能海寛と河口慧海
明治から大正にかけて秘境チベットに潜入した人は、河口慧海(1866-1945)、能海寛(1869-1901)、寺本婉雅(1872-1940)、成田安輝、矢島保次郎、青木文教、多田等観などで仏教経典取得や政府任務などが主な目的であった。
能海寛(のうみゆたか)は、すでに明治26年に「世界に於ける仏教徒」を自費出版し、チベット大蔵経の原典入手の重要性、チベット探検の必要性を説いている。明治29年5月7日、能海寛は、東本願寺の執事・渥美契縁あてにチベット探検嘆願書を提出した。そして明治32年と明治33年の二度チベット入りを試みるが失敗している。能海は明治34年4月、消息不明となる。彼の歌が残っている。
のぞめども 深山の奥の 金沙江
つばさがなければ 渡りえもせず
能海と共に哲学館で学んだ河口慧海は、明治31年、31歳の時、和泉丸で神戸を出帆した。インドでサラット・チャンドラ・ダスからチベット語を教わり、明治32年、ネパールからチベットに潜入することに成功した。明治34年、慧海は法王ダライ・ラマに謁した。しかし明治35年5月、日本人であることが露見し、危険を感じた慧海は多くの仏典を荷につくり、チベットを脱出した。明治36年、神戸に着いた。新聞記者たちは「西蔵旅行記」を聞き書きで連載し、博文館から出版された。
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