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2007年6月28日 (木)

「羅生門」出版記念会

    大正6年5月、芥川龍之介(1892-1927)は北原白秋の弟鉄雄の経営する阿蘭陀書房から第一創作集「羅生門」を刊行した。自装で、題字と扉の文字は、一高時代の恩師・菅虎雄が書いている。6月27日夜、佐藤春夫、江口渙、久米正雄、松岡譲の4人が発起人となり、日本橋のレストラン鴻の巣で「羅生門」出版記念会が催された。出席者は、佐藤春夫、谷崎潤一郎、日夏耿之介、赤木桁平、豊島与志雄、有島生馬、滝田樗陰、久米正雄、松岡譲、成瀬正一、菊池寛、和辻哲郎、鈴木三重吉、小宮豊隆、後藤末雄、加能作次郎、江口渙らであった。江口は、のちに「若いジェネレーションの文壇への出発の新しい宣言というようなものがつよく流れていた」と書きとめている。出席者の顔ぶれをみると同人雑誌第4次「新思潮」と同人雑誌「星座」と漱石門下生と白樺派である。卓上にどっさりと盛られてあったスイートピーや薔薇を前にして、白麻の夏服を着こんだ26歳の芥川は、鴻の巣主人の持ち出した画帖に、「本是山中人」と六朝まがいで揮毫した。佐藤春夫は「自分はとても希望のない自分の文学的生活を考えながら、颯爽として席の中心にいる芥川を幸福だと思った」と述懐している。

   志賀直哉(1883-1971)は、なぜかこの出版記念会に出席していない。大正6年の志賀は3年間の沈黙を破って再び創作活動をしているころだった。5月に「城の崎にて」を発表している。出版記念会の主賓の芥川龍之介のひそかなライバルは志賀直哉だったと思う。その後も、才気あふれる芥川は、志賀が大の苦手で、どうにもかなわないという気がするようになった。志賀が一作発表するごとに、「ああ俺はかなわない」と頭をかかえるようになった。志賀のほうは、そういうことにまったく鈍感で、むろん芥川のほうがはるかに才能があると思っていた。神経質な芥川は自殺し、鈍感な志賀は大成した。

2007年6月27日 (水)

月島丸遭難とダンチョネ節

    明治30年、東京高等商船学校(現・東京商船大学)練習帆船「月島丸」が建造された。日本初の総合的な帆船実習教育の始まりであった。ところが、明治33年11月17日、月島丸は暴風雨により駿河湾沖で沈没、122人(うち練習生79人)は全員溺死するという痛ましい海難事故が起こった。詩人の横瀬夜雨は「石廊崎に立ちて(月島丸をおもふ)」をうたいその死を悼んだ。

  八重立つ雲の流れては

  紅匂ふ暁(あけ)の空

  夜すがら海に輝きし

  鹹(しほ)の光も薄れけり

  南に渡る鴻の

  聲は岬に落つれども

  島根ゆるがす朝潮の

  瀬に翻る秋の海

  牡蠣殻曝れし荒磯の

  巌の高きに佇みて

  沖に沈みし溺れ船

  悲しみあとを眺めれば

  七十五里の灘の上

  浪は白く騒げども

  玉藻の下に埋れし

  船は浮ばずなりぬかな

   ところで八代亜紀の「舟唄」に「沖のカモメに 深酒させてよ いとしあの娘とよ 朝寝する ダンチョネ」と「ダンチョネ節」の一節が使われている。「ダンチョネ節」は元は三崎地方の民謡で「勇波節」といい、「三浦三崎でヨ  どんと打波はネ 可愛いお方のサ 度胸だめし ダンチョネ」と歌われていた。この月島丸の遭難事故以来、商船学校の生徒たちの間では、その悲しみを「ダンチョネ節」にたくした。ダンチョネとは、断腸の思いという意味ともいわれる。戦時中は特攻隊など死を覚悟した兵士たちにより替え歌が愛唱された。「沖の鴎と飛行機乗りは どこで散るやらネ はてるやらダンチョネ」

2007年6月26日 (火)

