柳川熊吉と碧血碑
柳川熊吉(1825-1913)。本名は野村熊吉。江戸浅草の料理屋の長男として生まれ、のちに侠客・新門辰五郎の子分となる。柳川鍋を商売としたので柳川熊吉で知られるようになる。安政大地震(安政3年)のとき渡道して、請負業を営む。五稜郭築造の際には労働者の供給に貢献した。箱館戦争が終結すると、旧幕府軍の遺体は「賊軍の慰霊を行なってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府の処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧・松尾日隆と一緒に遺体を同寺に葬った。その意気に感じた新政府軍の田嶋圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。明治4年、熊吉は函館山山腹(函館八幡宮附近、谷地頭町)に土地を購入して遺体を改葬し、明治8年5月、榎本武揚によって旧幕府軍の戦死者、土方歳三を含む816名の慰霊する「碧血碑」が建てられた。題字は、箱館戦争当時の陸軍奉行である大鳥圭介の筆と言われているが定かではない。「碧血」とは「義に殉じた義士の血は3年経つと碧色に変わる」という中国の故事による。
大正2年、熊吉88歳の米寿に際し、その行いを後世に伝えるためにここに寿碑を建てた。大正2年死去、享年89歳。
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