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2007年5月30日 (水)

衛正斥邪と崔益鉉

   崔益鉉(1833-1906)は、号を勉庵といい、李朝末期の儒者、民族主義者。近代朝鮮の衛正斥邪思想の源流をなす李恒老(1792-1868)の門下。衛正斥邪とは、正学(儒教)を衛り邪学(キリスト教)斥けることで、朝鮮の鎖国攘夷は、キリスト教国=西洋に対決して儒教の清浄を固守する性格のものであった。

    崔益鉉は、1868年、1873年には大院君の政治に反対し済州島に流された。1876年の江華島条約に対して、日本は西洋と一体化したとし、「倭洋一体論」を唱えて国交回復に激しく反対し、黒山島に流された。日露戦争後、朝鮮に対する日本の保護政治が始まると、門人たちの推戴をうけて義兵将となり、義兵運動を展開したが失敗し、1906年、対馬島に監禁される。対馬厳原で「なぜこの老体が恨みの食事を食べなければならないのか」と日本食を拒否して世を去った。享年74歳。

 

 

2007年5月27日 (日)

中江兆民、革命的民主主義の思想

   中江兆民(1847-1901)は明治7年にルソーの「民約論」を翻訳している。だが自由民権運動で有名なのは明治15年に出版した「民約訳解」(仏学出版局)である。ルソーの「社会契約論」を漢訳・翻訳するにあたって中江はもう一度、漢学を学んだという。中江とて、土佐藩で藩校の文武館に入り、細川潤次郎、萩原三圭らの門下で一応の漢学は修得しているはずである。彼は民衆を相手に思想を発表するためには、漢文が十分でないと駄目だと判断したのだろう。明治11年に高谷龍州の済美黌、つづいて岡松甕谷の紹成書院で漢学を学んでいる。外国の思想を日本に紹介する場合でも、これだけ配慮した人は、近代日本にあって稀である。さすが、億兆の民という号を選んだ兆民だけのことはある。そこに福沢諭吉の実用主義とは異なる古典主義があった。兆民は、西欧文明の摂取を説いたが、その全面的容認に走らず、欧米資本主義には批判的であった。明治政府の藩閥専制も批判し、民主主義と平和思想との連関を明確に提起したのである。

灯台の島、男木島

   男木島(おぎじま)は香川県中央部、高松市に属する瀬戸内海に浮かぶ小さな島。夫婦島をなす女木島(めぎじま)の北に位置し、高松市から海上8キロ。南北に長い卵型で、周囲8キロ、面積1.28平方キロ。花崗岩からなり、最高点はコミ山の213m。かつては山頂近くまで階段耕作が続き、サツマイモ、タバコ、野菜、麦の栽培やウシの飼育がおこなわれたほか、サワラ・タイの沿岸漁業や出稼ぎで生計を立てている人が多かった。集落は男木港を囲み西側に階段状に集まる。コミ山の山頂付近には柱状節理のタンク岩、桃太郎伝説で鬼が逃げ込んだというジイの穴がある。

   灯台を守る夫婦(佐田啓二、高峰秀子)を描いた松竹大船映画「喜びも悲しみも幾年月」(監督・木下恵介)のロケ地となり、明治時代に建てられた男木島灯台は御影石造りの様式で知られている。昭和62年、灯台は無人化された。映画公開当時(昭和32年)、男木島には約1千人が住んでいたが、若者が去り現在220人。医師は常駐しておらず、高松から週4日、診察に来る。平成17年に通所介護施設「湯遊の館」が開所した。

2007年5月23日 (水)

武田信玄と村上義清

   村上義清(1501-1573)は戦国時代の信濃の武将。永正14年に父・村上顕国より信濃埴科郡葛尾城を譲られ、永正17年に病没した父の後を受けて当主となった。大永2年、武田信虎と戦ってこれを撃退する。以後、天文年間にしばしば村上義清と武田信玄とは戦うことになった。天文12年(1543)9月、武田信玄は佐久郡から小県郡に入り、大井貞隆の長窪城(小県郡長門町)を陥落した。天文15年5月、内山城を攻略して大井貞清を降伏させた。佐久の群小氏族が下るなかに、ひとり志賀城による笠原清繁だけは上野国の援軍を頼んで信玄に従わなかった。天文16年7月、信玄は志賀城を包囲、8月の小田井原の合戦に笠原救援の上州勢を敗走させ、討ち取った首級を城の周囲にかけ並べたので、さすがの城兵も意気阻喪し、ついに城主笠原以下三百余人が戦死し、城は悲惨な落城となった。天文17年2月、信玄は小県南部に侵入し、村上義清(1501-1573)と戦う。武田勢は上田原に陣して千曲川をさしはさんで村上の軍と対峙した。両軍入り乱れての乱戦となったが、遠来の武田軍は苦戦におちいり、板垣信方、甘利虎泰、才間河内守などの部将を失った。上田原の戦いは信玄の敗戦となったが、天文22年、ついに村上義清の葛尾城を落とした。義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って亡命した。ここに武田・上杉両氏が川中島において戦われることになったのである。

2007年5月21日 (月)

岸田劉生と岸田吟香

   岸田劉生(1891-1929)は明治24年6月23日、東京市京橋区銀座2丁目11番地、楽善堂精錡水本舗で生まれる。精錡水は劉生の父・岸田吟香(1833-1905)がアメリカのヘボンから伝授された目薬の商品名で、上海にまで販路を広めたヒット薬である。

