黄遵憲と時務報
明治4年9月、日清修好条規を締結した。明治10年1月、初代駐日大使・何如璋が任命され、1月27日、何如璋と参賛(書記官)の黄遵憲(1848-1905)が来日した。黄は、伊藤博文、榎本武揚、大山巌、重野安繹、亀谷行、蒲生重章、岡千仭、森槐南、大河内輝声(源輝声、みなもとのてるな)その他と詩文の交わりをしている。この間、日本事情を研究し、明治12年「日本雑事詩」を著わした。明治20年には「日本国志」を公刊した。明治29年7月1日から黄が中心となった雑誌「時務報」が上海で刊行された。とくに外国の新聞雑誌の翻訳に紙面の半ば以上をさいている。改革主義思想の普及に最も力があった。梁啓超、章炳麟などが執筆した。日本語翻訳には古城貞吉(こじょうていきち、1866-1949)があたった。日報社の記者の話がきまっていたものの、その任につかず、まもなく上海に赴任した。この裏には珍田捨巳の仲介策があるといわれている。日本政府の情報戦略であろうか。黄遵憲と日本の漢詩人との交遊ロマンも、やがてはアジア主義としての政策となっていく。
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