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2007年5月21日 (月)

岸田劉生と岸田吟香

   岸田劉生(1891-1929)は明治24年6月23日、東京市京橋区銀座2丁目11番地、楽善堂精錡水本舗で生まれる。精錡水は劉生の父・岸田吟香(1833-1905)がアメリカのヘボンから伝授された目薬の商品名で、上海にまで販路を広めたヒット薬である。

   楽善堂は江戸風ながら、二階は通りに面してバルコニーがあり、鎧戸がついた和洋取り合わせた明治建築の面白さを伝えている。八間の間口を半分に切って一方を薬房、一方を書房とし、書房では中国の筆墨、硯、その他文房具、書籍を販売していた。洋間があり食堂にはシャンデリアを下げるという当時としてはハイカラな生活らしく、また多数の家族、子供たちに付き添う乳母や、販売、製剤の使用人などを抱えた広大な住居に、吟香一家は豊かな生活を送っていた。

    父吟香は明治38年6月、72歳で逝去し、母勝子も喘息が悪化し同年12月、52歳で亡くなっている。劉生14歳、東京高等師範付属中学校2年生のことである。劉生は3年生の時に中途退学し、絵かきとして立つ決心を固め、明治41年、赤坂、葵橋の白馬会研究所に学ぶ。劉生を思う時、だれもが浮かぶのはいわゆる草土社調といわれる褐色調の重苦るしい深刻な顔で我々を見つめる自画像、あるいは一輪の草花を手にした、デューラーやファン・アイクの影響を思わせる独特の肖像画の一群、深い美しさをたたえた麗子像などであろう。昭和4年、大連に赴き、帰途、田島一郎の郷里、山口県徳山の旅舎で急逝した。享年38歳。

    岸田吟香は、天保4年、岡山県の生まれだが、江戸に出て津山藩儒・昌谷精渓、さらに林図書頭の塾に寄寓し漢学を学び、弱年で林図書頭の代講として水戸や秋田藩の藩邸に赴き講義などをする身となるが、気軽に妓楼の箱屋、湯屋の三助に変身しながら、さらに蘭学を学ぶという人であった。その後は英語を学び、庶民的な視野からつねに先駆的な事業を手がけた。明治11年、上海に精錡水の販売支店を開いた。明治17年6月、岡千仭の訪中の際にも吟香は水先案内をしている。以後、興亜会、亜細亜協会、東亜同文会、日清貿易研究所の創設につとめた。また明治10年、中村正直と共に盲啞学校に先駆である訓盲院を創設した。(参考:「現代日本美術全集8 岸田劉生」集英社、昭和48年)

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