   楽善堂は江戸風ながら、二階は通りに面してバルコニーがあり、鎧戸がついた和洋取り合わせた明治建築の面白さを伝えている。八間の間口を半分に切って一方を薬房、一方を書房とし、書房では中国の筆墨、硯、その他文房具、書籍を販売していた。洋間があり食堂にはシャンデリアを下げるという当時としてはハイカラな生活らしく、また多数の家族、子供たちに付き添う乳母や、販売、製剤の使用人などを抱えた広大な住居に、吟香一家は豊かな生活を送っていた。

    父吟香は明治38年6月、72歳で逝去し、母勝子も喘息が悪化し同年12月、52歳で亡くなっている。劉生14歳、東京高等師範付属中学校2年生のことである。劉生は3年生の時に中途退学し、絵かきとして立つ決心を固め、明治41年、赤坂、葵橋の白馬会研究所に学ぶ。劉生を思う時、だれもが浮かぶのはいわゆる草土社調といわれる褐色調の重苦るしい深刻な顔で我々を見つめる自画像、あるいは一輪の草花を手にした、デューラーやファン・アイクの影響を思わせる独特の肖像画の一群、深い美しさをたたえた麗子像などであろう。昭和4年、大連に赴き、帰途、田島一郎の郷里、山口県徳山の旅舎で急逝した。享年38歳。

    岸田吟香は、天保4年、岡山県の生まれだが、江戸に出て津山藩儒・昌谷精渓、さらに林図書頭の塾に寄寓し漢学を学び、弱年で林図書頭の代講として水戸や秋田藩の藩邸に赴き講義などをする身となるが、気軽に妓楼の箱屋、湯屋の三助に変身しながら、さらに蘭学を学ぶという人であった。その後は英語を学び、庶民的な視野からつねに先駆的な事業を手がけた。明治11年、上海に精錡水の販売支店を開いた。明治17年6月、岡千仭の訪中の際にも吟香は水先案内をしている。以後、興亜会、亜細亜協会、東亜同文会、日清貿易研究所の創設につとめた。また明治10年、中村正直と共に盲啞学校に先駆である訓盲院を創設した。(参考:「現代日本美術全集8 岸田劉生」集英社、昭和48年)

西村天囚と内藤湖南

    西村天囚(1865-1924)は、慶応元年7月23日、西村時樹の子として鹿児島種子島西之表で生まれる。3歳の時、父を亡くす。幼時、郷儒・前田豊山に学ぶ。明治15年、東京大学文学部古典講習科に第1回官費生として入学、重野成齋、島田篁村の薫陶を受けたが、明治20年に官費生制度の廃止により退学した。明治20年に社会諷刺小説「屑星の籠」で文壇に注目され、大阪公論記者を経て、大阪朝日新聞記者、明治35年同主筆となった。因みに「天声人語」というコラム欄の命名は西村天囚の創案といわれる。

   特派員としてウラジオストックに赴き、福島安正少佐のシベリア単騎旅行を取材報道し、明治27年東学党の乱のときに京城に赴いた。明治30年以降は中国の主要人物と面会し、中国事情を研究した。とくに第1回訪清は川上操六の依頼で、排日主義者だった張之洞を説得するためといわれている。漢学の知識の豊富な西村は張の説得に成功したらしい。これを機に中国人の留学生が増加した。しかし西村が役目を果たして帰国したとき、朝日新聞の主筆は池辺三山になっていた。西村は名著「日本宋学史」を執筆し、漢学者として京都大学などに出講した。

   内藤湖南(1866-1934)は慶応2年、秋田県鹿角郡毛馬内町大字毛馬内(現・十和田町)の南部藩の陪臣儒者・内藤調一の二男として生まれた。本名は虎次郎。明治27年、高橋健三に迎えられて、朝日新聞社に入る。のち台湾日報主筆、万朝報記者、明治33年7月末、再び朝日新聞社に入る。羅振玉、王国維ら清末の学者らと交わる。のち京都大学教授となり、東洋史の京都学派を育てた。

   西村天囚、内藤湖南は共にジャーナリスト出身の東洋学者であり、明治人のスケールの大きさを感じさせる。

2007年5月16日 (水)

黄遵憲と時務報

   明治4年9月、日清修好条規を締結した。明治10年1月、初代駐日大使・何如璋が任命され、1月27日、何如璋と参賛(書記官)の黄遵憲(1848-1905)が来日した。黄は、伊藤博文、榎本武揚、大山巌、重野安繹、亀谷行、蒲生重章、岡千仭、森槐南、大河内輝声(源輝声、みなもとのてるな)その他と詩文の交わりをしている。この間、日本事情を研究し、明治12年「日本雑事詩」を著わした。明治20年には「日本国志」を公刊した。明治29年7月1日から黄が中心となった雑誌「時務報」が上海で刊行された。とくに外国の新聞雑誌の翻訳に紙面の半ば以上をさいている。改革主義思想の普及に最も力があった。梁啓超、章炳麟などが執筆した。日本語翻訳には古城貞吉(こじょうていきち、1866-1949)があたった。日報社の記者の話がきまっていたものの、その任につかず、まもなく上海に赴任した。この裏には珍田捨巳の仲介策があるといわれている。日本政府の情報戦略であろうか。黄遵憲と日本の漢詩人との交遊ロマンも、やがてはアジア主義としての政策となっていく。