あるサラリーマンの証言

   石野真一郎(小林桂樹)は、ある毛織物会社の課長。妻(中北千枝子)と子供二人の円満な家庭を持っているが、一つだけ秘密がある。同じ課のOL梅谷千恵子(原知佐子)とひそかな情事を楽しんでいる。7月16日の夜、彼はいつものように新大久保のアパートに千恵子を訪ねて一時の悦楽をたのしんだ帰り、ふと近くの駅で、近所の保険外交員杉山孝三(織田政雄)とすれ違い、うっかり目礼をかわしてしまった。妻には映画を観てきたとごまかしたが、三日後、刑事の来訪をうけ、16日の夜9時30分頃、大久保で杉山と会ったかどうか質問された。彼は千恵子との情事のバレるのを恐れ、会わないと白を切った。彼の否認によって、杉山は向島の若妻殺しの容疑者として逮捕されたのである。

   杉山が殺人犯でないことは、石野と会った時刻に向島で事件が起こったことで明らかである。だが法廷で証人訊問された彼は、あくまで会ったことがないと否認、どうして嘘をつくのかと悲痛に叫ぶ杉山の言葉を心を鬼にしてきき流した。

    向島の若妻殺人事件から3年が経った。梅谷千恵子は若い恋人に、新聞をみて、ふと、洩らした。「杉山さんという方は、お気の毒ね。あれは白よ」彼女の若い恋人はその理由を聞いた。杉山が石野と行き会ったことは事実だと話した。男は、友達に話した。それが、事件を担当している弁護士の耳にはいった。弁護士は、石野を偽証罪として告訴した。石野が秘匿していた生活がにわかに明るみに出た。彼が、あれほど防衛していた破局が、急速に彼の上におそってきた。石野は、長いこと梅谷にそんな愛人がいることを知らなかった。あざむかれたのは、梅谷千恵子の嘘のためである。人間の嘘には、人間の嘘が復讐するのであろうか。(松本清張「黒い画集」)

坂田三吉、王将一代

   坂田三吉(1870-1946)は、明治3年7月1日、坂田卯之吉、クニの長男として大阪府大島郡舳松村に生まれた。青年期の坂田三吉について詳しいことはわからない。

    明治の終わり頃、遠く通天閣が見渡たせる貧乏長屋に麻草鞋づくりの職人・坂田三吉と妻・こゆうが住んでいた。三吉は無学文盲だが将棋だけは滅法強い。将棋の会と聞けば、仕事そっちのけで飛び出して行ってしまう。おかげで家はいつも火の車。

   折りしも東京方の名人・関根金次郎八段が来阪。三吉はこれに挑戦、双方死力をつくして闘い、ついに二五銀の一手で関根を倒した。以来、三吉は大阪に坂田ありといわれる専門棋士になったが、無学文盲の悲しさ、ついに名人位は彼の頭上を素通りしてしまった。昭和13年に引退、昭和21年、死去。没後の昭和30年名人・王将位を追贈された。

2007年6月25日 (月)

ケンケンとレモンちゃん

   ケンケンとは見城美枝子、レモンちゃんとは落合恵子である。現在もご活躍であるが、若い頃、愛川欽也と組んでDJとして人気のあった二人だ。ただし見城はTBSラジオ(JOKR)、落合は文化放送(JOQR)、ライバル関係なのだ。「それゆけ歌謡曲」で見城美枝子とコンビを組んでいた愛川によれば、自局のコールサインJOKRを二度もJOQRと間違えて言ってしまったというエピソードは有名。

ちょうど、入社して半年めのころだった。アナウンスブースで私はキュー(合図)が来るのを待っていた。「見城さん、いいですか、まちがえないでくださいネ、キューが出たら、JOKRとコールサインを言ってください。Qが出たら、ネッ」とガラスの向こうからミキサーの人がイアフォンを通じて言ってきた。「ハイ、Qが出たらJOKR、ですネ、わかりました」

トークバックのボタンを押して私は考える。私のコールサインで電源切替えをするそうで、私はラジオのコマーシャルを聞きながら、じっと、アナウンスする瞬間を待っていた。

「見城さん、Qが出たらJOKR、ネッ」念を押すようなミキサーの声に私は単純に反応してしまったらしい。Qが来た。ソレッ、「JOQR」!(「女の日曜日」文化出版局、昭和51年)

   見城美枝子は昭和21年1月26日生まれ。群馬県館林市出身。昭和43年、早稲田大学を卒業するとTBSに入社し、アナウンサーとなる。落合恵子は昭和20年1月15日生まれ。栃木県宇都宮市出身。明治大学卒業後、文化放送にアナウンサーとして入社。雑誌に詩、エッセーを発表し、「スプーン一杯の幸せ」はベストセラーとなり、昭和50年には桜田淳子主演の同名の映画にもかかわっている。その後、小説なども出したが、昭和51年の児童書籍専門店「クレヨンハウス」が成功する。

