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2007年5月21日 (月)

西村天囚と内藤湖南

    西村天囚(1865-1924)は、慶応元年7月23日、西村時樹の子として鹿児島種子島西之表で生まれる。3歳の時、父を亡くす。幼時、郷儒・前田豊山に学ぶ。明治15年、東京大学文学部古典講習科に第1回官費生として入学、重野成齋、島田篁村の薫陶を受けたが、明治20年に官費生制度の廃止により退学した。明治20年に社会諷刺小説「屑星の籠」で文壇に注目され、大阪公論記者を経て、大阪朝日新聞記者、明治35年同主筆となった。因みに「天声人語」というコラム欄の命名は西村天囚の創案といわれる。

   特派員としてウラジオストックに赴き、福島安正少佐のシベリア単騎旅行を取材報道し、明治27年東学党の乱のときに京城に赴いた。明治30年以降は中国の主要人物と面会し、中国事情を研究した。とくに第1回訪清は川上操六の依頼で、排日主義者だった張之洞を説得するためといわれている。漢学の知識の豊富な西村は張の説得に成功したらしい。これを機に中国人の留学生が増加した。しかし西村が役目を果たして帰国したとき、朝日新聞の主筆は池辺三山になっていた。西村は名著「日本宋学史」を執筆し、漢学者として京都大学などに出講した。

   内藤湖南(1866-1934)は慶応2年、秋田県鹿角郡毛馬内町大字毛馬内(現・十和田町)の南部藩の陪臣儒者・内藤調一の二男として生まれた。本名は虎次郎。明治27年、高橋健三に迎えられて、朝日新聞社に入る。のち台湾日報主筆、万朝報記者、明治33年7月末、再び朝日新聞社に入る。羅振玉、王国維ら清末の学者らと交わる。のち京都大学教授となり、東洋史の京都学派を育てた。

   西村天囚、内藤湖南は共にジャーナリスト出身の東洋学者であり、明治人のスケールの大きさを感じさせる。

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