和21年まで同盟通信社に勤務する。戦後は原奎一郎という筆名で小説家となる。代表的なものは「原敬日記」の編集、「ふだん着の原敬」「原敬をめぐる人びと」など。ほかに「恋愛実技」「恋愛成功法」(昭和34年)という著書もある。

   ところで原敬の暗殺犯の中岡艮一は無期懲役の判決を受けたが、数度の恩赦により、昭和9年に出獄している。戦後の消息については不明である。

白洲次郎と麻生太賀吉

   いま総理に最も近い人物といわれているのは麻生太郎。母方の祖父が吉田茂(1878-1967)であることはよく知られている。そして麻生太郎の出生秘話に白洲次郎(1902-1985)が関わっている。

   白洲次郎は昭和11年、イギリスからの帰途、浅間丸で麻生太賀吉(1911-1980)という青年と出会う。彼は九州の石炭王・麻生太吉(1857-1933)の孫である。

    しばらくして、白洲は吉田茂の妻雪子から三女和子の結婚相手を探してほしいと頼まれた。白洲はふと船中で出会った麻生青年を思いだした。白洲の紹介もあってか、麻生太賀吉と吉田和子は昭和13年に結婚した。和子は曽祖父に大久保利通、祖父に牧野伸顕、父に吉田茂をもつ政治家の家系。麻生家は九州の筑豊炭田を地盤とする実業家の家系。そして昭和15年9月20日、長男、麻生太郎が生まれた。

津島佑子と太田治子

   太宰治(1909-1948)には4人の子供がいる。石原美知子(1912-1997)との間に長女園子、長男正樹、次女里子。太田静子との間に生まれたのが、太田治子である。

    津島園子は早稲田大学卒業後、津島雄二(衆院議員)と結婚し、渡米。津島正樹(1944-1959)は病死。津島里子は作家・津島佑子。昭和22年3月30日生まれ。白百合女子大学文学部英文学科在学中から小説を発表。宮崎あおい主演のNHK連続テレビ小説「純情きらり」は「火の山 山猿記」を原作からドラマ化している。

   太宰と「斜陽」のモデルとされる太田静子との間に生まれた女児が作家の太田治子で、昭和22年11月12日の生まれ。高校2年の時に書いた「十七歳のノート」が注目され、吉永小百合主演で「斜陽のおもかげ」(昭和42年)として映画化されている。明治学院大学英文学科を卒業後、OL生活を経て、作家となる。代表作は「心映えの記」(昭和60年)。太宰治(津島修治)から一字「治」をとって「治子」に思い入れがあるのか、戸籍名そのままで作家デビューしている。

    それにしても、津島佑子、太田治子と二人の女流作家を娘にもつ太宰治の文学的家系もめずらしいことである。子供が父親の思い出を随筆として書くことは数多くあるが、本格小説の女流作家として成長したことは異例であろう。

テミストクレス

    アテネの名門の子供たちが学ぶ校庭での話。みんなが楽しく詩や音楽の話をしていたが、テミストクレスという少年だけは、大志を抱き政治の演説をするのであった。

「自分はリュラ(琴)の調子を合わせたり、プサルテリオンを弾いたりすることには疎いが、名もない小さな国を引き受けて、大国に仕上げることは心得ている」と言った。

   この少年こそ、サラミスの海戦でペルシア艦隊を破った古代ギリシアのアテネの政治家テミストクレス(前528?-前462?)である。しかし、彼の晩年は不遇で、前470年、陶片追放(オストラキスモス)により失脚し、ペルシアに逃れた。牡牛の血を飲んで自殺とも伝えられる。

樽の中のディオゲネス

  アレクサンドロス大王が哲学者のディオゲネスの評判を聞き、コリントにいた彼を訪ねた。大王からなにか所望のものはないかとたずねられたのに対して、日なたぼっこをしていたディオゲネスは、「そこを少しどいてくれ。日が当たらないから」と答えて、追いはらうようにしたという。大王は、「もし私がアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスになりたい」といった。

   ディオゲネス(前412-前323)は両替商ヒケシアスの子として黒海地方のシノぺに生まれた。父は通貨改鋳の罪で獄死し、彼は国外追放となり、アテネに出てきた。そこでソクラテス門下のゴルギアス(前483-前376)の弟子のアンティテネス(前444-前371)に学んだ。アンティテネスは「幸福は徳に、徳は知に根ざす」という思想で知られる。(この意見はストア派に取り入れられる)講義をはじめた場所がアテネ郊外のキュノサルゲス(白犬の意)とよばれる体育館だったのでキュニコス派(キニク派)と呼ばれる。明治時代、いやしめて犬儒派と訳された。犬儒派の開祖はアンティテネスであるから、弟子のディオゲネスが犬のような生活をしていたから犬儒派とするのは誤説である。

   キュニコス派の哲学者には、アンティテネスの他に、ディオゲネスの弟子で、同じく放浪の生活をおくったテーベ出身のクラテス、そして名門の生まれながら、クラテスの人柄に魅せられ彼と結婚した女性学者ヒッパルキアが知られる。キュニコス派、つまりキニク派の特徴として見られるのはヒニク(皮肉)である。次の逸話が示している。

   あるとき、ディオゲネスはまだ昼間なのにランプをつけて、「人間はいないか。人間はいないか」と叫びながら街の中を歩いていた。これは、本当に人間の名に値する有徳な人間がいないことを皮肉った話である。「習慣は第二の天性である」という言葉もパスカルよりも以前にディオゲネスが皮肉で使っている。習慣はつまり人為(努力)により形成されるが、習慣の拘束力のつよさとその無意味さを指摘したものである。人が家屋に居住するという習慣を見直すため、ディオゲネスは神殿や倉庫で寝ていた。あるときは酒樽の中で寝ていたので人々は彼のことを「樽の中の哲学者」と呼ぶようになった。このようにディオゲネスの思想は無一物無所有の生活実践から生まれたので、東洋の禅と共通する思想が多く見られる。近代の日本でディオゲネスが知られるようになって、ディオゲネスの逸話には、一休の逸話を借用した国産がみられる。

    ディオゲネスの思想で最も重要と思われることは、彼がポリス、国家、民族の枠を越えた意識を最初に持った思想家であり、「自分はコスモポリタンだ」と言ったと伝えられる。コスモポリタ二ズムはコスモス(世界)とポリス(市民)の合成語で、ディオゲネスは個人主義的な理念を含む世界市民主義の開祖といえる。

2007年6月28日 (木)

「羅生門」出版記念会

    大正6年5月、芥川龍之介(1892-1927)は北原白秋の弟鉄雄の経営する阿蘭陀書房から第一創作集「羅生門」を刊行した。自装で、題字と扉の文字は、一高時代の恩師・菅虎雄が書いている。6月27日夜、佐藤春夫、江口渙、久米正雄、松岡譲の4人が発起人となり、日本橋のレストラン鴻の巣で「羅生門」出版記念会が催された。出席者は、佐藤春夫、谷崎潤一郎、日夏耿之介、赤木桁平、豊島与志雄、有島生馬、滝田樗陰、久米正雄、松岡譲、成瀬正一、菊池寛、和辻哲郎、鈴木三重吉、小宮豊隆、後藤末雄、加能作次郎、江口渙らであった。江口は、のちに「若いジェネレーションの文壇への出発の新しい宣言というようなものがつよく流れていた」と書きとめている。出席者の顔ぶれをみると同人雑誌第4次「新思潮」と同人雑誌「星座」と漱石門下生と白樺派である。卓上にどっさりと盛られてあったスイートピーや薔薇を前にして、白麻の夏服を着こんだ26歳の芥川は、鴻の巣主人の持ち出した画帖に、「本是山中人」と六朝まがいで揮毫した。佐藤春夫は「自分はとても希望のない自分の文学的生活を考えながら、颯爽として席の中心にいる芥川を幸福だと思った」と述懐している。

   志賀直哉(1883-1971)は、なぜかこの出版記念会に出席していない。大正6年の志賀は3年間の沈黙を破って再び創作活動をしているころだった。5月に「城の崎にて」を発表している。出版記念会の主賓の芥川龍之介のひそかなライバルは志賀直哉だったと思う。その後も、才気あふれる芥川は、志賀が大の苦手で、どうにもかなわないという気がするようになった。志賀が一作発表するごとに、「ああ俺はかなわない」と頭をかかえるようになった。志賀のほうは、そういうことにまったく鈍感で、むろん芥川のほうがはるかに才能があると思っていた。神経質な芥川は自殺し、鈍感な志賀は大成した。