   見城美枝子の「女の日曜日」と落合恵子の「スプーン一杯の幸せ」の両書は似通っている。二人の写真を豊富に載せ、「恋」「結婚」「旅」「幸福」などのエッセー、詩がある。「スプーン一杯の幸せ」の初出は小学館の雑誌「女性セブン」などであろう。1970年代の香りが漂っている。そして2000年代、大学教授、女性実業家として活躍の二人のサクセス・ストーリーに注目していきたい。

2007年6月22日 (金)

アートと人が近い韓国

   ユジン(チェ・ジゥ)はポラリスという小さな設計事務所で働いている。仕事でマルシアン事務所応接室で新理事を待つユジンの前に現れたのは、あの10年前に亡くなったチュンサンそっくりの男性、ミニョン(ぺ・ヨンジュン)った。

   おなじみの「冬のソナタ」の第3話「運命の人」の一シーン。ところで、マルシアンの室内を飾るアートに現代韓国美術の水準の高さを感じたのはケペルだけだろうか。また「春のワルツ」における原色を中心とした色彩の美を感じた。ユン・ソクホ監督は色彩の魔術師といえる映像作家だが、日本では本当の韓国現代美術にふれる機会はまだまだ少ないように思う。韓国のステキと出会う「スッカラ」雑誌8月号は「韓国のミュージアムへようこそ」という韓国美術館の特集をしている。

   サムスン美術館リウム、国立現代美術館、ソウル市立美術館、梨花女子大学校博物館、徳寿宮美術館、国立中央博物館、化粧博物館と7つの美術館を大きくとりあげている。そのほか野外ギャラリーの駱山プロジェクトやカフェ・レストランが入った複合文化空間としてパク・ソニン(韓国芸術総合学校大学院生徒)オススメミュージアムは、KIMIアートギャラリー、ギャラリースケープ、トランクギャラリー。

   国立現代美術館学芸員のキム・ダルチンは「古美術や東洋画から現代美術まで、展示内容は多種多様。展覧会をめぐると、韓国では日本に比べて現代美術に親しんでいる印象を受ける」と語る。そして「アートと人びとの間の距離がずいぶん近くなったのを感じる」とある。「冬のソナタ」「春のワルツ」を生んだ韓国ドラマ界には1980年代から多様化してきた韓国芸術文化(美術・音楽ほか)が背景にあり、ポップアートからの影響も大きく見られるとケペルは分析する。

2007年6月20日 (水)

呪いのドレス

    ある若い娘がはじめてのダンス・パーティに着るていくドレスがないので、貸衣裳屋で白いイブニングドレスを借りて出席した。パーティもたけなわのとき、娘は気分が悪くなって、控室のソファーで横になっていた。どこからともなく「わたしのドレスを返して…、ドレスを」という女の声がする。その夜おそく、彼女はほとんど虫の息になっているところを発見された。その後、警察の取調べを受けた貸衣裳屋は、そのドレスを葬儀屋から買ったものであることを白状した。数日前に埋葬されたばかりの娘の着ていたドレスだった。

2007年6月19日 (火)

安部公房とエスペラント語

   宮沢賢治のイーハトーブが岩手のエスペラント語風の読み方であることはよく知られている。また長谷川テル(1912-1947)は昭和7年にエスペラントを習ったことから検挙され、中国で緑川英子という名前で対日放送に従事するが、Ⅴenda Majo(緑の五月)はエスペラント語に由来している。

    ところで安部公房(1924-1993)はエスペラントと関わりがあったのだろうか。かつて三島由紀夫(1925-1970)が安部公房と対談したとき共通語で話しているのに、外国人と話しているみたいだ、という感想をもらしたという。同世代の現代文学の旗手にかくもへただりがあるのはなぜか不思議であった。安部公房の両親にその謎を解く鍵をさがしてみる。

