ブロンテ姉妹の父、パトリック・ブロンテ(1777-1861)は1777年3月17日(聖パトリック祭の日)、アイルランドのカウンティー・ダウンのエムデイルに貧農の10人兄妹の長男として生まれた。その父親はプロテスタント、母親はカトリック教徒で、彼らは駆け落ち結婚をして結ばれた。彼が生まれたのは二部屋しかない狭い小屋であった。幼くして独立独歩の精神が培われ、鍛冶屋の助手として働き、その呑み込みのよさで雇い主の気にいるところとなった。彼は利発で早熟な少年であったので、機織りなどをしながら独学し、長老派教会牧師ヘンリー・ハーショウ師に見込まれて個人指導をうけ、16歳で小学校の教壇に立ち、校長も勤めた。22歳になったとき、熱心な牧師トマス・タイ師の教会附属学校の教師となった。25歳でケンブリッジ大学聖ジョンズ・コレッジに入学し、29歳で神学部を卒業して学士となり、ウェザーズフィールド教会の副牧師に就任した。彼はこの地でメアリー・バーダーに対する悲恋を経験したが、ウェリントン(1809年)、デューズベリー(1809-1811年)の副牧師職を経て、ハーツヘッドの牧師に転任して行った。
ブロンテ姉妹の母、マリア・ブランウェル(マライア・ブランウェルとも表記される。1783-1821)は、コンウォールのぺンザンスで富裕な商人であったトマス・ブランウェルの五女として1783年4月15日に生まれた。一家は敬虔なメソディストで、兄はペンザスの市長になった。1812年の初夏、29歳のとき彼女はアバリー・ブリッジの近くにあるウッドハウス・グローヴ・スクールを訪ねた。その学校はウェスレー派の牧師を養成する目的で1812年に創立されたもので、メソディスト派牧師の子弟を集めて教育していた。マリアが同校を訪れたのは、叔母のフェネル夫人から、同校の運営を手伝ってほしい、また、いとこのジェーンの話し相手にもなってやってくれないかと頼まれたからであった。ジョン・ファネル牧師が同校の初代校長であった。
ちょうどそのころ、パトリック・ブロンテはハーツヘッドの牧師の仕事を行なうかたわら、同校の宗教担当の試験官となって同校の教育を手伝うことになっていた。マリアはフェネル夫妻の紹介でパトリックと知りあい、急速に恋人同士となって行った。婚約期間中にマリアからパトリックに送られた手紙にはこの女性の人柄がにじみ出ており、敬虔な信仰と夫に対する献身的愛情をみごとに表現している。
彼らの結婚式は1812年12月19日、ガイスリーの教区教会で挙げられ、同じ場所で同時にパトリックの親友モーガンとマリアのいとこ、ジェーン・ブランウェル・フェネルの結婚式が行なわれた。また同じ日、遠くコンウォールでマリアの妹シャーロットと従兄ジョーゼフ・ブランウェルの結婚式も行なわれた。
ブロンテの新婚生活は幸福そのもので、パトリックは詩作を楽しむかたわら牧師としての仕事をしていた。長女マリア(1814-1825)に続き二女エリザベス(1815-1825)がハーツヘッドで生まれた。パトリックは詩集を出版して文学的な夢も実現させつつあったが、ソーントンへ転任となり、天才たちをわが子としてもつことになった。マーケット・ストリートで三女シャーロット(1816-1855)、長男ブランウェル(1817-1848)、四女エミリー・ジェーン(1818-1848)、五女アン(1820-1849)が次々に生まれた。
1820年、ブロンテ一家はハワースへ引っ越すが、これを契機に不幸がおとづれた。まず1821年9月15日、妻のマリアは39歳にしてこの世を去った。次に長女マリア(11歳)、二女エリザベス(9歳)、弟パトリック(31歳)、エミリ(30歳)、アン(30歳)で夭折した。
妻に先立たれてからは、パトリックは妻の姉に当るエリザベス・ブランウェルという老嬢に家政をまかせて生涯独身を通した。パトリックの性格は、偏屈で、頑固で、陰気で、寡黙で、外面は静かだが内面には爆発的な激情をひめた、きわめて非社交的な変わり者、それもアイルランド農民の気質でもあり、しかも、子供のころから、つねに逆境とたたかいながら、ついに大学を出て聖職についた、その経歴を考えると、べつに異とするにあたらないかもしれない。娘たちの結婚をすら阻んだこの気むつかしい父パトリックは、最後は家族の中でただ一人残されることになったが1861年7月7日、84歳で亡くなった。(参考:中岡洋「ブロンテ姉妹の生涯」世界の文学13)
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