2007年6月27日 (水)

痔と「彼岸過迄」

    明治44年12月15日の夏目漱石の日記。

今日から小説を書こうと思ってまだ書かず。他から見れば怠けるなり。終日何もせざればなり。自分から云へば何もする事が出来ぬ位小説の趣向其他が気にかかる也。

    以上で明治44年の日記は終わっている。おそらくそこまで書いたところで、小説の書き出しの文句が浮かんだから、そのまま小説の方へかかったのだと思う。そのころ漱石は、神田の佐藤病院に通って痔の治療をしていた。

   漱石は「この病気はいつなおるでしょうか」と医師に聞いた。すると佐藤医師は「サア、彼岸過迄かかりましょう」と返事した。漱石は早速それを小説の題にいただいてしまった。

   明治45年1月2日から東京、大阪、両朝日新聞に「彼岸過迄」の掲載が始まった。元日には「彼岸過迄に就いて」を載せる。小説は表題の彼岸過迄より少し後の4月29日まで続いた。

佳人薄命

    美しい容姿にめぐまれた女性はとかく短命だという意味で、蘇東坡の詩に「古来より佳人多く命薄し、門を閉じ春尽きて揚花落つ」とある。むかしの女性は軒の深い家に住んでいてめったに外出などせず、色白になりそれで美人といわれたのだが、日光浴をしなかったので早死にした人が多かったのかもしれない。

    世界三大美人といわれる、楊貴妃とクレオパトラはともに40歳近くの女盛りで亡くなっているが、小野小町については生没年は不詳であるが伝説によるとかなり長命だったようである。古川柳に「薄命でなくて小町は恥をかき」がある。

   現代は、女優や人気アイドルの突然の死が大きくニュースとなり、社会に大きな衝撃となることがある。ZARD・坂井泉水(1967-2007)の突然の死は記憶に新しいところである。佳人薄命で思い出すのは、夏目雅子(1957-1985)であろう。正統派アイドル、岡田有希子(1967-1986)の自殺が社会に与えた衝撃も大きかった。堀江しのぶ(1965-1988)、テレサ・テン(1953-1995)、可愛かずみ(1964-1997)、本田美奈子(1967-2005)、甲斐智枝美(1963-2006)など女神たちの昇天に合掌。

パンドラの匣

   大昔、人々は美しい世界で幸福に暮らしていました。そして誰ひとり病気になることなどありませんでした。そのころ、パンドラという美しい少女が住んでいました。ある日、妖精が彼女にふしぎな匣(はこ)をくれました。それは金のひもでしばってあって、妖精は彼女にその匣をあけないという約束をさせました。パンドラと友だちの少年エピミーシアスは、何度もその匣をながめて、何がその中にはいっているかと不思議がりました。

   長い間、パンドラは妖精にした約束を守っていましたが、とうとう匣の中をのぞいて見たくなりました。彼女はひもをほどいてふたを少し持ち上げました。すると何百という悪い小妖精が出てきました。彼らはパンドラを刺したので、彼女は金切り声を立てて床の上に倒れました。彼らはエピミーシアスも刺しました。それから戸外に飛び出して、世界中の子供たちをみんな刺しました。

   やがてパンドラはある小さな声を聞きました。その声がいいました。「わたしを外に出してください。そうすればあなたを助けてあげます」彼女は匣をあけました。するとサッときれいな小妖精が飛び出しました。彼女はパンドラに自分の名はホープ(希望)であると告げました。彼女はパンドラとエピミーシアスにキッスして彼らを治してやりました。それから彼女は他の子供たちを助けるために飛んでいきました。現在でも、人々が病気で不快な時には、この善良な小妖精ホープが人々を慰めるためにやってきます。

月島丸遭難とダンチョネ節

    明治30年、東京高等商船学校(現・東京商船大学)練習帆船「月島丸」が建造された。日本初の総合的な帆船実習教育の始まりであった。ところが、明治33年11月17日、月島丸は暴風雨により駿河湾沖で沈没、122人(うち練習生79人)は全員溺死するという痛ましい海難事故が起こった。詩人の横瀬夜雨は「石廊崎に立ちて(月島丸をおもふ)」をうたいその死を悼んだ。

  八重立つ雲の流れては

  紅匂ふ暁(あけ)の空

  夜すがら海に輝きし

  鹹(しほ)の光も薄れけり

  南に渡る鴻の

  聲は岬に落つれども

  島根ゆるがす朝潮の

  瀬に翻る秋の海

  牡蠣殻曝れし荒磯の

  巌の高きに佇みて

  沖に沈みし溺れ船

  悲しみあとを眺めれば

  七十五里の灘の上

  浪は白く騒げども

  玉藻の下に埋れし

  船は浮ばずなりぬかな

   ところで八代亜紀の「舟唄」に「沖のカモメに 深酒させてよ いとしあの娘とよ 朝寝する ダンチョネ」と「ダンチョネ節」の一節が使われている。「ダンチョネ節」は元は三崎地方の民謡で「勇波節」といい、「三浦三崎でヨ  どんと打波はネ 可愛いお方のサ 度胸だめし ダンチョネ」と歌われていた。この月島丸の遭難事故以来、商船学校の生徒たちの間では、その悲しみを「ダンチョネ節」にたくした。ダンチョネとは、断腸の思いという意味ともいわれる。戦時中は特攻隊など死を覚悟した兵士たちにより替え歌が愛唱された。「沖の鴎と飛行機乗りは どこで散るやらネ はてるやらダンチョネ」

モダンボーイとヨーヨー

   糸巻きの木片の軸の部分を細くしたようなものに糸を巻きつけ、回転を与えて上下に動かす玩具。起源は古代ギリシアに始まり、交易路を通じてアジア、ヨーロッパに広まり、スコットランド、イングランド、インド、エジプトにまで伝わった。フィリピンにおいて、ヨーヨーは現代の形状に近づいた。

   日本では江戸時代に長崎を経てはいっている。てぐるまともいった。昭和8年、洋行帰りの教員がアメリカ土産として持ち帰ったのがモダンボーイのあいだに流行し、銀座のような盛場を歩きながら、これをもてあそぶようなことがみられた。

    小田原近在の農村の家内工業で、一個三銭でおろされ、一日三万個も製造した村もあったという。

2007年6月26日 (火)

あるサラリーマンの証言

   石野真一郎(小林桂樹)は、ある毛織物会社の課長。妻(中北千枝子)と子供二人の円満な家庭を持っているが、一つだけ秘密がある。同じ課のOL梅谷千恵子(原知佐子)とひそかな情事を楽しんでいる。7月16日の夜、彼はいつものように新大久保のアパートに千恵子を訪ねて一時の悦楽をたのしんだ帰り、ふと近くの駅で、近所の保険外交員杉山孝三(織田政雄)とすれ違い、うっかり目礼をかわしてしまった。妻には映画を観てきたとごまかしたが、三日後、刑事の来訪をうけ、16日の夜9時30分頃、大久保で杉山と会ったかどうか質問された。彼は千恵子との情事のバレるのを恐れ、会わないと白を切った。彼の否認によって、杉山は向島の若妻殺しの容疑者として逮捕されたのである。

   杉山が殺人犯でないことは、石野と会った時刻に向島で事件が起こったことで明らかである。だが法廷で証人訊問された彼は、あくまで会ったことがないと否認、どうして嘘をつくのかと悲痛に叫ぶ杉山の言葉を心を鬼にしてきき流した。

    向島の若妻殺人事件から3年が経った。梅谷千恵子は若い恋人に、新聞をみて、ふと、洩らした。「杉山さんという方は、お気の毒ね。あれは白よ」彼女の若い恋人はその理由を聞いた。杉山が石野と行き会ったことは事実だと話した。男は、友達に話した。それが、事件を担当している弁護士の耳にはいった。弁護士は、石野を偽証罪として告訴した。石野が秘匿していた生活がにわかに明るみに出た。彼が、あれほど防衛していた破局が、急速に彼の上におそってきた。石野は、長いこと梅谷にそんな愛人がいることを知らなかった。あざむかれたのは、梅谷千恵子の嘘のためである。人間の嘘には、人間の嘘が復讐するのであろうか。(松本清張「黒い画集」)

坂田三吉、こゆう

   坂田三吉(1870-1946)は、明治3年7月1日、坂田卯之吉、クニの長男として大阪府大島郡舳松村に生まれた。青年期の坂田三吉について詳しいことはわからない。

    明治の終わり頃、遠く通天閣が見渡たせる貧乏長屋に麻草鞋づくりの職人・坂田三吉と妻・こゆうが住んでいた。三吉は無学文盲だが将棋だけは滅法強い。将棋の会と聞けば、仕事そっちのけで飛び出して行ってしまう。おかげで家はいつも火の車。

