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2007年5月13日 (日)

「抹殺博士」重野安繹

   重野安繹(しげのやすつぐ、1827-1910)は、文政10年10月6日、薩摩に生まれた。嘉永元年、昌平黌に学び、古賀茶渓、羽倉簡堂、安井息軒等の知遇を得た。業成って、藩校造士館で助教となる。廃藩後、一時私塾を開いていたが、明治4年上京して文部省に仕える。明治8年、太政官修史局副局長、修史館長を歴任し修史事業に携わる。明治19年臨時修史局編集長となり、この間、史料収集を行い「大日本編年史」の編集を主宰。その学風は厳密な実証主義にたち、児島高徳や楠木正成の史話は事実ではないと論証し「抹殺博士」と呼ばれた。

    明治12年、清国洋務派知識人の王韜(おうとう)の日本旅行の際、交遊している。王韜は清代初期の文人・孫枝蔚(そんしうつ)の「漑堂集(がいどうしゅう)」を見出し、「この文集は中国本土では甚だ少ない。いつ日本に流入したものであろうか」と嘆息したという。

    重野は明治21年迎えられて東京大学文学部教授となり、後進の指導に当った。史学会会長となり、久米邦武、星野恒らと近代史学界の基礎を築いた。昌平黌で学友の岡千仭とは維新後、太政官修史局時代を共にしたが、岡は書籍館事業、重野は修史事業とそれぞれ別の道を歩むが、明治12年4月23日の王韜の来日により重野、岡、中村ら昌平黌の仲間が中心になって中日学者の交流と友情が生涯続いた。明治23年、貴族院勅撰議員になり、明治29年には外山正一とともに「帝国図書館ヲ設立スルノ建議」を発議している。明治時代屈指の漢学者として知られ、重野成斎と号する。

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