2007年5月15日 (火)

雑誌「少年園」編集主任・高橋太華

    高橋太華(1863-1947)は、文久3年8月12日、二本松藩の剣術指南である根来正緩の二男として生まれる。明治14年に上京し、岡鹿門の塾に入り、翌年には塾頭となる。明治16年3月、堤正勝に学ぶ。また中村正直、重野安繹に師事し、詩文を修める。同年8月、東京大学文学部古典講習科に入学するが、明治18年2月、病気のため退学。明治22年、文部省で教科書編集をしていた友人の山県悌三郎(1858-1940)と、児童雑誌「少年園」を創刊する。月2回の発行の同誌は、当時の少年雑誌の先駆であり、児童文芸の興隆をもたらした。この雑誌は、子供達の心をとらえて、爆発的人気を得た。また、明治22年学齢館より創刊された「小国民」に多く史伝類を執筆した。博文館の「少年文学」叢書には、第15編「河村瑞軒」(明治25)、第17編「太閤秀吉」(明治25)、第21編「新太郎少将」(明治26)と多く執筆し、他に「葛飾北斎」(明治26・学齢館)、「子供のてがら」(明治27・博文館)、「宝ばなし」(明治29・崇山堂)などがある。東海散士の「佳人之奇偶」は、散士の立案を太華とその友人・西村天囚が稿したとの説がある。

西村茂樹と東京修身学社

   西村茂樹(1828-1902)は、文政11年、下総国佐倉藩士の子として江戸の藩邸で生まれた。幼名、西村平太郎、明治以後は茂樹と改め、晩年は泊翁と号す。明治6年7月、アメリカから帰国した森有礼らとともに、同年秋に明六社を創設。福沢諭吉、中村正直、西周、加藤弘之、津田真道、杉亨二、箕作秋坪、箕作麟祥などと中心的存在であった。会合は毎月1日と16日に開かれた。会員は旧幕府官僚で、開成所の関係者が多かった。明治7年3月から機関誌「明六雑誌」を発行、開化期の啓蒙に指導的役割を果たした。明治8年、雑誌は43号で廃刊となり、明六社は事実上の解散となった。

    西村は明治9年、国民道徳の振興を目的に東京修身学社を創設して、雑誌「修身学社叢説」を発行する。明治17年4月、日本講道会に改称する。(:日本弘道会の前身)西村は生涯、社会道徳の振興・普及に中心的な役割を果たした。明治35年8月、死去。

王韜の日本旅行

    王韜(おうとう、1828-1897)。字を紫詮といい、別号を天南遁叟(とんそう)、弢園(とうえん)逸民などといった。江蘇の蘇州城外甫里の人である。幼時から聡明で、早くから時世を矯正しようとする志を懐いていた。17歳で科挙の秀才となったが、貧しかったため、上海に出て文筆で生計を立てた。1849年、イギリスの宣教師が開いた墨海(ぼっかい)書館に入り、編集校正作業に従事した。メダースト、エドキンズ、ムーアヘッドなどの宣教師と親しくし、さらにかれらのために西洋書籍から翻訳した漢文の手直しをした。太平天国の乱に際しては清朝に対して早くから近代兵器の採用を提唱し、呉煦(ごじゅん)による洋槍隊の結成は彼の建策によるものである。しかし、1862年、王韜は黄畹(こうえん)という変名で太平天国に上書したことから清朝政府に追われ、香港に避難することとなった。香港滞在中、王韜はイギリス人の宣教師レッシング(1815-1895、香港を中心に活動し、漢文による伝道布教書18種を作成。オックスフォード大学初代中国学教授)が「詩経」や「春秋左氏伝」などを翻訳するのを助け、その後、オックスフォード大学で孔子の学説について講演したり、中国文化を紹介した。その時期に王韜も西洋の政治文化の影響を受け、変法自強の思想をもつにいたった。1871年には「普法戦記」14巻を著し、普仏戦争(1870-1871)について詳しく述べ、世界を認識するためにも必要な最新知識を人々に提示し、大いに名声を博した。この「普法戦記」は早くから日本にもたらされ、翻刻されて世に広まった。そして栗本鋤雲(くりもとじょううん)、佐田白茅、亀谷行などの人々が発起人となって王韜を日本に招くことになった。

   王韜は、明治12年4月23日に上海を出発し、海路、日本に向かい、長崎、下関、神戸、大阪、横浜と経由した後、最終地の東京に到着した。その後、日本に滞在すること4ヵ月、計128日間に及び、いたるところで熱烈な歓迎を受けている。

   王韜は東京の孔子廟がすでに書籍館に改められたことを、次のように記載している。

  旧幕時代、聖人孔子に対する礼は極めて盛大であったが、(中略)明治維新以来、もっぱら西洋の学問を尊び、孔子廟での儒教の礼俗は廃されるに至った。その後、廟の内部に書籍館が開設されて書籍がひろく蓄えられ、日本、中華、泰西三国の書物がことこどく備わり、内外の人々の自由な閲覧に供された。

   また彼は中国国内ですでに散逸した書物や所蔵の稀な貴重な善本書籍を日本で数多く発見した。中国と日本との図書交換に関しては、中田信吉「岡千仭と王韜」(参考書誌研究13)に詳しい。

