漢学の伝統と書籍館
明治政府は、早くも明治元年3月、京都の学習院を開講、この年6月29日、東京の昌平坂学問所が復興され、その後「昌平学校」と改称され、また単に「学校」とも呼ばれた。同年12月に頭取・教授等が置かれ、また知学事(山内豊信)、判学事(秋月種樹)が置かれた。さらに同年1月入学規則を定めて、明治2年1月「昌平学校」は開校された。明治2年8月には「大学校」となった。しかし、大学校が国学を根幹として、漢学を従属的に位置づけため、漢学派に強い不満をいだかせた。その後国学・漢学両派の激しい抗争があった。
明治5年4月2日、文部省博物局は湯島の旧昌平坂学問所大成殿に「書籍館」を開館する。これがわが国における近代的公共図書館のはじまりである。書籍は約1万3千部、約13万冊を超えていたと言われる。明治7年には蔵書を浅草に移して「浅草文庫」と改称する。明治8年5月にはふたたび旧昌平坂学問所大成殿に「東京書籍館」を開館する。しかし西南戦争による財政支出削減により、明治10年2月に閉館する。
明治10年5月に東京府がその後を引き継ぎ「東京府書籍館」として開館する。著名な漢学者の岡千仭が明治11年3月から書籍館傭として着任する。明治13年3月15日には館内参観の日として、名士多数を招待した。湯島聖堂・大成殿にある孔子像参拝の儀を中心としたもので、書籍館が漢学派によって占められた感がある。しかし、文部省の洋学派との対立、藩閥政治の独占などに反対した岡は突如、病気を理由に下野する。そして明治13年7月には、再び文部省へ移管され「東京図書館」となる。
こうして明治10年代から「洋学でなけりぁ、夜はあけられねぇよ」という風潮となるが、こうした洋学の興隆、西洋文化に心酔に対する反感から、明治時代は逆にこれまでにない漢詩・漢文の隆盛をみる。その理由は当時まだ幕末の老大家は存在し、西郷隆盛・木戸孝允をはじめ元勲たちが漢文を書き、国家のために奔走する有為の士や操觚者たちが漢学書生であったこと、また明治2年大学校に国史編集局を開き、漢文をもって国史を編集する計画があり、明治8年、太政官に修史局を設置して編年史編集の業をはじめたため、諸藩から詞章家が東京に集合した。これらによって、印刷術の発達ともあいまって、明治の漢学による文運はますます盛んになった。尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外、夏目漱石といったいわゆる明治の文豪といわれる人たちも、なんらかの意味で幕末から明治初期の漢学者たちの影響を大きくうけているのである。
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