「羅生門」出版記念会
大正6年5月、芥川龍之介(1892-1927)は北原白秋の弟鉄雄の経営する阿蘭陀書房から第一創作集「羅生門」を刊行した。自装で、題字と扉の文字は、一高時代の恩師・菅虎雄が書いている。6月27日夜、佐藤春夫、江口渙、久米正雄、松岡譲の4人が発起人となり、日本橋のレストラン鴻の巣で「羅生門」出版記念会が催された。出席者は、佐藤春夫、谷崎潤一郎、日夏耿之介、赤木桁平、豊島与志雄、有島生馬、滝田樗陰、久米正雄、松岡譲、成瀬正一、菊池寛、和辻哲郎、鈴木三重吉、小宮豊隆、後藤末雄、加能作次郎、江口渙らであった。江口は、のちに「若いジェネレーションの文壇への出発の新しい宣言というようなものがつよく流れていた」と書きとめている。出席者の顔ぶれをみると同人雑誌第4次「新思潮」と同人雑誌「星座」と漱石門下生と白樺派である。卓上にどっさりと盛られてあったスイートピーや薔薇を前にして、白麻の夏服を着こんだ26歳の芥川は、鴻の巣主人の持ち出した画帖に、「本是山中人」と六朝まがいで揮毫した。佐藤春夫は「自分はとても希望のない自分の文学的生活を考えながら、颯爽として席の中心にいる芥川を幸福だと思った」と述懐している。
志賀直哉(1883-1971)は、なぜかこの出版記念会に出席していない。大正6年の志賀は3年間の沈黙を破って再び創作活動をしているころだった。5月に「城の崎にて」を発表している。出版記念会の主賓の芥川龍之介のひそかなライバルは志賀直哉だったと思う。その後も、才気あふれる芥川は、志賀が大の苦手で、どうにもかなわないという気がするようになった。志賀が一作発表するごとに、「ああ俺はかなわない」と頭をかかえるようになった。志賀のほうは、そういうことにまったく鈍感で、むろん芥川のほうがはるかに才能があると思っていた。神経質な芥川は自殺し、鈍感な志賀は大成した。
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