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2007年5月15日 (火)

王韜の日本旅行

    王韜(おうとう、1828-1897)。字を紫詮といい、別号を天南遁叟(とんそう)、弢園(とうえん)逸民などといった。江蘇の蘇州城外甫里の人である。幼時から聡明で、早くから時世を矯正しようとする志を懐いていた。17歳で科挙の秀才となったが、貧しかったため、上海に出て文筆で生計を立てた。1849年、イギリスの宣教師が開いた墨海(ぼっかい)書館に入り、編集校正作業に従事した。メダースト、エドキンズ、ムーアヘッドなどの宣教師と親しくし、さらにかれらのために西洋書籍から翻訳した漢文の手直しをした。太平天国の乱に際しては清朝に対して早くから近代兵器の採用を提唱し、呉煦(ごじゅん)による洋槍隊の結成は彼の建策によるものである。しかし、1862年、王韜は黄畹(こうえん)という変名で太平天国に上書したことから清朝政府に追われ、香港に避難することとなった。香港滞在中、王韜はイギリス人の宣教師レッシング(1815-1895、香港を中心に活動し、漢文による伝道布教書18種を作成。オックスフォード大学初代中国学教授)が「詩経」や「春秋左氏伝」などを翻訳するのを助け、その後、オックスフォード大学で孔子の学説について講演したり、中国文化を紹介した。その時期に王韜も西洋の政治文化の影響を受け、変法自強の思想をもつにいたった。1871年には「普法戦記」14巻を著し、普仏戦争(1870-1871)について詳しく述べ、世界を認識するためにも必要な最新知識を人々に提示し、大いに名声を博した。この「普法戦記」は早くから日本にもたらされ、翻刻されて世に広まった。そして栗本鋤雲(くりもとじょううん)、佐田白茅、亀谷行などの人々が発起人となって王韜を日本に招くことになった。

   王韜は、明治12年4月23日に上海を出発し、海路、日本に向かい、長崎、下関、神戸、大阪、横浜と経由した後、最終地の東京に到着した。その後、日本に滞在すること4ヵ月、計128日間に及び、いたるところで熱烈な歓迎を受けている。

   王韜は東京の孔子廟がすでに書籍館に改められたことを、次のように記載している。

  旧幕時代、聖人孔子に対する礼は極めて盛大であったが、(中略)明治維新以来、もっぱら西洋の学問を尊び、孔子廟での儒教の礼俗は廃されるに至った。その後、廟の内部に書籍館が開設されて書籍がひろく蓄えられ、日本、中華、泰西三国の書物がことこどく備わり、内外の人々の自由な閲覧に供された。

   また彼は中国国内ですでに散逸した書物や所蔵の稀な貴重な善本書籍を日本で数多く発見した。中国と日本との図書交換に関しては、中田信吉「岡千仭と王韜」(参考書誌研究13)に詳しい。

    明治12年8月21日、王韜の帰国に先立って日本の友人らは東京の中村楼に送別の宴を張った。その宴席には駐日公使の何如璋や参賛官の黄遵憲(こうじゅんけん)も名を連ね、中日の文人学者の出席者は百人を下らなかった。

   晩年の王韜は上海の格致書院院長に就任し、電気学の研究発展を提唱した。日本滞在を記録した「扶桑遊記」は日本の報知社から出版された。(参考:王暁秋著「中日文化交流史話」)

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