   折りしも東京方の名人・関根金次郎八段が来阪。三吉はこれに挑戦、双方死力をつくして闘い、ついに二五銀の一手で関根を倒した。以来、三吉は大阪に坂田ありといわれる専門棋士になったが、無学文盲の悲しさ、ついに名人位は彼の頭上を素通りしてしまった。昭和13年に引退、昭和21年、死去。没後の昭和30年名人・王将位を追贈された。

老人と三人の若者

   80歳にもなる老人が、果物の木の苗を植えていた。隣の三人の若者が笑っていった。「おじいさん。そんなことをして、なんになるというんです。働き損ということになりはしませんかね。そんな遠い未来のことに心をくばるより、過ぎ去った昔のことなど思いだして、のんびり暮らしたほうが、いいのではありませんか」「そういい切ることができますかね。命というものはほんとうにはかないものです。もちろん、わたしはこの木が実をつけるまで、生きてはいないでしょう。けれども、わたしの孫たちは、この木の葉陰で遊び、この木の実を食べることができるでしょう。仕事をしているという、そのことが喜びなのです」

   老人の言葉は正しかった。若者のひとりは、成功しようと考えてアメリカ行きの船に乗った。しかしその船はあらしにあって沈没し、若者は死んだ。

   二番目の若者は、えらい軍人になろうとして、戦地に行った。そして手柄をあせって、激しい戦いのなかに飛び出して、戦死してしまった。

   三番目の若者は、木を切っていたとき、高い木のてっぺんから足をふみはずし、まっさかさまに落ちて死んでしまった。

   「人の命は、神さまだけにしかわからないものだ」老人は、若者たちのお墓にお参りして、涙を流してつぶやいた。(「ラ・フォンテーヌ寓話集」)

2007年6月25日 (月)

佐伯孝夫の青春

    佐伯孝夫(1912-1981)は歌謡曲作詞家として戦前は佐々木修一(1907-1957)、戦後は吉田正(1921-1998)とのコンビで数々のヒット曲をうんだ。歌手では戦前は藤山一郎、戦後は橋幸夫などのヒット曲に恵まれた。吉田正は「自分の歌の先生は佐伯孝夫氏だ」と言っていた。

    佐伯孝夫、本名・和泉孝夫は明治35年11月22日、東京・京橋の生まれ。宇都宮中学を経て、早稲田第二高等学院から早大仏文科に学び、西條八十に師事した。大正13年、同人誌「棕櫚の葉」を横山青蛾、加藤憲治、村野三郎、寺崎浩、渡辺修三らと創刊した。また吉江喬松が中心となっていた「青色の室」で詩作に励んだ。大正15年に大学を卒業すると、浅草のカジノ・フォリーの仕事もした。そして昭和4年に国民新聞学芸部記者をしながら、作詞家活動をはじめる。国民新聞(昭和19年まで)、東京日日新聞社に勤務。この間、ビクター専属となり、戦前「湯島の白梅」「鈴懸の径」戦後では「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」などがある。

   レコード歌謡曲のデビュー曲は、昭和6年12月に発売された、藤山一郎の「栄冠涙あり」である。若きボートマンをテーマにした青春讃歌。つづいて「青春グラウンド」「野球小僧」「若い力」などのスポーツソングを書いている。また作曲家・佐々木修一とのコンビのヒット曲に「僕の青春」「無情の夢」「燦めく星座」「新雪」「明日はおたちか」「月よりの使者」「桑港のチャイナタウン」「アルプスの牧場」「高原の駅よ、さようなら」などがある。このほか「思ひ出のギター」「チェリオ!」「赤い花」「さらば青春」「僕の銀座」などには佐伯歌謡の特色がよくでている。

長塚節、愛と死を見つめて

    明治44年の春、33歳の長塚節(1879-1915)は黒田照子と神田の料亭でお見合いをした。黒田家からは照子の兄と本人が臨席、長塚家では本人と母たかが臨席した。その頃母は在京して病気療養中だが、愛息の見合いということで無理を押して出たらしい。照子は一目節を見るなり頗る乗り気だったようだが、見合い後照子の兄・黒田昌恵は医師という職業柄節の様子を冷静に観察していたらしく、「何うもあの咳は只物ではない、結核の疑があるから此姻談はお断りすべきだ」と言っている。

    一方の節であるが井上子爵の令嬢との縁談が不調に終わったあとで、彼の心中には令嬢への未練があったようだ。節は婚約の同意を渋っていた。節の弟の長塚順次郎は黒田昌恵と中学、一高時代と共に野球部に在って刎頚の仲だったので、なんとか二人をとりもとうとする。ようやく明治44年の秋には婚約が成立した。ところがその直後の11月、根岸養生院で節は喉頭結核と診断される。そのため節分は婚約を破棄する。しかし、照子は既に節を夫たるべき人と決めていたので、11月24日、病院を訪れている。この日節は生憎外出していて会えなかった。しかし、彼女の盲目的な挙措にいたく感激、初めて彼女の本能を知るのである。相手が不運に陥るやとかくしり込みして離反し去るのが世の常である。しかるに彼女は敢えて苦難を共にしようとするのである。節はほとほとその行為に心服、迷うことなく自らも進んで彼女に立ち向かうことになるのであるが、結局は悲恋に終わる。

   二人に4年の歳月が流れた。長塚節は大正3年3月14日、神田錦町2丁目の橋田病院に入院する。それから50日ほど経った5月3日のことである。黒田てる子が訪れた。見合以来実に4年ぶりの再会である。その後、晩年の節から次の名歌がうまれた。

垂乳根の母が釣りたる青蚊帳を

すがしといねつ たるみたれども

    「病室の一室にこもりける程は心に悩むことおほくいできてまなこの窪むばかりなればいまは只よそに紛らさむことを求むる外にせん術もなく、5月30日といふ雨いたく降りてわびしかりけれどもおして帰郷す」という詞書がある。黒田照子の純愛に悩んだ節は、ついに決意して、ふるさとの母のもとへ帰ったのである。折りしももう蚊帳を吊る季節である。母は久しぶりに帰って来た節のためにみずから青蚊帳を吊ってくれたのである。老いかがまった母のすることで蚊帳はたるんでいる。しかしたとえたるんではいても、慈愛の深いなつかしい母のこころづくしを思えば、気にもならない。むしろすがすがしい思いがする。母のふところに抱かれたような心安さにその蚊帳の仲に身を横たえたという心情をのべたものである。

  大正3年6月、福岡の九州帝大病院に三度赴いた長塚節は、大正4年2月8日、37歳の若さで遂に没した。法名秀岳義文居士。その墓は「土」をはじめ、多くの歌にもうたわれた鬼怒川のほとりにある。

    節の死の知らせにショックをうけた黒田照子は、その後幾つかの縁談が持ち込まれたというが、一切耳をかそうとしなかった。だが、年を経るとともに傷心も薄らいだのであろう。大正10年に文学士石田貞一郎に嫁し、一男一女を挙げている。昭和17年7月24日、72歳で他界した。

ケンケンとレモンちゃん

   ケンケンとは見城美枝子、レモンちゃんとは落合恵子である。現在もご活躍であるが、若い頃、愛川欽也と組んでDJとして人気のあった二人だ。ただし見城はTBSラジオ(JOKR)、落合は文化放送(JOQR)、ライバル関係なのだ。「それゆけ歌謡曲」で見城美枝子とコンビを組んでいた愛川によれば、自局のコールサインJOKRを二度もJOQRと間違えて言ってしまったというエピソードは有名。

ちょうど、入社して半年めのころだった。アナウンスブースで私はキュー(合図)が来るのを待っていた。「見城さん、いいですか、まちがえないでくださいネ、キューが出たら、JOKRとコールサインを言ってください。Qが出たら、ネッ」とガラスの向こうからミキサーの人がイアフォンを通じて言ってきた。「ハイ、Qが出たらJOKR、ですネ、わかりました」

トークバックのボタンを押して私は考える。私のコールサインで電源切替えをするそうで、私はラジオのコマーシャルを聞きながら、じっと、アナウンスする瞬間を待っていた。

「見城さん、Qが出たらJOKR、ネッ」念を押すようなミキサーの声に私は単純に反応してしまったらしい。Qが来た。ソレッ、「JOQR」!(「女の日曜日」文化出版局、昭和51年)