    明治12年8月21日、王韜の帰国に先立って日本の友人らは東京の中村楼に送別の宴を張った。その宴席には駐日公使の何如璋や参賛官の黄遵憲(こうじゅんけん)も名を連ね、中日の文人学者の出席者は百人を下らなかった。

   晩年の王韜は上海の格致書院院長に就任し、電気学の研究発展を提唱した。日本滞在を記録した「扶桑遊記」は日本の報知社から出版された。(参考:王暁秋著「中日文化交流史話」)

2007年5月13日 (日)

「抹殺博士」重野安繹

   重野安繹(しげのやすつぐ、1827-1910)は、文政10年10月6日、薩摩に生まれた。嘉永元年、昌平黌に学び、古賀茶渓、羽倉簡堂、安井息軒等の知遇を得た。業成って、藩校造士館で助教となる。廃藩後、一時私塾を開いていたが、明治4年上京して文部省に仕える。明治8年、太政官修史局副局長、修史館長を歴任し修史事業に携わる。明治19年臨時修史局編集長となり、この間、史料収集を行い「大日本編年史」の編集を主宰。その学風は厳密な実証主義にたち、児島高徳や楠木正成の史話は事実ではないと論証し「抹殺博士」と呼ばれた。

    明治12年、清国洋務派知識人の王韜(おうとう)の日本旅行の際、交遊している。王韜は清代初期の文人・孫枝蔚(そんしうつ)の「漑堂集(がいどうしゅう)」を見出し、「この文集は中国本土では甚だ少ない。いつ日本に流入したものであろうか」と嘆息したという。

    重野は明治21年迎えられて東京大学文学部教授となり、後進の指導に当った。史学会会長となり、久米邦武、星野恒らと近代史学界の基礎を築いた。昌平黌で学友の岡千仭とは維新後、太政官修史局時代を共にしたが、岡は書籍館事業、重野は修史事業とそれぞれ別の道を歩むが、明治12年4月23日の王韜の来日により重野、岡、中村ら昌平黌の仲間が中心になって中日学者の交流と友情が生涯続いた。明治23年、貴族院勅撰議員になり、明治29年には外山正一とともに「帝国図書館ヲ設立スルノ建議」を発議している。明治時代屈指の漢学者として知られ、重野成斎と号する。

2007年5月12日 (土)

漢学の伝統と書籍館

   明治政府は、早くも明治元年3月、京都の学習院を開講、この年6月29日、東京の昌平坂学問所が復興され、その後「昌平学校」と改称され、また単に「学校」とも呼ばれた。同年12月に頭取・教授等が置かれ、また知学事(山内豊信)、判学事(秋月種樹)が置かれた。さらに同年1月入学規則を定めて、明治2年1月「昌平学校」は開校された。明治2年8月には「大学校」となった。しかし、大学校が国学を根幹として、漢学を従属的に位置づけため、漢学派に強い不満をいだかせた。その後国学・漢学両派の激しい抗争があった。

   明治5年4月2日、文部省博物局は湯島の旧昌平坂学問所大成殿に「書籍館」を開館する。これがわが国における近代的公共図書館のはじまりである。書籍は約1万3千部、約13万冊を超えていたと言われる。明治7年には蔵書を浅草に移して「浅草文庫」と改称する。明治8年5月にはふたたび旧昌平坂学問所大成殿に「東京書籍館」を開館する。しかし西南戦争による財政支出削減により、明治10年2月に閉館する。

   明治10年5月に東京府がその後を引き継ぎ「東京府書籍館」として開館する。著名な漢学者の岡千仭が明治11年3月から書籍館傭として着任する。明治13年3月15日には館内参観の日として、名士多数を招待した。湯島聖堂・大成殿にある孔子像参拝の儀を中心としたもので、書籍館が漢学派によって占められた感がある。しかし、文部省の洋学派との対立、藩閥政治の独占などに反対した岡は突如、病気を理由に下野する。そして明治13年7月には、再び文部省へ移管され「東京図書館」となる。

  こうして明治10年代から「洋学でなけりぁ、夜はあけられねぇよ」という風潮となるが、こうした洋学の興隆、西洋文化に心酔に対する反感から、明治時代は逆にこれまでにない漢詩・漢文の隆盛をみる。その理由は当時まだ幕末の老大家は存在し、西郷隆盛・木戸孝允をはじめ元勲たちが漢文を書き、国家のために奔走する有為の士や操觚者たちが漢学書生であったこと、また明治2年大学校に国史編集局を開き、漢文をもって国史を編集する計画があり、明治8年、太政官に修史局を設置して編年史編集の業をはじめたため、諸藩から詞章家が東京に集合した。これらによって、印刷術の発達ともあいまって、明治の漢学による文運はますます盛んになった。尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外、夏目漱石といったいわゆる明治の文豪といわれる人たちも、なんらかの意味で幕末から明治初期の漢学者たちの影響を大きくうけているのである。

「明治詩文」の漢詩人たち

    明治8年、9年頃から漢詩文を主とする雑誌がにわかに起こってきた。

「新文詩」8年7月創刊 森春涛主宰

「東洋新報」9年7月 岡本監輔主宰

「明治詩文」9年12月 佐田白茅主宰

「花月新誌」10年1月 成島柳北主宰

「古今詩文詳解」13年12月 吉田次郎

   この中でもっとも勢力があり名高かったのは「明治詩文」と「古今詩文詳解」であった。

   漢学が衰退して洋学を盛んに謳歌した時代に、こうした雑誌が創刊されたことは奇異に感じられるが、これは一つは洋学の興隆、西洋文化の心酔に対する反感から生まれたところであろう。