   安部の父である安部浅吉は北海道上川郡東鷹栖村の出身で祖父母は石狩川の開拓民だった。そのフロンティア精神の影響からか、浅吉は医学を志し、満州国の奉天にある満州医科大学に勤めた。長男の公房(きみふさ)が生まれた大正13年は、浅吉は東京の医大に留学し研究中であった。母の安部よりみはプロレタリア文学を研究していたという。大正14年に家族3人は満州奉天市にもどり、医院を開業する。安部浅吉は医業のかたわら「奉天エスペラント会」の中心人物として尊敬されていた。そのころ満州では五族協和のスローガンのもと公用語としてのエスペラント語を採用するということが検討されていたのであろう。安部公房は上京して成城高校、東大と進むが、敗戦が近くなるという噂を耳にすると、危険をおかして両親にあいに渡満する。昭和20年、開業医をしている浅吉を手伝っていたが、浅吉は発疹チフスに感染して死亡した。安部浅吉の詳しい経歴は知らないが、「労働科学」という雑誌に「満州に於ける青少年集団栄養に関する調査」(昭和17年)がある。おそらく安部公房は開拓地の医療に取り組む父を尊敬していたであろう。安部公房本人はエスペラントには親しまなかったが、父の国際性と母の文学性を享受したことは想像するに難くない。

2007年6月17日 (日)

東方朔と三浦大介

    大晦日や節分の夜などに唱えた厄払いの文句に次のような一節がある。

   鶴は千年 亀は万年

   東方朔は八千歳

   三浦大介百六つ

  東方朔(とうほうさく、前154-前93)は漢武帝に仕えた滑稽文学者であるが、早くから仙人的存在に祭りあげられている。三浦大介(みうらおおすけ、1092-1180)は源頼朝の家来で、いずれも長寿の代表にされた。

   東方朔は厭次(山東省恵民)の人。たいへんな物知りでなにを聞かれても知らないことはなく、武帝のいい話相手であったが、御前で出た食事の余りは懐に入れて持ち帰る。下賜された銭で、派手な格好で長安の巷に現れて次々に女を漁っては金を浪費する。世人は朔を気狂い扱いしていたが、当人は平気なもの。「宮廷でぶらぶらしている隠者だよ」そう嘯きながら、みるべきものはしっかり見ていて、それを詩文に諷する。「文選」には「客の難に答う」「非有先生の論」があり、「楚辞」には「七諌」が収められている。

   三浦大介は三浦義明ともいい、三浦半島全域を本領とした豪族。源頼朝挙兵に当たり、長子三浦義澄らと頼朝のもとに向かったが、すでに石橋山の戦において頼朝が敗北したのを聞いて、三浦に引き返した。衣笠城にこもり畠山重忠らと戦い、討死した。源家再興にさいし、老命を頼朝にささげたことで知られる。

2007年6月16日 (土)

高山義三と友愛会

   現在の日本労働組合運動の直接の源流である友愛会は、大正元年8月1日、鈴木文治(1885-1946)によって結成された。はじめ労働者の共済・修養機関的色彩が強く、キリスト教的社会改良主義の立場から労働者の生活向上をめざした。大正時代、労働運動の高揚とともに、大正8年、大日本労働総同盟友愛会と称して、本格的労働組合として出発しはじめた。

   京都府下では、大正4年1月、海軍工廠の所在地加佐郡余部町に、関西では神戸に続く第二の拠点として友愛会京都分会が結成された。大正6年5月には舞鶴支部となり、全国でも一位、二位を争う大支部に発展した。

    京都大学在学中に高山義三(1892-1974)は、初代京都支部長に選ばれた。大学生が労働組合長となることは今日からみると奇妙だが、当時の友愛会の各支部とも地方名士を支部長とする例が多く、京都一流の名望家の息子の高山が支部長にかつがれるのは不思議ではなかった。京都支部の最大の特色は京大・同志社大学の教授・学生らより全面的に支援されていたことにある。山本美越乃、河上肇、河田嗣郎、米田庄太郎、財部静治、渡辺俊雄、滝本誠一、栗原基らは交々例会に出向いて講演を行なっている。しかし大正7年夏の米騒動の頃には活動もあまりふるわなかった。大正7年に結成された友愛会西陣支部(中村隆之助支部長)からは、佐々木隆太郎、辻井民之助、国領伍一郎、国領巳三郎らのちのリーダーたちを輩出することになる。

2007年6月 7日 (木)

復讐するは我にあり

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「復讐はわたしのすること、わたしが報復すると主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙12.19-21)

2007年6月 3日 (日)