   見城美枝子は昭和21年1月26日生まれ。群馬県館林市出身。昭和43年、早稲田大学を卒業するとTBSに入社し、アナウンサーとなる。落合恵子は昭和20年1月15日生まれ。栃木県宇都宮市出身。明治大学卒業後、文化放送にアナウンサーとして入社。雑誌に詩、エッセーを発表し、「スプーン一杯の幸せ」はベストセラーとなり、昭和50年には桜田淳子主演の同名の映画にもかかわっている。その後、小説なども出したが、昭和51年の児童書籍専門店「クレヨンハウス」が成功する。

   見城美枝子の「女の日曜日」と落合恵子の「スプーン一杯の幸せ」の両書は似通っている。二人の写真を豊富に載せ、「恋」「結婚」「旅」「幸福」などのエッセー、詩がある。「スプーン一杯の幸せ」の初出は小学館の雑誌「女性セブン」などであろう。1970年代の香りが漂っている。そして2000年代、大学教授、女性実業家として活躍の二人のサクセス・ストーリーに注目していきたい。

2007年6月23日 (土)

鳥海青児と美川きよ

   画家の鳥海青児(1902-1972)が小説家・美川きよと結婚したのは昭和14年1月15日である。美川きよは小島政二郎(1894-1994)の愛人としてよく知られていた。直木賞候補にもなり、戦前は多数の作品を残している。鳥海37歳、美川38歳。美川には小島との間に一人の男子がいる。昭和53年に刊行された美川きよ「夜のノートルダム」は暴露本であるかもしれない。しかし流石に流行作家であっただけに、鳥海との出会い、A(小島)との別れ、鳥海の求愛などステキな男女物語が小説風に描かれている。鳥海を夢中にさせた美川きよは魅力的な人だったのだろう。そして題名の「夜のノートルダム」がよい。昭和8年の作品であるが、渋い色調でぶ厚く塗られた重厚な質感は鳥海の特徴がよく現れている。美川が鳥海のアトリエで買った作品であるという。「夜のノートルダム」を読むと鳥海青児が画家として大きな仕事をしたのは夫人の支えがあったことが伺われる。

謎のジャズ曲「アラビアの唄」

  砂漠に日が落ちて 夜となる頃

  恋人よ 懐かしい

  唄をうたおうよ

  あの淋しい 調べに

  今日も 涙 流そう

  恋人よ アラビアの

  唄をうたおうよ

    ケペルの父は昭和の初め、浅草の宝亭という店でコックをしていた。そのころ、カジノ・フォリーで榎本健一と二村定一をよくみたといっていた。カジノをもじって「タバコの火が落ちて、火事となる頃」という替え歌がはやった。ところでエノケンは日本の喜劇王だが、現在、二村定一の名を知る人は少ない。流行歌手第一号といってもいいだろう。

    二村定一(1900-1942)。本名・林貞一、愛称・べーちゃん。明治33年6月13日、下関市中之町で、料亭を営む二村貞衛、林トキの長男として生まれる。大正4年、大阪薬学校に進学したが、宝塚少女歌劇に傾倒したため、中退。大正9年、浅草金龍館で根岸歌劇団の高田雅夫に弟子入り。大正末年には森歌劇団、五彩会歌劇団、草玉木座で佐々紅華のオペレッタに出演。大正14年「ジャズ・ソング」、昭和3年「アラビアの唄」「青空」が大ヒット。

    この「アラビアの唄」はアメリカではほとんど知られていない曲である。昭和2年、アメリカから帰国した堀内敬三(1897-1983)がフレッド・フィッシャー(1875-1942)の曲に訳詩をつけて楽譜を出版した。同年、二村定一が浅草オペラで歌い、のち天野喜久代とデュエットのレコードを発売。フィッシャーは「ダーダネラ」「シカゴ」などのスタンダードを残した有名な音楽家であるが、ジャズであるかは疑問。また「アラビアの唄」もジャズであるか疑問がある。当時、アメリカの新曲であれば、即ジャズと考んがえられていたようだ。二村はやがてディック・ミネなどの登場によって人気は下降する。しかし「アラビアの唄」のもの哀しいメロディーは浅草オペラを代表する名曲として記憶にのこるであろう。

偏奇館炎上

   永井荷風、本名・永井壮吉は、明治36年から41年にかけての米仏滞在経験後「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表し、つねに洋服を着用したハイカラ趣味、モダンな個人主義者としてのイメージがある。しかしながら家庭環境は漢詩文化あるいは儒教の伝統に属していたことも注目すべきである。

   父は永井久一郎、母は恒子。久一郎は明治4年にアメリカに留学しその後明治政府に仕えていた。帝国図書館の前身である書籍館に勤めていたこともある。鷲津恒子は漢学者鷲津宣光の次女。荷風は「十九の秋」で次のような回想を記している。

子供の時分、わたしは父の書斎や客間の床の間に、何如璋、葉松石、王漆園などいふ清朝人の書幅の懸けられてあつたことを記憶している。父は唐宋の詩文を好み、早くから支那人と文墨の交を訂めて居られたのである。

   つまり荷風は新旧の文化に浸る良家の出であった。中国の伝統文化はもとより、江戸趣味、ゾラ、モーパッサンなどのフランス文学に早くから親しんだ。

   斉藤ヨネ、内田八重(1880-1966)との短い結婚生活のあと、独身となった荷風は、大正9年には麻布区市兵衛町1丁目6番地の百坪の木造洋館「偏奇館」に移転した。偏奇館とはペンキ塗りの洋館だったことをもじってわたむれにつけたという。しかし、その偏奇館も昭和20年3月9日の東京大空襲で全焼。蔵書すべてを失った。「人生の至楽は読書に在り」という荷風にとって67歳にしてはじめてなめたものであったであろう。

2007年6月22日 (金)

アートと人が近い韓国

   ユジン(チェ・ジゥ)はポラリスという小さな設計事務所で働いている。仕事でマルシアン事務所応接室で新理事を待つユジンの前に現れたのは、あの10年前に亡くなったチュンサンそっくりの男性、ミニョン(ぺ・ヨンジュン)った。

   おなじみの「冬のソナタ」の第3話「運命の人」の一シーン。ところで、マルシアンの室内を飾るアートに現代韓国美術の水準の高さを感じたのはケペルだけだろうか。また「春のワルツ」における原色を中心とした色彩の美を感じた。ユン・ソクホ監督は色彩の魔術師といえる映像作家だが、日本では本当の韓国現代美術にふれる機会はまだまだ少ないように思う。韓国のステキと出会う「スッカラ」雑誌8月号は「韓国のミュージアムへようこそ」という韓国美術館の特集をしている。

   サムスン美術館リウム、国立現代美術館、ソウル市立美術館、梨花女子大学校博物館、徳寿宮美術館、国立中央博物館、化粧博物館と7つの美術館を大きくとりあげている。そのほか野外ギャラリーの駱山プロジェクトやカフェ・レストランが入った複合文化空間としてパク・ソニン(韓国芸術総合学校大学院生徒)オススメミュージアムは、KIMIアートギャラリー、ギャラリースケープ、トランクギャラリー。

   国立現代美術館学芸員のキム・ダルチンは「古美術や東洋画から現代美術まで、展示内容は多種多様。展覧会をめぐると、韓国では日本に比べて現代美術に親しんでいる印象を受ける」と語る。そして「アートと人びとの間の距離がずいぶん近くなったのを感じる」とある。「冬のソナタ」「春のワルツ」を生んだ韓国ドラマ界には1980年代から多様化してきた韓国芸術文化(美術・音楽ほか)が背景にあり、ポップアートからの影響も大きく見られるとケペルは分析する。

2007年6月20日 (水)

呪いのドレス

    ある若い娘がはじめてのダンス・パーティに着るていくドレスがないので、貸衣裳屋で白いイブニングドレスを借りて出席した。パーティもたけなわのとき、娘は気分が悪くなって、控室のソファーで横になっていた。どこからともなく「わたしのドレスを返して…、ドレスを」という女の声がする。その夜おそく、彼女はほとんど虫の息になっているところを発見された。その後、警察の取調べを受けた貸衣裳屋は、そのドレスを葬儀屋から買ったものであることを白状した。数日前に埋葬されたばかりの娘の着ていたドレスだった。

2007年6月19日 (火)

安部公房とエスペラント語

   宮沢賢治のイーハトーブが岩手のエスペラント語風の読み方であることはよく知られている。また長谷川テル(1912-1947)は昭和7年にエスペラントを習ったことから検挙され、中国で緑川英子という名前で対日放送に従事するが、Ⅴenda Majo(緑の五月)はエスペラント語に由来している。