   「明治詩文」は久留米の佐田白茅によって編集されたが、佐田は若い頃、真木和泉に従って勤王論を唱えた。維新の後外務方面の官吏となったが、西郷隆盛、江藤新平、副島種臣らと征韓論を主張して、破れ職を辞した。人物は、磊落で才を愛した。重野成斎、川田甕江の両大家と交わりをよくしたため、この雑誌には重野・川田をはじめ、当時日本国中の名家、あるいは高官の作品が録載されたので、権威のある雑誌となった。その主な人々をあげると、島津久光、山内豊信、木戸松菊、鍋島閑叟、伊藤春畝、勝海舟、副島蒼海、亀谷省軒、加藤桜老、岡鹿門、小野湖山、阪谷朗蘆、川田甕江、青山鉄槍、秋月韋軒、安井息軒、村上佛山、岡松甕谷、重野成斎、南摩羽峰、藤澤南岳、三島中洲、藤野海南、大沼枕山、中村敬宇、今藤悔堂、小永井小舟、島田篁、広瀬林外、鷲津毅堂、鱸松塘、松岡毅軒、芳野金陵、村山拙軒、小山春山、依田百川、木原老谷、青山佩弦斎、江馬天江、神山鳳陽、頼支峰、菊池三渓、林鶴梁、田口江村、大槻磐渓、林鶯渓、小林卓斎、浅田栗園、土井聱牙、西薇山、片山沖堂、蒲生褧亭、小牧櫻泉、吉嗣拜山、山本迂斎、谷口藍田、隄静斎、岡本韋庵、石川鴻斎、矢土錦山、土屋鳳洲、高橋白山、日下勺水、草場船山、森槐南、末松青萍。

2007年5月11日 (金)

福沢氏古銭配分の記

   福沢諭吉(1835-1901)の生まれたのは天保5年12月12日である。ただし、当時の太陰暦を太陽暦に換算すると、1835年1月10日にあたる。慶応義塾では1月10日を「福沢先生記念日」と定めている。

   諭吉の父、福沢百助(1792-1836)は豊前国中津の藩士であるが、当時、大坂堂島浜にあった中津藩の蔵屋敷に勤めていた時、諭吉が生まれた。母は同藩士族・橋本浜右衛門の長女・於順(1804-1874)、兄は三之助、姉は於礼、於婉(中上川彦三郎の母)、於鐘。

   諭吉とい名の由来は、父が多年のぞんでいた「上諭条例」(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書籍)を手に入れることができ、たいそう喜んでいるところへ男子出生のよろこびが重なったので、この上諭の諭の字をとってその子に名づけたものといわれる。

   このような学問好きな福沢百助とは如何なる人物であったのか、面白いエピソードが伝わっている。

   大坂在住中、百助は古銭を集めて楽しみとしており、ある日のこと、100文を貫いた銭緡(ぜにさし)から珍しい幾文かを選び出して除いておいたところ、それを知らぬ家人がそのままその日の魚代に支払ってしまった。そのころ、穴あき銅銭の一文銭は九六文を銭緡に貫いて緡のまま百文に通用させる風があって、これを九六の百文と呼んでいたという。あとでこれを聞いた百助は、魚売りをさがしだし、不足の銭を払ったほかに、面倒をかけたといって若干の銭を与え、自分の不注意をわびたという。(参考:会田倉吉「福沢諭吉」吉川弘文館)

2007年5月 9日 (水)

ジェーン・エア

    幼いジェーンは、叔母の家で孤児として暮らしている。迫害され通したあげく、ローウッドの孤児院に入れられる。そこでの彼女の生活は、叔母が彼女は嘘つきという烙印をおしたことによって、あらかじめぶちこわされていた。しかし、ジェーンは勉強して、教師としての能力を身につけて職を求め、田舎の邸宅で暮らしているエドワード・ロチェスターが、フランス婦人との間に生んだ幼い私生児の娘の家庭教師となる。やがて人と親しむことをしない高圧的なロチェスターとジェーンとの間に、恋愛が生まれる。しかし二人が結婚式をあげようとすると、とんだ邪魔がはいる。邸宅には一人の狂人がかくまわれていたのだが、それはロチェスターの妻だったのである。ジェーンは邸を無一文で立ち去る。彼女ははるか遠くまで放浪し、リヴァースのそばで伝道の仕事をやるために、結婚するようにとせがまれる。もう少しで同意しそうになるが、彼女がだまって思いをこらしてみると、大声で自分の名前を呼んでいるロチェスターの声が耳にひびく。ロチェスターの邸に立ちかえると、その邸は廃墟になっている。狂人である妻が火をつけ、彼女はこの火事で焼け死んだのだ。ロチェスターは盲目になっていた。ジェーンは今こそ自分がロチェスター家にとって必要な存在であることを知る。

   社会の中における女性の地位について、新しい現代的な見解を言い表した最初のイギリス小説とされている。(参考:「児童文学辞典」東京堂)

2007年5月 8日 (火)

