天田愚庵と清水次郎長
天田愚庵(1854-1904)は安政元年7月20日、陸奥磐城平藩士甘田平太夫と妻ナミの五男として生まれた。幼名は久五郎、のち五郎。別に鉄眉、鉄眼(てつげん)とも称す。戊辰戦争で父母姉が行方不明となり、以後その所在を尋ねて放浪生活を始める。天田五郎と名のり、山岡鉄舟門下に入った。反政府的な政治運動に暴れ回り、五郎の前途を案じた鉄舟は、明治11年、彼の身柄を侠客清水次郎長に託した。次郎長の膝下にあること1年、五郎は持ち前の放浪癖から清水をとび出し、旅写真師となって各地を遍歴する。清水に舞い戻ったのが明治14年。清水次郎長の養子となり、その名も山本五郎と改める。清水次郎長が逮捕されたときは、次郎長の釈放に奔走した。そして文才のあった五郎は、明治17年に「東海遊侠伝」を出版し、清水次郎長の名を全国に広めた。明治20年に得度して仏門に入ってからの五郎は、禅僧となり天田愚庵と号した。国学を落合直亮(なおあき)に学び丸山作楽(さくら)らと交流、万葉調の歌風を成し、正岡子規に影響を与えた。そして晩年、父母姉との再会を求めて西国巡礼に旅立つ。明治37年1月17日、伏見桃山の庵で51歳にして没した。「巡礼日記」(明治27年)「愚庵遺稿」(明治37年)
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