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2007年5月 2日 (水)

松田聖子、女性の時代の象徴

    NHKスペシャル「松田聖子、女性の時代の物語」(4月9日放送)を見る。昭和55年、その頃、ケペルは、図書館の仕事を終えると、司書資格を取得するため夜間大学に通っていた。「エクボの秘密あげたいわ、もぎたての青い風」とサンデーズの新人・松田聖子が歌う「裸足の季節」を聞きながら。その年、山口百恵の引退。まるでアイドルの座を交代するかのような幸運なデビューだった。二曲目のシングル「青い珊瑚礁」がヒットした。おそらくブルック・シールズの主演映画をインスパイアーしているのだろう。「風は秋色」「チェリーブラッサム」「夏の扉」「白いパラソル」「風立ちぬ」18の女の子が19、20歳となっていく。「ザ・ベストテン」はじめテレビ・映画・CM、歌謡大賞新人賞での涙のない泣き顔、郷ひろみとの恋の噂、「白いパラソル」での暴漢事件など聖子のエピソードは事欠かない。その後も結婚、出産、二度の離婚を経てもなお、アイドルというスタンスは不変である。このような聖子に対して、バッシングから称賛にマスコミは変貌した。NHKはいう。「松田聖子の存在は、現代日本の女性たちの価値観やライフスタイルの激しい変化を体現する一つのシンボルとなった。30代後半から40代の女性たちにとって、松田聖子は圧倒的な支持をあっめた一つの理想像である」と。朝日新聞にも同様な称賛の記事をみた。ここに一つのデータがある。雑誌にもっとも頻繁に登場した著名人の順位表である。大宅壮一文庫の人名索引総合ランキング(2007年2月)。数字は件数。

  1位 松田聖子        4675

  2位 長嶋茂雄        3774

  3位 田中角栄        3255

  4位 三浦百恵        2862

  5位 皇太子(浩宮)   2809

   松田聖子はダントツの一位である。戦後歌謡界の女王といわれた美空ひばり、山口百恵とは別の次元で、聖子は独自の境地を拓きつつある。アイドルの王道でありながら、異質なアイドルという矛盾。聖子の後を追うように中森明菜、小泉今日子など多数のアイドルが出現したが、アイドルポップスの中で成功したのは松田聖子だけだと言ってもいいかもしれない。聖子のファン層はデビューしてからしばらくは同世代の男性であったが、昭和57年春の「赤いスイートピー」を境に女性ファンが増えはじめた。松本隆、呉田軽穂(松任谷由美)、松任谷正隆による「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「小麦色のマーメード」の三部作の成功が松田聖子を不動の存在にした。

   現在ではあたりまえになっている英語交じりの歌詞も聖子の曲で自然になれたものである。

            赤いスイートピー

春色の汽車に乗って

海に連れて行ってよ

煙草の匂いのシャツに

そっと寄りそうから

何故

知り合った日から

半年過ぎても

あなたって

手もにぎらない

Ⅰ will follow you

あなたに

追いてゆきたい

Ⅰ will  follow  you

ちょっぴり

気が弱いけど

素敵な人だから

心の岸辺に咲いた

赤いスイートピー

   「春色の汽車」という出だしの歌詞は、クルマのない若者に支持され、ヒットしたひとつの要素であった。またサビの部分が英語であることが新鮮であった。それまでもアルバムの中では「Only My Love 」「RAINBOW」など日英混交文の歌詞はあったが、本格的には「赤いスイートピー」が初である。日英混交文のようなアイドル・ポップスはニューミュージックの影響であるが、ユーミンはその先駆であり、昭和50年の「少しだけ片想い」で「いつだって Ⅰ Love You More Than You」などは先駆的な例であると伊藤雅光(国立国語研究所)は言う。荒井由美の時代から外来語よりも英語を歌詞の中に取り入れ、時代を先取りした観があるという。(朝日新聞2007年5月2日)

    松田聖子20歳の日記

一月十五日

今日は成人式

私も今日から大人の仲間入り

しっかりしなくちゃいけないのですよ。

今日は とても きんちょうした一日でした。

NHKの青年の主張では、全国の青少年の人が、すばらしい主張をしているのを聞いて、私もしっかりとした自分の意見を持たなくちゃいけないなあと思いました。

二十歳のこの時は、今しかないのだから、大切にしなくては。とにかく、ステキな女性になれるように頑張ります。(「微笑白書・19章」昭和57年4月)

   松田聖子という女性は二十歳の時に日記に書いたことを現実に成し遂げたようだ。ところで、歌謡曲の歌詞にカタカナ外来語でなく英語そのものが使用されるのは、荒井由美以前にも多数事例はあるだろう。昭和21年の鈴村一郎「ジープは走る」(吉川静央・作詞、上原げんと・作曲)は占領文化の象徴であるジープをうたったものだが、やたらと英語がでてくる。「ギブ・ミー・チューインガム」というフレーズは流石になかったと思う。また「レディース、エン、ジェントルメン、アンドおとっつあん、おっかさん」のトニー谷はジャズコンサートの司会で売り出した。気障なカタコト英語が人気をよんだが、反感を持つ日本人も多くいた。つまり、1950年代はアメリカ英語は移入されたが、依然として心の中には敵性語としての認識が大衆には残っていた。女優の田中絹代がハワイから帰国のとき、タラップからファンに投げキッスをしたため「アメション女優」(アメリカで小便しただけの短期間の旅行を揶揄した言葉)といわれ人気は凋落した。荒井由美が登場する1970年代になって自由に英語を歌詞に入れられるようになったのだろう。そういう観点からでも、勝ち組、荒井由美、松田聖子は時代にめぐまれた天運と本人の努力、その二つが成功をもたらした要因であろう。

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