シャーロット・ブロンテの生涯

    シャーロット・ブロンテ(1816-1855)は、牧師の娘としてヨークシャーの村に生まれ、1820年、父の転任に伴いハワースに移った。1821年、母を失い、母方の伯母に育てられた。一時付近のコーワン・ブリッジに開かれた牧師の娘たちのための寄宿学校(ジェーン・エアのなかにローウッドとして描かれて有名になった)に入ったが、おもにハワースの寒村で育った。

   少女時代から空想的な物語を作って、その世界に没入し、奔放な想像力をはぐくみ、また、ものを書く習癖を養って無意識に物語の表現方法を身につけた。弟パトリック・ブランウェル(1817-1848)とともに書いたいわゆる「アングリア物語」は、手記本が多く現存し、シャーロットの作家的発展を考えるうえに興味深い資料となっている。1831年ロー・ヘッドの学校に入り、翌年ここを去ったが、1835年同校の教師となった。その後、家庭教師をしたのち、1842年、妹エミリーとともにブリュッセルのある学校に遊学して語学を学んだ。いったん帰国し、翌1943年に再び単身ブリュッセルへいって英語の教師になった。

   シャーロットは父の眼の手術のために一緒に滞在していたマンチェスターで1846年から書き出していた「ジェーン・エア」をおおかた書き上げており、スミス・エルダー社が、もっと波瀾に富みスリルのある三巻本の小説なら喜んで考慮しようと言ってくれたとき、シャーロットはただちにそれを完成した。1847年10月、「カァラー・ベル」という匿名で「ジェーン・エア」を発表すると、たちまち大評判になった。引き続いて「シャーリー」(1849年)「ヴィレット」(1853年)を出版した。しばしばロンドンへ出るようになって、シャーロットはサッカレーを知り、彼から非常な賞賛と激励をうけた。彼女のよき伝記作者ギャスケル夫人を知るようになった。1854年、父の牧師補アーサー・ベル・ニコルズ(1815-1906)と結婚した。

   新婚旅行はダブリンからバナハーを経てキラーニー方面への旅であった。シャーロットは、未完の「エマ」を絶筆に、翌年3月31日、39歳で死去した。シャーロットの新婚生活はわずか9ヵ月だった。夫のニコルズはその後アイルランドのバナーに帰り、いとこと再婚し、1906年に亡くなっている。

   死後、1857年に「教授」が出版された。小説家シャーロット・ブロンテは激しい情熱と反俗的な強い抗議の精神を特色とし、19世紀イギリス小説史上重要な位置を占めている。

2007年5月 7日 (月)

ブロンテ姉妹の父母

   ブロンテ姉妹の父、パトリック・ブロンテ(1777-1861)は1777年3月17日(聖パトリック祭の日)、アイルランドのカウンティー・ダウンのエムデイルに貧農の10人兄妹の長男として生まれた。その父親はプロテスタント、母親はカトリック教徒で、彼らは駆け落ち結婚をして結ばれた。彼が生まれたのは二部屋しかない狭い小屋であった。幼くして独立独歩の精神が培われ、鍛冶屋の助手として働き、その呑み込みのよさで雇い主の気にいるところとなった。彼は利発で早熟な少年であったので、機織りなどをしながら独学し、長老派教会牧師ヘンリー・ハーショウ師に見込まれて個人指導をうけ、16歳で小学校の教壇に立ち、校長も勤めた。22歳になったとき、熱心な牧師トマス・タイ師の教会附属学校の教師となった。25歳でケンブリッジ大学聖ジョンズ・コレッジに入学し、29歳で神学部を卒業して学士となり、ウェザーズフィールド教会の副牧師に就任した。彼はこの地でメアリー・バーダーに対する悲恋を経験したが、ウェリントン(1809年)、デューズベリー(1809-1811年)の副牧師職を経て、ハーツヘッドの牧師に転任して行った。

  ブロンテ姉妹の母、マリア・ブランウェル(マライア・ブランウェルとも表記される。1783-1821)は、コンウォールのぺンザンスで富裕な商人であったトマス・ブランウェルの五女として1783年4月15日に生まれた。一家は敬虔なメソディストで、兄はペンザスの市長になった。1812年の初夏、29歳のとき彼女はアバリー・ブリッジの近くにあるウッドハウス・グローヴ・スクールを訪ねた。その学校はウェスレー派の牧師を養成する目的で1812年に創立されたもので、メソディスト派牧師の子弟を集めて教育していた。マリアが同校を訪れたのは、叔母のフェネル夫人から、同校の運営を手伝ってほしい、また、いとこのジェーンの話し相手にもなってやってくれないかと頼まれたからであった。ジョン・ファネル牧師が同校の初代校長であった。

   ちょうどそのころ、パトリック・ブロンテはハーツヘッドの牧師の仕事を行なうかたわら、同校の宗教担当の試験官となって同校の教育を手伝うことになっていた。マリアはフェネル夫妻の紹介でパトリックと知りあい、急速に恋人同士となって行った。婚約期間中にマリアからパトリックに送られた手紙にはこの女性の人柄がにじみ出ており、敬虔な信仰と夫に対する献身的愛情をみごとに表現している。

   彼らの結婚式は1812年12月19日、ガイスリーの教区教会で挙げられ、同じ場所で同時にパトリックの親友モーガンとマリアのいとこ、ジェーン・ブランウェル・フェネルの結婚式が行なわれた。また同じ日、遠くコンウォールでマリアの妹シャーロットと従兄ジョーゼフ・ブランウェルの結婚式も行なわれた。

