衛正斥邪と崔益鉉
崔益鉉(1833-1906)は、号を勉庵といい、李朝末期の儒者、民族主義者。近代朝鮮の衛正斥邪思想の源流をなす李恒老(1792-1868)の門下。衛正斥邪とは、正学(儒教)を衛り邪学(キリスト教)斥けることで、朝鮮の鎖国攘夷は、キリスト教国=西洋に対決して儒教の清浄を固守する性格のものであった。
崔益鉉は、1868年、1873年には大院君の政治に反対し済州島に流された。1876年の江華島条約に対して、日本は西洋と一体化したとし、「倭洋一体論」を唱えて国交回復に激しく反対し、黒山島に流された。日露戦争後、朝鮮に対する日本の保護政治が始まると、門人たちの推戴をうけて義兵将となり、義兵運動を展開したが失敗し、1906年、対馬島に監禁される。対馬厳原で「なぜこの老体が恨みの食事を食べなければならないのか」と日本食を拒否して世を去った。享年74歳。
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