忠臣はニ君に仕えず
建安5年(200年)、劉備一行は徐州付近で曹操に大敗し、劉備は家族をおきざりにして袁紹のもとに逃亡した。そのとき下邳城で劉備の甘夫人、糜夫人を守っていた関羽は、曹操軍に包囲された。劉備の家族を守っていたこともあり、関羽は張遼の説得を受け、曹操に降伏した。
かねてより、関羽のように剛勇でしかも忠誠心のあつい武将をほしがっていた曹操は、都に帰ると関羽を捕虜あつかいにせず、賓客として優遇した。劉備のニ夫人の生活にはいっさい干渉しないでほしい、という関羽の申し込みを喜んでうけいれ、一行にぜいたくな暮らしをさせた。そして、関羽には、かつて呂布の愛馬だった千里の名馬赤兎を贈って、しきりに仕官をすすめた。だが、関羽は曹操の好意には感謝したが、あくまで節操をまげなかった。そして、曹操に義理を果たすため、袁紹配下の猛将顔良、文醜のふたりを討って恩返しをしたのち、関羽は贈られた金銀財宝に封印をほどこすと、曹操に別れの手紙を残して、劉備の二人の夫人とともに、袁紹側にいる劉備のもとに逃げた。
関羽が脱出するや、部将たちは色めきたってあとを追おうとする。それを制して、曹操はこういった。
「主のためにするなり、追うことなかれ」と。
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