   ブロンテの新婚生活は幸福そのもので、パトリックは詩作を楽しむかたわら牧師としての仕事をしていた。長女マリア(1814-1825)に続き二女エリザベス(1815-1825)がハーツヘッドで生まれた。パトリックは詩集を出版して文学的な夢も実現させつつあったが、ソーントンへ転任となり、天才たちをわが子としてもつことになった。マーケット・ストリートで三女シャーロット(1816-1855)、長男ブランウェル(1817-1848)、四女エミリー・ジェーン(1818-1848)、五女アン(1820-1849)が次々に生まれた。

    1820年、ブロンテ一家はハワースへ引っ越すが、これを契機に不幸がおとづれた。まず1821年9月15日、妻のマリアは39歳にしてこの世を去った。次に長女マリア(11歳)、二女エリザベス(9歳)、弟パトリック(31歳)、エミリ(30歳)、アン(30歳)で夭折した。

   妻に先立たれてからは、パトリックは妻の姉に当るエリザベス・ブランウェルという老嬢に家政をまかせて生涯独身を通した。パトリックの性格は、偏屈で、頑固で、陰気で、寡黙で、外面は静かだが内面には爆発的な激情をひめた、きわめて非社交的な変わり者、それもアイルランド農民の気質でもあり、しかも、子供のころから、つねに逆境とたたかいながら、ついに大学を出て聖職についた、その経歴を考えると、べつに異とするにあたらないかもしれない。娘たちの結婚をすら阻んだこの気むつかしい父パトリックは、最後は家族の中でただ一人残されることになったが1861年7月7日、84歳で亡くなった。(参考:中岡洋「ブロンテ姉妹の生涯」世界の文学13)

青木繁と福田蘭堂と石橋エータロー

    青木繁(1882-1911)は明治15年7月13日、久留米市荘島町431番地に青木廉吾の長男として生まれる。廉吾は、旧有馬藩士で、明治維新の折は勤皇党応変隊の一員であった。母マサヨは、八女郡岡山村の医師吉田氏の娘で、繁の他に姉ツルヨ、一義、タヨ、義雄の弟妹がいる。祖父・青木宗龍は茶道に堪能であった。

   明治24年4月、久留米高等小学校に入学。同級生に坂本繁二郎がいた。明治29年、久留米在住の画家、森三美について洋画法の手ほどきをうける。明治31年、小山正太郎の不同舎に入門、同じ頃の入門者には高村真夫、国分浜国太郎(後の小杉放庵)、萩原守衛などがいた。明治33年、東京美術学校西洋画科選科に入学。明治36年夏から秋にかけて不同舎で結ばれた、福田たね(1885-1968)との恋愛が深まる。明治37年、「海の幸」、明治40年「わだつみのいろこの宮」を出品し、名声を高める。明治41年10月ころから放浪生活に入る。明治43年10月、病状が悪化し、明治44年3月25日、福岡松浦病院で逝去する。享年29歳。

   福田たねとの間に生まれた一子、福田幸彦(福田蘭堂、1905-1976)は尺八奏者として知られる。クレージーキャッツのメインバーだったピアノ奏者、石橋エータロー(1927-1994)は福田蘭堂の子、つまり青木繁の孫にあたる。親子三代にわたる芸術家の家系であった。

青年同心隊

    江戸八丁堀は町奉行の組屋敷があり、同心が住んでいた町として、映画やテレビドラマの舞台として登場することが多い。江戸の市民たちが「八丁堀」あるいは「八丁堀の旦那」と言えば町奉行の与力や同心を指す。

    与力は、御留守居・大御番頭・御書院組頭・御鉄砲組頭・御持弓組頭など高位武官に直属する与力と、町奉行に所属する与力とがあった。

   与力の下役として同心がある。起源は戦国時代に寄親(大名配下の有力家臣)の要請に騎馬で応じる同心という組織に由来する。町奉行所では町方同心、市中見回りを行なった回り方同心がよく知られている。ほかに物書同心(書記役)といった役目もある。外役としては三廻り、つまり隠密廻り、定町廻り、臨時廻り、があった。与力・同心というのは「上司を補佐する」という意味であって、なにも町奉行ばかりでなく、他の部署にもたくさんいたが、テレビドラマの捕物帳の影響で、いつのまにか与力・同心といえば、町奉行の配下の役人の呼び名と思われるようになった。

   テレビドラマでは、必殺シリーズ第2作「必殺仕置人」(昭和48年)から登場した中村主人(藤田まこと)や「大江戸捜査網」(昭和45年)の隠密同心、十文字小弥太(杉良太郎)、井坂十蔵(瑳川哲朗)などお茶の間で知られている。ケペルとしては「青年同心隊」(昭和39年)という4人の見習い同心のドラマが印象に残る。配役は、西島一、高島英志郎、戸浦六宏、南広、石川進、石間健史、石浜朗、佐野周二など。克美しげるの主題歌が記憶にある。

 

         青年同心隊

 

  歩いても 歩いても

 

  虹はこの手につかめない

 

  けれど虹はそこにある

 

  七つの色に輝いて

 

  町と町と結んでる

 

  たとえ命はつきるとも

 

  虹を求める

 

  心はひとつ

 

  われら青年同心隊

 

 

2007年5月 6日 (日)