吉川英治の父母兄弟妹

   吉川英治は小学校を中退し、横浜関内住吉町の川村印刻店へ丁稚小僧、少年活版工、税務監督局の給仕、海軍御用商の店員、土建場の日雇、横浜ドックの船具工などを転々としている。これらは父の吉川直広の事業の失敗が原因となっている。

   吉川直広は旧小田原藩下士の吉川銀兵衛の子として生まれた。明治になって県庁書記、酒税官などを勤め、後、牧畜経営を志すも失敗、当時、根岸競馬場付近で近所の子弟を対象に、寺子屋風の家塾を開いていた。明治29年頃、高瀬理三郎に見出され、横浜桟橋合資会社を設立し、家運は隆盛に向かうかにみえた。しかし直広は高瀬と対立し、裁判を起こし敗訴すると、文書偽造、背任横領などの罪にとわれて根岸監獄に収容された。

   母のいくは、直広と明治22年6月結婚した。実家の山上家は、佐倉の堀田藩の上士の出であり、本家は馬廻り、勘定頭、勝手役兼破損奉行などを歴任した由緒ある家柄だったといわれる。母方の祖父は誠心流槍術の遣い手として知られ、明治になってからは戸長や町長をつとめた土地の有力者だった。いくは佐倉の女学校を卒業したのち、姉の嫁いでいた斎藤恒太郎(攻玉社の語学教師)の関係で芝新銭座の近藤真琴の家に家事見習いに行き、開明的な気風のなかで過ごした。吉川英治には、異母兄弟の綾部政広、二女きの、三女かゑ、三男素男、四女はま、五女ちよ、四男晋がある。また、他に乳児で死亡したくに、きく、すえの三女があった。

    明治42年、千葉県の田舎町に奉公に出された四女のはま死亡。(7歳)大正7年、父直広(58歳)、大正10年、母いく(54歳)をそれぞれ窮乏生活の中で亡くくしている。

2007年6月 2日 (土)

奇妙な戦争

 フランスでは、第2次世界大戦を「奇妙な戦争」と読んでいる。なぜ「奇妙」かというと、隣国ドイツが着々と軍拡を進めている間、フランスは、なぜか何らの準備もせず、無防備に近い形で敗北したからである。

 フランスの歴史家マルク・ブロック(1886-1944)は、このフランスの敗北の原因を、遺著の中で文字通り「奇妙な敗北」と書いている。第1次世界大戦の経験にしがみつく軍人や、戦争という事態に直面してなお、国内の資本家との闘争をやめない労働者階級の指導者たち、これらの無責任がフランスの敗北に導いたのだという。

明治初期の漢文漢語の流行

   漢文とか漢学というと、古臭くて得たいの知れない代物と思われそうだ。しかし最近、自分より少し年下の行政経営の人と館長の三人で出張の帰り一献酌み交わしたときに、ジャズや芸術論の話が出た後に「あなたは何をしているのか」と聞かれたので「東洋史だ。最近は漢学に興味がある」と正直に言ったら「漢学は奥が深い」と言ってくれた。その一言がとてもうれしかった。

   漢学や儒教は古臭くて、近代日本の発展を阻害した元凶のように考えている人が多数いるが、本来、文化性・合理性を持った学問である。また明治以後の日本の近代化に果たした役割も大きい。朱子学、古学、陽明学などの三学は多少の差はあっても、本質的には思弁的な学問であり、主要なテーマは理と気であり、心であり、性である。つまり幕末明治の漢学者たちは、洋学の受容に先立って、理詰めの判断による事象の理解ができていた。従って彼らにとって洋学も決して異質の学問ではなかった。彼らは漢籍の読書過程で、すでに洋学理解に必要な判断力を備えていたのである。

    明治維新と言えば「文明開化」が同義語のように思われ、漢学は一斉に退潮したと考えられがちであるが、実際は明治初年には「漢語の流行」という現象が起こっている。当時流行した漢語で「勉強」「規制」「注意」「関係」「管轄」「区別」「周旋」など今日もなお日常語として残っているものも少なくない。