    ところで安部公房(1924-1993)はエスペラントと関わりがあったのだろうか。かつて三島由紀夫(1925-1970)が安部公房と対談したとき共通語で話しているのに、外国人と話しているみたいだ、という感想をもらしたという。同世代の現代文学の旗手にかくもへただりがあるのはなぜか不思議であった。安部公房の両親にその謎を解く鍵をさがしてみる。

   安部の父である安部浅吉は北海道上川郡東鷹栖村の出身で祖父母は石狩川の開拓民だった。そのフロンティア精神の影響からか、浅吉は医学を志し、満州国の奉天にある満州医科大学に勤めた。長男の公房(きみふさ)が生まれた大正13年は、浅吉は東京の医大に留学し研究中であった。母の安部よりみはプロレタリア文学を研究していたという。大正14年に家族3人は満州奉天市にもどり、医院を開業する。安部浅吉は医業のかたわら「奉天エスペラント会」の中心人物として尊敬されていた。そのころ満州では五族協和のスローガンのもと公用語としてのエスペラント語を採用するということが検討されていたのであろう。安部公房は上京して成城高校、東大と進むが、敗戦が近くなるという噂を耳にすると、危険をおかして両親にあいに渡満する。昭和20年、開業医をしている浅吉を手伝っていたが、浅吉は発疹チフスに感染して死亡した。安部浅吉の詳しい経歴は知らないが、「労働科学」という雑誌に「満州に於ける青少年集団栄養に関する調査」(昭和17年)がある。おそらく安部公房は開拓地の医療に取り組む父を尊敬していたであろう。安部公房本人はエスペラントには親しまなかったが、父の国際性と母の文学性を享受したことは想像するに難くない。

2007年6月18日 (月)

小林多喜二の結婚

   小林多喜二の女性関係といえば、小樽時代の田口タキが知られているが、東京でのわずか2年間の地下活動を支えた伊藤ふじ子についてはわからないことが多い。しかし、二人は実際に結婚し、昭和7年夏には母親を郷里から呼び寄せてしばらくいっしょに暮らしていたらしい。

   小林多喜二は高等学校時代から志賀直哉を尊敬していた。死ぬ2年ほど前に、志賀を奈良に訪ねたことがある。志賀は将棋か麻雀でもしよう、と言うと、小林はやれないと答えるので、ふたりはちょうど桜の咲いているあやめが池の遊園地へ子どもづれで散歩にいった。そのとき、小林はみちみち拷問の話をしたという。それまでも二人に文通はあったが、小林が志賀に会ったのはその一度だけだった。それが昭和7年の4月のことである。帰京後、小林は宮本顕治らと地下活動にうつり、文化・文学運動の再建に献身する。そのころ、伊藤ふじ子と結婚し、麻布東町(:現・南麻布1丁目)に住む。ふじ子は、銀座の文戦劇場の女優として何度か舞台に立っていたらしく、左翼運動に関心もあり、多喜二の地下活動を支えていた。伊藤ふじ子は銀座の図案社に勤め、刺繍の勉強をしていたが、10月に勤め先で検挙され、多喜二は隠れ家を飛び出して二人は二度と会うことは無かった。昭和8年1月10日、ふじ子は逮捕されたが、2週間で釈放された。ふじ子は会社を解雇されたが、解雇手当を人づてに多喜二に送り届けた。小林多喜二は昭和8年2月20日、正午すぎ築地警察特高課員により逮捕され、同署で警視庁特高中川、山口、須田の拷問により午後7時45分死亡。多喜二のお通夜、伊藤ふじ子は遺体にとりつき、顔を両手ではさんで泣きながら多喜二に接吻したという。伊藤ふじ子は、その後、森熊猛という政治漫画家と結婚。森熊ふじ子という名で生涯を終えている。

足助素一と叢文閣

   足助素一(あすけそいち、1878-1930)は札幌農学校に学び、小樽で貸本屋独立社を経営したが、上京して大正2年、叢文閣を創業した。農学校時代の先輩有島武郎の社会主義研究会に出席していた足助は、当時新潮社が大正6年から出しはじめていた「有島武郎著作集」の出版権を佐藤義亮社長に懇望して譲り受け、「小さき者へ」「或る女」「惜しみなく愛は奪ふ」「一房の葡萄」など、6年ほどで16 冊を出版、大部数を売り、大正出版史上の壮挙となった。有島武郎の個人雑誌「泉」も刊行した。このほか、大杉栄「無政府主義者のみたロシア革命」(大正11年)、大杉栄訳の「アンリ・ファブル昆虫記」、柳宗悦など。昭和初年、左翼系の出版物をだしている。

   足助素一は大正12年の有島武郎の心中事件(7月12日)、大杉栄、伊藤野枝の死(9月16日)に奔走した。足助は有島から大杉と伊藤を経済的支援するよう申し渡されていたという。

2007年6月17日 (日)

文士賭博事件

   一冊一円の文学全集、つまり円本ブームのおかげで人気文士たちは高額の収入を得るようになった。そんなとき世間を騒がせたのが文士賭博事件であった。

    昭和8年11月17日、有閑マダムと不良ダンス教師の摘発に当たっていた警視庁は、検挙された田村、小島の自供から著名文士が常習的に賭博を行なっている事実をつきとめた。里見弴夫妻、久米正雄夫妻、小島政二郎の愛人・美川きよ(のちに鳥海青児の妻となる)などを召喚した。さらに川口松太郎も自宅から拘引留置され、ダンスホールにからむエロ行状と賭博の犯罪の実態があきらかとなった。菊池寛が警視庁に出頭し、身柄引受の一札を入、事なきを得た。

韓信の背水の陣

   楚漢の抗争で、一進一退の攻防が繰り返される中、キャスチングボードを握っていたのが漢の韓信だった。韓信は「背水の陣」「疑兵の計」「半渡の計」など天才的な軍事能力を如何なく発揮し、漢を勝利に導いた。

   前205年、韓信は、井陘口に20万もの大軍を集結し要塞を築いて待ち受ける趙軍に対してわずか数万の兵でいどむことになった。

   夜、韓信は二千の軽騎兵に漢の赤い幟を持たせ、砦が空になったら、そこに立てることを命じて移動させ、自らは川(綿蔓水)を背にして布陣した。背水の陣である。

    翌朝、趙軍に偽装攻撃をかけて敗走すると、趙軍は砦を空にして追撃してきた。しかし、川を背にして逃げ場のない一万の漢軍は奮戦して押し返し、趙軍が砦に戻ろうとすると、そこにはすでに漢の赤い幟がはためいていた。二千の軽騎兵が、趙軍の出はらった砦に入ったのである。帰るところを失って狼狽する趙軍は追撃されて総崩れとなり、たちまち勝負は決した。

   このセオリーを無視した作戦の意味を問われた韓信は「己を死地に陥れて然る後に生ず」(「孫子」九地篇)をあげた。いま、日常語にまで使われる「背水の陣」の由来がこれである。

「エデンの海」の清水巴

    若杉慧(1903-1987)の「エデンの海」が「朝日評論」に発表されたのは戦後すぐのころである。舞台は瀬戸内海。(広島県忠海)

   巡航船が白い波を駆り立てて入海に入っていくのが見える。女学校の南風寮。その窓下の塀外に、白シャツの中学生がハーモニカを吹いて、喧しく誘いに来ている。隅の方で宿題をしていた一人が、水を頭上にザブリと浴びせ、中学生が塀を壊しにかかると、彼女はほうきをもって室から飛び出していった。「巴ちゃん、だめよ…」と呼ぶ級友の声も耳にはいらないようだ。…夕焼け雲が美しい。岬の突端は、奇岩が重なって、なかでも冠岩と呼ばれる巨岩が目立つ。その上に、巴がひとり、遥かな水平線を見つめている。健康そうな顔、髪を汐風になぶらせて、唇からは南国の民謡が流れていた。足音にふり向くと、そこには、いつの間に来たのか、白麻の背広を着た青年が、じっと巴を見下ろしている。彼女はわけもなくあわてて、岩から飛び降りると駆けだしていた。