伊勢物語、東下り

   「伊勢物語」のなかでも、「東下り」の段はもっとも知られている。二条の后がまだ東宮妃になる以前、在原業平はこの人の許にひそかに通っていた。東宮に差し出すつもりでいた兄弟たちが女を盗み出すがすぐに奪い返され、ついに都に居たたまれなくなって京を捨ててはるばる東に下り、さらに奥州の方までさまよい歩く。

   東下りの段には、有名な歌がある。一つは三河国八橋で詠んだ歌。

   から衣 きつつなれにしつましあれば

             はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

(唐衣は着ているとなれる。私にはそのなれ親しんできた愛しい妻が京にいるので、はるばるやってきた旅をしみじみ物悲しく思うのだよ)

   この歌が「かきつばた」の五文字を詠みこんだ「折句」の歌。

   二つ目は隅田川のほとりで詠んだ歌。

     名にしおば いざ言問はむ みやこどり

         わが思ふ人は ありやなしやと

(「みやこ」という名を持っているなら、みやこ鳥よ、さあおまえにたずねよう。私の愛する人はすこやかに暮らしているかどうかと)

   現在「言問橋」の地名を残す。台東区花川戸と墨田区向島の間で「水戸街道」(言問通り)が隅田川を渡る「言問橋」である。

柳川熊吉と碧血碑

   柳川熊吉(1825-1913)。本名は野村熊吉。江戸浅草の料理屋の長男として生まれ、のちに侠客・新門辰五郎の子分となる。柳川鍋を商売としたので柳川熊吉で知られるようになる。安政大地震(安政3年)のとき渡道して、請負業を営む。五稜郭築造の際には労働者の供給に貢献した。箱館戦争が終結すると、旧幕府軍の遺体は「賊軍の慰霊を行なってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府の処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧・松尾日隆と一緒に遺体を同寺に葬った。その意気に感じた新政府軍の田嶋圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。明治4年、熊吉は函館山山腹(函館八幡宮附近、谷地頭町)に土地を購入して遺体を改葬し、明治8年5月、榎本武揚によって旧幕府軍の戦死者、土方歳三を含む816名の慰霊する「碧血碑」が建てられた。題字は、箱館戦争当時の陸軍奉行である大鳥圭介の筆と言われているが定かではない。「碧血」とは「義に殉じた義士の血は3年経つと碧色に変わる」という中国の故事による。

   大正2年、熊吉88歳の米寿に際し、その行いを後世に伝えるためにここに寿碑を建てた。大正2年死去、享年89歳。

2007年5月 2日 (水)

明治初期「図書館」は「ヅショカン」か「トショカン」か

   東京図書館の岡千仭が楊守敬との会話で「図書館」を「トショカン」と発音したのか、「ズショカン」と発音したのか、とても気になってしかたがない。今日、中国、朝鮮でも日本で造られた用語「図書館」は、アジアの漢字文化圏では共通して使用されているからである。従来の説に従うなら「ズショカン」と考えるのが普通であろう。明治とは言いながら、岡の半生は江戸時代の人である。明治18年刊行の「東京図書館洋書目録」では、Tokio Dzushokwan と館名が示されている。だがアジアでは明治30年代留学生によって「トショカン」で広まっているし、「ヅショカン」から「トショカン」へと呼び方が一変したとは考えにくいことである。

 

   そこで、めずらしく先行の研究に当たって調べることにする。岩猿敏生「書籍館から図書館へ」(図書館界35-4、1983)に詳しく記されていた。結論を言うと、「トショカン」「ヅショカン」という呼び方は最初から二通り存在していたという。通説で知られて「図書館は最初はヅショカンと呼んでいた」という言い方は学問的には厳密性を欠く。高野彰「東京大学法理文学図書館史」(図書館界27-5、1976)によると英文でToshokuanと表記されている。永峰光名が初期図書館は「ヅショカン」と呼ばれたとことに対して、高野、岩猿は二通りの呼び方が存在していたことを説いている。岩猿の近著「日本図書館史概説」(日外アソシエーツ)でも「明治の初期、ライブラリーに当る言葉として、書籍館と図書館があり、その読みもそれぞれ二通りあったと思われるが、1890年代には図書館という呼称に、読みもトショカンに統一されていった」とある。これまでトショカンという呼び方は明治30年代から、とくに明治30年に東京図書館が帝国図書館になった年でもあり、明治中期、つまり明治30年以降と書かれた文献が多かったが、岩猿の研究によれば、1990年(明治23年)つまり明治20年代にトショカンという呼び名のほうが普及していったという。ところで夏目漱石の「三四郎」には「図書館」という用語が何度か使用されているが、おそらく「トショカン」と読むのであろう。「ズショカン」ではなく「トショカン」と読まれるようになったのは、なぜか?という素朴な疑問を書いているブログを見つけた。岩猿先生はじめ専門家は残念ながら、その理由を書かれていない。ケペルはその理由を「トショカンのほうがハイカラで若い人に好まれた」と推測している。根拠となる資料はまだ見出せていない。

 

 ところで最初の岡千仭の疑問であるが、漢学者でもあることから漢語としての語義では「図書」は「ヅショ」であり、「図」が「地図」のことであり、「書」が「書籍」の意味であることから、考えるとすれば、明治13年時点では「ヅショカン」と発音していた可能性のほうが高いような気がする。

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