    牧野謙次郎は次のように解説している。

明治初年にはなお旧幕の鴻儒が生存し、漢語漢文の流行があった。例えば、当時の言葉、髪床は理髪店と改められ、風呂に入ることは入湯と称せられ、不都合をした時は、失敬と謝るようになった。この漢語の流行を来たした原因は何であったかというに、幕末維新の際、国事に奔走した全国諸藩の人々は、互いに交通し会合する必要があった。しかし各国にはそれぞれ方言があって、今日の如く標準語が普及していても、しかも仙台の人と鹿児島の人とが国の訛りで話せば話が通じないであろうが、当時はなおさらのこと、話す言葉が理解できず、非常に会話の障害となった。そこで漢語ならば話に問題がなかろうという所から、漢語がこれらの社会に流行するに至ったのである。そして維新後には、これらの人々が多く要路に立ったため、ついに漢語が上流社会の言葉となったのである。(「日本漢文学史」昭和13年)

アイザックのたからもの

   むかし、アイザックという貧乏な男がいた。ある晩、夢をみた。

「都へゆき、宮殿の橋のしたで、たからものをさがしなさい」

   不思議な夢のおつげにしたがって、アイザックは旅にでた。森をぬけ、山をこえ、ようやく都にたどりついた。アイザックは宮殿をまもる衛兵隊の隊長から、おもいがけない話をきく。「わたしもいつだったか夢をみた。あの夢を信じるなら、すぐさまおまえさんの町へいって、アイザックという男の家のかまどの下で、たからをさがすだろうな」

    アイザックは、隊長におじぎをし、はるばるきた道をもどりはじめた。山をこえ、森をぬけた。ようやく自分のすむ町に着いた。家に帰ると、かまどの下をほった。たからものがでてきた。アイザックはそれから一生、心やすらかに暮らし、二度とひもじいおもいをすることはなかった。(ユリ・シュルヴィッツ「たからもの」より)

2007年6月 1日 (金)

お染久松、浄瑠璃と歌舞伎

    鏑木清方(1878-1972)の日本画「野崎村」(大正2年作)は「近代日本画家が描いた歴史とロマンの女性美展」(朝日新聞社、1989)の図録表紙に使われている。お染の顔の表情、しぐさもが自然で近代美人画の特徴を代表する作品であろう。

    近松半二の浄瑠璃「新版歌祭文」(安永9年)では久松は武士の倅で油屋に奉公してお染と契り、お染は五つ月の身重となるが、山家屋へ嫁入りの日が迫り、お染の母はこれを苦慮している。久松の父が久松に意見し、種々奔走するが、結局久松は蔵の中、お染は蔵の外で自害する。鏑木の絵では「あんまり逢いたさ、なつかしさ、勿たいないことながら観音さまにかこつけに、逢いに北やら南やら、知らぬ在所を厭ひもせず」と語る野崎まいりの帰りのお染の姿を描く。

    4世鶴屋南北(1755-1829)の「お染久松色読販」(1813)では筋は大きく異なりラストはハッピーエンドである。千葉の家臣石津久之進はお家の重宝吉光の刀を盗まれた落度で切腹、その子久松は乳母の倅の百姓久作に弟として引取られ、刀の詮議のため、質屋をしている瓦町の油屋に丁稚奉公し、油屋の娘お染と深い仲になる。刀の盗み人鈴木弥忠太は遊里の女お糸に入揚げ、もと若党であった鬼門の喜兵衛をして刀と折紙とを油屋に質入れさせるが、その金は喜兵衛に着服されてしまう。番頭善六は、お糸に惚れている油屋の息子多三郎をそそのかして折紙を持出させ、多三郎を追出し、お染と夫婦になって油屋の身代を継ごうとするが、そのたくらみを丁稚久太郎に知られたので金を与えて久太郎を逐電させ、折紙を久作の嫁菜の苞に隠す。それが原因の誤解から、久作は油屋下男九介に殴られ、油屋の縁者松本佐四郎の仲裁で膏薬代と質流れの袷を貰う。この話を聞いた喜兵衛とお六の夫婦は、その袷と行倒れの死骸を種に油屋をゆすることを思いつく。喜兵衛とお六は油屋に死骸を持込み、弟が油屋の者に殺されたと言って金をゆするが、そこへ死んだはずの久作が現われた上に、お染の許婚山家屋清兵衛のはからいで死人が蘇生するので、ゆすりそこなって帰る。死人は河豚に当たった久太郎であった。その夜喜兵衛は油屋の蔵から吉光の刀を盗み出すが、久松はこれを殺して刀を取返し、家出したお染の跡を追う。隅田堤で久松はお染に追付き、折紙も手に入ってめでたく幕となる。(参考:「日本古典文学大系54 歌舞伎脚本集下」岩波書店)

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