   女学生・清水巴と東京から赴任してきた生物学専攻の青年教師・南条一男との恋愛を、暖かい瀬戸内海の女学校生活を舞台に描いた「エデンの海」は、石坂洋次郎の「若い人」とともに永遠の青春の文学といえる。情景が絵画的であることから、昭和24年には舞台と映画で大人気となった。舞台では、角梨枝子、千秋実、映画では藤田泰子、鶴田浩二だった。その後も、日活で昭和38年、和泉雅子、高橋英樹、ホリプロで昭和51年、山口百恵、南条豊で映画化されている。「おい、おい、おろしてくれ」と叫ぶ南条を清水巴が裸馬に乗せて学校に乗り込んでくる場面が有名。そしてヒロイン清水巴は江波恵子(「若い人」)、寺沢新子(「青い山脈」)とともに自由奔放な永遠の女学生像である。

    若杉慧は明治36年、広島県安佐郡戸山村(沼田町)に生まれる。若杉は大正15年から昭和2年まで忠海高等女学校の教師として在職し、その時の経験をもとに「エデンの海」を書いた。昭和21年に「エデンの海」を発表後、文筆活動に専念する。晩年は石仏に心を寄せて「野の仏」「石仏讃歌」などの著書がある。

東方朔と三浦大介

    大晦日や節分の夜などに唱えた厄払いの文句に次のような一節がある。

   鶴は千年 亀は万年

   東方朔は八千歳

   三浦大介百六つ

  東方朔(とうほうさく、前154-前93)は漢武帝に仕えた滑稽文学者であるが、早くから仙人的存在に祭りあげられている。三浦大介(みうらおおすけ、1092-1180)は源頼朝の家来で、いずれも長寿の代表にされた。

   東方朔は厭次(山東省恵民)の人。たいへんな物知りでなにを聞かれても知らないことはなく、武帝のいい話相手であったが、御前で出た食事の余りは懐に入れて持ち帰る。下賜された銭で、派手な格好で長安の巷に現れて次々に女を漁っては金を浪費する。世人は朔を気狂い扱いしていたが、当人は平気なもの。「宮廷でぶらぶらしている隠者だよ」そう嘯きながら、みるべきものはしっかり見ていて、それを詩文に諷する。「文選」には「客の難に答う」「非有先生の論」があり、「楚辞」には「七諌」が収められている。

   三浦大介は三浦義明ともいい、三浦半島全域を本領とした豪族。源頼朝挙兵に当たり、長子三浦義澄らと頼朝のもとに向かったが、すでに石橋山の戦において頼朝が敗北したのを聞いて、三浦に引き返した。衣笠城にこもり畠山重忠らと戦い、討死した。源家再興にさいし、老命を頼朝にささげたことで知られる。

2007年6月16日 (土)

文学者の戦争協力と抵抗

   トーマス・マン(1875-1955)は、ヒトラー政権誕生直後から第二次世界大戦末期までフランス、スイス、アメリカで12年間の亡命生活を送っている。ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)もナチス支配下のドイツで売国奴のように非難され、多くの雑誌・新聞社からボイコットされるという憂き目にあったが、それに耐え抜いたヘッセの態度にロマン・ロラン(1866-1944)から「ゲーテ的態度」として称揚されている。

   ところで、ヘッセの翻訳者で知られる高橋健二(1902-1998)はこのようなヘッセの態度を次のように分析している。

   ヘッセはまた、その気質において狭いシュワーベンに深く根ざし、シュワーベン人をよく描いているが、彼の世界は早くから広い世界に向かって開かれていた。彼の母方の祖先は「聖書のグンデルト」と呼ばれ、内的信仰に生きる敬虔主義の傾向を伝えており、ヘッセの祖父父母も父母もその信仰に献身的で、インドでキリスト教の布教に従事した。したがって、幼いヘッセは、キリストやマリアの像と同様に、東洋のエキゾティックな偶像や彫刻や巻き物などに親しんで育った。ヘッセは早くから父にラテン語をおそわり、12歳からは学校でギリシャ語を習い、西欧の人文主義文化を深く身につけたが、偉大なインド語学者だった祖父を通し、より早くサンスクリットやパリ語を耳にしていた。このように早く、古い東西の文化に触れた上、彼の祖母はフランス系スイス人であり、彼の父はドイツ系ロシア人であった。のちには、彼の伯父へルマン・グンデルトはアメリカで牧師となり、彼の従弟ヴィルヘルム・グンデルトは日本に渡り、能や禅の研究で知られるようになった。こうして彼は、郷土の子でありながら、血と環境において本来世界市民的であった。彼は、ゲーテ、ヘルダーリン、ノヴァーリス等々多くのドイツ文学の作品を自分の解説を付して刊行しているように、もとよりドイツの精神文化に深く親しんでいるが、かたよった国家主義者にはなりえない環境に育った、とみずから述懐している。したがって、彼は二度の世界戦争に、ロマン・ロランからゲーテ的態度とたたえられたように、一貫して平和主義者として生き、ドイツからは敵視されたが、1946年第二次世界大戦後最初のノーベル文学賞を贈られた時、ドイツ語とドイツの文化的寄与が表彰されたことを喜んだ。(「世界文学全集27」新潮社、高橋健二訳)

   では戦時下における日本の文学者の態度はどのようなものであったろうか。ドイツ文学者は、ドイツ紹介者として軍部に協力している。なかでも高橋健二は大政翼賛会文化部長を昭和17年7月から就任している。高橋は昭和6年にドイツ留学中にヘッセを識り、戦後ケストナーやヘッセの紹介者という変貌は、本人自身には自然な連続として意識しているのかも知れないが、理解に苦しむところである。高橋健二の前任の大政翼賛会文化部長は岸田国士(1890-1954)である。昭和15年11月に結成された大政翼賛会文化部長に就任している。岸田国士はもともと、陸軍士官学校出身であったが、フランス留学で演劇文化を学び、文学座の指導・演出にあたった。岸田国士の略歴にはしばしば「こころならずも大政翼賛会文化部長に就任した」という記述がみられるが、昭和13年8月に「映画国策」を提唱しているので、文化部長就任は積極的であったとみている。(雑誌「日本映画」所収「映画アカデミーについて」)。ルナールの翻訳者であり、「チロルの秋」や「暖流」の作者がドイツの映画統制を引き写したようなことを、自発的に国に進言しているのである。つまり日本の文化人は世界市民ではなく、ほとんどは国家主義者であった。高橋健二は戦後、文化功労者、芸術院会員、ペンクラブ会長と文化人として栄誉ある人生を歩んだ。

三島由紀夫と高橋和巳

   昭和45年11月に三島由紀夫、昭和46年5月に高橋和巳が相次いで逝った。高橋和巳(1931-1971)は第一次戦後派作家、とくに埴谷雄高の影響を受け、60年代、政治と思想に苦悩する若者たちに支持された作家である。昭和45年には、小田実、開高健、柴田翔、真継伸彦とともに同人誌「人間として」を発刊した。自衛隊市ヶ谷駐屯地にのりこみナショナリズム革命への決起をうながしたが果たさず、割腹自殺をした三島と、学生運動を真摯にうけとめ、自己否定の知的営為と行動を実践して心身ともに疲労した高橋とは対極に見えながらも、両氏の作品には明らかに戦後文学の屈折と苦悩がうかがわれる。高橋和巳の「散華」(「文芸」昭和38年8月号)には、元特攻隊員で電力会社の社員である大家次郎が、鳴門海峡にある孤島の買収のために、その孤島に隠遁している中津清人という老人に会う。中津は次のようにいう。

  わたしは軍人ではなかった。そして、その後、国家の禄を食んでもいない。わたしは、思想家としての自分を罰し、思想家として死んだ。みずから自分を殺さずとも、もちろん、わたしはいつかは病み、いつかは老いさらばえ、いつかは死にはてるであろう。死の瞬間に、だれかが自分を見とってくれる者があればよいと思うかもしれぬ。炭鉱夫の皮膚にこびりつく黒い垢のように、世間的思弁の残滓がわたしらもこびりついて、わたしを苦しめるかもしれぬ。しかし、わたしの苦痛は他者の同情によって癒えはしない。それがどんな苦痛であろうと、わたしの苦痛であるかぎり、わたしはそれを大事にするだろう。快楽も苦痛も、わたしは人に売りわたしたくはない。そして髪の毛一本なりとも、国家のためにも、階級のためにも使いたくはないのだ。わたしは、国家を、世界を、民族を、聚落を、人類を拒絶する。

   高橋和巳は、昭和6年8月31日、大阪市浪速区貝殻町3丁目13番地に父・高橋秋光、母・高橋慶子の次男として生まれる。世代的にいうならば、大正14年生まれの三島由紀夫よりも、昭和7年生まれの石原慎太郎、小田実に近いといえる。昭和46年、39歳の若さで病死。

