個の勝利者、辻潤
伊藤野枝と別れた辻潤は上野の寛永寺にひきこもった。そうした絶望的な精神状況のなかで、19世紀ドイツの特異な思想家マックス・シュティルナー(1806-1856)の著書「唯一者とその所有」(原書のドイツ語ではなく英語)を読む。大正8年、36歳の時、比叡山に上ってシュティルナーの訳業を始める。(辻はスティルネルと表記している)
マックス・シュティルナーは当時の知識人たちに大きな影響を与え、シュティルネリアンという言葉もあるほどである。主な日本での翻訳書を紹介する。
大正9年 「唯一者とその所有者 人間篇」辻潤訳 日本評論社
大正10年 「自我経」(「唯一者とその所有者」の全訳) 辻潤訳 改造社
昭和3年 「世界大思想全集29」(スティルネルの「唯一者とその所有」「芸術と宗教」、ジョルジュ・プレカアノフの「無政府主義と社会主義」百瀬二郎訳を収録)
昭和4年 「唯一者とその所有」辻潤訳 改造文庫
昭和4年 「唯一者とその所有」草間平作訳 岩波文庫
昭和4年 「社会思想全集25」 (「唯一者とその所有」収録)生田長江、高橋清訳 平凡社)
シュティルナーの思想を一言でいうと「汝は汝の汝に生きよ」であり、「汝の汝」以外には何者にも仕えるなという徹底した唯一者個人の世界である。あらゆる外的な権威を排除して、もっぱら自我の権威のみを説くところの徹底的な個人主義を主張し、哲学的無政府主義に到達している。シュティルナーの思想はバクーニン、クロポトキン、ニーチェなどに影響を与えた。
明治末期から大正時代にかけての近代日本は、日露戦争前後からとくに原敬内閣の経済政策によって、都市化と工業化(機械文明)が急速な進展を見せた。田園と都市の相貌は急速に変わった。1920年代、一種の反近代主義的・ロマンティシズム的潮流がみられる。アナーキスト(無政府主義)として知られる大杉栄にもスチルネリアン的個人主義的偏向から出発している。大杉栄は「生の拡大」(大正2年)において「原始においてすべての人は生き生きと活動し、自我の拡張、生の充実という感情をたっぷり味わっていた。おそらく人類はその当時、周囲世界と闘うためそしてまたこれを利用するため、相互扶助の協同社会をつくっていたのであろう」と論じた。「けれども人類はついに原始に帰ることを知らなかった。(中略)自己意識のなかった原始の自由時代に、さらに十分なる自己意識を掲げて帰ることを知らなかった」このような原始回帰達成のために自由連合主義、アナルコ・サンジカリズムなどがあった。
大正末期、辻潤はアナルコ・サンジカリズム運動の拠点であった書店「南天堂」に出入りし、アナ派詩人と交流している。しかし辻は自身をアナキストではなく、日本で最初のダダイストの名乗りをあげている。「唯一者とその所有」の出版によって有名人となった辻の家にはいろいろな人が集まってきた。詩人の高橋新吉も訪れた。高橋は当時21歳である。この高橋によって辻は初めてダダイズムなるものを知ったのである。辻は「何となく本来の面目を云々する禅門の悟道の境地と似通っている」といい、「シュティルナーを読んだ後で禅宗の経典などを読むと、自分だけには容易に理解できるような気がする」と語っている。そして大正12年に辻は高橋に無断で「ダダイスト新吉の詩」を刊行する。しかし、辻は社会運動、労働運動への活動は少なく、デカダンな世界に入っていく。辻の本質は、刹那、享楽、趣味、道楽という色彩が濃い。江戸趣味、悪魔主義、唯美主義といわれる谷崎潤一郎との両者の共通性は見られる。事実ふたりは大正5年ころから知り合い、谷崎は辻をモデルとして小説「鮫人」(大正9年、中央公論に連載)を書いている。
辻潤は昭和3年、45歳にして初めてパリに留学する。辻はパリ滞在一年の間、ほとんどホテルの一室で暮らしたていた。宿命的日本人であることを知った辻は、反近代的、反都会的、反資本主義的傾向をますます強くする。昭和7年3月、天狗となって二階から飛び降りるという事件が新聞で大きく報道された。以後、晩年は精神異常となり、放浪生活の後、昭和19年11月24日、東京上落合の寮で他界する。61歳。桑原国治の妻がアパートに入ると、全身シラミに食われて息をひきとっている辻潤の死体があった。死因は餓死である。表面上からみるとシュティルナーの人生と相似するところもあるが、近代合理主義に限界が見られる現在、辻の生き方を「個の勝利者」とみなすかどうか、それは個人の判断に委ねることとする。
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