   なお、「散華」は、生田直親脚色、大山勝美演出でテレビドラマ化されている。岡田英次、加藤嘉、阪口美奈子の出演(昭和38年7月10日)。

高山義三と友愛会

   現在の日本労働組合運動の直接の源流である友愛会は、大正元年8月1日、鈴木文治(1885-1946)によって結成された。はじめ労働者の共済・修養機関的色彩が強く、キリスト教的社会改良主義の立場から労働者の生活向上をめざした。大正時代、労働運動の高揚とともに、大正8年、大日本労働総同盟友愛会と称して、本格的労働組合として出発しはじめた。

   京都府下では、大正4年1月、海軍工廠の所在地加佐郡余部町に、関西では神戸に続く第二の拠点として友愛会京都分会が結成された。大正6年5月には舞鶴支部となり、全国でも一位、二位を争う大支部に発展した。

    京都大学在学中に高山義三(1892-1974)は、初代京都支部長に選ばれた。大学生が労働組合長となることは今日からみると奇妙だが、当時の友愛会の各支部とも地方名士を支部長とする例が多く、京都一流の名望家の息子の高山が支部長にかつがれるのは不思議ではなかった。京都支部の最大の特色は京大・同志社大学の教授・学生らより全面的に支援されていたことにある。山本美越乃、河上肇、河田嗣郎、米田庄太郎、財部静治、渡辺俊雄、滝本誠一、栗原基らは交々例会に出向いて講演を行なっている。しかし大正7年夏の米騒動の頃には活動もあまりふるわなかった。大正7年に結成された友愛会西陣支部(中村隆之助支部長)からは、佐々木隆太郎、辻井民之助、国領伍一郎、国領巳三郎らのちのリーダーたちを輩出することになる。

アプレゲールと国家主義

    戦後、アプレ・ゲールという言葉が流行した。広辞苑によると「第一次大戦後、フランスを中心として興った文学上・芸術上の新しい傾向。日本では第二次大戦後、新しい文学を創造しようとした若い著作家の一部をいう。転じて、第二次大戦後の放恣で退廃的な傾向にもいう」とある。

    戦後、真善美社という小さな出版社があり、戦後文学のいくつかの注目すべき作品を出版している。例えば、埴谷雄高の「死霊」(昭和23年10月)や安部公房の「終りし道の標べに」(昭和23年10月)などである。真善美社の社長は中野達彦という人である。父は中野正剛(1886-1943)、母は三宅多美子で三宅雪嶺(1860-1945)、三宅花圃(1868-1943)である。つまり中野達彦は明治の代表的なナショナリズムの評論家を義父にもち、大正・昭和の政治家を父として、国家主義的な環境のもとで育った。ところが、戦争末期の昭和18年、中野正剛は東条倒閣運動の首謀者として検挙され、割腹自殺する。祖父の三宅雪嶺も昭和20年11月26日、中野達彦の自宅で85歳で没する。中野達彦は戦後、出版社をつくるが、その名称は祖父の三宅雪嶺の代表作「真善美日本人」に因んで「真善美社」とつけられた。ところが出版される内容は三宅雪嶺や中野正剛の思想とは大きくことなるものだったようだ。たとえば、埴谷雄高の思想遍歴をたどるとスティルネルふうなアナーキズムからマルクス主義、共産党、転向と変遷するものの国家主義的なものとは無縁といえる。

   安部公房は昭和22年、戦争中の体験を踏まえて書いた「粘土塀」と題した処女長篇を成城高校時代のドイツ語担当教員・阿部六郎に読んでもらた。阿部は、この作品を埴谷に送り、「粘土塀」の内の「第一のノート」が昭和23年10月に「個性」に掲載された。昭和23年10月に「終りし道の標べに」が真善美社のアプレゲール新人創作選9の一冊として出版されるにあたり、「第二のノート」以下の部分も書き加えられて出版された。埴谷や安部の難解な作品論は別として、ともかく哲学的であり戦争が作品に影響していることは間違いないであろう。ちなみに野間宏、梅崎春生、椎名麟三、中村真一郎を第一次アプレゲール作家とされたことがある。真善美社の「アプレゲール叢書」と名づけたのは中村真一郎だといわれている。

   真善美社の中野達彦の詳しい生涯は知らないが、国家主義とアプレというまさしく戦後の混乱期を体現したような人物であろう。

2007年6月13日 (水)

北村透谷と石坂美那子

   北村透谷(1884-1894)は、明治元年12月29日、没落した小田原士族・北村快蔵の長男として、小田原唐人町に生まれる。最初、政治に志し、民権運動に情熱を燃やしたが、大阪事件に参加しなかったことで挫折を経験する。明治20年7月ころ、三多摩民権青年の指導者の石坂昌孝の長女石坂美那子(1865-1942)と知り合う。石坂は許婚者平野友輔を捨てて、明治21年11月3日、透谷と数寄屋橋教会で結婚する。透谷はその翌年長詩「楚囚之詩」を発表。次いで明治24年劇詩「蓬莱曲」を書き詩人としての新しい出発を始めた。明治25年正式に結婚届を出し、北村美那子となる。だが、精神の自由と民衆の解放を求める透谷の戦いは困難を極め、明治27年、ついに自宅の庭で縊死を遂げた。時に、満27歳4ヵ月余。

 夫透谷に先立たれた美那子は、明治32年6月、長女英子を義父に預け単身渡米する。苦労しつつインディアナ州のユニオン・クリスティアン・カレッジに学び、のちオハイオ州立ファンアンス・カレッジに入学。明治39年6月卒業。明治40年1月帰国。義母と娘を向かえて東京牛込宮比町に住む。以後、豊島師範学校、品川高等女学校で約6年間英語教師をつとめる。昭和3年1月から透谷の詩の英訳をはじめる。昭和17年、76歳で死没。

  透谷の親友で、美那子の実弟であった石坂公歴(いしざかまさつぐ、186-1944)は、大阪事件で父昌孝が逮捕されるや、アメリカに亡命して「新日本」や「革命」などという新聞を発行し、抵抗をつづける。のち西部の開拓者、アメリカ、カナダ、アラスカを転々と放浪して、昭和19年、日本人強制収容所で波乱の生涯を終えた。

2007年6月12日 (火)

「暗室」と「落陽」

   はじめて親父に連れられてみた映画は石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」。記録によると昭和33年の正月映画だが、場末の映画館なので数ヵ月遅れで見たのだろう。とくに裕次郎がヤクザたちにドラマーの命である手を殺られるシーンが強烈な印象だった。映画の影響で「フックだ!ジャブだ!」とドラマーのまねをしていた。

   映画好きの母(大正3年生)がよく日活といっていたのは、戦後の日活アクション映画ではなくて、戦前・戦中、山中貞雄、稲垣浩、内田吐夢、田坂具隆、島耕二らの名監督を配して時代劇から文芸名作までを連発していた時代の日活であろう。昭和58年の浦山桐郎「暗室」(清水紘治、三浦真弓、木村理恵、芦川よしみ)は創立70周年記念作品であり、平成4年の伴野朗「落陽」(加藤雅也、ダイヤン・レイン、ユン・ピョウ)は創立80周年記念作品にもかかわらず失敗作として知られている。当時、実兄が日活の株で大損したことを思い出す。

   日本で最初の撮影所は吉沢商店の河浦謙一が映画事業を拡張して、明治41年、目黒の行人坂に建てた目黒撮影所グラス・ステージである。大正元年9月には、この吉沢商店と梅屋庄吉(エム・パテー商会)、横田永之助(横田商会)、田畑健造(福宝堂)の4社が合併して日本活動写真株式会社(日活)が誕生した。大正2年、向島撮影所が開所した。圧倒的に人気のあったのは目玉の松ちゃんの愛称で知られた尾上松之助の京都のチャンバラ映画であったが、向島撮影所からも、のちの巨匠、溝口健二、衣笠貞之助、稲垣浩などの人材を輩出している。震災により向島撮影所は壊滅するが、京都の撮影所から名作が続々生まれる。村田実「清作の妻」、溝口健二「日本橋」、伊藤大輔「忠次旅日記」などである。大河内伝次郎、岡田時彦、入江たか子、夏川静江、岡田嘉子などのスターがいた。戦後、日活は川島雄三、鈴木清順、今村昌平、浦山桐郎などの鬼才、異才の監督を育てた。昭和46年7月、日活は事実上倒産したが、低予算映画のロマンポルノ路線で再活動した。はじめロマンポルノは世間から軽蔑されていたが、昭和47年の神代辰巳「一条さゆり・濡れた欲情」から映画評論家から評価されるようになった。映画「暗室」は吉行淳之介の原作である。官能的文学を得意とする中年作家・中田は妻の事故死という疑惑に満ちた過去を引きずりながら、華道の師匠、パトロンのいる女、レズビアンの女らとの多彩な女性関係を結び続ける。そして、濃密な情事の果てに、中田と訣別していく愛すべき女たち…。男にとって限りない「暗室」である女を追い求め、深い官能に浸りながら、いま男は子宮に帰る。この時代、「女性上位」という言葉がよく使われたが、浦山監督も意識していたらしい。「日活」「にっかつ」はその社会的な役割を果たし終えて消えていくのであろう。

2007年6月11日 (月)

王昭君と毛延寿

   漢の元帝の時代、後宮にはあまたの美女がいたが、王昭君はその清廉な人柄ゆえに賄賂など一切しない人だった。匈奴の呼韓邪は友好のため漢室の宮女を求めた。元帝は数多い後宮の女性の中から絵姿の醜い王昭君を選んで、その強要に応えることにした。別れに臨んで対面すると、画像とは似ても似つかない絶世の美女であり、人選の誤りを悔やんだが、すでに遅かった。賄賂を贈らなかった王昭君を偽って醜く描いた画家毛延寿は、帝の怒りに触れて首をはねられたが、王昭君もまた後に胡地において怨思の歌を作り、服毒自殺したと伝えられる。王昭君哀話は「西京雑記」にあるが、元代の馬致遠の「漢宮秋」により広く知られるようになった。ここでの王昭君は、匈奴におくられる途中、国境の大河に身をあげて死ぬことなっている。昭君悲話はかなりの部分は作り話であるが、偽りの絵筆を執ったとされる毛延寿の冤罪も哀れさを感じる。

2007年6月10日 (日)

アンデルセンの実らぬ恋

   ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805-1875)は、デンマークのフェーン島のオーデンセの貧しい靴屋の子として生まれた。父はナポレオン崇拝家で軍隊に入るが、皇帝の没落で心身ともに衰弱して死ぬ。14歳の時、コペンハーゲンに出て、学校に行きながら作家として出発する。「即興詩人」の世界的な成功によって穏やかな晩年であったが、恋多き人にもかかわらず生涯独身で、彼の恋はなかなか実ることはなかった。とび色の瞳をした大学の友人の妹。庇護者コリンの末娘ルイセ・コリン。エールステズの娘。ある若い伯爵令嬢。すべて失恋に終わっている。彼の自伝で特筆大書されているのがスウェーデンの歌姫イェニイ・リンド。むかしダニー・ケイのミュージカル映画「アンデルセン物語」(1952年)という映画があったが、ジジ・ジャンメールが扮するバレリーナはイェニイ・リンドをモデルにしているようだ。ハンスとリンドとの恋は実らなかったが、ふたりの友情はその後も永く続いたそうだ。

セントへレナのナポレオン

    ワーテルローで敗れたナポレオン(1769-1821)は、1815年6月22日に退位した。6月29日、アメリカへ亡命するため、パリを離れてロシュフォールの港に向かったが、すでに港が封鎖されていることを知り、イギリス軍艦ベレロフォン号に投降した。しかしイギリス亡命は認められず、ナポレオンが送還されたのは、大西洋上の孤島セントへレナであった。セントへレナ島はイギリス東インド会社の仲継基地で、少数の農民のほか奴隷に売られたインド人や中国人の姿が診られた。ナポレオンはロングウッドという丘陵地の粗末な木造家屋に収容された。

    セントへレナ島でナポレオンは、イギリスの行政官ハドソン・ローと口論したり、回想集を口述したりしながら余生を送った。長期間癌で苦んだあとの1821年5月5日、暴風雨の夕べ、ナポレオンは51歳で世を去った。5月8日、生前好んで散歩した柳の木のもとに葬られたが、その葬儀はまことに簡素であった。

    彼の死後2年経た1823年に出版されたラス・カーズの「セント・ヘレナ日記」は大きな反響をよぶ。「セーヌ川のほとりに眠りたい」というナポレオンの最後の願望はかなえられ、1840年に彼の遺骸はパリのオテル・デ・ザンヴァリード(廃兵院)に改葬された。ナポレオンはいまもフランス国民の英雄である。

2007年6月 8日 (金)

トルストイの死

    レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(1828-1910)の晩年は、世界中から沸き起こる喝采の嵐に包まれていたが、また一方では自分自身のさまざまな信念と彼の信奉者たち、さらに家庭との間で繰り広げられる三つ巴の闘争の渦中に身を置き、大いなる不幸に閉ざされてもいた。正教会会議は、1901年に彼を破門し、家庭内におけるさまざまな反目に耐えられず、彼は1910年10月、末娘のアレクサンドラと侍医に付き添われて最後の巡礼に上ったが、この旅は彼にとってあまりにも過重であった。

あなたたちにおほえておいてもらいたいことがある。ほかでもないが、この世の中には、レフ・トルストイという人間のほかに、どれだけ多くの人が悩み苦しんでいるかしれないのだ。それだのに、それだのにあんたたちは、わしのことばかりかかずらわっているが・・・。

  トルストイは1910年11月20日、小さな停車場アスター・ポヴァの駅長の宿舎で息を引き取り、亡骸はヤースナヤポリャーナに葬られた。

2007年6月 7日 (木)

復讐するは我にあり

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「復讐はわたしのすること、わたしが報復すると主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙12.19-21)

2007年6月 6日 (水)

緑衣女

   科挙試験のために山寺の一室で勉強している若者がいた。本をひらいて読んでいると、女が窓のそとにいて、「ずいぶんご勉強ですわね」とほめるのだった。若者はびっくりして立ち上がってみると、緑色の着物をきて、長い裙(もすそ)をはいた、目のさめるような美人であった。若者は物の怪だろうと思って、どこに住んでいるかをしつこくきいたら、「私が貴方を取って食うような者ではありませんし、やかましくおたづねにならないでください」と女はいった。

   若者はその女が好きになって、泊まっていくように誘った。薄ものの肌着を脱ぐと、腰が細くて、手のひらで抱けるほどであった。夜が明けようとすると女は帰って行った。それからというもの毎夜訪れて来ない夜はなかった。

   ある晩一緒に酒を酌み交わしながら話すうちに、音楽に詳しいことがわかったので、一曲所望すると、ためらっていたが、聞き取れないくらいの小声で歌いだした。

 こずえの鳥、夜なかに鳴いて

 わたしやだまされて帰って来たよ

 靴のぬれるはいといはせぬが

 別れた貴方が懐かしい

   その声は蜂のように細くてやっと聞きとることができた。歌い終わって「誰かに聞かれたかしら?」といって、外へ出て家のぐるりをよく見廻って、それから部屋に帰って来た。若者はいった。「あなたはどうしてそんなに警戒するのか?」女は笑いながらいった。「胸さわぎがするんです。私はもう生きていられないと思います」

   若者は慰めていった。「胸さわぎがしたり、目がちらちらするのはよくあることだ。何もそうだからといって、いきなりあなたのように考えなくてもいいでしょう」

   女はそれで少し気をよくして、また楽しく語り合った。

   やがて夜が明けたので、着物をきて寝台を下り、戸を開けようとしながら、ぐずぐずして引き返して、いった。

   「どうしたのか知らないけれど、なんだか気が落ちつかないのです。私の姿が見えなくなるまで、見送ってください」といいながら、おびえた足取りで歩いて行った。

    女の姿が見えなくなったので、帰って寝ようとすると、女の救いを求めて叫ぶけたたましい声を聞いた。若者は走って行き、あたりを眺めたが女の姿が見えない。見上げると大きな蜘蛛に捕らえられた蜂が悲しげに鳴いているのだった。

    急いで蜘蛛から引き離し、手のひらにのせて部屋に持ち帰った。身にまつわる糸をとりのけてやったが、それは緑色の蜂で、もう息も絶え絶えであった。

   やがて蜂はよたよた歩きだした。しずかに硯の池に登って行って、その身を墨汁に投げ入れ、そしてまた出てくると、机の上にうつ伏したままで這って歩いた。その墨跡をたどると、「謝」(ありがとう)の一字になっていた。蜂はしきりに二枚の羽をひろげていたが、やがて窓から外へとんでいった。

   このときから緑衣の女は若者の前に二度と姿をみせなかった。(蒲松齢「聊斎志異」)

2007年6月 4日 (月)

夏目漱石の死

   夏目漱石(1867-1916)は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日